平安時代に宇佐大宮司:到津中務が築城したと伝わる城です。到津八幡神社の西側の丘陵が城址のようですが、私有地で立ち入り禁止となっています。場所は過去のネット情報より推定しました。
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2024/03/21 21:38
到津八幡神社の西側 (2024/03/20 訪問)
平安時代に宇佐大宮司:到津中務が築城したと伝わる城です。到津八幡神社の西側の丘陵が城址のようですが、私有地で立ち入り禁止となっています。場所は過去のネット情報より推定しました。
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2024/03/21 21:29
248条の畝状竪堀 (2024/03/20 訪問)
「九州の名城を歩く」(吉川弘文館)によると日本列島最多の248条の畝状竪堀(案内板では約250本)がある山城です。北側に開口する馬蹄形を呈し、北西部に出丸、北東部に二の丸、南側に本丸が配置されています。この馬蹄形の外側に多く畝状竪堀が存在しています。かなり良好に残っていると思いますが、草木により見にくくなっている所も多かったのが少し残念でした。本丸の南側は竪堀が2段になって存在しています。近くに行けばわかるのですが、雑草などがなければ2段になった竪堀がよく見えて全体の構造がわかりやすいのではないかと思いました。
とにかく只管畝状竪堀だけを見る散策です。私としては楽しかった。
林道より登城しますが、標識がありわかりやすくなっていて迷うことはありません。本丸や出丸方面からも登城路はありますが、自分は二の丸方面から登城し馬蹄形の城内をまわって出丸方面より下りてきました。二の丸から本丸までは歩きやすくなっていますが、本丸から出丸は少し歩きにくかったですね。もっとも畝状竪堀を見るために曲輪より少し下りた場所を行ったり来たりしたので、自分から歩きにくい場所へ突入していました。
長野緑地公園中央駐車場に案内板があります。
近くに長野城への案内標識があり、それに従って登城しました。ネットで見たときは荒れた林道を登って行くとなっていたのですが、案内標識に従って登って行くと山の中を登って行くことになります。どこかで道を間違えたらしく城址よりかなり高い位置にある林道に出てしまいました。その後、林道を下って城址に辿り着き、1時間以上時間をロスしました。帰りは林道を下りてきましたが、かなり崩落が進んでいて危険な場所もあります。入口のゲートから出ようとしましたが扉には南京錠がかかっていました。ゲートの横に通ることのできる隙間があり出ることができました。案内標識があるので登城禁止ではないと思いますが登城された方々がネットで紹介されていた経路は危険なのでう回路ができたのでしょうか。
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2024/03/21 20:50
搦手側はワイルドな巨石が来るものを威圧する (2024/03/17 訪問)
松平城山城は太田道灌が築いたという伝承がのこっているようです。本当かな~
松平宗家3代信光によって改修がなされ、子の光親が城主となったそうです。小牧長久手の合戦の後、羽柴秀吉の侵攻に備えて改修がなされたようで、この地域の山城としては高度な縄張りや遺構が残っています。国道301号線で豊田から新城に抜けるルートに幾つもの防衛線が築かれています。多くは挟撃を目的としており(加藤先生の講義を参考にしています)大給城、松平城山城、松平城にて羽柴軍を挟撃し、先の古宮城、亀山城でも敵を挟撃することが可能です。東海道(国道1号)を進んでくる敵には岩略寺城と長沢城で挟撃を行う予定だったようです。
野田城や岩略寺城にも見られた三日月堀がいくつか見られます。主郭北東部に一つと、大手側の大堀切を北上した先にS字状の三日月堀が見られました。二つ目の三日月堀は本丸の方を向いているようにも見えます。三日月堀の先は土橋が3方向に分岐しており伏兵を忍ばせておくことが可能なように見受けられました。街道側から主郭を落とされた後にも、まだ抵抗する力を残しているように思えます。
ぴーかるさんが書かれているように主郭から北東側が大手と見られ洗練された遺構が見られます。北西側が搦手のようで、こちらは巨石などワイルドな見所が多いですが、堀切や石垣などの遺構も残っています。
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2024/03/21 18:40
桜城と七洲城 二つの挙母城 (2024/03/17 訪問)
挙母城(桜城)の築城は寛延2年(1749)挙母藩内藤氏の初代政苗によって行われたと有ります。度重なる矢作川の大洪水により築城は断念され新たに童子山に七洲城が築かれたと有ります。
桜城が最初の挙母城ということで隅櫓のみが残っています。桜城の工事が難航したため桜城から5m高台の童子山に築かれた七洲城が今の挙母城になるようです。七洲城と桜城の隅櫓跡が1972年2月24日に一緒に豊田市指定史跡とされています。
七洲城の敷地には徳川家康の初陣の場である寺部城跡に建てられた渡辺氏の寺部陣屋の書院「又日亭」が移築されています。
※桜城の写真は2014年3月のものになります。
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2024/03/21 15:53
伊木清兵衛忠次が築く (2024/03/16 訪問)
伊木山城は犬山城からも俯瞰でき認識はしていましたが山城である事から登城は控えて居ましたが、YouTubeを見て居ましたら「岡山池田藩筆頭家老」が目に付き視聴しましたら、この間久しぶり登城の田原城城主に伊木清兵衛忠次の名が有ったなと思い出し、少し調べ直し伊木山城の築城者「伊木忠次」に行きつき今回の美濃南部城廻りに入れて廻りました。
駐車場:伊木山の伊木の森広場駐車場・トイレと伊木山登山者駐車場、名勝木曽川展望台駐車場の3ヶ所あります。
参考資料:余湖図コレクションさん、古城盛衰記さん、城郭放浪記さん、グーグルマップ、YouTube『瀬戸内魅力物語「岡山藩筆頭家老伊木家の人々が残したもの」』・・講師片岡学氏、現地解説板「伊木山城と伊木清兵衛忠次」に依ります。
伊木清兵衛忠次は元の名を香川長兵衛と言い、織田信長の命で美濃斎藤方の攻略として斎藤方の拠点であった伊木山を攻め取り城を築いた、伊木山攻めの功績により信長より「伊木」の名を与えられその後は信長の家臣池田恒興に仕えて活躍。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで池田恒興、元助父子が戦死すると若年の次男輝政を補佐、伊木忠次には秀吉より6万石での大名取立ての話も有ったが固辞して池田家を守った。
小田原征伐後輝政は吉田城15万3千石、伊木忠次は田原城代1万7千石へ、関ケ原後輝政は播磨姫路城52万石、忠次は三木城代3万7千石へ、忠次は慶長8年(1603年)三木城で没した、忠次の息子忠繁は姫路城の普請奉行を任せられ今見る姫路城の縄張りを行った。忠次没後跡を継いで池田家の筆頭家老と成り、その後も岡山藩池田家の筆頭家老として存続した。
池田家は輝政死後、姫路城と岡山城へ、その後鳥取藩光政と岡山藩光仲の入れ替えと成り、伊木氏は光政に従い鳥取藩へ倉吉陣屋を任せられます、我が故郷鳥取倉吉に伊木の地名が残っているそうです。10年程で光政は岡山藩31.5万石で国替え、伊木氏は瀬戸内市虫明に3万石として陣屋を構えたが幕府に憚り御茶屋と称した。
忠次は信長、秀吉、家康に一目も置かれ池田家の存続に力を尽くした、子孫は岡山池田家筆頭家老として明治まで続いた、伊木氏は天下の三大家老と言われていました他には仙台藩の片倉氏、徳島藩の稲田氏がそれに当たります。
登城ルートは、伊木山の北側を走る県道95号線(木曽川街道)交差点から南に入り、伊木の森広場を目指して登って行く、400~500m程登ると名勝木曾川展望台駐車場に着く、此処は木曽川、犬山城が俯瞰出来て絶景です、先に霞んだ俯瞰犬山城を投稿させて頂きました、少し登ると伊木山登山者駐車場、その山手に伊木山登山遊歩道案内と杖、案内図、更に進むと伊木の森広場、駐車場と説いて完備。
伊木の森広場公園の手前に真新しい「伊木山城と伊木清兵衛忠次」の解説板が在ります、長久手合戦屏風に描かれた伊木清兵衛馬上合戦図も描かれていました、じっくりと読ませて頂き勉強に、田原城に記載されてた伊木清兵衛忠次にたどり着けた感じでした。
展望台、伊木の森広場から山頂を眺めて遊歩道の案内があった入口から入り、心臓破りの道の案内なので、もう少し穏やかな道をと探しましたが判らず案内がはっきりしてる心臓破りの道を選択途中まで行くが登りが延々と続く丸太階段に不安を感じて山頂へは断念、皆さんの投稿写真で楽しんでいます。
古城盛衰記さんの西山麓の観音寺、駐車場から西側からの尾根道を進むルートの方が私には良かったかも、ゆっくりと穏やかな登城路を時間かけても登れる道を切に望みます。最近左足の痛みが出て来ましたので山城は難しこの頃です。
伊木の森公園、導入路は17時には閉まるようです。
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2024/03/21 10:52
鷹狩りのための宿泊地 (2024/03/20 訪問)
埼玉県越谷市…越谷駅から1kmほどの場所に、越ヶ谷御殿跡という史跡があります。かつてここには城…というか御殿…徳川家が所有する御屋敷が存在したのです
1枚目を見てのとおり、現在ここには「越ヶ谷御殿跡」という文字が彫られた石柱および説明文が載ったプレートがあるだけです。建物自体は何も残ってない…そのため見学に費やした時間は2-3分…というところですね😅
2枚目にある説明文プレートを読んでみた私…家康が鷹狩りをするために宿泊先としてここは利用された。今は東京-越谷間は電車で30分から1時間だけど、当時は大名行列をイメージすれば分かりやすいかと思うのですが…つまり徒歩のみ…殿様などの偉い人は馬に乗ったり籠に乗ったりするけど、速度は歩いてる従者たちに合わせなければならない🚶
つまり当時は何時間もかけて移動するため、1日に進める距離も(現代に比べたら)僅か…そのため宿泊施設が必要だった🏠
家康とその息子秀忠により御殿はたびたび利用されていたが、江戸大火により江戸城の屋敷を再建する際に解体および資材の移動することとなり、それからこの地は更地となり現在に至る…
(御城印URL)https://collection.kojodan.jp/gojyoin/item/3903
ガーヤちゃんの蔵屋敷という、越谷駅そばにあるお土産屋…御殿跡に向かう前、先にここで御城印(3枚目)を買いました
扇子を片手に舞う人の姿…紫陽花…2種類あると言われ、どちらにしようかと最初考えましたが、「もう片方も買えばよかった😭と悔やむことになったら…?」となると嫌なので、両方買ってみました
ただ史跡を見るだけでは何か物足りないので「越ヶ谷御殿跡」の石柱をハグ…当時ここにどでかい御屋敷がある姿を脳内でイメージ🧠…そして3枚目の御城印を石柱の足元で撮影。風が強かったので(すぐ側が川だから)落ちて回収不能にならないよう注意を払いながら…
家から持参した小さめの透明クリアファイルに御城印を入れて撮影。風をモロに受けるとファイルごと飛ばされそうになる場面もありましたが、何とか撮影することができました😄
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2024/03/21 08:09
天地明察 (2024/01/14 訪問)
築城時期は不明ながら、畠山家国または畠山満基が築いたとされ、室町期には満基の長子・渋川満貞が居城としました。満貞の嫡子・光重は播磨国安井郷を領して安井氏を称し、後代に久宝寺城に復帰してこの地を治めました。安井定重が織田信長に従ったことから石山合戦で本願寺勢に攻められて落城するも、以降も安井氏は豊臣氏、徳川氏に仕えて久宝寺を領しました。
JR・久宝寺駅から登城。久宝寺寺内町北西隅の張出部(小字「城土居」)あたりが城跡とされ、かつては土塁が遺っていたようですが、現在は城址碑と説明碑が見られるのみです。また、寺内町東部には渋川満貞が創建し、安井定重が再建した講筵「麟角堂」の石碑が立てられています。
ところで、渋川とか安井とか改姓とか、何か聞き覚えがあるような…と思って調べてみると、城主の安井氏って江戸前期に貞享暦を作成したことで知られる安井算哲改め渋川春海のご先祖だったんですね。遺構のない城であっても、こうして別々の知識が思いがけず繋がるきっかけになるのは楽しいものです。
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2024/03/21 07:16
上城と下城がある (2024/03/10 訪問)
私もパクっちゃいます
「城びと初投稿いただきます」
四国八十八ヶ所61番札所、香園寺の奥の院からさらに進んでいきます。
どんつきのところが駐車場となっていてここから60番札所、横峰寺へのへんろ道を登って行きます。
結構急な道ですがへんろ道なので整備はされています。
30分くらい登ると横峰寺方面と上城方面への分岐があり、さらに上城方面に10分くらい登ると削平地に出ます。
これは曲輪の跡で土塁がついています。
曲輪を通り木製の長い段を登ると主郭に。
土塁が囲んでいて説明板も立っていました。
結構登ってきたこともあり朝の空気が清々しい。
気持ちよかったです。
主郭には謎のくぼみがありました。
これ、なんでしょうね。
主郭背後の切岸を降りると三重の堀切がありました。
だいぶ埋まっているようでかなり浅くはなっていますが両側に竪堀となって落ちています。
登ってきた甲斐がある遺構でした。
少し休憩して下山、今度は下城へ向かいました。
駐車場まで降り、反対側に下る道があるのでそこを進みます。
少し行くと案内板があり、木製の段を登ります。
ここにも説明板が立ち、背後に土塁が残ります。
下城は二段になった曲輪のようです。
上城〜下城までは約2kmの尾根で繋がっていて比高差は250m、なかなか大きな城だったようです。
しかしこのネーミング、攻め込んだけどまぼろしだった、ってことは無いようですね。
細川氏に攻められ落城後は剣山城の支城として整備されたとのことです。
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2024/03/21 07:02
2024/03/20 21:14
高山城 (2024/02/23 訪問)
熊出没の表示に怖気付いて本丸まで行かず、いまだに後悔してます。
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2024/03/20 21:02
龍潭寺 (2023/11/19 訪問)
龍潭寺のお庭が素敵すぎました。大河の直虎から、龍潭寺が好きです。
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2024/03/20 20:58
寺部城 松平元康の初陣 (2024/03/17 訪問)
寺部城は文明年間に鈴木下野守重時によって築かれたとされています。弘治4年(1558)鈴木重辰が今川氏から離反し、織田信長に寝返ると今川方の松平元康(徳川家康)らによって攻撃されたとされています。元康はこれが初陣と伝わっています。
(この辺は大河では描かれなかったようです)寺部城は再び今川方に付きますが永禄9年(1566)織田方の重臣・佐久間信盛に攻められ落城し、寺部鈴木氏は織田と手を結んだ松平氏の臣下となったそうです。
慶長15年(1618)徳川家家老の渡辺守綱が1万4千石で入り陣屋を構え明治まで続いたとされています。城址西側の守綱神社の奥手の森には鈴木氏の時代の土塁が残っています。陣屋内にあった書院は挙母城跡である豊田市美術館の敷地内に移築されています。
寺部城‥愛知県豊田市寺部町
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2024/03/20 19:53
岩略寺城 本丸内を仕切る土塁 愛知県豊川市 (2024/03/17 訪問)
岩略寺城は小牧・長久手の合戦の後に改修を受けているようです。目的は駿府に向かう羽柴軍の侵攻を遅らせることで、時間稼ぎのために防御力を強化されています。加藤先生の講義によれば、これらの山城に新たに築かれた遺構として横堀(土塁)などが挙げられるようです。
岩略寺城にも三日月掘があり、これらの遺構は野田城や松平城山城にも見られます。
この城の特徴として、本来一つである本曲輪の中を土塁と堀で分断し、防御用と見られる曲輪を増設してあることです。これと同じような仕掛けを古宮城で見たことが有ります。古宮城も本曲輪内を岩略寺城よりはるかに大きな土塁で分断しておりました。岩略寺城は本曲輪を南北に分断し北の防御力を強化しています。古宮城は曲輪を東西に分断していますが、両城とも増設された曲輪が羽柴軍の侵攻側を向いているので、同じ勢力による改修を受けているのではないかと想像しました。
正直、城兵に決死の覚悟を促すような縄張りは美濃守によるものとは考えたくないので、白うさぎと愉快な仲間たちの仕業によるものじゃないかと考えています。間違っていたらゴメンなさいです。
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2024/03/20 19:35
松平城 (2024/01/27 訪問)
【松平城】
<駐車場他>松平郷駐車場(入口広場)数十台分を利用しました。
<交通手段>車
<見所>4郭櫓台・主郭横堀・土塁
<感想>日帰り松平郷の旅4城目。現地説明板によると松平城は応永年間(1394〜1427年)に松平親氏が築城したとされます。松平親氏と松平郷については前投稿の松平氏館跡をご覧していただき、北奥にある松平郷を守る為に南の街道沿いに築城したのかと思われます。
登城口に説明板・縄張り図があります。登城口から進むと4郭に着きます。4郭は広い削平地で最奥に土壇櫓台を備えています。4郭の曲輪壁にわずかに石積みが残っていますが後世の祠跡のようにも感じます。4郭から井戸跡に行けます。最大の見所の主郭を取り巻く横堀へは井戸跡の前を通過してそのまま奥に進むと行きやすいです。北側からは羊歯藪がひどくて帯曲輪が通れませんのでこのルートしかありません。横堀は南に竪堀となって落ちていて主郭北東側の帯曲輪と繋がっています。3郭2郭は狭い斜面の尾根曲輪で曲輪感は全く無いです。主郭は広い削平地で土居は無く顔を出した巨石がありました。
<満足度>◆◆◇
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2024/03/20 19:12
2024/03/20 19:03
2024/03/20 17:44
長沢城 長沢松平氏の城郭 (2024/03/17 訪問)
長沢城は愛知県豊川市古城と呼ばれる高台に築かれています。東海道を挟んで岩略寺城と向かい合っており、小牧・長久手の合戦のあと駿府に進軍してくる羽柴軍を挟撃する予定でいたようです。この地域の目玉は何と言っても岩略寺城なのですが、対になっているという城郭ということで掲載させていただきました。宅地化が進んで遺構は残っていませんが、城址周辺は周辺に対してわかりやすい高台になっていて、宅地の中に城址碑が建てられています。城址碑はいつでも見学が可能です。
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2024/03/20 12:00
2024/03/20 11:54
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