天正3年の攻防では、城を守る武田勢に対し、徳川勢は鳥羽山城に本陣を置き、二俣城の周囲に砦を築き包囲した。長篠の戦いで惨敗し、遠江での勢力を急速に失っていた武田勢は兵糧が底をつくと、7ヶ月で城を明け渡した。二俣城には家康の家臣・大久保忠世が入城し天正18年まで在城した。
二俣城は、北から北曲輪、本丸、二の曲輪、蔵屋敷、南曲輪がほぼ一直線に配置されている。天守台の石垣、本丸東側の石垣など主要部の石垣は、その後入城した浜松藩主・堀尾吉晴の弟・堀尾宗光によって、構築されたとされています。
徳川家康の嫡男、松平信康が切腹した話はあまりにも有名な話でありますが、(一説には1キロ程離れた二俣城の別郭一城の城、鳥羽山城とも)織田信長の命とは言えあまりにも残酷な話ですよね、奥さん(築山殿)と長男(信康)を同時に死なせる訳ですからね。
今回は時間の都合で(このあと鳥羽山城へ)寄りませんでしたが、二俣本町駅から10分程歩いた清瀧寺には、信康の墓所と再現された二俣城にあった井戸櫓が再現されています。
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