大和の有力な国人であった古市氏の城です。奈良市立東市小学校付近が主郭であったと伝わっています。グランドの片隅に城址碑がありました。フェンス越しに写真を撮って退散しました。
近鉄奈良駅よりバスに乗り南古市バス停下車。近くの坂を上ると小学校ですが、城址碑を撮影するために土手を少し登りました。
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2024/06/29 22:12
東市小学校 (2024/06/29 訪問)
大和の有力な国人であった古市氏の城です。奈良市立東市小学校付近が主郭であったと伝わっています。グランドの片隅に城址碑がありました。フェンス越しに写真を撮って退散しました。
近鉄奈良駅よりバスに乗り南古市バス停下車。近くの坂を上ると小学校ですが、城址碑を撮影するために土手を少し登りました。
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2024/06/29 21:34
ららぽーと横浜の鬼門除け…? (2024/04/29 訪問)
JR鴨居駅から,ららぽーと横浜をスルーして向かいました。駅で降りた人の群れは,8割以上がららぽーと横浜に吸い込まれて行きました。その,ららぽーと横浜の北東に位置するのが池辺陣屋(宗忠寺)です。
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2024/06/29 18:41
井田城 (2024/05/11 訪問)
【井田城】
<駐車場他>井田公園駐車場
<交通手段>車
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅2城目。井田城の築城年代・築城主は定かではないが、松平氏・徳川氏の始祖とされる松平親氏の子とされる酒井広親の子の氏忠から忠次の5代まで酒井氏の居城であったとされます。酒井忠次は1527年にこの地で生誕しました。
井田公園の東側にある城址から少し高台になっていて、城址箇所が主郭であったようです。現地は公園と城山稲荷があり主な遺構は残っていません。西側の法面が当時の土塁であったかどうかといったところ。
<満足度>◆◇◇
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2024/06/29 18:39
トンネル貫通している岬上 (2024/05/21 訪問)
こちらのチャシも岬上で下をトンネルが貫通しています。平面上は細く長く海へ突き出ています。チャシ上から見る海岸線は美しいです。
木製の遊歩道を進むと橋を渡ります。橋から堀切を眺めるとそこには春先で成長著しい若き雑草がすくすくと育っていました。
次の日に向かう予定だった神威岬はこちらを見た為に当日中止しました。これまで多くの岬を見て来たため飽きてきていたからです。今はチャシの投稿が続きそろそろ飽きてきそうです。
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2024/06/29 17:22
まさに難攻不落のお城。 (2024/05/05 訪問)
「若林城」は1628年に、伊達 政宗さんが隠居する為に築城されたました。
もともと、国分氏のお城があった場所のようです。
この日は「若林城」の近くにある『仙臺だんご いち福』という お団子屋さんを楽しみにしていました。
開店前に、ちょっと城攻めしようと、進軍して驚きました。
「若林城」は『宮城刑務所』でした。
「若林城」の石碑と説明板が駐車場のフェンス外にありました。『刑務所作業製品展示場』の駐車場です。
展示場は開店してません。路駐で写真を写し退陣しました。
土塁の上に赤い煉瓦の塀があり、いろんな意味で絶対に入ってはいけません。
朝田 辰兵衛さん風
『ココもフェンス越しに覗き見、、。』です。
この後のお団子屋さんは、長蛇の列。辛抱の足りない私は、またしても退陣です。
伊達 政宗さんの防御が、こんなかたちで役立っていたのか?と、感心した「若林城」攻めでした。
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2024/06/29 11:51
【下野 畠山陣屋】栃木県栃木市 陣屋門、連子窓土塀が見所 (2024/06/05 訪問)
城郭放浪記さんの毎日、毎月の閲覧件数トップ10を毎日チェックして居りますが、以前畠山陣屋が気に掛かり、何時か探訪をと思っていました、今回宇都宮の孫の所へ家内と出掛けましたので、リニューアルした佐野SAで昼食、佐野ラーメンを頂き、栃木ICを降りて畠山陣屋初探訪。
住所:栃木県栃木市嘉右衛門町1-12
駐車場:嘉右衛門町地区無料駐車場(栃木市小平町3-2)、陣屋北隣接地も陣屋専用駐車場有り、トイレは約400m南の蔵の街広場にトイレ有。
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクショングーグルマップに依る。
開館日:金曜・土曜・日曜・祝日の午前9:30~午後5:00まで、平日は予約のみ開館。
嘉右衛門町地区無料駐車場よりぶらぶら歩いて約100m超、角の神明神社を南へ旧例幣使街道を歩いていくと、城郭放浪記さんの写真で見慣れた陣屋の連子窓の付いた瓦屋根付土塀、畠山陣屋と刻まれた立派な石碑、と正面門、南隣の岡田記念館、代官屋敷城門、此処で当日水曜日は公開日で無い事を認識し、外観、土塀の連子窓から書院式台を見て撮影、当然翁島別館も休館、玄関先の石橋、枡形、遠く別館を覗き撮影、旧例幣使街道沿いの町屋は伝統的建物群保存地区に成っており街並み町屋の風情が江戸明治期を彷彿させます、良い感じです。蔵の街遊覧で有名な乗船場は約1km程南なので諦め、蔵の街広場でトイレ休憩、案内板、解説板を観て孫の処へ。
代官屋敷城門の前にパンフレットが置いてありましたので頂きました。
畠山陣屋は元禄元年(1688年)高家畠山基玄によって築かれた。(城郭放浪記さん情報)
畠山陣屋は岡田嘉右衛門屋敷に置かれて、岡田嘉右衛門が代々、代官を勤めたようです、岡田氏は武士より帰農し荒れ地を開墾し嘉右衛門新田を開発し町名も嘉右衛門さんからとり名主も務める。
内部を見学できませんでしたが、外側から見学、例幣使街道建物群の見学と大変楽しませていただきました。
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2024/06/29 08:45
2024/06/29 08:25
伊予松山城の天守閣 (2013/12/13 訪問)
現在目にすることが出来る伊予松山城は慶長7年(1602)関ヶ原の合戦の功で20万石に加増された加藤嘉明によって築かれたとされています。創建当時は五重の天守だったようですが寛永12年(1635)に松平定行が15万石で入り、寛永19年(1642)に三重の天守に改築したようです。天明4年(1784)には天守を含む本壇(天守曲輪みたいなもんか)の主な建物が焼失し、今の天守や本壇の建造物は安政元年(1854)に再建されたものになります。幕末の建造物で、天守としてはだいぶ新しいものになりますね。当時は避雷針などないので、山上の櫓や天守は雷にとっては格好の標的になるみたいですね。落雷による天守の焼失は結構多いですね。
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2024/06/29 08:05
むじるし徳島城の阿波青石 (2013/12/10 訪問)
徳島城は至徳2年(1385)に細川頼之によって築かれたとされ、家臣の三島外記が守ったとされています。天正10年(1582)には長宗我部元親が阿波を平定しますが、豊臣秀吉の四国征伐により蜂須賀家政が18万6千石で入り、平山城として改修を受けたようです。
石垣には眉山の三波川変成岩が使われているようです。表御殿庭園には阿波青石(緑泥片岩)が多く使われています。青石を繋いだ見事な石橋はこの庭園の最大の見どころだと思います。青石にもいろいろあるようで、紀州青石や伊予青石は緑色片岩とされ産地によって材質や名称が異なるようです。
紀州青石は和歌山城に多く使われ加太の城ヶ崎周辺や雑賀崎で採取されるものを使用しています。
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2024/06/28 23:02
2024/06/28 19:14
伊勢宗瑞も攻めあぐねた堅城 (2024/01/26 訪問)
岡崎城は前期と後期に分かれ、前期は岡崎義実によって岡崎神社を中心としたあたりに築かれたとされています。後期(戦国時代)は無量寺を中心とした大規模な範囲に築かれていたようです。後期の城は三浦氏の持ち城とされ、養父の三浦時高を滅ぼした(!)三浦道寸(義同)が居城としたとされます。小田原城を奪い相模平定を狙う伊勢宗瑞に狙われますが、堅固な岡崎城を攻めあぐね17年もの間にらみあいが続いたそうです。その岡崎城も永正9年(1512)ついに落城し、道寸は逃れますが、永正13年に新井城にて一族とともに滅びたそうです。位置的に無量寺が主郭と見られ、背後(西側)に堀切が見られます。西側から南に曲輪が続いているようですが、一度寺から出て、北側から細い道を回り込んでいきます。細い道から折り返すように上に道が続いているので、登っていくと堀道の右手に扁平地がいくつかあ有りました。これらが曲輪跡と見られ、一部は畑になっているようです。これらの曲輪は進入禁止になっているので、ひとしきり確認した後は、堀を登って無量寺に戻りました。
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2024/06/28 19:13
城びと登録本土最北端 (2024/05/19 訪問)
昨日の投稿に引き続きこちらも岬上がチャシ跡です。写真3.4では薄っすらとそれらしく見えますが、近くではっきり認識出来ない(写真8)濠で区画されてはいます。規模はだいぶ小さいです。
昨日思い付きで書いた四極云々、本土城びと登録に限れば最東端はポイモイチャシ、最西端は長崎県の籠手田城、最北端はこちらのチャシとしれっとリーチ、残るは最南端鹿児島か・・・。そう気が付いて一人で盛り上がっていた自分が俗物で恥ずかしいです。
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2024/06/28 19:13
上野上村城 (2024/05/11 訪問)
【上野上村城】
<駐車場他>上郷区民会館駐車場
<交通手段>車
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅1城目。豊田市の公式観光サイトによると上野上村城は1467年頃、伊勢貞親の被官であった戸田宗光による築城(ちょうど応仁の乱の頃です。足利義政とのつながりの深かった伊勢貞親の命で築城したかもしれません)と伝えられています。宗光が渥美半島に移った後は、阿部氏が治めていましたが、1493年に井田野の戦いに勝利した松平家の居城となりました。松平家の内乱後は、酒井忠尚が城主になりましたが、1563年に忠尚が三河一向一揆の総大将として蜂起したため徳川家康に攻め落とされました。榊原康政はここより300m南にある会下城が生誕の地ともされています。
現地は区民会館と上郷護国神社になっていて、大鳥居の奥の平場が主郭であったようです。周囲より1段高くなっているので名残があります。また現地説明板によると、区民会館奥の城山稲荷社の部分が櫓台地土塁の一部が残されているようです。現地で知って、区民会館にて御城印が販売されいるようですが、朝6:00着でしたので買えませんでした。
<満足度>◆◇◇
<追記>しんしんちゃんさん、ちょこ城は別にちょこ城®ではないのでご自由にお使い下さいませ(笑)。私の造語を使ってくれてありがたく、また逆に広まるといいなあ。なんて思っとります。私も夏季この日からちょこ城巡りにスイッチしました。土塁が1畝だけ、堀が少し残ってる、移築城門がある城跡はちょこ城の自分の識別をどうしようかなあ?なんてつぶやき楽しみながら巡っております。
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2024/06/28 18:35
名護屋城の空は青かった (2014/01/07 訪問)
名護屋城は何度か訪問しています。周囲の陣所を見て回るだけでも相当なボリュームになるんですね。城びとの城は陣所とかが少ないんですよ。かつては周辺に陣所がひしめき合って、城下町も築かれ壮観な眺めであったと思います。
島原の乱の後、一揆の拠点となるのを防ぐため石垣は、要所要所が破壊されています。これらは安土城や美濃金山城などと同じようです。
遺構も人心も諸行無常の感はありますが、空は変わらず青いですな。
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2024/06/28 18:11
小さいオジサン天守なのだ (2018/01/03 訪問)
タイトルだけだと意味不明ですが、丸亀城の天守の投稿です。現存で最も小さい天守は備中松山城の二重二階の天守です。実際には石垣の中に地下階があり、角度を変えて見ると三重の天守に見えなくもないですけど。まあ最小天守の座は松山城に譲るとして、三重三階の天守では最も小さい天守は丸亀城だと思います。日本屈指の高さを誇る壮大な石垣の上に小さい天守がちょこんと乗っかっている絵面はいささかシュールでもあります。ちょっとバカボンのお巡りさんの下の歯にも似てますね。
もうちょっと本丸周辺に城壁や櫓を残しておいてほしかったのだけど、まったく明治のヤツらときたら(プンスカ)。
でも石垣と天守や大手門が残っただけでも御の字としますか。天守だけあって、唐破風とか付いているんだけど、建物が小さいからか、なんとなくオジサンのヒゲみたいに見えるんですよ。下から天守を見上げると、小さいオジサンがこっちを見てるような気がします。
よっ元気か? なんて声が聞こえてくるような気がしませんか?
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2024/06/28 14:45
多賀城創建1300年外郭南門復元竣工を待ってます (2024/05/24 訪問)
松森城跡初探訪を終えて東へ約6km程に在る多賀城外郭南門復元工事の進捗は如何にと訪ねました。
駐車場:多賀城跡あやめ園駐車場を利用、トイレ有。
参考資料:グーグルマップに依る。
今回の東北城探訪の企画時に多賀城市のHPより問い合わせして、まだ工事足場が掛った状態なのは承知済みでしたが、昨年の9月18日にも訪ねてからの進捗は状況はと気になり訪ねました。
多賀城市教育委員会事務局からの回答は
「令和6年11月の多賀城創建1300年記念行事式典を行う際、一時的に開放しますが式典後も引き続き工事を行うため封鎖する形となり、一般公開の時期については令和7年4月を見込んでおります。」・・と言う事でした。
チャンスが有ったら11月の1300年記念式典頃、来年の4月以降の竣工後に訪ねれたらありがたい。
状況は昨年と変わりませんでしたが南門の南側の整備が進んでおり、北の階段、モルタル道の整備は進んでいるようです。
折角、あやめ園駐車場に駐めたので、あやめ園、まだ早くあやめは数本咲いている程度、外郭何辺の復元築地塀、あやめ園門辺り、解説板を観察探訪しました。
今回の東北城探訪6泊6日、三内丸山遺跡、安倍安藤氏の城を主目的に青森県岩手県秋田県宮城県で遺跡と城館で35ヶ所を廻り往復2550kmの車旅でした。多賀城からは帰路約600kmの高速道です。
長々と投稿ご覧頂きありがとうございました。
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2024/06/28 11:55
横浜市 小机城 (2024/06/27 訪問)
品川台場から新橋駅に戻り、東海道線・横浜線経由で小机駅に到着しました。
日産スタジアム最寄り駅と行くことで素晴らしく立派な駅舎でしたが、乗降客は
ほとんどいませんでした。駅に隣接する「城郷小机地区センター」でスタンプをもらい
小机城址に向いました。
住宅街を抜け、横浜線の線路沿いに進み右折した先が根古谷という地区で、見事な孟宗竹の
竹林を進むと、本丸・二の丸広場となっていまっす。周りは櫓跡と土塁空堀に囲まれています。
印象としては、以前お邪魔した滝山城の小型版といった印象でした。
小机駅にに戻る途中に、小机城の用地は19人の方の私有地という掲示があり驚きました。
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2024/06/28 11:30
鶴ヶ城公園に成っている (2024/05/24 訪問)
長命館を終えて東北城探訪5日目宮城県3城目東へ約5km程の松森城を初登城。
駐車場:南麓中腹に公園駐車場(38°18'38"N 140°55'08"E h=70m)18台可能、トイレ無。
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクショングーグルマップに依る。
駐車場への導入路が狭く少し悩みましたが急な登り坂を登り詰めると舗装された立派な駐車場、駐車場に案内板、コンクリート階段を登って行き、踊り場辺りに本丸巡り看板、人踏道が有るが草が生え選択せず、コンクリート道を更に登り、堀切を通ると、2の丸、草も生えて居りコンクリート遊歩道から奥を眺める、逆ターンして馬出?、本丸へ入口近くに松森城跡標柱、本丸内は更に草深く茂り藪手前。
案内板には
戦国時代に国分盛顕がこの地に移り住み、最後の城主17代国分盛重が天正の頃まで居住、盛重は伊達15代晴宗の5男で政宗の叔父にあたり、慶長元年(1596年)に没落しました。
江戸時代には仙台藩の正月行事である「野初」(狩猟・軍事訓練)の舞台となりました。
駐車場、遊歩道まではいいのですが草が茂り過ぎて踏み出せず駆け足での探訪と成りました。
この後、城廻企画時に近くの笹森城も検討したのですが、笹森城跡が仙台市教育センター、東北電力鶴ケ谷変電所敷地内に成っており、城郭放浪記さんの写真が1枚、ゲート前の写真のみでしたので探訪は諦めました。
この後は多賀城外郭南門工事進捗状況の確認へ。
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2024/06/28 11:15
2024/06/28 11:13
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