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城好きのメガネ

「中山氏館」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
中山氏館は、武蔵七党の1つで鎌倉時代に中山の地に移り、代々居城とする。戦国時代には、後北条氏・北条氏照の家臣として中山家範が活躍する。中山家範は小田原征伐の際に狩野一庵・近藤助実とともに武蔵・八王子城に籠城する。豊臣方の激しい攻勢により自害する。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR東飯能駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「今井城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
今井城は、舌状台地上に築かれた今井氏の居城とされる。戦国時代には後北条氏の傘下に入る。小田原征伐の際に廃城となる。現在、堀、土塁等が遺されている。※住宅地内にあるため見学の際は注意が必要。

<アクセス>
JR金子駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「藤橋城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
藤橋城は戦国時代には後北条氏・北条氏照の傘下に入ったとされる。小田原征伐に伴い廃城となる。現在、曲輪・土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR河辺駅 徒歩30分

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カズサン

【遠江杉谷城・遠江青田山砦】静岡県掛川市 家康掛川城包囲戦南側の城跡 (2023/08/28 訪問)

 杉谷城と青田山砦は家康が今川氏真の籠る掛川城包囲戦の付城、砦の中で南側を守る城跡に成ります、杉谷城は東名掛川IC開設の工事に伴う東名南側山稜の住宅地商業地開発により消滅しています。

 埋蔵文化財センター企画展、天王山砦、仁藤山砦の見学探訪を終えて、消滅して跡形も無いのですが、城郭放浪記さん杉谷城跡の印マークがグーグルマップに記されて居ましたので、城郭放浪記さんに連れられてポイントに出掛け暫し周辺を眺めてきました。
 
 杉谷城跡の住所:静岡県掛川市杉谷南2丁目8-6のケアホームの辺り(城郭放浪記さんグーグルマップ指図による)
 駐車場:周辺特に無し、指図から南に50m程の杉谷3号公園(さんかく公園)の西路肩土塁下に路駐(交通量少ない)

 杉谷城跡の紹介は埋蔵文化財センターの企画展にも紹介されて居り、参考資料として掲載しました、『歴史群像』4月号、戦国の城連載で【遠江】掛川城攻め付城群が文・監修=加藤理文氏、イラストレーション=香川元太郎氏。2023/2/25開催の掛川市生涯学習センターホール講演「徳川家康の掛川城攻め」加藤理文氏講演レジメ(掛川市HP公開)。
 双方で詳しく発掘調査計測図、発掘調査写真で解説説明されています。

 杉谷城跡は掛川城から南に約2km程の標高約82mの小山頂上部に本丸、北に二の丸、西に三の丸、堀切、竪堀を控え尾根筋との連絡路、退出路、南西約500m程の所に「青田山砦(陣場峠)」を控えて、双方で補完するように連携し南側の高所より今川方は良く見えており、一方が攻められれば応援し、総力戦に成る前には一方は引いて今川方の退却を待ち、無駄な兵力損傷を抑えていたのでは、加藤理文氏の文面で見られます。掛川城包囲戦以後は使用されていない様子で永禄時代の山城遺構が残る城郭とか、しかし開発で消滅していますので、掛川市教育委員会の発掘調査資料が杉谷城の姿をとどめています。

 青田山砦(陣場峠)跡の住所:静岡県掛川市杉谷734(グーグルマップ史跡マーク跡地)
 杉谷地区に在る掛川東病院の進入路の南、約100m程の山部に在ります、よく掛川ICを使っており掛川ICから出るときに山稜部が城の遺構らしいかな?と思っておりましたが杉谷城、青田山砦の残りだったのかな?と思ってる処です。

 路駐して、杉谷城跡のポイントを眺めて、遺構を知らしめるものは無し、ピントに在るケアハウスを確認し、周囲を眺め確認するが周りは住宅地、民家、マンション、商業地で掛川城を望むが建物に阻まれて確認できない、杉谷の名前は住所の杉谷南2丁目、南に登ってさんかく公園の杉谷3号公園看板は(さんかく公園)、掛川ICに繋がってる道に出てグーグルマップの史跡マークに載ってる「青田山砦陣場峠」を見上げる距離400m程、青田山砦は更に南側にまわって茶畑からアタックすれば行けそうですが、地図を見ただけです、詳しい情報も無いので今回は遠くから眺めるだけでした。

 杉谷城の展示パネル(埋蔵文化財センター)を先に掲載しましたが、今回の参考に再掲載します。
 


 

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イオ

堅田城・堅田陣屋(滋賀県大津市本堅田) (2023/07/15 訪問)

堅田城(城びと未登録)は、下鴨社と延暦寺の庇護の下に琵琶湖水運の権益により繁栄した自治都市・堅田が城塞化した城で、延暦寺との関係から志賀の陣では朝倉方につくも、織田方に内応したことにより朝倉方の攻撃を受け、前波景当や坂井政尚らが討死する激戦が繰り広げられました。その後、羽柴秀吉が琵琶湖水運の拠点を大津に移したことにより堅田は衰退しましたが、江戸中期に下野国佐野から入封した堀田正高が堅田陣屋(城びと未登録)を構え、水運の権益を再び認められて六代・約130年にわたり堅田を治めました。江戸後期に堀田氏が下野国佐野に戻ると天領となり堅田陣屋は廃されています。

堅田大宮と呼ばれる伊豆神社が堅田城の推定地とされますが、石碑も説明板もなく明瞭な遺構は見られません。ただ、伊豆神社を囲む堀は堅田陣屋があった頃には存在していたもので、堅田城の堀の名残と思われます。

堅田陣屋は伊豆神社の北東部に位置し、跡地は宅地になっていますが、表御門の位置に説明板が立てられ、説明板の南側には舟入が湖畔まで続いています。湖畔に出ると湖岸沿いに陣屋の石垣が遺っていました。南側には琵琶湖の名勝として名高い浮御堂も望めます。陣屋跡にある料理店の駐車場の境界に並べられた石材は陣屋の石垣石でしょうか。

この日はニッポン城めぐりのイベント「元亀争乱450年」にあわせて訪れました。堅田城と堅田陣屋に登城するには伊豆神社東隣の参拝者駐車場が最寄りですが、カーナビにとても進めそうにない細い道を案内され、伊豆神社の手前の堅田観光駐車場(無料)から登城しました(徒歩2分)。
 

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にのまる

⑦尾廻門・和党門 (2023/06/24 訪問)

修復された本丸石垣を鑑賞しながら帯曲輪をひとまわりし、矢之門から退出、搦手門(尾廻門)へまわりました。
緑に覆われひっそりとした枡形はここまで見てきた高石垣とは一変、秘密の抜け道のような空気が漂っています。
歴史館のジオラマ解説に「外から見ると二階建てに見えるが、二階のように見える部分は板塀」とあり、寄せ手を撃退するくふうがちりばめられているようでした。
門を抜けると、約2時間前に蛇頭堀の外から渡りかけた土橋にようやくたどり着きました。ここから城外に出てしまってはまたぐるっと一周しなければなりませんので戻ります。
(堀の近くにお住まいの方は駅へ出るのにこの土橋を通って城内を抜けていらっしゃるのではないかしら?)

搦手門の近くには和党門があります。ジオラマの説明には「花畠」ともあり、平場になっているところがお花畑だったのかなー?という感じもしましたが、和党門は未だ修復の途次にあるようでした。立ち入り禁止ギリギリのところから石垣を見上げると草に覆われた天面は崩れたままのように見えます。土塁に見えたところにも石が覗いており、復活までの長い道のりを思いました。

まだ本丸へ行っていないので藤門へ向かいます。
長寿院から移された薩摩藩士の墓所、鎮護神山へ行くのを失念してしまったのですが、おつかいをお願いしたピクミンがポストカードを持って帰ってきてくれました。次回は真っ先に行こう。

<つづく>

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スティクラ

序盤が勝負の有子山城へ (2023/09/02 訪問)

出石城を見学した後に有子山城へ。
熊注意の看板があったため、ラジオをつけながら登山開始。

とにかく最初の登りがきつい。平坦なところがなく、登り続ける。
直線的な登りのため、先がある程度まで見えるため、精神的にやられる。
滑りやすい箇所もあり、濡れている状態ではかなり危険と感じた。

最後までこの登るが続くかと思ったが、きついのは半分くらい。
残りは比較的平坦なところが多く、一安心。
途中、道が分かれ石切り場へ。
頂上が近くなると道が開けて、曲輪や石垣を見ることができ、
頂上につくと本丸跡は眺めも良く、当日は曇りで風があったので心地よかった。

時間は往復で1時間45分。
晴天でなく、曇りでよかった。

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能登守利信

小樽市 (2019/06/19 訪問)

小樽築港駅からバスで攻城。 こおろぎ公園バス停から住宅街をまっすぐ抜けると、坂道になっている望洋東公園の入口に到着。 坂道を降りてチャシ跡に降ります。 まあ、お城と違い交流の場と考えれば当然なことながら、お城的遺構等はありません。 看板も以前は有ったそうですが現在は無いらしく見つかりませんでした。

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スティクラ

出石城見学後に出石皿そば巡り (2023/09/02 訪問)

有子山城とセットで訪城。
元々有子山城の郭と館の部分を出石城としたようで、天守などはないが、石垣や西の郭など見どころは多い。
本丸跡に向う時に有子山稲荷神社の37基の鳥居がありくぐりながら登るのは風情がある。
町並みも素晴らしく、歴史好きな人には、沢庵和尚のお寺や桂小五郎が一時潜伏していた石碑があるので、時間を取って散策するのも楽しいはず。
出石城見学後に皿そばをいただき帰路へ。

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しんしんちゃん

遺構の全容はつかめず。土塁、郭、堀が残る。 (2023/05/03 訪問)

多功城は石橋ゴルフガーデン北の丘地に築かれていて
南のゴルフガーデン入口あたりに石碑があります。
北のあぜ道沿いに進んでいくと、どこからでも城址に
取りつくことが出来るので、ちょっとお邪魔させて
いただきました。東側は土塁が残っていて比較的歩きやすいのですが
西側に移動するに従い、藪が深くなっていくのですが
堀切、郭があります。ここはさっくり内容を確認してあぜ道側へ脱出。

城郭大系によると多功城は宇都宮城の支城として築かれ、
周囲に二重、三重の堀を持つ堅城とされています。
一部遺構は消滅しましたが、北西隅に深さ5~6m、幅13~14mの
大きな堀が存在したと有ります。
戦国期は上三川城同様、上杉氏や北条氏の侵攻をよく防ぎ
宇都宮氏の南方の拠点として機能しましたが、慶長2年(1597)
宇都宮氏の没落と共に廃城になったとされています。


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しんしんちゃん

土塁が見事。さらに周囲を堀が囲んでいる。 (2023/05/03 訪問)

赤見城は現在、赤見城保育園になっていて、東西北の三方にかなり
高い土塁が残っており、東側を除く三方を水堀で囲ってあり
堀の内側、本丸の北側と南側にも郭があった様子。
西側は土塁が二重になっていて、なかなか見ごたえがあります。
安元元年、藤姓足利氏の足利俊綱によって築城が開始され
治承2年(1178)俊綱の居城になったとされています。
俊綱は治承5年、志田先生義広が源頼朝に背いて挙兵した際
義広に同調して戦い敗れ、逃亡の途中、家臣の桐生六郎に殺された
とあります。赤見城は戦国期は佐野氏の支城として足利方面の押えとして
機能したとされています。

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前ちゃん

電波(雷波)少年の特番タイトルにもなった (2023/09/03 訪問)

山本勘助作の小諸城。

雷電為右衛門の故郷でもあったのね

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しんしんちゃん

阿曾沼城  佐野市浅沼町 (2023/05/03 訪問)

阿曾沼城は佐野氏の一族、阿曾沼氏が寿永年間に築いた館跡で
いまでは浅沼八幡宮が建っています。社の裏手に立派な堀があり
土塁も一部残っているようです。
境内の案内板には阿曾沼四郎廣綱は寿永3年(1184)8月8日に源頼朝、北条義時、
足利蔵人吉兼とともに平氏追討に出陣したと有ります。
つまりは平氏追討軍の主力部隊に組み込まれていたということですね。
隊の中でも序列16番目ということで、結城朝光(13)比企能員(15)の序列
らしいので、結構上の方らしいです。(比企が意外と低い)

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前ちゃん

内陸の五稜郭 (2023/09/03 訪問)

休みと臨時収入ができたので、計画。新大阪→東京→佐久平(東海道、北陸新幹線)→龍岡城駅へ(JR小梅線)

まず蕃松寺へ向かい、依田氏の墓まいりの後、田口城展望台へ。写真が撮れて満足

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高田城 (2023/08/27 訪問)

続日本百名城

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春日山城 (2023/08/27 訪問)

日本百名城

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しんしんちゃん

かつての唐沢城の支城。現状ご住居。 (2023/05/03 訪問)

椿田城は渡良瀬川付近の水田地帯の中にある民家周辺とされていて
民家の中に城址碑があります。良く見ると石碑と門までありますね。
川島氏居館の時は訪問確認のタイミングが合わず退散しましたが
ちょうど、そこに住まわれている方が見えられたので、お願いして
中を見させていただきました。中には赤松福地家守護神
「椿田十一面観音福地堂」が鎮座しています。史跡と庭がくっついて
いる感じですね。
城主の福地氏は丹波国の出身で福地仲久のときに唐沢山城城主佐野盛綱に仕え
当地に居住したと有ります。永禄3年には唐沢城の支城として
川越・忍・館林の押えとして築かれたと有ります。ご住居の周囲を
巡る水濠がかつての内堀の名残と思われます。

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向羽黒山城 (2023/08/27 訪問)

続日本百名城

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会津若松城 (2023/08/26 訪問)

日本百名城

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米沢城 (2023/08/26 訪問)

続日本百名城

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