板西城から県道12に出て西に進みます。
南に入りしばらく進んだところに石碑が立つのみ。
遺構はなさそうです。
城跡には民家が建ち、水田に囲まれていました。
榛谷越後守の居城でしたが中富川の戦いで長宗我部氏と戦って討死しました。
12号線の北側には4番札所の大日寺、5番札所の地蔵寺があります。
大日寺は徳島藩主の蜂須賀家の尊信が深い寺。
地蔵寺は五百羅漢堂があります。行ってませんが。
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2024/10/02 07:12
西分城 徳島県板野郡上板町 (2024/09/16 訪問)
板西城から県道12に出て西に進みます。
南に入りしばらく進んだところに石碑が立つのみ。
遺構はなさそうです。
城跡には民家が建ち、水田に囲まれていました。
榛谷越後守の居城でしたが中富川の戦いで長宗我部氏と戦って討死しました。
12号線の北側には4番札所の大日寺、5番札所の地蔵寺があります。
大日寺は徳島藩主の蜂須賀家の尊信が深い寺。
地蔵寺は五百羅漢堂があります。行ってませんが。
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2024/09/23 15:30
宅地と農地に (2024/09/17 訪問)
高速沿いの交差点に案内板がありますが城域の道路は狭く駐車スペースにも苦労しました。
小さな祠の前に石碑と説明板がありますが遺構はなさそうです。
周囲には民家と農耕地が広がります。
この辺りの地名が古城、当時は広い範囲の方形居館であったとされます。
戦国時代の城主は三好氏家臣の赤沢宗伝でしたが中富川の戦いで討たれてしまいました。
少し東側には3番札所の金泉寺があります。
ここには弁慶の力石と呼ばれる石がありますが源義経が屋島の戦いに向かう際に立ち寄り、その時に弁慶が持ち上げたと云われています。
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2023/08/24 20:55
昔は広かったのよ。 (2023/08/13 訪問)
案内板に寄れば平安時代末期、藤原師光の六男、近藤六親家が
築城したとあります。
戦国期は赤沢氏の城となり、勝瑞城の西の守りとして重要な
位地を占めるが、天正10年(1582)中富川の合戦で長宗我部元親の
兵火にかかり、勝瑞城とともに落城したと有ります。
城郭放浪記さん、余湖クンさんのサイトの情報も合わせて
見てみると、古城、城ノ内、城ノ西、南屋敷といった地名が残り
案内板の南側が古城(本城)で宅地と水田になり
北西の水田や宅地が北城、その南が城ノ西、古城から南側へ通り一つ
隔てたあたりが新城で南屋敷と呼ばれるエリアの東端に位置します。
かつては、この周辺の集落一帯を覆うだけの城域があったと推測します。
参考にさせていただいたサイトの方々に、お礼申し上げます。
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2022/08/19 07:15
2022夏の青春18キップ遠征7日目:板西城 (2022/07/26 訪問)
引田城からの転戦です。説明板前(34.132675、134.450770)に路駐しました。狭い場所なので速攻で撤退です。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初期に近藤六親家によって築かれたと云われています。 親家は藤原師光の六男で、屋島合戦に向かう源義経の道案内をした人物だそうです。
親家には子がなく、赤沢兵庫頭宗定を養子に迎えて城を譲り新居見城へ移りますが、宗定にも子がなく小笠原氏の一族が赤沢家を継いだといいます。
1582年(天正10年)三好氏と長宗我部氏による中富川の合戦では、赤沢信濃守宗伝が三好方の先陣を務めたが、多勢に無勢で奮戦むなしく敗れました。
赤沢信濃守宗伝は始め小笠原宗伝と名乗り、三好義賢の姪婿といいます。
現在は宅地や田畑に埋もれ遺構はなく、説明板と石碑の写真を撮ったら速攻で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=勝瑞城に向かいます。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 近藤六親家 |
築城年 | 平安時代後期 |
主な城主 | 近藤氏、赤沢氏 |
遺構 | 消滅 |
指定文化財 | 町史跡(板西城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 徳島県板野郡板野町古城若宮 |
問い合わせ先 | 板野町教育委員会 |
問い合わせ先電話番号 | 088-672-0136 |