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しんしんちゃん

白亜の模擬天守がそびえたつ。 (2021/11/18 訪問)

富山城は北は神通川に接し、かつては本丸を中心に、西に西之丸、東に東出丸、南に二の丸
そして北側を除く三方を取り囲むように三之丸が配されていましたが、今では本丸と二の丸が
城址公園と整備され、それ以外の郭は市街地となっています。本丸には模擬天守である
郷土博物館が置かれ、南側には堀が配されています。
千歳御門の両側には石垣が建ちますが、南側は平成の時代に築かれたもののようです。
富山城は天文12年(1543)この地方で勢力を持っていた神保長職が家臣の水越勝重に命じて築かせた
とされています。(さらに古いとする説もあり)永禄3年(1560)に椎名氏を支援する上杉謙信に
攻められ富山城に火をかけ逃亡、上杉氏に降伏するも長職は富山城を失います。
後に息子の長住が織田信長の支援で河田長親、椎名小四郎ら上杉氏の越中勢を退け、大勝城、富山城を
奪い返します。しかし長住は小島職鎮、唐人親広らに城を奪われ失脚したものと思われます。
その後、織田勢により富山城は奪還され、佐々成政が城主となり、大規模な改修が行われたそうです。
関ヶ原合戦後は前田利長の隠居城として大規模な工事が行われますが、慶長14年(1609)建物の主要部
をことごとく消失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が入ったとのことです。
その後は加賀藩3代前田利常が次男、利次に10万石を与えて分家とし、富山藩が成立。富山城を
居城としたということです。

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しんしんちゃん

宗守城(館) 富山県南砺市宗守 (2021/10/18 訪問)

宗守城の本丸跡には神明社が建ち、周囲を土塁が囲みます。
かつては北側にも郭が伸びていたそうで、周囲も堀で囲まれていたと考えられています。
永正年間(1504~1520)関東管領上杉顕貞の弟、越後国守護上杉房能の家臣、小林壱岐守(則行)が
この地に城を築き、山田荘を治めたと有ります。永正4年(1507)8月7日、房能が越後守護代
長尾為景に攻められ敗死し、宗守城主は越後国へ帰還し、宗守城は廃城になったとされます。

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しんしんちゃん

本丸背後の土塁は見ごたえ十分。(登れます) (2021/11/18 訪問)

井波城の前身は一向一揆の拠点であった瑞泉寺で、佐々成政に攻め落とされた後、
成政家臣前野小兵衛が入って城郭として整備されたそうです。
阿弥陀堂跡が本丸(現・井波八幡宮)となり、祖師堂跡が二の丸(現・井波町招魂社)、
太鼓堂跡が三の丸になったと記録にあるそうです。その後、前田利家に攻められ
廃城になったと有ります。本丸には社殿の背後に土塁が良く残ります。
旧瑞泉寺のころから残る松島大杉から下ったところに堀跡があり、今では畑になって
いるようです。城址の西側には瑞泉寺が今でも健在です。
明治12年、火災で山門をのこし消失しましたが、明治18年に本堂、大正7年に太子堂が
再建されました。

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ぴーかる

勝幡城 (2023/07/22 訪問)

【勝幡城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾15城目。勝幡城の築城は永正年間(1504~1521年)に織田信定(信長の祖父)によって築城されたとされます。織田信長はここで生誕し父織田信秀が今川氏の那古屋城を奪ったのちは父と共に那古屋城に移ったされるのが有力な説になっています。信秀はここに家臣の城代を置いていましたが拠点が清洲城に移った頃から城は次第に衰退していったようです。
 現在遺構は残っておらず城跡碑が「勝幡城址」と「勝幡城跡織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の2か所あります。御城印の販売している稲沢市観光協会に行ったら土日お休みで、もう1か所5月に行った小木江城跡近くの愛沢市観光協会に行って購入⇒2か所の城跡碑⇒名鉄勝幡駅前の勝幡城模型・銅像を撮影した。

<満足度>◆◇◇

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あみりん

大雨注意報の淡路島へ。 (2023/09/11 訪問)

明石海峡大橋を渡る時は大雨でしたが、洲本城に到着するや雨は止みました。
思いの他、立派な石垣、広々とした敷地内。月曜日の為続100名城スタンプは洲本市役所へ行きました。

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赤い城

桃陵公園 (2023/09/03 訪問)

桃陵公園が城趾ですが遺構はなさそうです。
公園に駐車場があり、多度津港を望む眺望はなかなか良いです。
公園はさらに登っていくことができます。
曲輪の跡言われるとそれっぽいですがそうとも言いきれません。
桜が植えられているのでその時季は多くの人で賑わうのでしょう。
出会いの広場からさらに登れそうなので進んでみました。
しばらく登ると最高地点となります。
この辺りが主郭部だったと思いますがここにもそれらしい痕跡はありませんでした。
香川氏の居館とされていますが城としての構造は不明。
地形的には城っぽい感じは受けますが。

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しんしんちゃん

源義仲の伝説と佐々成政の築城技術が残る城。 (2021/11/19 訪問)

源氏ヶ嶺城は倶利伽羅峠の戦いの際に平氏の軍勢が布陣していましたが、源義仲の軍に
攻め落とされ、平氏を攻撃するための陣所になりました。北側の麓には平氏の軍が
突き落とされたといわれる地獄谷が有ります。現在の縄張りは、天正12~13年ごろに
佐々成政によって改修されたものと思われます。登城道を登ってすぐに城址碑のある
郭に到着しますが東と南西に城域が伸びています。この時は、より多くの遺構が残る
南西側を散策しました。尾根伝いに進んでいくと本丸らしき広い郭にたどり着きます。
この郭には土塁が残っています。さらに進むと巨大な堀切が行く手を遮ります。
脇から道が伸びているのでそこから下り、対岸へ渡ります。その先にも城域は続きますが
本格的な遺構は無いので、適当なところで引き返します。
おそらく佐々成政にとっては支城の一つでしかないのでしょうが、豪勇のイメージが
強かった彼の築城した城を周っていると印象が少し変わってきます。
一乗寺城も松根城も、とても技巧的な城でした。やはり戦国武将にとって城づくりに
長けていることは必須スキルなのでしょう。

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しんしんちゃん

それほど広くないが縄張りの完成度は高いようだ。 (2021/11/19 訪問)

一乗寺城は近くまで林道が続いていてアクセスは企画的容易です。城跡は林道の北側に
位置していて、最高所の主郭を中心に周囲に郭が配されています。
主郭の東にも段階状に郭が続き屈曲した入口がついているようです。
主郭より西に二の郭、三の郭(二の郭)と続き四の郭(西郭)は周囲を土塁で囲まれています。
四の郭の北側には枡形の虎口があり、四の郭の西側にも大きな堀切があるようです。
いささか記憶も薄れかかっているので、城郭大系や他のサイトの縄張り図もいくつか
参考にさせていただきました。ありがとうございます。
一乗寺城の初見は南北朝期の応安2年(1369)に桃井直常の籠る一乗之城を幕府方が攻めて
落城させたことになります。戦国期には佐々成政の将、杉山小助がここを守ったとあります。
現在の高度な縄張りもその際に改修を受けたものだと思います。

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スティクラ

全てが圧巻だった松山城 (2023/09/08 訪問)

松山駅から路面電車で大街道に行き、リフトを使って松山城へ。
リフト乗り場から太鼓門を通ると目の前に天守群が現れる。

小天守と大天守など建造物が多いことに加えて、天守群を見渡せる広場が広くて高い位置にあるので、
天守群と街並みの景色を同時に楽しめる場所が広いところは今まで見たことがなかった。

天守の中も広く、十分堪能することができ、最上階は風がとても気持ちよかった。

写真を撮っていると、地元のおじいさんにいい写真スポットに案内してあげると言われ、
そのまま1時間弱連れまわされるといういい経験をした。

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じゅんじん

工藤氏 (2023/09/07 訪問)

頼朝公家臣の工藤氏が奥州征伐後に治めました。

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じゅんじん

朝駆け (2023/08/27 訪問)

日曜に久々の朝駆けとお城でした。その後、仕事しました😢

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じゅんじん

伐採中 (2023/01/12 訪問)

岡の城山のあとに訪れました。発掘調査のために樹木の伐採中でした。

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じゅんじん

立ち入り禁止 (2023/01/12 訪問)

倒木の恐れがありとかで立ち入り禁止となっていました。

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じゅんじん

JA消滅 (2023/06/10 訪問)

前回はあったJAが更地となり立ち入り禁止でした。
登城口がわからず撤退しました。

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じゅんじん

神社 (2023/06/10 訪問)

車がいける最後の地にお社がありました。あとは雑木林でした。

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じゅんじん

夜討ち (2023/06/06 訪問)

講習会で名古屋に来たので夜討ちをかけました。

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スティクラ

2年ぶりの丸亀城 (2023/09/08 訪問)

前回は2年前に来城。
ちょうどオリンピックの聖火ランナーの四国を走っていた時期だったような気がした。

丸亀駅から徒歩で向かい、外堀を一周。
前回の訪城から引き続き、石垣の修復中だったが、改めてみると広範囲で、完全修復にあと何年かかるのか…。

天守の登るための最大の難所が見返り坂。
猛暑の影響もあるが、かなりきつかった。
他の天守に比べると小さいので、がっかりするかもしれないが、景色が見事なので、登ってみる価値は十分にある。
見返り坂付近から見える石垣も見事です。

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T-Shionoya

堀の構成が独特な岩櫃城 (2023/04/09 訪問)

岩山の景観と真田の城という点に惹かれ、群馬県吾妻郡東吾妻町の岩櫃城へ。

上野国の山がちな吾妻郡において、政治経済の中心地となってきた中之条盆地。
その南西、吾妻川北岸の岩櫃山の中腹に築かれた城。
南は吾妻川や切沢、背後(西)は切り立った岩櫃山山上部が天然の要害。比較的緩やかな地形の北側は、広く堀が配備されている模様。

残る記録では南北朝時代の吾妻氏に始まり斉藤氏が本拠とし、1563年からは真田氏が城主に。
大阪の陣の1615年頃、廃城となります。

現在は国指定史跡に登録され、岩櫃山の登山道も兼ねる土の城跡。
訪問時は、観光案内所のある平沢登山口から中城経由で本丸へ。
折れを有して一部が横堀的な竪堀は、個人的に初めて見るタイプ。
印象は、割とシンプルだが独特な城。

またリサーチ不足で武田勝頼を迎えるためにつくられた御殿跡が離れた場所だと知らず・・・
急遽、潜竜院跡へ向かうと、岩櫃山らしい岩櫃山が出現。

トータル滞在時間は3時間半。
発掘調査では本丸で金属加工が行われていたという岩櫃城が、私の城郭巡りの153城目となりました。

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しんしんちゃん

城主片山伊賀は前田利家の遺言で粛清。 (2021/11/18 訪問)

安田城は井田川の左側に位置し、長らく畑地として使用されてきましたが、現在は
城址公園として、整備されています。二の丸から城域に入り、北に本丸、西に右郭が
存在し、周囲を水堀が取り囲んでいます。各郭の周囲に土塁が配され、特に本丸の
土塁は非常に分厚く、まるで土塁自体が一つの郭であるようです。
訪問した時間が遅かったので、写真は暗いです。月まで出てます。申し訳ないのですが
今はこれが精いっぱい。(ルパン風に)
安田城の築城年代は不明ですが、豊臣秀吉の軍勢が佐々成政を討つため白鳥城に陣を構えた時に
前田氏家臣、岡嶋一吉が安田城に移ったとあります。後に前田利長家臣、片山伊賀と岡嶋一吉が
白鳥城に置かれた時、片山らは生活の不便から利長に請うて安田城に下りてきたと有り、
その際に、白鳥城は安田城の詰めの城として位置付けられたと考えられています。
これらは戦国から時代が移るにつけ、城の主役が山城から平城に替わってきたことを感じます。
ちなみに片山伊賀は片山延高のことで、前田利家に家康との内通を疑われ、遺言には片山伊賀には
油断するなとあり、利家死後の7日後に利長の命で石川源太、松田直憲に殺害されています。
親というのはいつの時代も変わらないようです。

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しんしんちゃん

せっかく城を譲ってもらったんだけど‥。 (2021/11/21 訪問)

安吉城は山島公民館周辺に築かれていたようで、土塁らしき遺構も残っているそうです。
長享2年5月、加賀一向衆徒は守護の富樫政親を高尾城にて自害させましたが、その中に
河原衆(河原組)を率いる安吉(大窪)源左衛門尉家長という人物がおり、この人物によって
安吉城は築かれたとされています。河原衆というのは安吉周辺の一向宗徒のことを指し、
家長はその首領格とみなされます。天文年間に城を家臣の窪田大炊介に譲って出家し
浄土寺を建て、了海と名乗ったと伝わります。
天正8年、安吉城は柴田勝家によって落とされ、指導者19人の首が信長に進上されましたが
その中に窪田大炊介も含まれていたようです。
「越登賀三州志」によると主郭の大きさは長さ45間、幅33間で北方に枡形とあり
牧忠輔の図だと長さ40間、幅20間で北方に10間四方の郭とあります。
1間=1.82mと考えればわかりやすいと思います。2倍して1割引いてやれば良いわけです。

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