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能登守利信

呟き (2023/07/18 訪問)

弘前駅下車、観光案内所より自転車をレンタル、約35分。県道17号から弘前城を左回りに県道3号を西4.5キロで右折、城址の津軽中学校を目指せば、城址碑と案内板が見えてきます。主郭、二郭は学校敷地なので注意。裏手の西郭なら堀跡が見受けられます。

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シャンシャン

岩国城と錦帯橋 (2023/09/02 訪問)

下の階より上の階が張り出している桃山風南蛮造りという珍しい様式。
5連アーチの錦帯橋や錦雲閣、吉香神社など岩国城のふもとには観光ポイントがコンパクトに集まっている。名物の瓦そばや岩国寿司が食べられるお店もある。
付近には無料駐車場も多くあり観光しやすいのもグッド👍

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前ちゃん

歴史散歩 (2023/09/04 訪問)

真田庄から戻ってきて、上田駅からてくてく散歩

城内散策、博物館とまわり、観光協会で御城印をもらい、池波正太郎記念館へ。真田太平記(大河)懐かしいなぁー

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前ちゃん

レンタルサイクル (2023/09/04 訪問)

ゆきむら夢工房から真田氏歴史館へ

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しんしんちゃん

公園の主要部(史跡)として存在 (2023/05/04 訪問)

古河公方館は古河総合公園の中に公園の主要部として
史跡として整備されています。中心部は西に突き出した
丘陵を三方から囲むように堀(御所沼)が築かれ、東側に2の曲輪、外郭
と連なっていますが、訪問するのは中心となる1の曲輪のみです。
1の曲輪は南北40m、東西135~140mの規模で、土塁が残り、空堀も
残っているようです。
古河公方館は享徳4年(1455)、享徳の乱の際に、初代古河公方の足利成氏
によって築かれたとされています。天正18年(1590)最後の古河公方、足利義氏
の娘である氏姫の居館となり、寛永7年(1630)に氏姫の孫である
尊信が下野国の喜連川に移った後は十念寺の寺城となったとされています。

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前ちゃん

サイクリング (2023/09/04 訪問)

ゆきむら夢工房で自転車をレンタルして、歴史館と一緒に。その後長谷寺へ向かうが激坂に破れ断念

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しんしんちゃん

多賀谷氏 反骨の歴史 (2023/05/04 訪問)

多賀谷城は別名。下妻城とも呼ばれ、多賀谷城址公園が本丸の
所在地とされています。東の市役所や消防署のあたりが二の丸、本丸の
南方が南館、さらに南方の信号のある交差点周辺が三の丸あたりで
小野子観音堂周辺は周囲より明らかに高地にあり、かつて島地の郭だった
名残を感じさせます。
多賀谷氏は武蔵国埼玉郡多賀谷郷の多賀谷左衛門尉家政を祖とします。
城郭大系によれば、彦四郎氏家の時代、結城合戦(永享12~13年(1440~41))
に結城方として参戦。結城城が落城した後は再建に努力したとあります。
享徳3年(1454)古河公方足利成氏の命にて関東管領上杉憲忠を討ち
その功績として下妻の地に33郷を与えられ多賀谷城を築いたとあります。
天正18年(1590)豊臣秀吉に下妻6万石を安堵されます。
慶長5年(1600)、重経の時代に、徳川家康の上杉成敗にあたり、
小野小山に屯営する家康を夜襲する計画を立てますが、バレてしまって関ヶ原合戦後
所領を没収されてしまい、居城は破却の上、追放され井伊家の食客として
彦根で死去したとあります。

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しんしんちゃん

重箱の隅 唐沢山城 (2023/05/03 訪問)

唐沢山城は戦国期は佐野氏の城で、越後の虎(龍の説もあり)
上杉謙信が10回も攻めた城です。
大手を進んでいった先に堀切があり、太鼓橋がかかっており
その先の左手に和合稲荷神社があるのですが、おそらく
この神社は「あること」が日本一だと思います。何がかというと
本社と奥社の距離が、ものすごく近いんですよ。
おそらく狙っているんでしょうね。ネタ的な感じですね。
本当にどうでも良い話なんですけど、結構好きです。こういうの。
あと食い違い虎口がありますね。最近は食い違い虎口的なものも
枡形と呼ばれることがあり、どう表現してよいか困るときがありますが
ここの場合、本当の枡形がその先にあるので、「くい違い虎口」と
表記があるのはうれしい限りです。

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小城小次郎

キラーコンテンツ (2023/01/23 訪問)

東条吉良氏が拠ったこのお城には模擬櫓や模擬城門も設けられたが老朽化で撤去され朽ちかけた柵のみが廃城の趣を湛えている。せっかく吉良というキラーコンテンツがあるのだからもう少し上手く活用できなかったものか。

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しんしんちゃん

石好きの マニアもうなる 鏡石 (2023/05/03 訪問)

唐沢山城は標高247mの唐沢山一帯に築かれています。
平将門の乱で功績のあった藤原秀郷が天慶3年に築いたのが始まりと
され、その子孫は小山氏、藤姓足利氏などに分れ、足利氏から
分家した佐野氏が唐沢山城を居城とし、戦国期に修築しています。
人気のある城(神社)で山上まで車で行けますが、駐車場は比較的混んでいます。
右手に天狗岩のある虎口は食い違い状になっていて、その先は枡形になっています。
東に参道が続きますが左手に大井があり、ここの井戸は水が枯れたことが無いと
伝わります。堀切に橋がかかり大手が東に続きます。そのまま南城と呼ばれる
蔵屋敷まで行くと展望所があり、そのまま北上して本丸まで上がります。
本丸の東西北側に郭が配され、西側に二の丸、三の丸(帯廓)が段階状に続きます。
本丸には唐沢山神社があり、西側に鳥居から二の丸への階段が続いて
いるのですが、少し降りて振り返ると左右に石質の異なる鏡石があります。
左がチャート(主な成分・二酸化珪素)で右が石灰岩(同・炭酸カルシウム)
を使用しているとブラタモリでやってました。さすがに視点がマニアですね。


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能登守利信

呟き (2017/04/01 訪問)

本八戸駅から徒歩の範囲なのが助かりますね。 霞神社が内丸で三八城公園と合わせて見るとよいです。 そのまま南に南部会館があり角御殿表門が有るから必須です。 ちなみに八戸藩や八戸城の資料は根城の八戸市博物館の方が充実してます。

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しんしんちゃん

城域が鎌倉時代のままなら、かなりの広さを持っている。 (2023/05/03 訪問)

中村城は遍照寺を中心に築かれており、周囲を土塁と堀で囲まれた
単郭の城郭で、鎌倉時代に築かれた居館型城郭としては、
かなりの大きさを持っています。私見ですが城域が鎌倉時代のままだとしたら
足利市の足利氏館に次ぐ規模の大きさがあるのではないかと思います。
中村城は鎌倉時代初期、摂関家領中村荘を支配した藤原(中村)朝宗が築いたと
されています。中村氏は後に宇都宮氏の家臣となり、
天文13年(1544)下館城主、水谷出羽守正村に攻められ、城主
中村日向入道玄角は討死、その子小太郎時長は城に火をかけ、米沢に
逃れ伊達政村の家臣になったとされています。

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しんしんちゃん

整備ありがとうございます。堀も土塁もすばらしかったです。 (2023/05/03 訪問)

児山城は栃木県の史跡に指定されていて、所有者の方々が管理されているようです。
遺構の状況も素晴らしく、散策しやすいよう整備が行き届いており、
訪問させていただく者からすれば、非常に有り難く、感謝の意を申し上げたいと思います。
主郭は東西約50m南北約70mの方形で、周囲を高い土塁で囲みその周囲を
堀で囲んであります。その周囲にも郭がありますが、畑地になっている
ようです、城郭体系によれば、北方に西城・中城・北城・西木戸
南方には稲荷城・馬場という地名が残っているようです。
宇都宮頼綱の四男・多功宗朝の次男朝定が建武年間に築城したとあります。
多功城・上三川城とともに宇都宮氏の南方の支城として重きをなしたが
永禄元年(1558)上杉謙信が多功城を攻撃した折に、児山兼朝が討死し
児玉城は廃城になったとされています。

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ぴーかる

中島城 (2023/07/22 訪問)

【中島城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾11城目。1221年に嵯峨天皇の末裔、嵯峨源氏がこの地に土着し中島氏を称します。築城年は定かではないですが鎌倉時代に中島宣長が築城したとされます。戦国時代には斯波氏・織田氏に圧され衰退しますが中島氏種という武将は秀吉に仕え秀吉死後も関ヶ原では石田三成軍に属し、大坂夏の陣では大坂方の遊軍として兵2000を率いて最後自刃します。現地は遺構は残されておらず古い城跡碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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びーこ

絶景の日本海を堪能! (2023/08/12 訪問)

朝から小雨が降り、その後も局地的に雨が降っていたので登城するかどうか迷ったが、せっかく男鹿まで来たのだから、とりあえず行ってみようということになった。

城の入り口は国道に面しており、大きな看板が目印である。そこから車1台しか通れない細い道を登り、案内所まで進む。殆ど人がいないにも関わらず、行きも帰りも途中で車と出くわしてしまい、お互い譲ったり譲られたりしながらなんとか往復することができた。

案内所には続100名城のスタンプやパンフレット、登城者を数えるカウンター、登城者名簿などが置かれており、しっかり管理されているようだ。

案内所からしばらくは舗装されている道が続いている。雨あがりでもここまでは楽勝である。土塁全体は芝生が植えてあり、これを管理するのかかなり大変であろう。数日前に草刈りをしたような感じではあったが、もうすでに20センチほど草が伸びており、井戸跡には近づけない状態であった。

内館地区の大土塁を歩いていくと、日本海の海岸と城下町が一望できるスポットが!絶景である!西側に移動するとこれまた絶景が!こちらは戦国時代と全く変わらない風景だとのこと。いつまでも見ていられる風景である。

雨の後で靴の中までグチョグチョにはなったが、そんなことも忘れさせてくれる素晴らしい景色であった。案内所でスタンプを押しただけで帰る人を見かけたが、勿体ないな〜上まで行った方が良いよ〜と心の中で念じてしまった(笑)

替えの靴と靴下に履き替え、いざランチへ!地元の人も集う観光案内所に併設されているレストランは、そのレトロでのんびりとした雰囲気とは裏腹に、味は確かであった。しょっつる焼きそばは具沢山で盛り付けもカワイイし、ハタハタ丼は身がフワフワで、甘辛味のタレは登城で疲れた体に染み渡る美味しさ。追加注文した、きりたんぽ味噌焼きもオススメだ。

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能登守利信

呟き (2019/06/21 訪問)

四稜郭からバスで攻城。 五稜郭裏門から外堀1,8キロメートルを周り、再び裏門から入城、土塁や稜堡を確認し、一ノ橋、二の橋をまわった後に函館奉行所を見学しました。 五稜郭タワーで全体像を俯瞰出来たのは楽しめました。 夕方に旧イギリス領事館の地図で『御稜郭』と表記されていたのは興味深かったです。

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能登守利信

呟き (2019/06/21 訪問)

函館駅からバスで赤川入口バス停で下車して攻城。 駐車塲を抜けると稜堡の土塁があります。 土塁に沿って歩き、虎口から内部に入り1周。 外郭からも1周して下城しました。 コンパクトな陣城ですが、特異な形を楽しめました。

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能登守利信

函館 (2019/06/21 訪問)

函館空港から徒歩20分程で到着。 最初に慰霊碑を見学後に虎口の階段を登るとボランティアの方が草刈りをしていました。 館跡の維持に感謝です。 土塁をまわってるとあずま屋があり、続百名城スタンプが設置してあります。 パンフ等はなかったです。 さて、空堀や土塁が予想以上に整備されていたのには驚きでした。 建築物跡の整備も含めて観光都市函館の面目躍如だと思います。 惜しむらくは志苔館跡に対する観光案内がまるで無いことでしょう。 函館に訪れた際には是非観に行って欲しい穴場スポットでした。

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城好きのメガネ

「難波田氏館」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
難波田氏館は、武蔵七党村山党の難波田氏の居城とされる。難波田憲重の時に、河越城を奪われた主君・上杉朝定を武蔵松山城に迎える。両上杉氏に古河公方・足利晴氏を加えた連合軍が後北条氏の河越城を包囲するが、河越の夜戦において戦死し、難波田氏は没落する。後北条氏の傘下に入る。小田原征伐の際に、武蔵松山城の落城と共に廃城となった。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
東武東上線 志木駅 東武バス「難波田城公園南口」 徒歩10分

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城好きのメガネ

「中山氏館」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
中山氏館は、武蔵七党の1つで鎌倉時代に中山の地に移り、代々居城とする。戦国時代には、後北条氏・北条氏照の家臣として中山家範が活躍する。中山家範は小田原征伐の際に狩野一庵・近藤助実とともに武蔵・八王子城に籠城する。豊臣方の激しい攻勢により自害する。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR東飯能駅 徒歩20分

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