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AJ

狭間をゆく城 (2023/07/18 訪問)

若干使い古された感が否めない言い回しですが、関東では珍しい石垣造りの中世・戦国山城。太田金山城(群馬県太田市)。そしてこれも同地域の名城とされる城跡ではお決まりの枕詞ですが、上杉や武田との攻防を耐え抜いた難攻不落の要塞。確かにその通りではありますが、それ以上の何かをお伝えできればと思います。

実城(本丸)域で多用された石垣(ではなく「石積み」と呼ぶべきとの意見もあるようです)に関しては、金山自体が岩盤でできていたため、資材調達には困らなかったと思われます。もちろん整形にはかなりの技量を要したでしょうから、大手の厳重な構造は当時から、訪れる人を圧倒したのではないでしょうか。あの太田道灌が「天下の名城」と絶賛したとか。

新田一族の岩松氏によって築城されたのが1469年。標高239mの山頂部から複数の尾根上の広範囲に曲輪群が展開します。実城へ続く道はとりわけ戦闘的で、竪堀・堀切・土塁に加えて木橋や桟道も。重要な通路は絶妙に折り曲げられ、石垣上からの横矢はデフォルト。

さて、これだけ堅固な城に拠りながら、群馬生え抜きの戦国大名に育たなかったと聞くと、若干不思議に思われるかもしれません。そこに、この城を規定した地域要因がありそうです。

いわば紛争地帯の城。大名を志向するよりも、あくまで地域勢力(国衆)としての生き残りを模索したあとがうかがえます。つまり、周辺に台頭した大名(武田、越後長尾、後北条)間の争奪戦の渦中にありながら、彼らのいずれかと結んで命脈を保つという戦略。その強かさに興味をそそられる人は少なくないかもしれません。

主家の地位をおかして金山をおさえた横瀬氏(のちに由良に改姓)は北条に仕えながら越相同盟(1569)の成立に貢献します。同盟はのちに破棄され、金山は上杉に攻め込まれますが、見事にこれを撃退。単なる領境の要塞ではおさまらないポテンシャルを秘めた名城です。そんなストーリーを思い浮かべながら歩いてみてはいかがでしょうか。

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あきつ猫

彦根城 (2022/10/11 訪問)

堀を船でも回りました。
破風のたくさんある彦根城
天秤櫓は思ったより大きかった。
玄宮園からの天守もいいですね。

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小城小次郎

石灰岩の石垣で化石探しができるらしいが (2023/01/21 訪問)

石灰岩主体で石垣が構築された近世城郭となると沖縄のグスクを除けば八代城(熊本県)くらいしか見当たらないのではないか。ということで張り切って化石を探したが目が慣れていないのかまるで見つからなかった。くー。

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イオ

とことん江戸城・番外編(浜御殿) (2023/06/16 訪問)

浜御殿は、江戸前期に甲府宰相・松平綱重が建てた別邸(甲府浜屋敷)が始まりで、綱重の子・綱豊が六代将軍・家宣となったことにより徳川将軍家の別邸となり、浜御殿と呼ばれるようになりました。その後、幾度かの改修を経て十一代・家斉の代に現在見られる姿になっています。明治には皇室の離宮となり、戦後に東京都に下賜されて浜離宮恩賜庭園として一般に公開されています。

朝一番での仕事は午前中で終わったので、その足で浜御殿へ。単なる将軍家の別邸でなく江戸城の出城として機能したと云われるとおり、大手門橋を渡った先の大手門は広大な枡形門になっていて、まさに出城の防御設備です。…かと思えば、大手門枡形の石垣には見事なはつりと江戸切りが施されていて、将軍家の別邸としての格式も感じます。

入園料を払って園内に入り、家宣が庭園を改修した際に植えられたと伝わる三百年の松を経由して内堀へ。浜御殿は大坂や長崎から船で運ばれてきた物資を江戸城に搬入するための中継施設でもあったそうで、現在の内堀広場やお花畑にはかつて籾倉が建ち並び、内堀には階段状の船着場も設けられていました。内堀からハナショウブの渓を伝って中の御門、そして御庭口御門から潮入の池に向かう…前に新銭座鴨場へ。現在は鴨猟は行われていないためか、元溜りと呼ばれる池には2羽の鴨が悠々と泳いでいました。

鴨場から馬場跡(内馬場)を抜けて八景山へ。八景山から望む潮入の池が一番の見どころということで、ブラタモリに倣ってできるだけ池を見ないようにして八景山に登ると……都心とは思えない雄大な光景が広がっていました。海水を引き入れた広大な池に改修されたお伝い橋が架かり、中島と北畔には4軒の御茶屋が復元されています。さらに水面には往時には無かった高層ビル群が映り込み、何とも言葉にならない光景です。こりゃすごい…。中島に渡って八景山を振り返ると、こちらもすぐ近くにまで高層ビル群が迫っていました。

中島からお伝い橋を渡って鷹の御茶屋へ。松の御茶屋と燕の御茶屋は御茶屋ガイドツアー以外では建物内に入れませんが、鷹狩の休憩所だった鷹の御茶屋は内覧できる…はずが、コロナ禍によるものか、立入禁止になっていました。やむなく周囲をひとめぐりしてみると、裏手には鷹部屋があり、鷹の模型(剥製?)が架木に留まっていました。

お伝い橋を渡り、観音堂跡~富士見山~中の橋~御亭山とたどって、庚申堂鴨場の小覗から鴨の様子を窺い(こちらにはいませんでした)、横堀に架かる海手お伝い橋を渡って、樋の口山北麓の横堀水門へ。この水門から横堀を通じて潮入の池に海水を引き入れています。横堀水門から新樋の口山(にわか雨が降り出してレインボーブリッジの眺望はいまいち…)を越えたところが将軍お上がり場。歴代将軍が船に乗降した場所で、大坂城から江戸に退却した十五代・慶喜が上陸したのも此処なんだとか。将軍お上がり場の近くには灯台跡もありました。そして水上バス発着場から梅林とお花畑を抜けて大手門で浜御殿をひとめぐり。

浜離宮恩賜庭園は学生時代に一度来たことがありましたが、庭園としてだけでなく、出城として、海運物資の中継施設として、将軍の上陸場所として、江戸城や将軍家と深い関わりのある地だったんですね。思っていたより広大で一周するのに2時間弱を要しましたが、それだけの価値は充分にありました。…で、この後は増上寺にも行くつもりだったんですが、30度を超える真夏日だったことに加えて、3週連続での出張(+東京散策)の疲れもあって、これ以上歩き回る気になれず、浜御殿だけで切り上げて帰途につきました。
 

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トク

59【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と指月山(詰城)) (2022/11/16 訪問)

(22人目)毛利輝元の続きです。
萩城の背後の指月山にある詰城(要害)に登ってきました。

実は毛利輝元は、関ケ原後も徳川幕府と万が一の対立した場合に備え、幕府に内密に背後の指月山に詰城(要害)を築いていました。本丸から徒歩20分と書いてあったので登ってみました。(写真①②)短い距離ですが意外と急でした。

詰城とはいえ、山頂は本丸・二の丸とあり結構な広さです。当時は7つもの櫓があったようで、藩主(輝元)が詰める場所まで用意されていました(解説写真③)。大きな岩もありました。砕こうとしたが大きすぎてあきらめたのか矢穴が多数見られました(写真④)。

輝元は、もし家康(徳川)が攻めてきた場合に備えていた事が、ここで十分感じとれました。さらにそれだけではなく、山陽の要衝岩国の地に同じく城を築く吉川広家には、麓の館だけでなく戦の備えをした山城を築くよう命じています。つまり表向きは恭順の意を見せながらも、裏では万が一に備え、一戦交える覚悟を持っていたという事です!!😲

実はこの時、徳川に恭順の意を見せていた九州の黒田官兵衛は、裏ではある野望を秘めていました。義弘の処遇をめぐり家康と一戦交える覚悟で戦の準備を始めていた薩摩の島津義久などにも、表向きは家康様に従うようにと加藤清正とともに説得するふりを見せながらも裏で糸を引き、加藤清正、島津義久、鍋島勝茂、立花宗茂、池田輝政、そして毛利輝元、これらの諸将を束ね、義久がもし決起すればそれを大義名分に第二の関ケ原を起こそうとしていたのではないかという説もあります。言われてみればこの時、加藤清正は明らかに対徳川を想定した大城郭を、池田輝政も家康の意に反する大城郭を築いています。よって輝元も詰城を持つ要塞化した萩城を築き、岩国城と合わせ、対徳川に備えようと考えたのかもしれません(ん~言われてみれば・・・🤔)。

私は指月山頂上の本丸に立ってみました。ここから心地よい潮風を感じながら見た日本海の眺めはとても気持ちよかったです(写真⑤⑥)。そしてこの日本海を眺めながら考えてみました。やるき満々だった輝元がなぜ大減封を何も抵抗せずに受け入れ、広島からこの萩の地に来たのでしょうか?

関ケ原のわずか1日での敗戦は、輝元にとって相当なショックだったと思います。何より最も信頼し、幼い頃から兄のように思っていた家臣筆頭である吉川広家が自分の命に背いて裏切った事に自分の求心力のなさを痛感したのではないでしょうか。広家としては裏切る気など全くなく、弟のような輝元のためと父の吉川元春の教えに従い、ただ毛利家の安泰のみを願い決断したのでしょうが、今で言うコミュニケーション不足ですかね?🤔。やりとりするはずの手紙が途中で家康の間者に盗まれた不幸もあったらしいです。でも今の時代のように電話やメールなどがあればこんな事はまずなかったでしょうね。また1日で終わらず、もう少し長引いて時間があれば、再度手紙のやりとりもできコミュニケーションも取れたのかもしれません。小早川秀秋にしてもしかりです。よって、毛利の両川(りょうせん)から裏切られた心の傷が、大坂城では抵抗する気力をも失わさせてしまったのかもしれません。

しかし広島に戻り、萩城の縄張りを考えている最中にこの九州の動向を知り、輝元は変わりました(この時、官兵衛から誘いの密書も当然あったはず・・・?🤔)。

輝元は、やはり無念を晴らすべく、実はこのままで終わろうとは、もはやこの時、すでに思わなくなっていたのではないでしょうか?

次は、萩城内にある輝元の菩提寺(天樹院)を訪れます。
 

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しんしんちゃん

若殿を 迎えず無念の 石垣よ(潜竜院) (2023/04/30 訪問)

真田氏がこの地域に勢力をふるっていた斉藤氏の勢力を駆逐し
岩櫃城は真田氏の城になりました。
その後、岩櫃城は上田城、名胡桃城、沼田城を繋ぐ重要拠点として
真田氏の大改修を受けます。
武田家衰退後、武田勝頼が岩殿山城の小山田信茂を頼りとして、信茂の裏切りに会い
自害に追い込まれます。
真田昌幸は岩櫃城の潜竜院に勝頼を迎え入れるつもりでいましたが
それもかなわず、今では石垣が空しく残ります。
この日は二度目の訪問ですが、天候も優れず、本丸と周辺の郭までに
留めてあります。それでも切岸や堀切の遺構は楽しめました。
整備されているとはいえ、本丸までの路は急で帰りは足元が滑るので
ストックを使いながら慎重に下りました。
私の前を歩いていた人は派手にコケていましたが、怪我は無さそうです。
山城は季節、天候を選びますね。



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シャンシャン

唐造りの城 (2023/08/04 訪問)

4階より5階の方が大きい唐造りが特徴の城。
そのため、最上階は今まで訪れた城の中で一番広かった。
宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島が近いため、場内は宮本武蔵を推しまくっていた。

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シャンシャン

海賊の城 (2023/08/02 訪問)

4月〜8月の大潮の干潮のときだけ島に歩いて渡れるレアな場所。
櫓などの建物は何もないけど、わずかに残った石積みや柱を立てていた石に空いた穴の跡が往時を偲ばせる。
少し離れているけど、多くの国宝指定の武具が収められた大山祇神社も合わせて訪れたい。

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小城小次郎

石垣探しもまた楽しい (2023/01/21 訪問)

このお城は夏には夜間営業があるしビヤガーデンもあるので夜景を見下ろしての一杯なんてのもできるし夜でも100名城スタンプが押せるしいいことづくめ。信長時代に比定される石垣を宝探しのように探すのも楽しい。

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しんしんちゃん

真田丸 効果もあれど 良い城よ (2023/04/30 訪問)

名胡桃城は天正7年(1579)ごろ、真田昌幸によって築かれました。
翌年には沼田城を手中に収めています。
大河ドラマ「真田丸」効果で続100名城にすべりこんだのかと
思いきや、各郭とそれを隔てる堀切の遺構も良く残り、
また草刈りなどの整備も良く行われ、散策していて非常に
気分の良い城跡になっています。
遺構は国道17号線を挟んで主要部が北東側に伸びていって、
馬出し・三郭、二郭、本郭、ささ郭と続きます。
郭の間は大きな堀切で仕切られていて非常に見ごたえがあります。

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ぴーかる

長森城・切通陣屋 (2023/07/15 訪問)

【長森城】
<駐車場他>駐車場はなし。陣屋公園前に少しだけ停車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾7城目。長森城は1185年にこの地の地頭の渋谷金王丸が築城したと伝わります。南北朝時代に土岐氏が城郭整備をして本拠地とします。1353年に長森城が手狭になったため、川手城を築城して本拠地を移転しますが城は同族を城主に置きます。斎藤道三の時代に一旦廃城となります。江戸時代にはこの地は加納藩領⇒幕府領⇒大垣藩の預かり地と変わり、1803年に磐城平藩主の安藤信成が老中となり、18000石のこの地が飛び地として加増され長森城跡に切通陣屋を築きます。切通陣屋は明治維新まで残ります。
 現地には遺構が残されておらず、切通観音堂に陣屋跡と長森城の石碑があります。ちなみに切通しの地名は南に位置する境川に一帯の滞留水を落としていたことに由来するそうです。

<満足度>◆◇◇

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橋吉

7~8月は五島氏庭園公開休止 (2023/07/29 訪問)

福江港ターミナルより西へ数分歩くと、福江城跡が見えてきます。

立派な建物は五島観光歴史資料館です。
続日本100名城スタンプは受付で押すことができます。

御隠殿は福江城を築いた五島盛成の隠居所ですが、当時つくられた庭園が現在も残っており、五島氏庭園として一般公開されていますが7~8月は整備のため公開中止でした。残念

本丸は長崎県立五島高校になっていますので、外から見ることしかできませんでした。

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イオ

とことん江戸城・番外編(吉良邸) (2023/06/16 訪問)

(続き)

忠臣蔵で知られる吉良邸こと吉良家江戸上屋敷は、元は江戸城外郭の呉服橋内にありましたが、江戸城松の廊下での浅野内匠頭による刃傷事件の後、本所松坂町に屋敷替えになりました。東西132m、南北62m、8400㎡の広大な屋敷でしたが、現在では住宅地になっていて、唯一の遺構とされる井戸を中心とする約98㎡のみが吉良邸跡(本所松坂町公園)として公開されています。

本所松坂町公園はなまこ壁の土塀で囲まれ、公園内には様々な説明板に吉良上野介義央公座像、吉良上野介の首を洗ったとされるみしるし洗いの井戸(遺構)、討ち入りで命を落とした20名の吉良家家臣の石碑などがあり、小さな公園ながら忠臣蔵好きにはなかなか見応えがありました。以前から一度来てみたかったんです。

公園はかつての吉良邸のほんの一部分に過ぎませんが、公園の東側には大石内蔵助ら23名が討ち入った正門跡の説明板が、西側には大石主税ら24名が討ち入った裏門跡の説明板が立てられています。また、裏門近くには米屋五兵衛として店を開いていた前原伊助宅跡の説明板、両国橋東詰には俳人として名高い大高源吾の句碑、旧両国橋東岸の広小路跡には討ち入り後の四十七士が泉岳寺に向かう途中に休息をした地として説明板が設けられています。さすがに本所から高輪まで歩いて行く根性はありませんが、いつか泉岳寺にも行ってみたいものです。
 

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しんしんちゃん

山城で撮った写真って後で見ても、良くわからない時がある。 (2023/04/30 訪問)

長井坂城は東(北)の永井川、西の利根川に挟まれた断崖上に築かれた城で
北側に向かって窄まる、やや三角形に近い形状をしています。
南北260m、東西180mの城域を持ち、中央を大堀切が南北に縦断して城域を
左右を分断しています。西の城域は北から馬出し、本丸、三の丸が配されています。
東の城域は二の丸を囲うように三の丸が配され、三の丸の北側が駐車場に
なっていたはずなのですが、ひょっとして、この畑がそうでしょうか。
城址碑のあるあたりの空間は畑になって、ワイヤーが張られていますよ。

本丸、二の丸の周囲には土塁が残っていて、本丸の虎口は南東側に
二の丸の虎口は北東側についているようです。
なかなか迫力のある遺構が残っている良い城跡だと思います。
ただ写真を見てもどの遺構の部分か微妙に記憶が定かではありません。
おおよその見当は付きますが、もう一度機会があったら
じっくり散策してみたいと思います。まだ三カ月しかたっていないのですが‥

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しんしんちゃん

真田幸村のお兄さんの城。 <<信之ファンに失礼!! (2023/04/30 訪問)

沼田城は河岸段丘の上に築かれています。
明らかに周囲より高地にあり、まさに城を築くのには
うってつけの立地条件です。
この時期はツツジが見頃を迎えていました。
戦国無双とコラボしたパネルが各所に置かれています。
史実と比べるとどうも‥と思われる方もいるとは思いますが
これはこれでアリでしょう。
ガルパンとコラボした大洗磯前神社の例もありますし
これも一つの楽しみ方ですね。

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小城小次郎

立派な模擬天守は小さな展望台だった (2023/01/21 訪問)

20年以上前に山上の「模擬天守」に吸い寄せられながらも登らず終わったお城に初めて登ってみた。立派に見えた「模擬天守」は想像より二回りも小さな展望台。これを天守っぽく見せている技術にむしろ感心した。

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モト

知らなかった(汗) (2023/07/07 訪問)

 天下の名城である二条城、電車を降りて出口を出てすぐに東南隅櫓が見えました。
堀が囲み、その堀から石垣が見事です。
外から見ただけでも他の城にある険しさとは違った京都の優雅さを感じさせる城跡という印象です。
東大手門も堅牢煌びやかな感じで素晴らしかったです。
…,本当に外からでも充分すぎるほどの雰囲気は味わえました。
繰り返します、外からだけでも充分に。
実は、この日に到着した時間は17時10分でした。
私が無知でした。
なんと二条城は17時までだったんです。
もちろん御殿などには入れない可能性は理解しておりましたが、前日に大阪城を夜に訪れて、それでも天守近くまで行き楽しめた事もあってか油断しておりました。
美しい、櫓、堀、石垣、4ヶ所の門に固く守られた城には攻め入る事ができませんでした。
皆様、時間にはお気をつけてください。

それでも一周しまして、四方の石垣や隅櫓、門を見て帰りました。
それだけでも素晴らしさは充分感じる事のできる二条城でした。

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カズサン

真夏の草茂る外濠一巡 (2023/08/06 訪問)

 水口城跡は平成三年に出丸、外枡形の南東角に乾櫓を復元、一の門高麗門、大手橋、土塀を復元整備されました。
 寛永11年(1634年)徳川家光の上洛に合わせて水口御茶屋御殿として築かれた、東に出丸外枡形大手門、北に内枡形北大手門を構え本丸の周囲は濠で囲み外周は方形の石垣造り、内側は雁木が周囲を囲む、四方角には乾櫓、坤櫓、巽櫓、艮櫓が建ち本丸を固めて居た。
 (水口城跡の解説板より)

 駐車場:水口城資料館駐車場(滋賀県甲賀市水口町本丸1)60台は可能、水口城跡北大手門跡大手橋の直ぐ北側に成ります、水口中央公民館西入。

 丁度甲賀市甲南町の叔父法要に車で出掛け、夏休み中の日曜日当日、高速の渋滞を予想して1時間半早めに出発しましたがいたって順調な走り、土山SAで休憩し1時間半を法要前に急遽、水口城跡チョイ寄り探訪へ、探訪時間は30分。

 探訪ルートは、北大手橋の駐車場から、北大手橋を渡り本丸へ、本丸内部は水口高校グラウンド、野球、サッカーの練習で賑わっていました、時間の関係で資料館へは行かず、大手橋の通行不可を確認して、大手橋にある解説板、城名碑、出丸外枡形の石垣、復元された建物類を葉の茂る桜木の樹間より撮影、東側から外濠の散策路を東、南、西、北の順に廻る、南東角巽櫓跡は草木に覆われている、石垣は無し、南西角坤櫓跡も草木に覆われているが石垣を撤去された土、土塁が確認できる、北西角乾櫓跡は石垣が残り乾櫓台としての威厳が残り周囲を圧倒してる、水濠も良く残るが濠の内外、草が茂り過ぎ、北東角艮櫓跡は濠北東角には私有地?入り込めず角での確認はしてません、北東の濠は埋められていました。

 チョイ寄り30分、真夏の炎天下ではこれが限度です、約30年前に復元整備された城跡を初探訪しその後何度か訪ねていますがデジタルでの写真が無く、今回が水口城の初投稿と成ります。
 早く大手橋の修復がなされる事を願って居ます。
 
 叔父の法事には20分前に着き親戚一同と法事を済ませお斎を皆で頂き、叔父叔母の話、孫子の話と久し振りのご縁でした、高速も新名神、湾岸、新東名は順調に流れて約2時間無事浜松到着。
 

 

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イオ

とことん江戸城・番外編(両国界隈) (2023/06/16 訪問)

この日は東京で朝一番の仕事。始発で家を出ても間に合わないため前夜に東京入りし、早起きして両国界隈を散策しました。昨年は両国橋で外郭めぐりを終えたので、その続きになります。

隅田川は江戸城の外堀にあたるため外郭に通じる橋は架けられていませんでしたが、そのために明暦の大火で多くの死者を出すことになったことから、両国橋、永代橋、新大橋(と後に吾妻橋)が架けられ、両国橋の両岸には火除地として広小路が設けられました。両国橋によって城下が隅田川東岸に拡大したことが江戸の人口増加を支え、両国広小路は芝居小屋や茶屋が軒を連ねる江戸最大の繁華街となっています。現在の両国橋の東岸に両国橋の石碑がありますが、往時の橋は50mほど下流に架かっていたようで、跡地に旧両国橋・広小路跡の説明板が立てられています。

両国橋を渡ったところには、明暦の大火での身元不明の死者を弔うべく建立された回向院があります。往時の正門は両国橋から直進した回向院西側にありましたが(説明板あり)、現在は北側の京葉道路沿いに山門が建てられています。境内には明暦の大火はもとより、安政の大震災、浅間山の大噴火、信州上州地震、奥羽飢饉、関東大震災、東京大空襲など様々な天災、人災による死者、さらには人間だけでなく犬や猫、馬、オットセイに至るまで、あらゆる生あるものの供養塔が建てられています。著名人では竹本義太夫や二代目中村勘三郎の墓があり、鼠小僧次郎吉の墓の前立てを削って持っていると幸運のお守りになるんだとか。鼠小僧の墓の隣には、猫の恩返し(ジブリ映画にあらず)の逸話が伝わる猫塚もありました(鼠のとなりが猫…)。また、境内では江戸中期から勧進相撲が催され、今日まで続く大相撲の起源となっています。境内には物故力士や年寄を祀った力塚も見られました。現在も両国国技館で相撲興業が行われているのはこういう背景あってのことなんですね。

回向院の東側には、忠臣蔵で知られる吉良邸跡や囲碁の名門・本因坊屋敷跡、勝海舟生誕の地などもあり、両国界隈はなかなかに見どころ盛りだくさんです(続く)。
 

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にのまる

古代山城 (2023/05/29 訪問)

鬼ノ城(岡山)に行った際にすすめられ、行きたいなーと思っていたところです。
年始の四国めぐりの最終日に徳島から寄ることを検討したのですが、キャリーバッグ持ちで行けるのか?駅か現地にコインロッカーはあるのか?ということがわからずじまいだったので、見送っていました。
今回は4日分の荷物をリュックに詰め込んで背負っているので大丈夫です。

松山城・湯築城訪問後、松山から特急いしづち16号で高松へ向かいました。
高松から屋島へも特急に乗り換えていけますが、各停で行ってもシャトルバスは15:05発で変わらないので450円ケチって各停で行きました。
バス待ち時間は約30分。駅でじーっと何もせずに待ちます。
しばらくたってから、そういえば……と「お城をさがす」を開いてみて、旧高松城である喜岡城が駅の反対側にあるのを確認しましたが、時すでに遅し。シャトルバスを逃すわけには行かないので帰りに寄ることにしました。(←帰るときにはすっかり忘れて琴電屋島で降りてしまいました^^;)

山上に到着した頃に雨が降り出し傘をさしての観光となりました。しかし朝から雨予報だったので、この時間まで降らないでいてくれたことがむしろありがたいです。

島内(現在は陸続きです)マップや案内はいくつも設置されていたので、距離はありましたが城門まで迷わずに行けました。
修復、復元された石垣のかっこよさは思わず感嘆の声をあげてしまうほど。新たに加工して補った石は石積みの石と色分けされており、発見当時の様子も想像できます。
幻の古代山城の石積みが発見され甦ってからまだ20数年。知られてない遺構がまだあるのではと期待が膨らみます。

帰りは最終のバス一本しか残されていないので、滞在可能時間は約1時間半。城門見学のあと、時間の許す限り島内を散策しました。
屋島は源平合戦の舞台になったところでもあり、ゆかりの地を展望することもできます。供養塔もありました。
あいにくのお天気でしたが霧のかかった景色は幻のベールに包まれた長い歴史そのもののようでもあり、こういうのも悪くないなと思ったりしました。

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