長野県伊那市の百名城の一つ高遠城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、信濃諏訪地方の領主で諏訪神社上社大祝の諏訪氏一族高遠氏の居城とされています。高遠氏は独立心が強く宗家諏訪氏とは反目、1541年武田晴信(信玄)の諏訪氏攻略では武田軍と同調。諏訪氏を攻撃し諏訪氏を滅ぼしますが、諏訪領有を巡って武田氏と対立。武田軍と戦いになり敗れ、1545年高遠城は武田氏に降伏開城。1547年山本勘助の縄張りにより大規模に改修され秋山信友が城主となり信濃侵攻の拠点となっています。1562年武田信玄と諏訪氏娘の子である勝頼が諏訪氏を継承し高遠城主となりますが、武田氏嫡男義信が謀反の疑いで廃嫡となると、勝頼が躑躅ヶ崎館へ移り信玄実弟信廉が城主となっています。1575年長篠の戦いで武田氏が大敗すると、勝頼は国内の守りを固めるため躑躅ヶ崎館に替わる新府城を築城、高遠城には弟の仁科盛信を城主とします。1582年木曽氏が織田へ寝返ると、勝頼は木曽氏攻めに、従兄弟の武田信豊を先鋒として兵5千を向かわせ、勝頼自身も兵1万を率い後詰めとします。それに対し織田氏も5万の兵で武田侵攻を開始。木曽攻めでは鳥居峠で武田軍は敗退。信濃伊那では侵攻した織田軍に恐れをなし、飯田城・大島城は戦わず逃亡、唯一高遠城が織田軍からの降伏勧告を退け兵1千で徹底抗戦。3万余の大軍に夜明けから始まった攻城戦は夕方にまでおよび、城主盛信も含め全員が玉砕したとされます。多くの武田軍が戦わず崩壊した中で唯一激戦を繰り広げた城となっています。武田氏滅亡後、本能寺の変で信長が亡くなると徳川家康がこの地を制しますが、関東移封により伊那領は毛利秀頼に与えられ、秀頼が亡くなると京極氏、関ヶ原の戦い後は、保科氏、その後鳥居氏や天領となり、1691年内藤氏が城主となり明治維新まで続いています。城は三峰川と藤沢川に挟まれた台地上に築かれ、南と西側が断崖となっている堅城で、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、法憧院曲輪、勘助曲輪が配され各曲輪に堀が回されています。明治維新により建物は撤去されましたが、城は現在高遠城址公園として各曲輪や堀が残る桜の名所となっており、民間への払下げにより切り詰められ使用されていた大手門が三の丸に移設され、また、城下の問屋役所の問屋門が本丸に移設されています。
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