富山城は北は神通川に接し、かつては本丸を中心に、西に西之丸、東に東出丸、南に二の丸
そして北側を除く三方を取り囲むように三之丸が配されていましたが、今では本丸と二の丸が
城址公園と整備され、それ以外の郭は市街地となっています。本丸には模擬天守である
郷土博物館が置かれ、南側には堀が配されています。
千歳御門の両側には石垣が建ちますが、南側は平成の時代に築かれたもののようです。
富山城は天文12年(1543)この地方で勢力を持っていた神保長職が家臣の水越勝重に命じて築かせた
とされています。(さらに古いとする説もあり)永禄3年(1560)に椎名氏を支援する上杉謙信に
攻められ富山城に火をかけ逃亡、上杉氏に降伏するも長職は富山城を失います。
後に息子の長住が織田信長の支援で河田長親、椎名小四郎ら上杉氏の越中勢を退け、大勝城、富山城を
奪い返します。しかし長住は小島職鎮、唐人親広らに城を奪われ失脚したものと思われます。
その後、織田勢により富山城は奪還され、佐々成政が城主となり、大規模な改修が行われたそうです。
関ヶ原合戦後は前田利長の隠居城として大規模な工事が行われますが、慶長14年(1609)建物の主要部
をことごとく消失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が入ったとのことです。
その後は加賀藩3代前田利常が次男、利次に10万石を与えて分家とし、富山藩が成立。富山城を
居城としたということです。
+ 続きを読む