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カズサン

二俣城・秋分の頃‐2/4 (2024/09/25 訪問)

 ※本丸~二の丸編(1/4搦手登城口から本丸編の続きです)

 本丸も草が刈って有り奇麗に整備されています、一人静に二俣城跡を楽しんでいます、天守台を北東角、南東化を眺めて静寂な本丸を眺める夏を惜しむ様なツクツクボウシの声が愛おしい。
 国指定史跡に平成30年指定されて、本丸の案内解説板が東の石垣土塁側に建ってるが6年を経過、二の丸への中仕切門跡辺りには彼岸花が咲いており秋分の頃を表している真紅の曼珠沙華が目に焼き付く、中仕切門跡から二の丸東土塁、大手門石垣の天端へ、先端の彼岸花がそっと咲いている。二の丸内部も奇麗に清掃されています。
 
 3/4二の丸・大手門跡編に続きます。
 

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しんちゃん

景勝軒! 栃木総本店 (2024/09/14 訪問)

栃木県を北上している時に、ふと見かけたラーメン屋「景勝軒」。
この日の昼食は道の駅「どまんなか田沼」で食した佐野ラーメンセット(芋カツ付き)だったのでお腹はいっぱいだったのですが、この名前がずっと気になっていました。景勝(かげかつ)軒とは、きっと上杉景勝のことに違いない。伊達政宗や直江兼続に比べると地味なイメージがある景勝公だが、わかる御人はわかってらっしゃる‥と勝手に考えておりました。
福島県にもあるかな?と考えて調べてみると栃木に2件しかない。この日の城攻めが終了すると、夕食をとりに景勝軒へ!
「藤ラーメン」を注文します。アジア系らしい若い女性の店員さんが「油いる?」みたいに聞いてくるので、「いりません」と答えたのですが、けっこう油多いです。通じてないのか、元々油の量が多いのか‥この年(50代前半)だとけっこうキツイですね。
アブラをせっせとよけながら食べていたのですが、この店、実は「けいしょうけん」というようです。
「かげかつけん」じゃ無かったのね‥ちょぴり残念な「しんちゃん」でした。しかしラーメンばかり食べてますね。

米沢城の景勝さん、景勝軒を「かげかつけん」と呼んで譲りません。御大謙信公も行きたそうな様子。大阪の豊中市には「謙信」という名前のラーメン屋さんが有るみたいですね。これは戦国大名とラーメンコラボもありかもしれません。

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しんちゃん

犬伏の別れ 犬伏新町薬師堂・栃木県佐野市 (2024/09/14 訪問)

本日は家の屋根の工事で気になる点があったので、有給を取って家で業者の工事を見ています。
栃木県佐野市の犬伏新町薬師堂は真田父子の「犬伏の別れ」として有名です。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の前の7月、真田昌幸と信幸(之)・信繁(幸村)ら兄弟との間で話し合いが行われ、信幸は東軍、昌幸と信繁は西軍に付くことが決まりました。
関ヶ原の合戦後、信幸は9万5000石に加増され九度山に流された父と弟に援助を続けますが、再会は叶わなかったようです。
犬伏新町薬師堂は佐野市から栃木市に向かう県道75号線の途上にあり、今回もたまたま立ち寄った次第で有ります(小さな駐車場あり)。通りすがりに真田父子にかかわる名所を訪問できると、少し得をした気分になります。旅の醍醐味ですね。

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しんちゃん

ここは小薬 (2024/09/14 訪問)

御城の別名は小薬城というわけですか‥ チェブさんの投稿にもありますが、道中にも「ここは小薬」の看板が立ってます。
城址には御城稲荷神社が建っていますが、明確な遺構は無いようです。城址碑が無いと城址とはわからないですね。

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イオ

陣屋めぐりの一日 (2024/09/08 訪問)

江戸前期に京極高盛が丹後国・田辺から但馬国・豊岡に移封されたのに伴って、丹後国に分知されていた高盛の弟・京極高門も但馬国に領地を移され、糸井に陣屋を構えました。陣屋は糸井京極氏のもとで明治まで存続した後、学校用地として払い下げられています。

和田山郷土歴史館の駐車場に車を駐めるとそこはもう陣屋跡です。陣屋跡は歴史民俗資料館・郷土文化財館・古墳園からなる郷土歴史館になっていて、南辺に陣屋門が現存し、門の壁面には文字のかすれた説明板が貼られています。南東隅から南西隅まで南辺に続く石垣は、積み直しや補強はされているものの陣屋遺構と思われます。郷土歴史館は開館日であっても要予約とのことですが、前夜に予約し忘れていたことを思い出し、それでも行ってみれば何とかなるかも、とわずかな期待を抱いていましたが……しっかり入口のシャッターが下りていました。やはり要予約といえば「要」予約なんですね。

近くにもうひとつ陣屋があるようなので、そちらにも行ってみました。土田陣屋(はんだじんや・兵庫県朝来市和田山町土田・城びと未登録)は、江戸前期に出石藩主・小出英安の弟・小出英直が兄から1500石の分知を受けて構えた陣屋で、本家にあたる出石小出氏が無嗣断絶した後も、この地で明治まで存続しました。現在は陣屋跡は住宅地となっていて遺構は見られませんが、教蓮寺(朝来市和田山町高田)に陣屋門が移築され、門の脇に教蓮寺と土田陣屋の説明板が立てられています。

…ということで、この日は(平山城にも行きましたが)図らずも4か所もの陣屋をめぐる陣屋めぐりの一日でした。
 

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todo94

バースデイきっぷを使って (2024/09/21 訪問)

バースデイきっぷを使って16年ぶりに訪れました。あしずり1号で中村駅にアクセスし、レンタサイクルを借り受けました。三の丸、為松城址碑とみて回り、二の丸に建つ四万十市郷土博物館に入館。ここで龍馬パスポートの申請書を手に入れ一つ目のスタンプをゲットしました。今回の高知での最大の目的は志国土佐 時代の夜明けのものがたりに乗車することです。そのため、中村滞在は1時間少々となってしまいました。一條神社や栗本城などは次回の楽しみに取っておきます。志国土佐 時代の夜明けのものがたりの車内では龍馬パスポート申請書の2つ目のスタンプをゲットできました。

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トク

人吉城へ行き方(続編):御利用ありがとうございます

辰兵衛さん、九州でバスを御利用いただきまして、ありがとうございます。

確かに、人吉へは「福岡-宮崎(フェニックス号)」、「福岡-鹿児島(桜島号)」も停車します。福岡-人吉は、新幹線とB&Sでは1時間40分で行けますが、バスのみであれば2時間50分かかります。バスは盆正月GW土日などはさらに30分~1時間くらい(渋滞などで)遅れる事もありますが、もし時間的に余裕があれば、ぜひ今後ともバスでの御利用お願いいたします。また3日間九州の全路線の高速バスと路線バスが乗り放題の「SUNQパス」などお得な商品も販売されておりますので、よければ御利用下さい。数種類ありますので詳しくはSUNQパスのHPで! スマホからの購入や座席予約もできます。

ちなみに私よくJRを利用しますが、実はバス会社の人間です(笑)。
 

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しんちゃん

〇曜ロードショー (2015/10/24 訪問)

最後にもうひと26‥。阿尾城は富山湾に面した独立丘陵上に築かれており、城址の周囲は断崖絶壁となっているようです。
登城道から三の丸・二の丸・本丸(伝)と続き、本丸には櫓が築かれ、ここから海上を行き交う船を監視していたようです。築城時期は不明ですが出土物から15世紀後半ごろには存在していたと思われ、天正・文禄年間(1573~1596)ごろには菊池右衛門入道・十六郎父子が居城していたとされます。菊池氏は織田信長配下の佐々成政に従いますが、成政と前田利家が対立すると前田側に付き一万石を安堵されたとのことです(現地案内板)。本丸からの眺望はすばらしく、夕陽を眺めているとなぜか頭の中にトランペットの音が響いてきます。

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カズサン

二俣城・秋分の頃‐1/4 (2024/09/25 訪問)

 7月8月9月と今夏の危険な暑さで城廻城探訪を控えて居りましたが、浜松市天竜区二俣に所用が有り30分程足慣らしの意味にも登城してきました。
 彼岸花が咲き、ツクツクボウシの鳴き声、小鳥の囀りも有る静かな二俣城散歩、当初は独りのみでしたが、2組の夫婦の方が登城されていました。
 駐車場:北曲輪北東下の5号堀跡の駐車場利用

 ※搦手登城口から本丸編

  搦手登城路、5号堀跡堀切側から入り、北曲輪西側の登城、西下は天竜川の川の流れる音が結構響き聞こえます、4号堀堀切は堀底まで奇麗に草が刈られて様く確認できます、本丸の北側土塁が多くく聳え、北虎口側は奇麗に草刈、本丸の食違い北虎口の左右の石垣も清掃されてよく確認できます。
 本丸は草刈されて居り天守台を北東に眺める、二俣城のシンボルは天守台です。
 木陰で一時独占古城の雰囲気を楽しみました、登城日は今夏の最低気温日19度でやや涼しくは成って来ましたが日中は暑い。

 2/4本丸から二の丸へ続きます。
 
 

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しんちゃん

織田家中オールスターズ (2014/05/17 訪問)

虎御前山城は小谷城に籠った浅井長政を攻略するために織田信長によって築かれ、元亀3年(1572)頃に完成を見たようです。
地理的には小谷城のすぐ目の前にまで迫っており、浅井氏の置かれた状況がいかに深刻であったかがうかがい知れます。城番には羽柴藤吉郎(案内板)が置かれ、場内の標柱には木下秀吉陣跡と記載が有ります。
登城道から北に向かって順に伝(以下省略)滝川一益陣、堀秀政陣、織田信長陣、羽柴秀吉陣、柴田勝家陣と続きます。また堀切や竪堀、土塁などの遺構も残っています。
写真はちょっと26いです‥。

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しんちゃん

大手門復元成るか? (2015/05/05 訪問)

本日は「さとふる」公認の26日(ふるのひ)だそうです。せっかくなので私も少し26めの投稿をさせていただきます。
ご容赦を。 ちなみに29日は「にくのひ」です。
仙台城は二代藩主・伊達忠宗の時代に完成したとされます。戊辰戦争の戦火を免れるも、明治維新の後に陸軍の管轄となり、多くの建物が取り壊され、大手門、脇櫓、巽門(いずれも旧国宝)は第二次世界大戦の仙台空襲により消失してしまい、城内には遺構は残っていないようです。
本丸周辺は宮城県護国神社の敷地となっており、東側の大広間には伊達政宗の騎馬像が立てられています。三の丸跡は仙台市博物館となり、二の丸跡は東北大学の敷地になっているようです。大広間には「荒城の月」の作詞家・土井晩翆の案内板と銅像が立っています。
「荒城の月」の城のモチーフは瀧廉太郎とゆかりの深い「岡城」の他にも土井晩翆とゆかりのある「仙台城」や「会津若松城」「富山城」なども挙げられることがあるようです。

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ぴーかる

忍城 (2024/09/14 訪問)

【続百名城69城目】
<駐車場他>無料駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画の旅3城目。このお城もまずは周辺散策から。櫓の石垣⇒伝・進修館移築表門⇒本丸土塁⇒成田御門跡⇒勘定所跡石碑⇒三階櫓跡 どうも門跡は石碑しかなさそうなので戻る。東門水堀から中に入り東門⇒博物館⇒御三階櫓内部に入り見学⇒忍城の鐘⇒諏訪郭跡忍諏訪神社を散策⇒車で移動して總願寺に移築された北谷門を見学しました。本丸跡は少し高台になっていて残る土塁は当時の様子がよく分かりますが、その他の残る遺構がとにかく少ない。江戸時代譜代大名のお城だっただけに維新の破却も激しかったのだろうか。

<満足度>★☆☆

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朝田 辰兵衛

彦根城を空殺できました…👀 (2024/06/25 訪問)

西側の龍潭寺から登城し,南側の彦根歴史公園佐和山遊園に下山しました。南側の登城口はちょっとわかりづらい気がしました。
天候は小雨が降り,モヤがかかったりしていましたが,無事に彦根城を空殺できました。

トクさんへ…
私は人吉城攻城の際,天神バスターミナルから宮崎行きの高速バスに乗り,人吉ICで下車して徒歩で。復路も逆パターン。これだと,博多駅のバスターミナルも通ります。新八代駅での乗り換えは不要になります。ご参考までに…。

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トク

人吉城(4/4):人吉城への行き方(新幹線と高速バス) (2024/09/18 訪問)

ここからは私が人吉城を訪れたルートについて、詳しく御紹介したいと思います。人吉城は100名城なので、訪れてみたい方は多いと思います。しかし車でない交通機関で行きたい方は、JRが不通な今どうやったら人吉へ行けるの? と大変分かりにくく迷っている方もいらっしゃるのではと思いました。よって御参考にしていただければと思います。

【写真①②③】
博多駅から九州新幹線「つばめ」号で新八代まで乗車しました。ラッキーにも800系でした。木の香と和布の内装がきれいで座席も広く快適です。わずか1時間で着いてしまうのがもったいないくらいです。この800系は九州(博多-鹿児島中央)でしか走っていません。新大阪からは直通の「さくら」号700系が新八代に停車します。

【写真④⑤】
新八代駅から接続する高速バス「B&Sみやざき号」に乗りました。40分で人吉ICに到着します。バスは新八代駅では新幹線改札口を出てすぐ右前に停車しています。B&Sは予約が必要です。JR九州のチケット予約のHP(お得なきっぷorみやざききっぷ)からか、バスのみであればバス会社(宮崎交通or九州産交バス)のB&S予約のHPから予約できます。JRからは新幹線とのセットや早割もあります。JRから予約した場合は、JR九州管内駅の「みどりの券売機」で予め発券してから御乗車下さい。私は博多駅で新幹線とバス(往復分)一緒に発券して乗車ました。バス会社から予約の場合は、スマホからWEB乗車票を見せるだけのチケットレス乗車もできるようです(詳細は各HP参照)。

【写真⑥】
人吉ICバス停から始発の路線バス「人吉駅」行きに乗り10分、途中の「札の辻夫婦えびす神社前」で下車しました。降りたバス停横の今夜泊まるホテルに荷物を預け、球磨川にかかる大橋を渡り、ここからスタートして人吉城を一周しました(その内容は前回投稿を御参照下さい)。

【写真⑦】
そして夜は前回と同じ人吉温泉「あゆの里」へ宿泊しました。ここの露天風呂はとても気持ちよかったです。そして部屋からは人吉城が一望できました。

【写真⑧】
翌日は、帰りに人吉ICでバスの待ち時間があったので、歩いて5分の所にあるラーメン「龍風」で豚骨ラーメンを頂きました。おいしかったです。海苔が何だか珍しい?🤔

【写真⑨⑩】
帰りは、新大阪行の「さくら」号に乗車し博多駅で下車しました(写真⑨⑩)。

🔶JR肥薩線の不通について🔶
JR肥薩線は少なくとも2033年(約10年後)まで「八代~人吉~吉松」間で不通です。つまり熊本八代・宮崎・鹿児島いずれの方向からも、JRで人吉へは行けません。路線バスもありません。高速バスでしか行けませんので御注意下さい。(ということは太川陽介と村井美樹は人吉では対決できないという事ですか?😯=はいそうです😱)。
 

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トク

人吉城散策(3/4):本丸から下り球磨川へ (2024/09/18 訪問)

二ノ丸から本丸へ登りました(写真①)。本丸には護摩堂があったようで祈祷の場所だったようです(写真②③)。

再び中ノ御門へ戻り、そこから御下門へ下りました(写真④)。ここもずいぶんと大きな門です。20mもの櫓があった櫓門だったようです。川から攻め込まれる事を想定し、このあたりが防御の中心だったと思われます(写真⑤⑥)。相良氏は鎌倉時代に源頼朝から地頭に命じられてこの地に住み始め、伊東義祐・島津義久の両方から執拗に攻められるという危機にも耐え、さらに豊臣秀吉に敗れるも修羅場をくぐりぬけ、九州の関ケ原では西軍に付くも徳川家康に何とか本領を安堵され、結局は鎌倉から幕末までの670年もの間この地を守り抜いた相良氏ですから、守りに徹する力は相当なものがあったのかもしれません。

水ノ手門を内側から眺めました(写真⑦⑧)。跳ね出し石垣から水ノ手門周辺のこのあたりは、1年前はまだ立ち入り規制区域が一部残っていたのですが、今は完全に撤去され河原まで行けるようになっていました。

さらに水ノ手橋を渡りながら川からも眺めて見ました(写真⑨)。当時はあそこで船から荷物を積み下ろし城内へ運んでいたわけですね。その船頭さんたちの光景が何だか目に浮かびます。

最後に河原に下りてみました。今日は水量が少ないですがそれでも流れは速く、ドドドドと音がすごかったです(写真⑩)。豪雨の時はまだこの100倍くらい水があったと思うので、想像しただけで足が震えてしまいました。

最後は、この人吉城へ現在どうやったら行けるのか、わからない方が多いと思うので、私が今回行った方法を御紹介したいと思います。
 

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イオ

豊岡陣屋(兵庫県豊岡市京町) (2024/09/08 訪問)

豊岡陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に丹後国・田辺から入封した京極高盛が豊岡城北麓の居館跡に築いた陣屋で、減封されつつも京極氏のもとで明治まで存続しましたが、廃藩置県により豊岡陣屋跡には豊岡県庁が置かれました。

豊岡城に続いては豊岡陣屋へ。陣屋跡は図書館になっていて、説明板が立てられているくらいで陣屋自体の遺構は見られませんが、図書館南側には藩主京極家の屋敷が遺っています。東側の豪壮な薬医門は旧豊岡県庁の正門(旧久美浜県庁から移築)であり、豊岡陣屋の遺構ではありません。豊岡陣屋の門は市内3か所に移築されていて、長松寺(豊岡市下鶴井)と慈等寺(豊岡市三宅)の山門は確認しましたが、福成寺(豊岡市出石町内町)の表門は未確認です。近いうちに出石城・有子山城とあわせて訪れたいものです。また、Google Mapによれば図書館北西のめぐみ公園にも旧豊岡藩庁門とされる門があります。

豊岡といえば大石内蔵助の妻・りくの出身地としても知られますが、図書館から東に約100mには大石陸女生誕之地の石碑と説明板が立てられています。りくの実家は豊岡藩筆頭家老の石束家であり、藩主の隣に屋敷を構えていることから考えても、やはり赤穂藩筆頭家老の大石家に釣り合う家柄の出身なんだなぁ、と妙に感心してしまいました。りくは内蔵助と離縁して豊岡に戻った後、三男・大三郎の浅野本家仕官に伴って広島に移り、広島の国泰寺に葬られていますが、豊岡の正福寺(豊岡市梶原)には豊岡で早逝した長女・くうと二男・吉千代の墓と並んでりくの遺髪塚が祀られています。6月に泉岳寺で内蔵助と主税のお墓にお参りしているので、こちらでも手を合わせてきました。正福寺の麓には大石りく像と顕彰碑も建てられています。
 

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しんちゃん

魚津城うおーず(Wars) (2015/10/23 訪問)

この写真もちょっと26いです。ご容赦を。
建武2年(1335)に椎名孫八入道によって築かれたとされています。その後、上杉氏の城になり河田長親が城代を務めます。天正10年(1582)の魚津城の戦いでは柴田勝家率いる4万(wiki参照)の大軍によって攻められ落城し、上杉方の将13人が自刃して果てたそうです。
その直後の本能寺の変で織田信長が横死すると、再び上杉方の須田満親が入ったようです。
城址は大町小学校となっていましたが、現在は魚津市立よつば小学校に統合され大町小学校跡となっているようです。二の丸は魚津簡易裁判所となっているようです。

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しんちゃん

ちょっと昔の熊本城 (2014/01/09 訪問)

ふるさと納税(さとふる)では26(ふる)~30(さと)の間、キャンペーンを行っているそうな。26でふるか‥
せっかくなので私もちょっと26い写真を投稿させていただきます。ご容赦を。
古い写真とはいえ、量が多いので極一部にはなりますが、石垣といい、現存櫓といい、国内でも屈指の城郭であると思います。
天守はエレベータを付けて修復がされたようですが、他の櫓や御殿の修復の進捗も気になるところです。なかなか熊本まで行く機会は無いですが、九州に行った際には寄ってみたいと思います。

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しんちゃん

油山寺 掛川城・移築大手二之門 (2022/12/03 訪問)

静岡県袋井市村松にある遠州三山の一つ、油山寺は紅葉の名所として知られ、眼の守護・眼病平癒の寺として信仰を集めています。
古くは行基による創建とされ、山門は万治2年(1659)に建立された掛川城の大手二之門を明治初期に移築したものと伝わっています。
他にも書院( 元禄12年(1699)建立)は横須賀城より移築されたものとされ 、方丈(宝暦14年(1764)建立)は浅羽代官所より移築されたものと伝わっています。書院・圃場・本堂は静岡県の有形文化財として指定を受け、三重塔は国の重要文化財に指定されています。
寺院を巡りながらも城郭建築物を楽しむことが出来ます。

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たか

鯉城! (2024/09/12 訪問)

わたしが若いころに転勤で広島に来た時に鯉城パーキングというところがあったのを思い出しました。
これは広島城の別名だったのですね。

仕事の関係上頑張って1時間程度しか無かったのがとても残念。
しっかりと石垣と土塁、水堀まで堪能できず。
そのうえ天守に入ってもお客さん多くて途中で御城印買って退散。
外国人の方が興味を持ってもらえたことはとても嬉しい。
でもわたしは自分時間ができない悲しさ(笑)
また時間を作って必ず行きます。
毛利家とても興味があるんで!

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