韮山高校のテニスコートは三
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2024/09/24 13:39
韮山城跡に行きました (2024/09/16 訪問)
韮山高校のテニスコートは三
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2024/09/24 09:29
人吉城散策(1/4):大手橋から西外曲輪へ (2024/09/18 訪問)
今月上旬豪雨被害を見に松山城を訪れ、再び思い出したのが2020年7月に球磨川氾濫があった人吉城です。あれから4年今年も訪れました。ではヒロケンさんが見逃されたという西側エリアから始めさせていただきます(すいません)。
でも訪れた後に、能登では豪雨でかなりの被害があったとニュースで知りました。まだ地震の復興もままならぬという時に、ダブルショックだと思います。本当は能登が大変な時に、こういう投稿をしていいのだろうかとちょっと悩みました。しかし逆にこんな時だからこそ、豪雨から復興している人吉城を見てもらった方がいいのではないかと思い、投稿させていただく事にしました。
まず球磨川にかかる橋の上から人吉城全体を眺めました。最近は晴天が続いていたので球磨川は穏やかでした(写真①)。豪雨の時の濁流はあの10数mもある石垣の堤防を越え、城内まで浸水したので、それが未だに信じられません。いつもこのように穏やかであってほしいものです。
橋を渡り隅櫓から多聞櫓を眺めつつ大手橋を渡り大手門から城内に入りました。そしてぐるりと見渡しましたが、4年前から新たな被害は無いように見えました。隅櫓や多聞櫓も当時損傷などあったようですが、2年前に修復と化粧直しがなされ、今では綺麗によみがえっています(写真②③④)。しかし歴史館は依然と休館で、再開の見込みは全く立ってないようです。豪雨時の水没した時の写真もありました(写真⑤⑥)。スタンプやパンフレットも相変わらず歴史館裏の倉庫にポツンと置いてありました。かつて見たあの相良氏関連の貴重な資料や謎の地下室は、今いったいどうなっているのでしょうか?(ありし日の歴史館内部の写真です⑦)。
その歴史館の前の西外曲輪は、3年前は泥に埋もれ荒れ果てて、ロープによる立ち入り禁止規制がなされ、泥撤去のため重機がたくさん入っていた姿を目にしました。しかし2年前には泥も完全に除かれて整地され、1年前には傷んだ芝生も養生を終えロープも撤去され、今は緑がとてもまぶしく、よくここまで復活したなと嬉しく思いました(写真⑧)。ここはかつて家臣の屋敷が立ち並んでいた武家屋敷町だったそうです。
では、この緑の芝生の上を歩いて、次は東側エリアに向かいます。
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2024/09/24 07:59
7万石の代官陣屋 (2024/09/08 訪問)
江戸中期に久美浜城(松倉城)の山麓居館跡に江戸幕府が築いた代官陣屋で、丹後国・但馬国の計7万石の天領を管轄し、明治まで存続しました。廃藩置県により久美浜陣屋には久美浜県庁が置かれましたが、ほどなく豊岡県と統合され移転しています。
久美浜公園駐車場から折りたたみ自転車で登城しました。陣屋跡は小学校になっていて、正門脇に説明板が立てられているくらいで陣屋の遺構は見られませんが、小学校東辺の陣屋川は水堀の名残と思われ、玄関へと続く陣屋橋が架けられています。小学校の裏山は久美浜城(松倉城)跡で、城山稲荷社が祀られ城山公園として整備されていますが、朝から蒸し暑い上に草木も伸び盛っているため登城口を確認しただけで引き返しました。
ところで、説明板に記述のある神谷太刀宮に社務所として移築された玄関棟や豊岡市立図書館本館前に移築された正門は、てっきり久美浜陣屋の遺構(移築建物)だと思っていたんですが、それぞれ県庁舎の建設時に新たに建てられたものらしく、厳密には県庁の遺構であって陣屋の遺構ではないようです。玄関棟は老朽化により立入禁止になっていましたが、正門は今も豊岡陣屋跡にその豪壮な姿を見ることができます。
…ということで、2か月以上ぶりの城めぐりです。9月になったとはいえまだまだ暑いのでちょこ城(ぴーかるさん拝借します)めぐりですが、目ぼしい遺構はなくても、陣屋川は堀の名残だろうな…とか、あの裏山がかつての詰めの城だな、などと考えつつ歩く(自転車を走らせる)のはやっぱり楽しいですね。
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2024/09/24 07:15
2024/09/23 23:24
けんかはやめて~♪ (2024/09/15 訪問)
伊達政宗だるま「先ほどは不覚をとったが、だるまバーガーは私のものだ!」
直江兼続だるま「いや、それがしのモノでござる!」
だるまバーガー「けんかはやめて~ 二人をとめて~ わたし~のために~あ~らそわないで~♪」
政宗・兼続だるま「勝った方が(おいしく)いただく!(食べる)」
だるまバーガー「ええっ!?」 自分に酔ってる場合じゃない‥
そんなやりとりがあったかどうかは知りませんが、白河小峰城・二ノ丸茶屋でのお昼時の一コマです。お昼はここで軽くいただくことにしました。先ほど豆腐アイスを食べたのですが、城内をくまなく歩いてきたので、お腹が減って来ています。
だるまバーガーと珈琲のセットで900円。なかなかリーズナブルです。
先に売店を見回すと、なかなかオシャレな甲冑だるまを売っています。一つ1870円(税込)、これは二つ買いです!直江兼続だるまと伊達政宗だるまをチョイスしました。先ほどの梁川城に続いてのライバル対決です!
結局どっちが、だるまバーガーをゲットしたのか?それは「しんちゃん」のみが知る所なのです。
※実際に直江兼続と伊達政宗が戦場で戦ったわけではありません。
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2024/09/23 23:21
河崎氏館散策 (2024/09/22 訪問)
稲毛神社に散策ですね。あうんの呼吸です。
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2024/09/23 23:15
2024/09/23 21:01
伊達政宗・千載一遇の好機を生かせず。 (2024/09/16 訪問)
伊達政宗「ここは将来、伊達市になるので梁川城を返してください」
上杉景勝「いやです!」
直江兼続「お断りします!」
‥慶長5年にそんなやり取りがあったかどうかは知りませんが、梁川城の投稿です。
古くは文治5年(1189)に伊達氏によって築城されたという説があるようですが、伊達氏3代・義広か4代・政依(1227~1301)のころの物と見られる遺物が発見されており、かなり昔から伊達氏の居城として機能していたようです。豊臣秀吉による奥州仕置によって伊達氏が岩出山城(宮城県大崎市)に移ると、梁川城は蒲生氏の持城となり、後に上杉景勝の持城となって城代として須田長義が置かれました。
慶長5年の関ヶ原の合戦の東軍勝利に際して旧領の復活を望んだ伊達政宗が梁川城を攻めましたが、結局落とすことが出来ず、引き上げたとのことです。かつて梁川小学校が有った場所が本丸の跡で、周囲より小高い位置にあります。南西にはうっすら、土塁が残っているようにも見えます。また東側には庭園が整備された状態で残り、背後に土塁らしきものが残されています。
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2024/09/23 19:57
天然の要害 腰越城 (2024/09/23 訪問)
東武東上線 小川町駅から歩いて約1時間、バスと徒歩なら30分弱で行ける山城です。
バスで行く場合は、「パトリアおがわ」という公共施設の前で降りると行きやすいと思います。
途中、個性的な店が飲食店などがちらほらあり、興味深いです笑
標高は216m、山道は不安定ですが、案内板があって行きやすいです。進むにつれてロープや手すりが設置されています。
本郭、堅堀など保存状態は悪くない方かもしれません。
頂上には石碑や説明板があり、城の歴史がよく分かるようになっています。
近くに穴八幡古墳、大塚八幡神社、中城跡がありますので寄ってみるのも良いかもしれませんね!
小川町駅近くに「おがわ温泉花和楽の湯」という温泉&宿泊施設がありますので、疲れた体を存分に癒やす事が出来ますので是非!
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2024/09/23 18:55
2024/09/23 18:18
奥州藤原氏の本拠地 柳之御所 (2024/09/23 訪問)
地元紙の記事で『江戸の大名屋敷ー一関藩・仙台藩』という特別展開催中を知り一関を訪問しました。ついでにどちらか館跡に寄りたいと考え、これまで時間をかけて観たことのなかった平泉の「柳之御所史跡公園」に向いました。
遺構は北西から流れる北上川右岸の台地にあります。長さ700m、幅200mの規模で、北東側は北上川、他の三方を幅10m、深さ2~5mの空堀で囲む構造。複数の大型建物や付属建物、井戸、庭園などが発掘されており、当時の館の構造がよく理解できます。
また、義経が籠った高館跡や、三代秀衡が「仏国土」(浄土)の光景をイメージして建立した無量光院跡も近く奥州藤原氏の栄華を感じることができました。
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2024/09/23 15:30
宅地と農地に (2024/09/17 訪問)
高速沿いの交差点に案内板がありますが城域の道路は狭く駐車スペースにも苦労しました。
小さな祠の前に石碑と説明板がありますが遺構はなさそうです。
周囲には民家と農耕地が広がります。
この辺りの地名が古城、当時は広い範囲の方形居館であったとされます。
戦国時代の城主は三好氏家臣の赤沢宗伝でしたが中富川の戦いで討たれてしまいました。
少し東側には3番札所の金泉寺があります。
ここには弁慶の力石と呼ばれる石がありますが源義経が屋島の戦いに向かう際に立ち寄り、その時に弁慶が持ち上げたと云われています。
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2024/09/23 09:26
快適なハイキングコース (2024/02/11 訪問)
撮影したのはもちろん今ではなく今年の2月。残雪が気にならないほど登城路がよく整備されていてハイキングとしてもお勧めの山城。浅井長政が織田に備えて拵えたものの調略によって全く機能しなかった残念なお城でもある。
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2024/09/23 02:19
姫路城~夏の特別公開~ (2024/09/21 訪問)
姫路城、夏の特別公開!普段非公開の「トの櫓・との一門・搦手周辺」を見ることができた!
公開エリア自体はそんなに広くないけど、姫路城の中では珍しい白漆喰ではない「との一門」や普段とは違う角度の大天守・小天守を見上げることができて新鮮だった。
その後、姫路城十景のひとつである名古山へ。これまで南側から見る正面か北に回ったシロトピアからの角度でしか見たことがなかったため、西からの角度はまた違った表情が見られてこちらも新鮮な体験だった。どの角度もかっこいい!
また、少し足を延ばして書寫山 圓教寺へ。展望台からかすかに姫路城を見ることができた。この寺は映画ラストサムライのロケ地にもなっており、観光地化しているものの、山の中にある大きなお堂は荘厳な雰囲気を醸し出していた。こちらも姫路を訪れた際はオススメ。
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2024/09/23 00:15
森山崩れの舞台ではあるが (2024/08/02 訪問)
松平清康が斃れた森山崩れの舞台となったお城であり、松平がここまで来ていたのかと驚かされるが桜井松平信定が新地として拝領し娘婿に織田信光を迎えたという流れで、もともと松平の城だったらしいということを初めて知った。
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2024/09/22 23:57
ライトアップされた現存天守の城 (2024/05/05 訪問)
郷土料理のとうじそばとライトアップ天守を目指して松本へ。
11年ぶりの登城。夜間は本丸内には入れず、内堀越しに天守群観覧。黒い天守がライトアップされると白さが目立ち、昼間とは違う美しさがある。
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2024/09/22 21:56
諏訪氏5代の城 (2024/05/05 訪問)
桑原城から車で10分、山の中腹にある板垣平と呼ばれる館跡へ到着。駐車スペースがあり、ここから歩いて山城中心部へ登る登城道があるが車で進む。細くくねくねした道路を6、7分進むと数台駐車可能なスペースがあり駐車して登城開始。
主郭と東側のはなれ山の間の大きな空堀を右手に見て、平坦な道を進むと金毘羅神社のある三の郭。三の郭からは麓の町並みが望め、板垣平からの登城道はここへつながる。物見岩と呼ばれる巨大な岩のある二の郭を通って主郭へ。主郭までは10分ほどで登城。
下城後、諏訪大社本宮へお詣り。
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2024/09/22 19:07
河越館 (2024/09/14 訪問)
【河越館】
<駐車場他>河越館史跡公園駐車場
<交通手段>車
<見所>館跡
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画(映画:翔んで埼玉か!)の旅1城目。いよいよ関東平野侵攻です。夜中1:00頃に出立、7:00前に到着しました。来てみてなんと開門9:00とな、お家の門扉みたいなのが閉まってる。仕方ないので外側からの撮影のみとなりました。でもなんとか堀や土塁が遠目で見れました。
河越館は平安時代末期に河越氏が築造し河越荘の開発領主として勢力を伸ばしました。河越氏は源頼朝に重用され娘が源義経に嫁ぎますが義経反乱の時に誅殺されます。しかし河越氏は鎌倉時代も有力御家人として仕え、河越館は武蔵国の政庁として機能します。南北朝時代に河越氏は一揆の中心人物となりその後没落します。
<満足度>◆◆◇
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2024/09/22 18:22
難波田城 復元された低地の城 (2024/05/02 訪問)
忍城や騎西城もこのような城だったのではないか?
そう考えつつゴールデンウィークに訪問した埼玉県富士見市の難波田城。
嘗ては蛇行や分岐をして流れていたであろう入間川(現在の荒川)沿岸域の微高地に築かれた城。
鎌倉時代にこの地域を与えられ、その地名を名乗ったと伝わる難波田氏の居城。
戦国期の難波田氏は扇谷上杉氏に仕え、河越夜戦で小田原北条氏に敗れた後は北条氏方の持城となり、秀吉の小田原征伐で廃城に至ります。
現在は、田畑が広がるエリアに追手門から本城(本丸)馬出までの城郭の3割ほどが難波田城公園として整備された城跡。
訪問時、追手門を抜けると左には複雑な形に整えられた堀跡の池。
食違虎口から曲輪3に入ると、中堀の向こうに立派な角馬出。
馬出から宅地化した本城へ抜けられない点はおもしろさに欠けるところで、1度園外に出てから本城跡に僅かに残る土塁へ。
小さな城跡でありながら、資料館と古民家ゾーンも含めると滞在時間は2時間強。
モダンな雰囲気を発しつつも城の要素を持ち合わせた難波田城が、私の城郭巡りの183城目となりました。
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2024/09/22 17:21
追悼!ザ・魔雲天 石巻山城(石巻山) 愛知県豊橋市石巻町 (2024/09/22 訪問)
福島・栃木の4泊5日(車中泊)旅行から帰ってきたら、自室のBDレコーダーが暑さでへばってキン肉マンの録画が出来ていませんでした。あわてて、今回の放送内容をチェックしたら「ザ・魔雲天」回でした。これがキン肉マンやブラックホールの主役回だったらダメージは大きかったところなのですが、魔雲天なので‥まあいいやと思ったのですが、すぐに考えを改めました。
魔雲天は悪魔超人なので、性根は残忍なのですが、実に仲間思いのナイスガイです。今回もリーダー格に返り咲いたバッファローマンに対する悪魔将軍の期待を感じ取り、捨石として最強の敵ストロング・ザ・武道と戦う決意を固めたわけです。
そんな悪魔のクセに立派な魔雲天に対して、まあいいや「魔雲天」だし‥と考えた自分が恥ずいですわ。
そんなわけで(どんなん?)魔雲天ばりに尖んがった山城を追悼の意味を込めて投稿しようと考えた次第です。そんな都合の良い山城有るわけない‥と考えたら、有るじゃないですか!しかもすぐ近くに。これは天慶です。
石巻山は日本のピラミッドとも称されるほどキレイな三角形をした山です。魔雲天も三角形の山に手足が着いたような外見をしているので、追悼の意味としてはうってつけです。南北朝の時代の南朝方の武将・高井主膳正の居城である石巻山城が中腹から山頂付近にかけて築かれており、多数の曲輪が連続して続いています。では早速、追悼登城に出発です!
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