みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

todo94

南蛮BVNGO交流館 (2023/07/17 訪問)

3連休の締めは大友氏館。ちょっと早めに到着してしまいましたが、すでに開いていた庭園から見学させていただきました。9時の開館を待って南蛮BVNGO交流館へ。大友宗麟が案内してくださる映像をしっかりと堪能させていただきました。大友宗麟の生誕500年の記念の事業として2030年、大友氏館の復元が計画されているようです。その後は唐人町の復元整備を目指すようです。帰路は、特急と新幹線すべて自由席を乗り継ぎました。大分駅が立派な駅ビルになっていてとてもびっくりしました。

+ 続きを読む

kucucu

ヒルに注意。 (2023/08/18 訪問)

イノシシか熊除けかはわかりませんが、高速道路の高架下の扉をあけていざ登城です。
けっこうな傾斜、積もった落ち葉、雨上がりで濡れた岩が滑るのでなかなかにハードな城攻めでした。2キロ行くのに1時間(^◇^;)
苔むした石垣や虎口の石積みが残っています。


本郭以外の郭はさっぱりわからないくらいには木に覆われた山でした。

途中で休憩中に腕にヒルが落ちてきたので吸われる前に払い、下山後にコンビニトイレで上半身は確認したんですけどね。

夕方宿に着いてから足首をヒルにやられていたことに気がつきました。
膝までの靴下を履いていたので靴下の上からやられたようです。厚めのデニムを履いていたので、靴とデニムの隙間から入った模様。
皮膚に直接ではなかったので歩いている間に落ちたようで、本体は見つからずでした。

+ 続きを読む

しんしんちゃん

いかちん縄張り図。竹ヤブきっつ‥ (2023/08/17 訪問)

天正13年(1585)加藤嘉明が豊臣秀吉の命により志知城に入城。
今の志知城の縄張りは加藤嘉明によるものと伝わります。
志知城は周囲を水堀で囲まれ南側の堀は土砂に埋まっているようです。
北側にも内堀が流れ周囲の川や水路と相まって、かつては幾重にも
水堀を巡らしていたのではないでしょうか。
主郭部は東が二の丸と呼ばれ、西が主郭になるようで
城址碑が二つ存在します。
主郭はいくつか空堀で区切られているのですが
これは後世の遺構かも知れません。
主郭の一部には謎の石積みがありますが、なんだろうコレ?
周囲には不思議な土盛りもあります。
主郭を南に下っていくと高さ1mに満たない段差がありました。
主郭内はかなりヤブ化が進んでいて、移動できないエリアも
多々あります。いかちんで主郭周辺の縄張り図を掲載しますが
まだ全体を確認できたわけでは無いので、隠れた遺構があるかも
しれません。勇者の出現を期待します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

63【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と長浜城) (2023/07/02 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
秀吉に仕え出世への始まりとなった「長浜城」を訪れてきました。

15才で家臣となった佐吉は、ここで秀吉に小姓として仕え、得意の算術で才能を発揮し徐々に頭角を現します。そして8年後、秀吉の中国攻めの時に初めて従軍し、それから賤ケ岳、小牧長久手の戦いを通じて、この長浜から出世への道が始まりました。その後、九州征伐、小田原北条攻めなどで、兵站の才を存分に発揮します。しかし唯一戦った忍城では失敗してしまいました(笑)。そして奥州仕置を経て、朝鮮出兵のため名護屋城へ。

私は長浜城の天守に立ち、琵琶湖を眺めてみました。南側には彦根城や佐和山が見えました(写真④)。また北側には賤ケ岳(写真⑤)や小谷城(写真⑥)、東側には伊吹山が見えました(写真⑦)。

佐吉(三成)は、ここで秀吉に仕えながら、いったいどんな夢を見ていたのでしょうか?


【余談1】大蛇(おとち)の岩窟
伊吹山中を敗走しながら秀吉と出会った観音寺を目指した三成ですが、追手が迫ってきたため、今度は母の墓がある法華寺を目指します。そこで地元の人々に助けられその法華寺の山中奥にある「大蛇の岩窟」に匿われました。本当は、長浜からその岩窟まで行こうと思っていたのですが、とんでもない山中みたいで(だから隠れるのに最適だったのかも?)、熊や蜂や蛇が出て道にも迷ったりもするとの事、一人で行くのは大変危険な場所のようなので、心残りではありましたが断念する事にしました。いったいどんな場所だったのでしょうか? 長浜市のHPにボランティアガイドが行った時のツアー写真がありましたので代わりに掲載させていただきます(写真⑧⑨)。行く時は個人でなくボランティアガイドと大人数のツアーで行かれた方がいいようです。またここでの美しい秘話は以前私の(12人目:田中吉政)でお伝えしましたのでよければまた参照して下さい。三成がそこで食べたニラ粥はいったいどんな味だったのでしょうか?🤔

【余談2】にしんそばと地ビール
長浜駅前で名物「にしんそば」と「地ビール」で昼食をとりました。猛暑の中を歩いたのでとても美味しかったです。三成にもこの「伊吹バイツエン」飲ませてあげたかったな~😊(写真⑩)。

次は、三成の人生ターニングポイントになった(肥前名護屋城)を訪れます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

立ち入り禁止。ハメ(毒ヘビ=ニホンマムシ)や毒ハチがいますよ。 (2023/08/13 訪問)

土佐泊城は南海病院の敷地内にあり、現状立ち入り禁止です。
駄目もとで登城許可を申請に行ったのですが、
しばらく整備がされていないのでヤブ化が進んでいて
ハメや危険なハチが出没するので非常に危険だとのことです。
もちろん許可を得ることはできませんでした。
ハメというのはこの地域での毒蛇のことを言うらしいです。
徳島県には蛇が10種生息していて、そのうち2種がウミヘビで
残り8種の中で毒を持っているのはニホンマムシとヤマカガシだけです。
頭部の形状を聞くに、このハメというのはニホンマムシのことを
いうみたいですね。この後も山の整備をする予定はないらしいので
立ち入り禁止は当面続くと思われます。
入れない城と判断して「いった」をポチらせていただきました。
ちなみにヤマカガシもニホンマムシに引けを取らない危険な毒ヘビです。
マムシが夜行性、ヤマカガシが昼行性の違いがありますが、
ヤマカガシはキバが口の下側についているので毒の注入効率は悪いですが
毒自体はマムシの三倍の強さを持っていて、かつて兵庫県で二人の中学生が
ヤマカガシにかまれて亡くなっています。
毒蛇の種類によって血清が異なって来るので、噛まれた毒蛇の種類を
把握することは重要なことのようです。
ネットからダウンロードしたヘビの写真を使うのは気が引けるので
ノリで描いてみました。ふだん絵など描いたりはしないのですが
案外うまく描けたのではないでしょうか?
ペンは画材屋さんで買いました。コピックは高いので色付けは
色鉛筆です。学生時代以来ですね、水彩絵の具のほうが良いのかな?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

残ってるだけ凄いのかも。 (2023/08/12 訪問)

富松城はかつて細川氏の分裂抗争が尼崎に及んだ際に
尼崎城・伊丹城・越水城のほぼ中間地点に位置していたため
戦略上の要地であったと案内板には書かれています。
周囲はフェンスで囲まれていますが、フェンスごしに堀が
周囲を囲っているのがわかります。
南側に回ってみますがここも柵で囲まれていて入ることは
出来ません。‥ダメだわ。
遠目になんとなく郭らしきものが見えますが
木がうっそうと茂っていて良くわかりません。
しかたがないので次へ向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

荒木村重ゆかりの地で惨劇の跡の地。 (2023/08/12 訪問)

七松城は環濠集落の中に置かれた城で、かつて荒木村重が
織田信長を裏切った際に有岡城攻めの陣城として
利用されたとあり、有岡城落城後、
天正7年(1579)12月13日 122人の女性たちがが磔に
かけられ、他510あまりが家4軒に押し込められ
焼殺されたということです。
城跡の中心は七松八幡宮で、境内には
七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑
が建っているのですが‥ 数は合ってるんだけど
落城したのは有岡城では? 誰もつっこんでないけど
これは突っ込んじゃいけない所だったんだろうか‥?

七松城の西側には堀の形状に水路が残りかつての環濠集落の
名残をしのばせます。一部は暗渠になっているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

御影駅北口のロータリーに石碑あり (2023/08/12 訪問)

平野城は現在の阪急御影駅から神戸市立御影北小学校付近一帯
が推定値とされ御影駅北口のロータリーに石碑があります。
小学校は周囲に対して高低差があり城址の雰囲気を残します。
城の東はかつては湿地帯でしたが開発が進み今では深田池のみが
残ります。1346年 赤松氏の家臣であった平野忠勝によって
築城されたとされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

スティクラ

久能山東照宮に行った時に初めて知った久能山城 (2023/08/20 訪問)

日本平からロープウェイで久能山東照宮へ。
ロープウェイの紹介アナウンスで東照宮側のロープウェイの乗り場付近に石垣の遺構を見ることができると教えてもらう。
家康公が死んだ跡は東照宮としてお城の役割を終えたので、城の様子がわかるものはこの石垣くらいだった。

久能山東照宮・博物館を見学。
久能山東照宮は、日陰に入ると風があって比較的涼しさを感じた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

スティクラ

天守台発掘調査で夢が膨らむ駿府城 (2023/08/12 訪問)

酷暑の中、駿府城を見学。
公園内に入る前に県庁を一周。石垣に守られた中にある県庁は魅力的。
東御門から公園内に入り、時計回りに一周。本丸堀→坤櫓→家康公像→天守台発掘場へ。
天守台は見学できる場所も広く、昔はどうなっていたかな~と想像しながら見学するのがとても楽しかった。
再建までは莫大な費用と時間がかかると思うが、いい方向に向かってくれればいいな。
公園の外の堀を一周歩いて回ろうと思ったが、暑さで断念。
夜ライトアップがあることを知り、夜再度訪問してライトアップされた東御門を見学。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

つづき (2023/06/23 訪問)

東大通りを渡って三の丸に向かおうとしたら目に飛び込んできた石垣修理現場。
前回訪れた時も修理中、前々回訪れた時は発掘調査中でしたが、今回は通行止めでした。完成までに40年を費やしたという石垣の名城は修理にも相当の時間や技術を要するであろうことは想像に難くなく、手を止めたらそこで終わりだという事実に、歴史を未来へ伝えていくことの現実的な重さを思いました。

櫻山神社左手の鶴ケ池に沿って入城しました。烏帽子岩は櫻山神社の石段を上がって見上げると迫力が違います。南部稲荷神社や三の丸の大きな露出石も存在感を放っていました。

東門から二の丸へ上がります。
上から見てもおもしろかったのははばき石垣です。石垣を守るための石垣ですが、それ自体にデザイン性がありスタイリッシュ。城ネコさんが上でくつろいでいらっしゃいました。
庭園を再現したような石組みがありましたが城内図では御殿が目いっぱい建てられていたようなので公園化の際に設えられたのかもしれません。
本丸には戦時中に銅像が供出されたために残された南部中尉像の台座が。何もない空間が語る歴史に思いを巡らせます。
二の丸と本丸を繋ぐ赤い渡雲橋は盛岡城のアイコンとして写真でもよく見るところです。このたびは渡ることはできましたが老朽化のため欄干にもたれかかることは禁止で、石垣に崩落の危険があるため橋の下を潜ることもできませんでした。廊下橋が復元されたらいいのにとの思いもよぎりますが、石垣の状況から見ても建造物の復元は簡単に語れることではないのだろうと思います。
本丸門からカーブする坂を下りて振り返ると威厳に満ちた石垣が。今見てもかっこいいですが土塀や櫓を備えていた当時はさらに見栄えもよく引き締まって見えただろうと思います。

多目的広場(台所屋敷)には元の場所に戻る日を待つ積み石が整然と並べられていました。本来であれば日に晒されることのない小さな裏込め石も山のように積まれ、裏方の存在の大きさや、小さな石もこれだけ集まれば大きな力となるといった見本を見せてもらったような気持ちでした。頑丈な石垣として再び役目につくのは来年の秋ごろの予定だそうです。
石垣修理といえば、櫻山神社の裏から三の丸に上がる石段のところと二の丸のはばき石垣横のあたりにピンクのリボンのついたペットボトルが提げられていました。素人考えですが、これはもしかすると孕みが進んでいる現状下で、ペットボトルが落ちてきたら石垣に何らかの異変が起きているということ。その異変をいち早く知るためのものではないでしょうか。

本丸方面に戻って淡路丸へと進みます。ここには桜の木がたくさん植えられています。木の陰になって城内でいちばん古い野面積みから天守台下石垣までを一目で見渡すことはできませんが、春に訪れれば石垣と桜が織りなす美しき日本の風景を見られるのでしょう。オフシーズンであっても足元を見れば大櫓跡、下を覗き込めば帯曲輪と楽しみを見つけることができます。知育玩具にありそうな立体パズルを嵌めこんだような補修跡のある角石もおおっ!という感じでした。

最後に帯曲輪に下ります。
ここにも大きな露出石が地面から顔をのぞかせています。矢穴の下書きっぽいのがぽつんとひとつある石も。
そしてここからが石垣ビューのクライマックス。大櫓跡の下の石垣のスケールと迫力は何度見ても感動します。遠くから見ると大櫓と天守が重なって五層に見えたというのは夢の世界。(歴史文化館のジオラマで想像できます。)
見事に修復された圧巻の石垣と、移築保存されている唯一の現存建造物、彦蔵。石樋(蛇口)、積み石が抜け落ちて見えている裏込め石、四阿下の石垣を支えるはばき石垣……。最後の最後まで楽しませてもらいました。

3度目の訪問でやっと楽しみ方がわかった盛岡城。いつかきっと4度目もアリです!
お昼ごはんはいつもどおりリュックからプロテインバーを取り出して……ではなくて、ご当地グルメの盛岡冷麺をいただきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

狛城 上狛環濠集落  京都府木津川市上狛 (2023/08/11 訪問)

木津川市上狛の通称「大里」は周囲を堀で囲まれた環濠集落です。
ここの国人領主であった狛氏の館は城域の西南側にあったとされています。
上狛小学校の南側を堀が走っていますので東から南へと移動し
そこから集落の中央部の西福寺を目指します。
この周辺は古い建物が多く個人宅の長屋門が登録有形文化財に
指定されています。
そこから西側の環濠に移動し散策していくと上狛環濠集落の
案内板が建っています。
大井戸が民家の敷地内にあるらしいので地故の方に聞き込みをしながら
訪問します。民家の壁の内側に立札があるので、わかりづらいのですが
ご自由にお持ちくださいと書いてある箱の中に資料があるので
有りがたく立ち入らせていただきました。 有難うございます。
資料によると狛氏は応仁の乱の際に大和の筒井氏と結び
畠山政長、細川勝元・政元に仕え東軍に属しました。
文明15年(1483)西軍の斎藤彦次郎の攻撃を受け
多くの犠牲を出し、狛山城守守秀は城を焼いて大和に逃れました。
ちなみに斎藤彦次郎は日野富子の従兄弟と呼ばれている人物です。
江戸時代の上狛環濠集落は大里集落と呼ばれていて周囲に八つの門を
備えていたと伝わります。

西福寺
京都府木津川市山城町上狛艮町3

案内板
京都府木津川市山城町上狛乾町
34°45'07.1"N 135°48'57.9"E
34.751977, 135.816070

古井戸
京都府木津川市山城町上狛乾町
34°45'09.8"N 135°49'01.6"E
34.752730, 135.817120

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

チョッピリ芸術的な気がした狩野城 (2023/02/20 訪問)

2月後半の城郭巡り第4段は、河津からの帰りに寄った静岡県伊豆市の狩野城。

狩野川上流の伊豆半島の山間部。
狩野川に向かい西から東へ下る山裾の、柿木川と北沢川に挟まれた尾根の先端、比高60~70mの小山に築かれた城。
伊豆の南北を繋ぐ要衝で、下田街道を監視していたでしょうか。

1100年頃から1400年代末までの狩野氏の拠点で、伊勢宗瑞の伊豆侵攻の折に落城し廃城となった模様。
因みに1400年代後半から江戸の末期まで活躍する絵師の狩野派は鎌倉期の分家とのこと。
現在は生活環境保全林として遊歩道が整備されています。

訪問時は、北の駐車場から遊歩道を時計回りに散策。
印象に残ったのは堀切による激しいアップダウン。
そして本郭周辺は二重堀や土橋など小規模ながらつくりが凝っており、古い時代の城遺構としては期待以上。
それでも本丸は、広くて最高地点の中郭かなと勝手に想像したりして...

滞在時間は約1時間半。
狩野氏の城だけにチョッピリ芸術的な気がした私の城郭巡りの151城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

犬田城の戦い 大阪府枚方市印田町(推定) (2023/08/11 訪問)

犬田城の戦いは大阪府枚方市中宮で発生した戦いだとされています。
文明15年(1483)畠山義就と畠山政長が河内の領有権を巡って争い
畠山義就が勝利し、河内の領有を決定づけたとあります。
犬田城の場所はいまいちよくわかっていないのですが
あるサイトで印田町あたりにあるらしいと出ていたので
寄ってみました。犬田城の推定地は丘地になっているのですが
東、西、南から開発が進み宅地が迫ってきています。
そんな中で不思議とこんもりとした丘地が残っており
城址の雰囲気は出ています。
今では数か所の小規模な郭を残すのみですが、東の
印田町ふれあい公園も気になったので訪れてみました。
この公園も周囲に対して小高い丘になっており
切岸らしき場所にはフェンスがついています。
ひょっとしたら、ここも城域だったのかなと
勝手に想像してみます。
推定地
大阪府枚方市印田町
34°48'16.9"N 135°39'59.3"E
34.804702, 135.666477

印田町ふれあい公園
大阪府枚方市印田町43−15
34°48'16.6"N 135°40'03.3"E
34.804616, 135.667573

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

楽田城 (2023/07/22 訪問)

【楽田城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑前に停車できそうです。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾1城目。楽田城の築城は永正年間(1504~1521年)に尾張守護代織田久長が築城したと伝わります。1558年頃に犬山城主織田信清に攻略されて信清の出城となりますが、1562年に織田信清は織田信長から離反したために犬山城を追われて、それ以降楽田城も信長の支城となり信長の家臣を入れます。小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉側の前線基地として使われますが戦後廃城となったようです。現在城跡碑のある場所に僅かに残る土塁があるだけで遺構は楽田小学校建造で取り壊されてしまったそうです。文献上最も古い天守(殿守)の文言が出てくる城跡で昭和55年まで小学校内にあったそうですが撤去されたそうです。見たかった。

<満足度>◆◇◇
 

+ 続きを読む

宗春

Uターンの途中で登城 (2023/08/19 訪問)

帰省からのUターンを松本経由とし、18きっぷを使って登城。
なぜか購入を忘れていた百名城カードを購入。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

宗春

新幹線コラボ御城印を求めて (2023/08/18 訪問)

JR東海とのコラボ御城印を入手するために登城しました。

+ 続きを読む

キンヤ

松倉重政が城主だった二見城と城下町の五條新町 (2023/08/13 訪問)

二見城は、1331〜1334年に二見氏によって築かれた館城を前身とし、江戸時代の1608年に大和五條藩1万石余りの城主として入った松倉重政が近世城郭に改築したとされます。
重政は、もとは戦国大名筒井氏の重臣として仕えていましたが筒井氏が改易された後、関ヶ原の戦いの功により徳川家康によって大名に取り立てられました。
大坂夏の陣の功績により、1616年に重政は肥前日野江藩4万3千石の大名として転封になった後、二見城は廃城となりました。

今は立派な説明板がありますが、残念ながら遺構は殆ど残されていません。
絵図を見ると本丸・二の丸は小規模で、東西に長い河岸段丘上に築かれた平城だったようです。
本丸は今は妙住寺の境内で、北側・東側は吉野川が流れ断崖となり、西側に埋められてますが堀跡があります。
二の丸は今は木材会社の敷地で、城風の土塀が建ち、周りより高くなっています。
本丸・二の丸は南東側から見ると、かなり高くなっており、西側の外郭も南側から見ると高くなっており、河岸段丘の地形が分かります。

二見城の北には、重要伝統的建造物群保存地区の五條新町があります。
中世からの町場の五條と、松倉重政によって新たに造成された新町の2つの地区からなり、二見城の城下町として整備されました。
江戸時代からの建物が多く残されており、風情のある良い町並みでした。
重要文化財の栗山家住宅は、1607年の棟札があり建築年代が分かる民家では日本最古だそうです
新町通り沿いにある新町松倉公園に重政を称える碑、西方寺に重政の墓碑があります。
重政は肥前国の島原では重税を課したりキリシタンを弾圧し悪評高いようですが、五條では雑税を免除し商人を集りやすくし、町をつくった殿様として慕われているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

宗春

築城450年記念御城印を求めて (2023/08/18 訪問)

島田市博物館にて諏訪原城の特別展が開催されていた事もあり、築城450年記念の特別御城印を頂くために友人と登城。
久しぶりに来てみたら、写真撮影用と思しき台が設置されており、そこから馬出しを撮影。とても良い!

+ 続きを読む

宗春

「冷やし旅」 (2023/08/17 訪問)

JR東海ツアーズのEX旅のコンテンツから、名古屋城の「冷やし旅」(入場券+二の丸茶亭の冷やし抹茶・和菓子+特別御城印のセット)を申し込んで訪問しました。
とても暑い日だったので、冷やし抹茶を美味しく頂けました。

+ 続きを読む

ページ187