みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

来迎寺 (2023/08/26 訪問)

 来迎寺に石碑と説明板があります。
河内松原駅よりバスに乗り岡バス停下車、徒歩2~3分です。

+ 続きを読む

にのまる

① 外堀から攻める。 (2023/06/24 訪問)

白河小峰城へは震災後に二度訪れましたが、いずれの時も石垣修復中で見学できるところは限られていました。
今回は、知人にいただいた手描きマップを手に、11年ぶりに一般開放となったエリアのほか、蛇尾の石垣まで行ってみるのが目的です。

新白河で新幹線を降り、乗り換え時間5分のダッシュにも成功して白河駅に着いたのが10時少し前。白河駅は大正時代につくられたレトロな駅舎で駅カフェも併設。新しくて真っ白な「しらかわ観光ステーション」もとても素敵です。

まず向かったのは城址と反対側のイベント広場。
駅のホーム越しに三重櫓が見え、この眺めだけでも来てよかったなぁと気持ちが満たされます。
広場の奥には道場門遺構(外堀石垣)があります。小径や門の礎石も復元整備され見ごたえ充分。芝生の手入れをされていた方に「(機械の音が)うるさくてすみません」と言われたので「そんなことないです、遠くから来たのでめっちゃ感動しています!」と思わず熱く喋ってしまいました。(引かれてしまったかもしれない^^;)

一旦線路を渡り、「立教館」跡へ。説明板を読むとかなり規模の大きな藩校だったようです。石碑の後ろに炮術・弓術の的場跡の土塁がわずかに残されています。

このまま城址へ向かおうかと思ったのですが、旧奥州街道に鉤型が残っているというので、先に見に行くことにしました。何の変哲もない交差点のようでも、城下の町割りがそのまま現代に引き継がれて生活道路となっていると思うと、ただのカーブがものすごく貴重な遺産に見えてきて感動すら覚えます。

<つづく>

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

鳥坂城(とっさかじょう) 徳島県名西郡石井町石井 (2023/08/13 訪問)

鳥坂城は標高75mの茶臼山に築かれており、下からは遊歩道が
続いています。
近くにある阿波国分尼寺の駐車場が利用でき、そこから
徒歩で5分ほどで登城道にたどり着きます。
主郭周辺はヤブ化が進んでいますので
そこから直接、山頂の郭にたどり着きました。
主郭周辺には幾重にも帯郭が円錐状に続いていて
ヤブ化した状況でも、それが確認することができます。
北側帯郭の下層部の先に畝状竪堀があるようですが、未確認です。
周辺にある石積は後世のものと思われますが、
戦国期に砦として再利用されたのかは不明です。

伝承としては文治2年(1186)に佐々木経高によって築かれたと有ります。
阿波・淡路・土佐の守護になった佐々木氏が阿波国の拠点として築いたが
承久の乱の後は、小笠原長清が阿波の守護になり、長清は佐々木氏の籠る
鳥坂城を攻めて、佐々木氏を排除したとあります。

阿波国分尼寺跡
徳島県名西郡石井町
34°04'04.9"N 134°27'55.9"E
34.068020, 134.465531

鳥坂城跡 登城口
徳島県名西郡石井町石井尼寺268−4
34°04'08.2"N 134°27'48.1"E
34.068949, 134.463357

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

海岸に降りてみよう! (2023/08/12 訪問)

国の史跡、舞子台場は文久3年(1863)徳川家茂の大阪湾の
海上防衛視察の際に、砲台拡充の幕命を受けた
明石城主、松平慶憲によって築造されたそうです。
当時の最新技術を使って作られているようで、
対岸の松帆台場と相まって、有事の際にはそれなりの
効果をあげたものと推測します。
史跡は一部、公開がされており、明石海峡大橋が良く見えます。
ちょっと東に回って海岸に降りてみると
台場の石積が良く見えます。アーチ状を描きながら各所に
折れ曲がりのある形状は敵兵の上陸に備えたものでしょうか。
それらの独自の形状も下から見ると良くわかります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

十郎

雰囲気のある石垣の城 (2023/05/01 訪問)

唐津城の寺沢広高が改修して石垣のある近世城郭に。
白山山頂だったからか保存状態が良く、三の丸櫓台石垣や本丸下の曲輪の石垣、本丸虎口など見どころ満載の石垣の城でした。

+ 続きを読む

十郎

城の起源か、環濠集落 (2023/05/04 訪問)

弥生時代に形成された集落を壕(堀)で囲む環濠集落。
集落内でも堀や土塁で仕切られたり、物見櫓や逆茂木があったり。
攻められない、守りの考え方。初期の城なんでしょうねー

広かったー

+ 続きを読む

しんしんちゃん

ああ とりーで (2033/08/13 訪問)

撫養城の櫓台跡にたつトリーデなるとは
かつては鳥居記念館と呼ばれていましたが、2016年に
地域の交流施設としてリニューアルオープンしました。
以前訪問した時は、閉まっていたので、今回
入館できたのはラッキーでしたね。
なかなか大きな建物ですが、内部は使われていない
空間が多く、現状展望台としての役割が大きいですね。
眺望はなかなかのもので、淡路から阿波一帯が良く
見渡せます。地の利に優れているため、時の権力者が
真っ先に手に入れたがったのは当然と言えるでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

トリーデ 入れるじゃん (2023/08/13 訪問)

撫養城は阿波と淡路の押えともいえる標高62mの
妙見山に築かれています。
古くから足利将軍家ゆかりの地で城塞が築かれていたようで、
城郭体系によると、「多聞院日記」永正3年の頁に
「三好之長の執事に撫養掃部助」という人物がおり、この人物が
撫養城主、小笠原源氏である撫養殿のことを指すようです。
この地域の支配者も三好氏、長宗我部氏、豊臣家臣蜂須賀氏と
移り変わり、蜂須賀氏の時代に阿波九城として益田内膳正忠が兵300を預かり
守将を務めました。
かつての鳥居記念館が「トリーデなると」としてかつての櫓台に立ち
妙見神社が本丸跡とされ、石垣と土塁が残っています。
神社裏側の石垣が遺稿らしく和泉砂岩を加工した切石を組み合わせているようです。
城主が気持ちよさそうに寝ているので参拝は遠くから行います。
まったく動じる気配がない‥。
現状は城址公園として地域の方々によって整備されているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

残された土塁だけでもかつての規模を推測できる。 (2023/08/13 訪問)

養宜館は淡路国守護細川氏の居館があったとされています。
暦応3年(1340)細川初代師氏が淡路に入り、
永正16年(1519)7代尚春が阿波で三好氏に謀殺されるまで
機能していたということです。
館の規模は南北250m、東西120mとのことで
四方に土塁と堀を巡らした、長方形の形状をしていたそうです。
明治維新後、ジワジワと遺構の破壊が進みましたが、
周囲に残っている土塁だけでも、なかなかの規模のようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

炬口台場  洲本市炬口 (2023/08/12 訪問)

炬口台場は淡路島の洲本市炬口にある
徳島藩家老職、洲本城代稲田氏により築かれた台場です。
稲田氏は徳島藩主と折り合い悪かったようで、しかも
稲田家中での分裂もあり、淡路が兵庫県に
属しているのは幕末からの因縁が関係しているようです。
周囲は宅地化が進み遺構に迫ってきています。
台場周辺には石垣や土盛りが残っているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

穴太積のかつての遺構は失われ。残念としか言いようがない。 (2023/08/12 訪問)

叶堂城は南あわじ市松帆の三原川沿いにある、松帆山感応寺が
所在地になっています。
慶長6年(1601)豊臣家直轄の代官石川紀伊守が感応寺を北の松原に移転させ
その跡地に築城を開始しました。
三原川に面した石垣は加藤嘉昭の居城であった志知城の石垣を再利用したものと
されています。資料によると慶長元年(1596)の大地震によって大日川の船の通行が
困難になり志知城に代わる水軍基地として建設されたとあります。
その後、紀伊守は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、廃城となった叶堂城に
感応堂が戻されました。
昭和50年代 三原川の拡幅計画により、感応寺の移転計画が持ち上がりました。
史跡保存と工事との軋轢の中、石垣の移築保存の声もあがりましたが
調査と並行しながら感応寺は川沿いの上流400mへ移築され
石垣は一部の復元にとどまり、記念碑がたてられました。
昭和55年度の調査は4箇所のトレンチを設け行われましたが、現存遺構は石垣のみとの
結論に至りました。昭和58年度の調査では、かつての堀を埋めて
石垣が築かれていることも判明、縄文時代の土器なども出土しています。
近世から近代に手を加えられた箇所も多かったようですが、
川沿いの石積は戦国期の物だったようです。
石の風化が激しく、昭和の移転後も再利用はされなかったのですが
残念としか言いようがありません。

次は移築前の場所も訪れてみたいです。なにか痕跡があるかもしれません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

誤射とはいえ命中させたのはすごいぞ。 (2023/08/12 訪問)

松帆台場は安政5年(1858)に江戸幕府14代家茂の命により、
徳島藩によって工事が始まり、文久元年(1861)竣工しました。
明石海峡対岸の舞子台場と黒船を挟み撃ちにするのが目的でしたが
本来の目的に使用される事はなく
文久3年(1863)7月に幕府の3本マストの軍艦朝陽丸(オランダより購入)
を誤って砲撃、柁付近を破壊しています。
砲台指令の長坂三知は切腹していますが、良く考えると
「勿体ない!」当時の幕府で航行中の艦船に砲弾を当てられる人材は
貴重だと思いますよ。そもそも攘夷だ開国だと判断がブレブレだった
幕府に責任があると思います。
うん、三知氏は悪くない!(本当か?)

かつては13門の大砲が真北に砲口を向けていたそうです。
現在は「ゆうなぎ荘」の敷地になっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

②下調べなしで行っても楽しくお散歩できるやさしいお城でした。 (2023/06/23 訪問)

盛岡城見学のあと、東北本線で花巻に移動しました。
2010年にお買い物をした懐かしのイトーヨーカドーを左に見て、早坂御門跡から坂を登ります。
左手の石段を登ると西御門が見えました。手抜かりのない正門復元を目指したことが伝わってくる本格的な構えです。(そう感じた理由は後でわかりました。)
門を潜ると土塁の配された本丸。菱櫓からの眺めもよく、御台所前御門の枡形がとてもいい感じです。説明板の古図には天主台の文字もあり、天守があったという記録はないようですが格式高い建物が映えそうな雰囲気でした。
御囲穀御蔵前御堀跡、鐘撞堂前御堀を越えると花巻小学校校庭と武徳殿のある二の丸です。東御門付近の土塁、中御門跡など確認し、見学のメインはこのあたりまでかなと思ったのですが、せっかくなので少し離れたところの馬場口御門、円城寺門まで行ってみることにしました。
焔硝蔵前の虎口の雰囲気の残る門跡。ここが東御門で、通りに出ると臼堀跡、その先に馬場口御門がありました。
下調べなしで来たにも関わらずここまでスイスイとチェックポイントを見逃さずにまわれたのは遺構のないところにも立ててくださっている標柱のおかげです。ありがたいです。
円城寺門は馬場口御門から少し進んだ鳥谷崎神社社務所前にありました。
神社にお寺の門があるのは不思議な感じもしましたが、円城寺門は花巻城の搦手門で、元々この近くに円城寺というお寺があり、その近くの坂に建てられたのでそう呼ばれたそうです。明治4年の城郭取り壊しの際に個人に払い下げられてその方のお宅の門となり、約60年後に別の人の手に渡って鳥谷崎神社の境内に移築、戦中戦後の荒廃でほぼ柱だけの状態になってしまったものが復元され、現在の位置に据えられたということでした。(現地説明板より。)
ぽかんと口を開けたかわいらしいコアラのような門にそんな歴史があったなんて。お城の歴史はどのような形であっても大切に思う人がいたからこそ未来へと受け継がれていくのだと思った次第です。
そして門の内側にまわってみた時に、あっ、これだ!とピンときました。最初に見た本丸の西御門によく似ています。西御門は復元の際にこの円城寺門を参考にしたのではないかなぁ。
ここまで来たら円城寺門跡(元々あった場所)まで行ってみます。見晴らしのよい崖の上で、円城寺坂も健在。門の向きも古図に描かれていたので、コアラさんを脳内で元の場所に戻してみました。
崖の下の広場には古図通りの観音堂もありそうです。これは町なか探検をしたら楽しそうじゃないですか?
ということでそのまま歩いてみることにしました。
重ね地図(これが本当にありがたかったです!)にある上御堀に沿って市役所方面に向かいます。右手に崖のある何でもないけれど高低差のある道路が堀跡の空気を漂わせています。間もなく時鐘が見えてきて市役所入口付近に到着。梯郭式縄張の南の隅にあたるこの場所に大手門の碑がありました。周辺の道路もあまり大きくは改変されていないようです。
時鐘は盛岡城の鐘として鋳造されたものが“小さかった”ために花巻城に移されたのだそうです。
濁り堀跡、城内藩学揆奮場跡等の標柱を確認しながら花巻小学校まで戻ってきました。中御門は古図にも櫓門が描かれていますが、今でも狭い道路に枡形の面影があって感動!スピードを落とした車が曲がって入ってくる様子は結構好きな光景です。
御役屋跡、鍵御堀跡、長屋前御門跡と確認しながら戻っていると「花巻城跡(鳥谷ケ崎城跡)」の石碑がありました。
スタート地点の早坂御門に戻って見学終了、花巻駅に戻りました。駅は町の玄関口というイメージがあるのですが、ここは町の後ろに駅がある、という印象でした。
約2時間の花巻散歩は小さな町に城の痕跡をさがす、ちょっと大人の城散歩でした。(本人はちょっとどころではなくだいぶ大人ですが。)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

戦国の習いとはいえ長宗我部氏もエグい。 (2023/08/14 訪問)

牛岐城は現在牛岐城址公園になっていますが、遺構の大半は
開発によって消滅しています。
石垣の一部が牛岐城址館の中に保存されていて、
公園の管理人に頼むと中を見学させてもらえます。
牛岐領には観応2年に足利義詮の家臣安宅氏が入りましたが
南朝方に与したが破れ、阿波守護細川頼之家臣、新開氏が
牛岐に入ったと伝わります。後に長宗我部氏の軍門に下りますが、
このころには牛岐城の記述がみられます。土佐物語にも牛岐城の
記述が見られるようです。長宗我部氏は自らの軍門に下り、従軍していた
武将にも信頼を置かなかったらしく、新開道善入道は丈六寺へおびき出され
謀殺され、今でも血天井が残っています。
一宮城主、一宮成助も翌11月7日に夷山城で弟、一宮主計頭・家臣星合六之進と
共に謀殺されています。道善嫡子式部少輔、道善甥の新開右近、桑野河内守、野田采女正、
河内駿河守も相次いで殺されています。
しかし天正13年、豊臣軍による四国侵攻で長宗我部氏の勢力は牛岐城を追われ土佐へ
退いていきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

阿波公方(平島公方)墓所 (2023/08/14 訪問)

徳島県阿南市那賀川町の西光寺に阿波公方・川島公方家の
墓所があります。囲いと門付きの墓所には初代川島公方
足利義冬公の墓があります。
そして義冬の子で14代将軍となった悲運の人物
足利義栄公の墓もあります。
将軍でありながら京に入ることができず、等持院に唯一
木造が無いお人であります。
細川氏、三好氏、長宗我部氏にいたるまで公方家の権威には
敬意を払っては来たのですが、徳島藩主の蜂須賀氏は
露骨な嫌がらせ(いじめに近い)を行ってきています。
禄高を一挙に百石内外に削り、公方四代目の義次を平島又八郎と
名乗らせるなど目に余るものがあります。
徳川将軍家の時代では足利氏の権威というのは邪魔な
存在だったのかもしれません。
京都に移ってからも冷たくあしらわれ
流浪同然の暮らしだったというので、正直残念な話だと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんしんちゃん

公方一族の栄枯盛衰 (2023/08/14 訪問)

平島館は室町時代11代将軍足利義澄の次男、義維(後の義冬)
が阿波守護職、細川持隆に招かれ天文三年(1534)に当地に
入って以来250年間、平島公方の居館でありました。
文化2年(1805)徳島藩主蜂須賀氏の陰湿かつ執拗な嫌がらせに
ついに耐え兼ね、平島公方家は紀州へ去り、その後、京都に
帰還したのですが、誰も暖かく迎えてくれず、流浪同然の
暮らしだったと伝わります。
平島公方が平島を退去した後、居館は破壊され、玄関・書院は
小松島市地蔵寺に移築、花垣門は阿南市吉祥寺に移築され
往時をしのばせます。那須川町赤池西光寺には公方一族の
墓所があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

tp.etsu

お堀にかかる橋… (2023/06/23 訪問)

お仕事の間に散策。
有料公園の中にあるので、とても綺麗に整備されてました!

+ 続きを読む

tp.etsu

雪の中… (2023/02/10 訪問)

寒かった…。
お仕事の都合で、夜しか行けず。
でもキレイ(-ω☆)

+ 続きを読む

しんしんちゃん

城主も城址も散々である。 (2023/08/14 訪問)

津田城は元八幡神社があったという標高87mの津田山に
あったとされています。
主郭部の北側は失われているようで、ロープが張っていない箇所で
崖になっている箇所もあります。近づかないほうが良いでしょう。
下側には郭が残っています。
城主桑村隼人亮は日奉氏の家系で、鎌倉時代の井戸城主薬師寺政村の
後裔です。三好義賢のために兵器を堺で買ったが
帰途、淡路の生石崎沖で海賊に襲われ戦死したと伝わります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

蜂須賀家政生誕地 (2023/07/22 訪問)

【宮後城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.342515, 136.884938>ポイントの住宅予定地の空き地道路脇に停車しました。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾4城目。宮後城の築城年は定かではありませんが応永年間(1394~ 1428年)には安井氏が居城していたとされます。戦国時代には安井重継が居城しており、重継の姉の安井御前は蜂須賀正利(蜂須賀正勝の父)に嫁いで蜂須賀城に居城していました。蜂須賀城は織田信秀との対立により領地・城を奪われ夫と夫の子正勝と共に宮後城に移り住みます。蜂須賀家政はこの地で生誕したとされます。城主の安井重継は蜂須賀正勝に家督を譲り安井氏は蜂須賀家に吸収されます。ちなみに安井重継の長男長吉は妻方の浅野長勝(秀吉の妻おねの養父)に養子に出されて家督を継いで浅野長政となります。木下秀吉と蜂須賀小六正勝との出会いは妻おねの縁故だった説を私も思いました。
 現在城びとポイントの場所は住宅建設中で城跡碑も説明板もありませんでした。道路を隔てた北側の蜂須賀家政生誕地碑を撮影して終了した。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

ページ184