廃城令後も現存し国宝となっていたが、惜しくも空襲で焼けてしまった大垣城。
秀麗な外観天守が復元されている。
かつては10以上の櫓があり、幾重の水堀にも囲まれた壮大な城だったらしいが、今は公園の一角にコンパクトにまとまっておりとても回りやすい。
天守からは遠くにかすかに岐阜城も見える(^^)
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2025/01/11 20:30
2025/01/11 19:40
信長由来の名城 (2025/01/10 訪問)
戦国時代に訪れた宣教師ルイス・フロイスもその豪華絢爛さに驚愕したという岐阜城。
折しも前日夜からの大雪により、なかなか大変な攻城となったが雪化粧の城を見ることができて、逆に良い思い出になった(^^)
天守からの景色も絶景で、かつて信長もこの景色を見ていたと思うと感慨深い。
近くの法華寺と妙照寺に、岐阜城から移築された門が現存している。
また岐阜城とは関係ないが、正法寺の岐阜大仏も日本三大仏の一つだけあって迫力満点!こちらもおすすめスポットの一つ。
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2025/01/11 19:02
2025/01/11 18:23
2025/01/11 17:28
斎藤妙椿 (2025/01/11 訪問)
応仁の乱で活躍した斎藤妙椿の居館跡です。以前に来た時に空堀の印象が良く再登城しました。当時の居館跡としては大きなもので説明板では東西約150m、南北約167mの規模とありました。また「東海の名城を歩く」(吉川弘文館)によると形状は台形で東辺110m、西変180m、南編210m、北辺150mとあります。南側は可児川を天然の堀としていました。東西北は深い堀と高い土塁がめぐらされています。土塁から堀底まで最大で高さが約10m近くの堀が残っています。東側は堀底も確認でき散策することもできます。それ以外の空堀は確認できるのですが、竹藪となっていて見づらい状況でした。なんとか堀底へ行けた所もありましたが、倒竹に阻まれ散策はできません。冬ならば空堀の状況がよく見えるかと思い来ましたが、あまり変わりません。北側に土橋があり内部に入れますが、民家や畑となっています。民家のない場所もありますが、藪となっています。
山城が多い可児市には珍しい中世の居館跡で、あまり整備はされていませんが、空堀や土塁もかなり残っていて当時の規模を知ることができます。斎藤妙椿、妙純は応仁の乱の頃は重要な役割を果たした武将だと思いますが、あまりメジャーではありません。岐阜県在住の自分としては興味がある存在です。
名鉄顔戸駅より徒歩5分くらいで行くことができます。
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2025/01/11 17:27
2025/01/11 15:13
北条高広・景広の奮戦の末に (2024/04/27 訪問)
大江広元の四男の四男が越後に入って越後毛利(北条)氏の祖となった。戦国時代には北条高広・景広父子が活躍したが景広は御館の乱で謀殺されて北条も北条城も奪われ、父の高広も北条には帰れなかったらしい。
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2025/01/11 14:16
令和7年登城始めは駿府城 (2025/01/10 訪問)
昨年1年間駿府城への登城をしていなかったようで城探訪散策の虫も疼きはじめ今年初の登城は駿府城と決めて地道の天竜ー掛川線を経由して1号線BPで約75km程、駿府城へ出向きました。駐車場は三の丸北東角の市民文化会館地下駐車場(30分100円)を利用。
市民文化会館地下駐車場から二の丸堀を東御門へ巽櫓を眺めて東御門木橋から高麗門、枡形、渡櫓門、鏡柱前には大型の門松が対に飾られている、櫓門を潜り、今更ながら渡櫓門冠木梁の中と内側の松の大木には驚愕する。
発掘出土した本丸堀、裏から巽櫓、東御門多聞櫓を眺めて二の丸の仕切土塁・石垣(東喰違御門跡)を眺めて売店の静岡おでんを見て店は繁盛してる。
毎度お馴染みな投稿写真ですがご勘弁を、中に入りませんでしたが外から眺めてるだけでも楽しいものです、当日今冬最高寒波の襲来とか風は冷たくカメラを持つ手も震えます、撮影用指だし手袋をしていましたが冷たい。
次は坤櫓と富士山眺望へ。
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2025/01/10 22:22
もうワンチャン期待したい (2024/12/12 訪問)
トクさん・・私も同感です。これだけ盛り上がりを見せておいて、じつはこっそり埋戻ししています・・なんて顛末は想定していません。
とか、言いながら実は私も行政を完全には信用してはいないので万一に備えて見に行って来たわけですが、見事な手のひら返しですね。
最近、滋賀県や歴史人などの十大ニュースなどにもランキングされていたのですが、妙に順位が低かった理由もここにありそうです。
榎下城の投稿です。榎下城は旧城寺の境内となっており、上杉憲清によって築かれたとされています。大手は南側についており、かつては周囲を堀と土塁に囲まれており、今でも門の周辺に土塁が良く残っています。本堂の裏手が一段高くなっており、このあたりが主郭と見られます。
上杉憲清の子、憲直が永享の乱(1438)に関東公方・足利持氏に加担し敗れ、金沢の称名寺で自決して以来の城主については不明なようですが、戦国時代にも小机衆の拠る小机城に対しての出城の役目を果たしていたと考えられているようです。
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2025/01/10 19:32
まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)
【城域3】
<登城路>尾根が4方向ぐらいの合流地点に当たるのでどこかのルートには繋がっている(踏み跡・道は無い)かとは思いますが、北尾根から入ると分かりやすい。私は1日目にたどり着き付けず、2回目で行けました。私が行ったルートは曲輪群[2-3](2-3への行き方は2-3での投稿で説明します)の南端の尾根(はじめは斜面を降ります)を南下します。平坦な尾根が続きますが分岐があります。南を向いて最初の分岐は右方向、次の分岐は左方向に進んで行くと城域3に着けます。
<見所>土塁・尾根曲輪
<感想>単独した1つの曲輪群ですが、前述の通りここから尾根が4方向程あり尾根の大きな中継要塞の役割も兼ねていたかと感じます。南東方向の尾根を削平して曲輪群を配しています。北端の曲輪が広く主郭であったろうと思われます。中心部にコ状の土塁が明瞭に残っていました。コ状土塁は曲輪群[2-2]にも似たような遺構が残っていて同じものかと思われます。南に伸びる尾根曲輪を見て尾根の上を人が行き来して城域間を繋げていた事がよく分かります。次の投稿は城域2:曲輪群[2-2]です。
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2025/01/10 18:56
冬の福岡城 (2025/01/10 訪問)
福岡市にも今年初めて雪が降りました(積雪1cm)。福岡市内の中心部で雪が積もるのは、例年せいぜい1~2回あるかないかくらいなので、今なら珍しい福岡城の雪景色が見られると思って行ってみると、着いた昼前にはすでにほぼ融けていました(残念!早すぎ~)。
帰りに三の丸の潮見櫓の移築工事現場に寄りました(写真⑧⑨)。潮見櫓ほぼ完成しているようで、今春には予定どうり公開されそうです。同じく三の丸には椿の花が綺麗に咲いていました(写真⑩)。
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2025/01/10 18:49
三の丸石垣の件
しんちゃん、POYO君わざわざ市役所まで問い合わせていただいたようで、ありがとうございました。まさか埋め戻されるとは思ってなかったので・・・ちょっとショックですね~。開発業者の方も保存する事で賞賛を浴び、大津市も日本城郭協会から特別表彰まで受けた、あのフィーバーは一体何だったのか? そしてなぜそうなったのか? 私には経緯がわからないのでモヤモヤという感じです。解決に時間がかかるので保存のためにいったん埋め戻しただけならまだいいですが、それともすでに土地購入者の要望で住宅が建てられていたら大変ですね。しかしよく考えてみれば、近隣住人からすればいい迷惑だと確かに思います。閑静だった住宅街に人がぞろぞろやって来ては覗かれ大騒ぎされて、これでは落ち着いて暮らす事もできない。近隣住民の猛反対なのでしょうか? 大津市はお願いする立場で強制はできないので、文化財振興課の方は、我々以上に本当は辛いのかもしれませんね。しかし粘り強く交渉される事を期待して、そしていつかは保存公開される事を願って、ここは静かに見守りたいと思います。
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2025/01/10 18:44
2025/01/10 15:36
2025/01/10 06:56
池内城 香川県さぬき市 (2024/12/22 訪問)
城びと未登録城、長尾衝上断層の駐車場に車を置けます。
東側の石段を登ると城址に着きます。
途中、左手に櫓台状の曲輪があり、手前に浅くなっていますが堀切も見られます。
山頂部が主郭、広く大部分は墓地となっています。
南西側には土塁があり、脇から竪堀が落ちていました。
腰曲輪も見ることができます。
南東側にも櫓台があり、ここも墓地となっていました。
寒川氏の居城ですが詳細は不明。
詰城の昼寝城を背後に置く平時の居館だったと思われます。
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2025/01/09 22:14
2025/01/09 21:55
衣笠氏の城 (2025/01/09 訪問)
鎌倉時代後期から戦国時代にかけて櫨谷地域を治めた衣笠氏の居城です。戦国時代に羽柴秀吉が三木城を攻めたときに別所方に味方し、三木城落城の頃に落城したと伝えられています。
丘陵の尾根に築かれた城で、堀切で区画して防御しています。本丸、二の丸は整備されていて三の丸は満福寺となっています。二の丸と三の丸の間に堀切がありますが、満福寺近くの登城路から進むと倒木などで見づらい状態でした。本丸の北側にも深い堀切が残っています。ぴーかるさんの投稿を参考に西の壇よりアプローチするとその堀切の底部に行くことができました。西部は容易に散策できますが、北側は倒竹で侵入が困難になっていました。西側は竪堀となって落ちています。ただ谷のような地形が隣にあり二重掘りのようにも見えました。「山城賛歌」さんのブログにある縄張りを見ると二重掘りのように描かれていましたが、自分としては城内に見ることができる縄張り図よりしっくりします。
眺望はよく二の丸から瀬戸内海が見えました。
コンパクトながら見ごたえのある遺構が残っています。
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2025/01/09 19:34
一期一会 (2024/12/07 訪問)
POYO58さん、こちらこそコメントありがとうございます。いろいろと問題はあると思いますが坂本城の三の丸石垣の保存公開が叶うことを願っています。縄文時代の遺構ならともかく、戦国時代の城郭遺構は、その時代の人々に愛でられながら、じわじわと朽ちていくのが無常感があって良いと個人的には思います。
久々利城の投稿です。この日に岐阜県可児市で行われた「山城にいこう!2024」の講演スケジュールで初めて香川元太郎先生のお姿を拝見することが出来ました。このわずか数日後に65歳でお亡くなりになってしまったのですが、これも悲しい一期一会のようなものかもしれません。講演まで時間が空いていたので、先に久々利城を訪問しています。枡形虎口から各郭を経て、本丸背後の二重堀切まで確認してから下山しました。
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2025/01/09 19:29
2025/01/09 18:58
まるごと将軍山城 (2024/12/08 訪問)
【城域4:曲輪群[4-1]】
<登城路>たぶんですがこの曲輪群へ行くには周囲に平坦な尾根が繋がっていないと思われます。参考程度ですが、京都一周トレイルの58番(場所は先に説明)から南への谷または川に沿って南下、分岐を東方向へ行くと城跡の北側谷部まで行けます。そこから南方向へ直登して尾根に出て南下するとたどり着けます。私は城郭放浪記さんのルートで58番から東の尾根に登ってルートを辿っていくと尾根が無くなり、谷に降りて立ち往生していると、地元の仕掛け罠の猟師さんに出会って(この場所で人に出会ったの初めてと驚いていました)、詳しいGPSで現在地をピンポイントで教えてもらって、前述の北側谷部から直登して行けました。猟師さんに出会ってなければ攻略できなかったまぐれです。
<感想>曲輪以外の遺構は表面観察では見受けられなかったですが、曲輪の輪郭ははっきり残っていて城跡とすぐに分かります。西側に広めの楕円形の削平地があり土塁が残ります。そこから東方向へ伸びた曲輪があります。比較的ゆる斜面に段曲輪があったかもしれませんが、現在は埋もれてしまったか山化して分かりませんでした。この曲輪群は単独で存在していて竪堀・堀切も見受けられない事から初期の段階の遺構と思われます。焼いたり、破却した後再改修の手は加わっていないように感じました。
城跡にちょうど立派な角の鹿と遭遇して(鈴2つ付けていたのに)至近距離まで来て、鹿が驚いて急斜面を駆け降りて逃げて(近かったので逆に向かって来られたらヤバかった)いきました、猟師さ~ん鹿ここにいますよ~。次の投稿は城域3です。
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