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ヒロケン

石垣が立派 (2025/02/01 訪問)

星ヶ崎城は、鏡山から北にのびる丘陵先端尾根頂上部に築かれた山城で、北端麓には旧東山道が走り北西麓の鏡集落には中山道鏡宿が置かれており、古くから栄えた交通の要衝であり、更には嵯峨天皇の勅願所・鎌倉時代から室町時代にかけて将軍などの宿陣が置かれた西光寺跡が城山の麓にあります。
星ヶ崎城の主郭部には、長さ35m、高さ1~2mで3~5段の石垣と、反対側の南西部に少しの石垣が残っています。(主郭部は幅約20m×縦35mほぼ方形で、虎口と思われるところもあるのですが、要衝の地でありながらこの主郭部以外にこれといって城の遺構等が見当たらず、西光寺の何かの遺構であったのではと疑いたくなります。)

道の駅竜王かがみの里に駐車し、建物を背にし駐車場を左側に斜め横断した所に登城口があり、害獣除けの柵を開けて直ぐに西光寺跡があり、そのまま15分位登ったところに主郭があります。この城の主郭部にある石垣は立派で見所で、西光寺跡の重要文化財・石塔等と合わせて見学下さい。

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カズサン

日の入り前の西尾城二の丸編ー1/2 (2025/03/01 訪問)

 本證寺、岩根城を終えて日の入り時間は17時44分、残りの40分に掛けて南西方向5km程の西尾城を目指して進行。

 駐車場:西尾城二の丸東の駐車場を利用。

 二の丸駐車場入り口で既に満車状態、こんな夕刻になぜ?老若男女スマホをいじってる大勢の人が二の丸周辺にたむろしている、やっと2台の空きを確認して駐車場IN。

 聞くと新しいキャラクターが発表されてゲットするのに集まってるとの事、名古屋城はもっと大勢ですよと教わる。スマホ集団をしり目に日の沈む時間に二の丸復元丑寅櫓、屏風折れ続き土塀、復元天守台を北側の通りより撮影見学、天守台下北西の橋架け替え工事で天守台下に入れない、北側、西側からの天守台を狙ったのですが撮影は出来ず、戻って二の丸に再入し天守台を内から、本丸土橋の本丸裏門から本丸へ、本丸の神社が工事中、本丸表門から資料館へ、資料館は時間切れで閉まってる、資料館裏からの本丸丑寅三重櫓、東、北の内堀を確認、鍮石門を潜って北方向の本丸丑寅三重櫓を眺めて撮影、樹木が伐採されて景観は素晴らしい、眺め良好です。

 二の丸の復元丑寅櫓が令和2年7月に竣工公開された時に訪ねていますので5年振りの探訪で日没頃は初の探訪でした。
 天守台の復元は平成26年3月ですから11年も経っています。
 
 「日の入り前の西尾城本丸編ー2/2」へ続きます。
 

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ぴーかる

足利氏館 (2025/01/11 訪問)

【百名城72城目】
<駐車場他>鑁阿寺東側観光駐車場数十台分無料駐車しました。
<交通手段>車

<見所>鑁阿寺本堂・鑁阿寺山門・堀
<感想>新春1泊2日栃木・群馬旅1城目。人生初の栃木県に訪れました。東門から入り⇒本堂にてスタンプ押印、御城印の購入⇒鑁阿寺境内を散策し一旦出て、⇒織姫神社、神社内の蕎遊庵にて昼食をとりました。戻って⇒南と西側の堀を見て⇒山門をじっくり観察して鑁阿寺を終了し⇒最後に足利学校を訪れました。
 城跡としての遺構が堀・土塁のみのようなので見応えは少なかった。しかし足利氏が創建した鑁阿寺としての歴史が古いので国宝の本堂・重要文化財が多数ある建造物の見応えは良かった。また有料だが経堂にて巨大な八角の輪蔵(経蔵)を押して回す初体験ができたのは面白かった。関西人の私には経堂の方の生の栃木弁の説明も新鮮でした。★の満足度は少ないですが、織姫神社からの足利市の眺望や歴史の教科書に出てくる足利学校を見たりして、初めての土地を散策はなかなか楽しかった。

<満足度>★★☆☆☆

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「向石毛城」 (2025/03/01 訪問)

前回の「石毛城」から鬼怒川を渡り、「向石毛城」へ転戦しました。
とは言っても、到着して「向石毛城」だと知りました。
グーグルには『平将門公本據 豊田館跡』とあります。

茨城県 常総市 向石下 121
小さな公園に、「石下城」よりも更に大きな説明碑が、どでーんとありました。
向って右手が、平将門さんの功績と豊田館について。
左手が、豊田館の場所に「向石毛城」が築かれた等。
そして真中には1976年の大河ドラマ『風と雲と虹と』の将門さんの騎乗姿が刻まれてます。
少し前に総集編を観ました。
『将門さん、英雄だけど理不尽な出来事ばかり続くな〜
』が感想で、
『緒形拳さん、カッコいい〜。草刈正雄さん、若い!』
等、ぜんぜん物語を覚えてない自分が怖かったです。

説明碑の裏には「向石毛城」の図と賛同者のお名前も彫られていました。
私の住む東京の端っこにも、平将門さんが関わる神社があります。
「石毛城」の向こう側に「向石毛城」。
「豊田城」に来たら足をのばしては いかがでしょうか。

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シャンシャン

渋谷にも城があった! (2025/03/05 訪問)

渋谷駅から歩いて10分ほどの距離にある城跡。
渋谷は何度も行ったことがあったけど、再開発が進み高層ビルが立ち並ぶ喧騒の街に、こんな厳かな場所があることはまったく知らなかった。
現在は金王八幡宮という神社になっており、城の遺構はかつての石垣が「砦の石」として唯一置いてあるのみ。

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とばつびしゃもん

那覇の港を守る城 (2025/01/02 訪問)

三重県在住者としては気になる城名なので攻城。駐車場はなく同伴者に車を任せて登城開始。
ホテルに隣接し海に面したところにある。自然石を利用して作られた砲台で、陸地とつながる3か所の石橋をつくったため三重城と呼ぶとか。虎口付近に見られる石垣は当時の遺構かどうか不明。5分のスピード攻城。
年をまたぎ沖縄4日間で13城攻略し帰国。

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とばつびしゃもん

首里以前の王都の城 (2025/01/02 訪問)

浦添大公園南エントランス駐車場から攻城する予定のところを道に迷い、浦添グスクようどれ館駐車場に着陣しここから登城開始。
浦添ようどれは後にして、ルートに沿って復元石垣のところから城内に入る。館跡の先には浦添市街を展望できるところがあり、沖縄戦の激戦舞台になったことを示す案内板がある。その先、城の東側は立入が難しそう。
城の中心と思われる殿を通り城の南側へ・浦添城の前の碑のところから城の南方、復元中の首里城正殿の囲いを望む。
石畳道を通って浦添大公園南エントランスに立ち寄る。入館はできなかったがパンフレットを入手。
調査で発見された南側の石垣は目地が縦に直線になっているのがわかる。
ルートを一周した後、北側の崖下にある浦添ようどれへ。復元された王家の墓は立派の一言。墓番の屋敷跡地を通り抜け駐車場へもどる。80分の攻城。

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しんちゃん

困ったもんだね

名古屋城天守閣の再建について、なかなか元気な意見が出てきましたね。私も基本的に史実に基づく木造再建には賛成です。そもそも戦前の軍国主義のドあほうどもが要らない戦争を起こして国内外の多くの命を失い、領土を喪失し、貴重な城郭建造物を破壊してしまったのだから。何してくれんねんというのが正直な感想です。
国が起こした戦争なのだから、政治家や役人が地面に頭を擦り付け、三顧の礼をもって「お願いですから、◯◯城の天守を元通りに復元させてください」と言ってくるのが本来の筋であるのに、現状やっていることは全く真逆ですからね。
城郭は公共の場でもありますが、それ以上に貴重な歴史的遺構であるので勢いだけでバリアフリーを進めるのは危険です。一番重要なのが、団体(活動家)の無茶な要求に憤慨して怒りを一般の障害者の方に向けないようにすることです。
活動家の中には悪い人がいて、弱者をエサにして差別を助長しようとする者が居るからです。弱者や障害者の人たちには出来る限り親切にしたいものです。
でも木造再建の天守閣にエレベーターを付けろと言うのは、それとは別の話になりますね。

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飯羽間城 (2025/03/08 訪問)

  岐阜県恵那市にある城びとには未登録の城址です。鎌倉時代に岩村遠山氏から分流して発祥した飯羽間遠山氏の居城で、遠山十八支城の一つとされています。この地域には珍しく平山城で、本丸を最高所に階段状に曲輪が配置され帯曲輪、出曲輪なども備えられています。防御は急峻な自然地形と切岸で、堀、土塁などは見られません。県道近くから飯羽間城の看板が見え所在は容易に把握できます。見学路は整備されていて標識もあり迷うことはありません。県道近くから登城する道もありますが急峻で足元も不安定な所もあり、標識に従って登城した方が無難です。西側に出丸と思われる曲輪がありますが、登ってみると藪になっていて散策は断念しました。城内を散策していると「信長は今見あてらや飯羽間城を明知と告げの串原」と書かれた看板が置かれていました。天正2年正月、武田勝頼は大兵を率いて美濃に侵入し、1ケ月半の間に信長方の十八の城砦を落とします。この歌は戦勝気分にわき返っている武田軍の陣中で詠まれた歌で、「今見」「阿寺」「飯羽間」「明知」「串原」と、武田勢が抜いた城が詠み込まれています。

 明知鉄道岩村駅から徒歩30分弱で行くことができます。岩村城とは反対方向です。

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トク

梅満開の大宰府天満宮 (2025/03/08 訪問)

春のポカポカ陽気に誘われ、大宰府天満宮へ行ってきました。梅の花がちょうど満開で、大変多くの方々が訪れていました。毎年この時期にここに来ると、やっと春が来たなという感じがします。ちょうど高校・大学の合格発表が終わったばかりのせいか、菅原道真公にお礼に来ていた受験生が大変多かったように思いました。皆さん若い方の希望に満ちた顔が、ちょっとうらやましい・・・🤔。
 

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にのまる

城めぐりのきっかけ

『城めぐりのきっかけ』告白リレーに参加します(^^)

10数年前、会津旅行の際に立ち寄った会津若松城で「日本100名城」と「スタンプラリー」の存在を知りました。
帰宅後、早速スタンプ帳付きの公式本を購入し、名古屋城からスタンプラリーを始めました。なぜ名古屋城だったのか?多分、新幹線で行きやすかったからだと思います。

そこからスタンプ沼に嵌っていくのですが、『お城=天守』『天守閣=天守最上階』と思っていたくらい知識ゼロからのスタートだったので、全国各地のお城を訪れるたびに新しく知る「そうだったのか!」がおもしろくてたまりません!スタンプを押す瞬間の快感もたまりません!

ただ、ここまで続いているのは「お城が好き」なだけでなく「逃げ出したい現実」があったことも偽りのない事実です。(詳細は省略^^;)
お城に行くと日常を忘れてその世界にどっぷり浸れます。城郭検定の勉強をしたのも何かに没頭したかったという理由もあります。
つまり一言でいうと【現実逃避の城めぐり】です🤭

「城びと」サイトを知ったのは2017年の「お城EXPO 」で、早速会員登録しました。todo94 さんとじゅんじんさんが地道に投稿しておられ投稿欄を繋いでくださっていました。
「城びと」サイトとの出会いがなかったらここまで楽しくお城めぐりができていなかったと思います。コロナ禍の「しりとり」での朝田さんのご尽力はどれだけ感謝してもしきれません。

お城めぐりには皆さま同様、城郭放浪記さんや余湖図コレクションさん、また日本百名城塗りつぶし同好会さんのサイトを参考にさせていただいていますが、「城びと」もみなさまの投稿がどんどん増えてきて、行きたいお城の現状や交通手段などを知ることができて助かっています。単独で無茶して行くことも少なくないので、行った人にしかわからない現地の情報をいただけるのはとてもありがたいです。感謝していますm(__)m
編集部さん、登録3,000城全ての投稿が埋まったらお祝いパーティしましょうよ!!

朝田さん、福祉関係というのは何度か投稿で拝見していました。私もそっち関係(⁉︎)で、NPO法人立ち上げに関わったりプライベートでもいろいろありました(詳細省略②)。今は電車と徒歩にこだわってお城めぐりをしていますが、かつてはデカいハンディキャブを運転したりしていました。(もう無理です。)

「ニッポン城めぐり」のサイトは丸子城(静岡)を彷徨っていた時に出会った方に教えていただきました。主に移動の列車内でポチポチしています。「城めぐり」には八丈島の大賀郷陣屋が登録されており、もし「城びと」に登録されていたら東京都コンプリートはできていなかっただろうと、ホッとしています笑。合戦戦績は現在5勝14敗ですが、11連敗したことがあり、連敗がストップした時は嬉しいより“勝ってしまった”という複雑な心境でした。(もちろん全力で参戦しています。)HNは【式部卿にのまる】です。よろしかったら伝言お願いします。

以上とりとめもなく書いてしまいましたが、当面の目標は100名城と続100名城のコンプリートです。“いつか”は向こうからやってきてくれないとようやく気づきました。

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国府津辰之助

木造復元にバリアフリーを求める革新派に物申す!

 どうも初投稿です。国府津辰之助と申します。

 さて、河村前市長が計画を発表して以来、揉めに揉めて遅々として進んでいない名古屋城天守木造再建計画ですが、当然木造で昔のまま作ろうとするとエレベーターがないわけですからバリアフリー団体が黙っていないわけです。
「せっかく木造再建するんだから、すべての人が平等に見られるようにすべき」だの、「車椅子利用者はどうするんだ」だの。正直に言いますと、「うるせぇよ」と思うんですね。
この木造再建の目的と言いますか、意義と言いますか、そういうのは結局、「江戸時代の技術・建築を後世に伝えること」ではないかと思うんです。正しく技術継承をしていく上で、当時存在しなかったエレベーターの設置は邪魔なわけです。
 新市長が再建計画をどうしていくのかは分かりませんが、木造再建計画をそのまま引き継いでいくのであれば、ぜひエレベータのない姿で再建して欲しい限りです。

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にっしー

天守に入らなくて残念! (2025/02/03 訪問)

大多喜城の天守は、ずっと休館中だったので入れなくて残念、、。天守の近くにある小さな資料館に無料で入れた!大多喜城は平山城だけど、思っていたよりも傾斜があって、少し攻めにくそうだと感じた!!

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にのまる

シラス台地の大空堀 (2025/01/21 訪問)

鹿児島中央駅から知覧行きの路線バスを利用しました。
到着後最初に特攻平和会館へ行ったのですが、戦争の悲惨さや理不尽さに何も考えられなくなってしまいました。写真、手紙、遺品が伝える一人一人の生命の終わりの時。自分の目で見て知ることの大切さを思いました。

ミュージアム知覧で続100名城のスタンプを押しジオラマ等見学、スタッフの方に知覧城の状況を伺い地図をいただいて徒歩で向かいました。
足を踏み入れると間もなく大空堀に出会い一瞬で虜に。そしてそこらじゅうシラス!本丸→蔵之城→弓場城→今城の各曲輪を一つ一つ登りました。それぞれに残る枡形虎口。中でも今城の虎口がかっこよかったです。
続100名城とは言え大勢の方が押し寄せるところではないようですので登城前は漠然とした不安を抱えていたのですが、素敵な城歩き体験ができました。

帰りのバスまで武家屋敷街を散策しました。

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カズサン

【三河 岩根城】愛知県安城市 賤ヶ岳七本槍加藤嘉明出身の地 (2025/03/01 訪問)

 本證寺探査でグーグルマップを眺めていると北北東約700m先に岩根城址を発見、調べると賤ヶ岳七本槍、伊予松山城築城の加藤嘉明と有り、本證寺探訪の後に訪ねました。

 住所:愛知県安城市小川町岩根141
 駐車場:無し、無理をすれば1台岩根公民館前に駐られるか?、今回は本證寺参拝者駐車場にそのまま駐め徒歩で進行。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 本證寺の北辺土塁、空堀、外堀探訪の後、車は参拝者駐車場に置き徒歩で進行、大門から東に約100m進み車交通量の多い歪曲した道を北東へ、信号のある交差点「寺領町東」を北進約200m、全体では約700mで南西角子供の遊戯施設のある子供公園、北西角の岩根公民館、秋葉神社に着く。
 岩根城址解説板は岩根公民館の西面に設置されている。また子供公園の看板にも岩根城跡地の表示も有る。
 現在は微高地畑地と住宅が立つ岩根集落で遺構はありませんが岩根城址の解説板が救いです。
 解説板によると
 鎌倉時代に加藤正成の築城と伝わる城館、城域は東西・南北とも70間(約127m)北・西・南に土塁と堀が在ったとされています。
 平成25年の発掘調査で南西の堀が確認、堀幅4.7m以上深さ2.8m以上と。

 夕刻17時前の夕日が沈むころ冷風に吹かれての探訪でした。
  

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トク

幻の天守閣イベント始まる

幻の天守閣ライトアップイベントが始まりました。桜まつりりの日程も決まったようです。ライトアップは昨年は5月末まで行われましたが、今年は発掘調査のため桜まつり終了後、昨年より早く撤去されるようなので、お早めにどうぞ! 潮見櫓の一般公開も3月17日から始まるそうです。

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しんちゃん

会津は良田の地。 (2024/09/17 訪問)

北田城は鎌倉時代から南北朝の時代において県内最大の平城であったと現地の案内板には記載があります。昭和30年代には土塁などの遺構は、ほとんど取り崩され現在は案内板と石碑が残るのみです。本丸の西手から北側一帯に二の丸が配され、その北側に北丸(北郭)が配され、北と東は旧湯川が天然の堀の役割をしていたようです。
会津を走って見て感じるのは、この一帯は良い米どころで収穫の時期の近づいてきた田がたくさんあることです。猪苗代湖も有り、周囲を山々に囲まれ、どこか京都周辺に通ずるものがあります。戦国時代に多くの大名が会津を欲しがったのは当然のことだと思いました。

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しんちゃん

会津討伐の際に城主が逃亡。 (2024/09/15 訪問)

大森城は城山公園として整備されています。南北に長い縄張りで、遺構は限られていますが、空堀が一つ残り橋が架かっています。
本丸はお花見広場として市民の憩いの場となっており、北の端の方には模擬の物見櫓が建っています。
南北朝時代の伝承もあるようですが詳細は不明、戦国時代には伊達稙宗の三男・伊達実元が城主になっています。伊達成実が二本松城に移ると、片倉景綱が入り、上杉氏が会津に転封になった際には栗田国時が入りました。
会津を守る重要な拠点でしたが、慶長5年(1600)徳川家康の会津討伐の際に栗田国時は藤田信吉と共に出奔し、信夫郡伏拝(福島市伏拝)で追っての襲撃を受け国時は殺害され、信吉は逃亡しました。

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赤い城

城めぐりのきっかけ

遅くなりましたが私もイオさんのご質問へのアンサーを。
地元の城は三沢城、家からも近いです。
地元では要害山と呼ばれていす。
また松江城も身近でしたので城好きになるベースはあったかな。

城めぐりを始めたのは姫路城で100名城のスタンプ帳を見つけてからです。
当時大阪在住でスタンプ目的で近隣の城や旅行先の城を廻ってました。

その後関東に移り、皆さんもご利用の城めぐアプリに出会います。
最初から「攻略」にはあまり熱心でなく、行った証でフォトをアップすることをメインに使ってました。
それなりにゲーム感も楽しんでますが・・・
今は1日1枚+リア時のフォトをアップしています📷
(ここでは別のHN使ってますが同じようなフォト出してるのでわかると思います。城びとオールスターズの皆さんから伝言いただけると嬉しいかも)
アプリを通じて城ともさんも出来たある時「一緒にリアしませんか」とのお誘いがありました。
その際に行ったのが東京の戸倉城他。
それまでは本丸に行くことで満足してましたが堀切などの遺構の素敵さに惹かれました。

その頃城びとにも出会います。
遡ってみると最初のレポートは土気城でした。
最初のレポートにも朝田さんよりポチいただいてました😊
感謝です✨

その後も唐沢山城の竪堀を降りてみたり常陸の堀底道周回を楽しんだり、気づけば関東の城びと登録城をコンプリートしてました。

今は四国に移り、近隣の城を楽しんでます。
なかなか遠征行けないのでマイナー城や未登録城も含めてレポートしていきたいです。
今後もお付き合いいただけると嬉しいです⭐

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しんちゃん

圓城寺門 (2025/01/05 訪問)

岩手県の南の方には雪は無かったのですが、花巻市や盛岡市には雪が積もっていました。山城などのある地域に向かうと除雪が完全ではありませんでした。中古で購入したスノータイヤなので性能的に不安が有りましたが、十分役に立ってくれました。
花巻城の圓城寺門は花巻城の唯一の遺構とされています。慶長19年(1614)に藩主・南部利直公が「二子城」の表門(大手)を引き上げて、花巻城の搦手(裏)門として設置したとされています。かつては、この付近に圓城寺という寺が有り、その近くの坂に建てられたので圓城寺門の名がついたとされています。明治4年に花巻城は取り壊しになりますが、この門は北上市の民家に払下げられ、後に花巻市の軍医によって買い戻され鳥谷ヶ崎神社の境内に移されました。
しかし戦後の荒廃によって、ケヤキの柱以外は大きく損壊したた状態になりますが、昭和36年に市の補助金を受け現在の場所に復元され今に至ります。

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