城域に散見した不細工で趣のある石積達です。写真1.2の石積が引き返す目印になります。
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2024/07/03 18:48
2024/07/03 18:40
楽しい (2022/11/22 訪問)
訪問データー:2時間10分:1.8km:累計高低差317m
鬼神城郭放浪記さんの情報により既存林道を歩いて城域を目指しました。ですが林道である事を辞めたようで2列に杉が植えられていました。日当たりの良い場所では高さが3mを越していて抜け出すのに難儀しました。1年半前なので今では随分育っているかと思います。入口にはピンクリボンのある多重竪堀から入ります。
ルート図北から半時計周りに軌跡通りにトレースすると主要な城域を廻る事が出来ますが、主郭から北に幾つもの曲輪を降りていくとその先から道が無くなり駐車場所に戻るのが非常に苦労します。おそらくこちらが大手だと今でも思ってはいるのですが。一番目立つ石積がありますのでそこで引き返して元の林道行くのが無難かと思います。
城域内部は表示などほとんど無く過剰に手が加えられていないとても楽しい場所です。曲輪は元より竪堀・ウネウネ・不細工な石積が散見出来ます。
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2024/07/03 17:19
道沿い土塁に城名石碑 (2024/06/07 訪問)
消化不良だった海老ケ島城を終えて、南西約12km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪7城目(ラスト)道沿いの駒城を初登城。
駐車場:無し、案内板の南側幅寄せして路駐(36°13'13"N 139°55'13"E h=30m)
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
東より県道233号線走行し県道の1本北の道に入り200m程に史跡マークの駒城、こんもり樹木が茂り案内板が有り直ぐに分かります、案内板、城名標柱が道路脇、城名石碑は奥の土塁上に設置、立派な石碑です、季節柄草が生い茂り中に進入し難く道路上で眺め写真を撮って終了。
案内板によると。
ここは東西120m、南北180mにわたる駒城の北西部にあたると有り、鬼怒川の東傍で西側の濠代わりとし東は水田当時は湿田か沼地で守っていた様子がグーグルマップの航空写真で推測が出来ます。
南北朝時代藤原実寛が城主としてたてこもり、小田城に在城していた南朝方の北畠親房、関城の関氏、大宝城の下妻氏ともに北朝方の
高師冬との激しい戦いを繰り返し1340年5月駒城は落城、藤原実寛は捕らえられた。(案内板抜粋)
駒城で多良埼城主目的常陸未踏の城探訪7城登城完了。
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2024/07/03 15:50
108【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と天正壬午の乱(1/3)ー新府城) (2024/03/18 訪問)
(26人目)井伊直政の続き⑩です。
天正壬午の乱の時、家康が陣を敷いていたとされる「新府城」を訪れました。JR新府駅から15分程歩き、そこから最後に心臓破りの階段を登ると本丸の藤武神社です(写真①)。
いや~感動です! 南側三の丸にあるの桝形虎口と丸馬出の向こうには、雪をかぶった富士山がきれいに見えました(写真②③:訪れたのは3月です)。新府城から富士山がこんなによく見えるとは思ってもみませんでした。そして本丸から西側には、同じく雪をかぶった南アルプスの山々が迫ってきれいに見えました(写真④)。このような雪をかぶった雄大な山々が連なる姿は、私の住む九州では絶対に見られない光景です。この日は雲ひとつない晴天で、しかも月曜の午前中という事もあり、2時間滞在しましたが、滞在中またもや誰にも会わず、この広い新府城と感動の絶景を一人占めー! 大満足の登城でした~!😊
では少し冷静になり本題に入ります。
ここでまず築城した武田勝頼の事を考えてみました。
勝頼は、北西側には2つの出構を構築してそこに鉄砲陣地を設けていたという事は、北西から攻めて来るであろう織田軍を想定していたと思われます(写真⑧の手前下に出構がある)。さらに南東側には巨大な丸馬出と三日月堀を構築していました。これは南東から攻めて来るであろう徳川軍を想定していたと思われます(写真⑤⑥)。もう少し築城に時間があれば、たった68日で落ちる事もなかったでしょうね。勝頼のくやしさが、この本丸にある勝頼公慰霊の社(写真⑦)から伝わってくる気がしました。
次は徳川家康の事を考えてみました。
家康と北条氏との関わりは二度ありました。
一度目はこの「天正壬午の乱」です。信長亡き後、空白地帯となった甲斐・信濃の争奪戦です。伊賀越えから一か月後、休む間もなく出陣した家康はここ新府城に陣を敷き、北西にある「若神子城」に陣を敷く北条氏直と対峙します。この時北条軍は2万とも4万とも、徳川軍はわずか数千、完全にに不利な状況です。
私は本丸に立ち北西側を眺め考えてみました(写真⑧)。右の山と山の切れ目あたりに北条軍が陣を敷いていた若神子城があります。家康と直政は同じようにここから北条軍を眺め、この不利な状況をどうやって覆せばいいのか? 悩みながらもいろいろと起死回生の策を巡らせていたのではないでしょうか?
しかし待てよ・・・ここでふと疑問が?🤔
家康はこの新府城のいったいどこに陣を敷いていたのでしょうか? その当時は勝頼が火を放ってからまだわずか数ヵ月なので、あたりは一面焼け野原だったはずです。なのにどうやって80日もここに滞在する事ができたのでしょうか? まさかこの寒くて焦げ臭い場所に80日も野宿できるはずがありません。どうやらここには見張りの兵のみを置き、南東側にある有力者の屋敷や寺社に滞在していたようです。
さらに北条軍はこの膠着状態を打開するため、背後の小田原から1万の増援部隊を出します。それに対峙できるのは甲府にいた鳥居元忠の1500の兵のみ(黒駒の戦い)。挟み撃ちにあった家康は、もはや絶体絶命の大ピンチ! しかしここから、どうやって北条軍を破り、直政はどのようにしてその勝利に貢献したのでしょうか? そのヒントが、直政が滞在していたのではないかとされている「平塩寺」にありそうなので、次はここから平塩寺に向かおうと思います。
【注意】新府駅から徒歩で登城する方へ
新府駅から新府城まで、何と飲料水の自販機は1台もありません!(当然お店などもありません)。飲み物などは電車に乗る前に買って乗って行った方がいいです。私は知らずに喉の渇きに耐える羽目になってしまいました。また新府駅は無人駅ですが交通系ICは使えます(タッチ機あり)。最後に電車を待っている間に、駅前の菜の花畑から撮影した富士山も添えさせていただきます(写真⑨⑩)。
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2024/07/03 08:04
北畠具教最期の地 (2024/05/04 訪問)
戦国末期に北畠具教が隠居所として築いた城館で、西辺から南辺を堀代わりの谷川で画し、東の茶臼山と西の八幡山の山腹に砦を設け、単に隠棲するのではなく武田信玄に密使を送るなどこの地で再起を図りましたが、北畠信意(織田信雄)が差し向けた長野左京進らにより具教が謀殺された後は、森清十郎が城主となりました。
カズサンさんに倣って茶畑の間の駐車場から登城しました。三瀬館の前にも広い駐車場があり、駐車場北側の館跡には石垣が見られますが、これが城びとの城郭情報にある遺構の石垣でしょうか? 北側の山裾には階段状に削平された館跡が広がっていて、北畠具教卿三瀬館趾の石碑と説明板が立てられています。
館跡には北畠具教最期の地として胴塚の碑と説明板も立てられていて、堀代わりと思しき南辺の谷川を越えたところには胴塚が祀られています(石碑もあります)。胴塚と云うからには首塚もあり、三瀬館から西北西に約9km、松阪市飯高町野々口の山中に五輪塔が建てられていますが、具教の首を奪い返した家臣が霧山城に向かう途中で霧山城落城の報を受けて、やむなくこの地に埋葬したものと伝わります(下滝野城から九曲城への道中にあるため、首塚は前週に訪れました)。その他、八幡山麓の北畠神社(南西に徒歩約5分)には具教が主祭神として祀られています。
三瀬館から東に徒歩約5分の茶臼山中腹には砦が設けられ、見張所として機能しました。現在は公園として整備され、主郭には秋葉社が祀られています。主郭からは宮川と熊野街道、三瀬の町並みを見渡す眺望が開けており見張所だったことを納得しました。見事な堀切をはさんだ北側にも細長い曲輪があり、東屋が建てられています。
目立った遺構はほとんどありませんが、松阪市内の城めぐりをしていると北畠具教の名に接することが多いだけに、その終焉の地を訪れて、館跡に胴塚、神社など具教の無念を伝える多くの史跡に触れることができたのは感慨深いものがありました。
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2024/07/03 01:06
周辺の城と防衛線を形成 (2024/01/27 訪問)
北を三沢川に面した多摩丘陵の先端に位置する浅間山の周辺に小沢城は築かれており、南西400mほどの位置に読売ジャイアンツ球場やよみうりランドが存在します。一見閑静な住宅地なのですが「余湖くんのお城のホームページ」さんの記事にあるように営業時間中はなかなか賑やかそう。遺構はいまひとつはっきりはしないものの、背後の細い尾根上に西から物見台、浅間山(曲輪として利用)が連なり、途中に堀切もありました。尾根にはだいぶ細い個所があり、木橋がかかっています。尾根の南側一帯には武士の居館跡とみられる複数の扁平地が見られます。
小沢城は平安時代の末期に稲毛三郎重成もしくは、子の小太郎により築かれたとされています。観応2年(1530)に足利義直方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落城させたとあります。戦国時代には北条氏の城として寺尾城や桝形城と連携があったと思われ、享禄3年(1530)には小沢城から北条氏康が出陣し、小沢原の戦いに向かったとされています。
太平洋戦争中には小沢城跡に探照灯が置かれ、桝形山に設置された高射砲で敵機を砲撃していたとのこと。時代が変われど守りの要として周辺の城跡と連携していたようです。
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2024/07/02 22:34
しりとりの聖地へ(2度目)。 (2024/06/21 訪問)
会津若松から小出まで只見線の旅。
途中の会津塩沢駅に“河井継之助終焉の地”とありましたが途中下車したらそこでゲームオーバーなので降りられません…。
只見川を眺めながら4時間42分の乗車を満喫し上越線に乗り換えて長岡へ。
長岡駅に降り立った時点で長岡城🏯到達\( ˆoˆ )/
乗り継ぎ待ちの時間に本丸跡の碑へ。
駅前の観光案内図を見て旅行気分を味わいました😊
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2024/07/02 21:46
2024/07/02 21:28
戸石城散策1/2(砥石城~本城) (2024/05/03 訪問)
昨年のGW,松尾古城攻城後に計画していましたが,ふくらはぎがつりそうになり断念しました。ほぼ1年後のリベンジ攻城です。
1年前の信州も猛暑に見舞われましたが,今回も猛暑となりました。基本は雨男なんですが,晴れれば猛暑となるようです…<苦笑>。
昨年と比較しても,上田駅からのバスはかなり少なくなっていました。運転手不足が深刻なようです。しっかり調べることをおすすめします。
ということで,2024年GW後半は信州です。といっても隣県ですが…<笑>。
新潟市内からは高速バスが手頃です。参考までに。
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2024/07/02 20:45
知立城 (2024/05/11 訪問)
【知立城】
<駐車場他>知立神社駐車場無料がいい。リパーク知立駅北60分220円に駐車しました。
<交通手段>車
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅4城目。城びとの城郭情報によると知立城は平安時代に永見貞春によって築城されたとあります。永見氏は代々、知立神社の神主で神社の南側にあるわずかに高台になっている場所に城郭居館を構えたと思われます。戦国時代には永見氏は周辺豪族(特に水野氏)と血縁関係を深めます。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、追ってきた織田軍によって知立城は落城します。この地は江戸時代には池鯉鮒宿の宿場町になっています。
まず、池鯉鮒本陣跡の石碑を見に行き、知立古城址に行きました。現地は公園広場になっていて、遺構は残されていませんが、城址の場所は東西に少し長い高台になっていて立地の状態は分かります。次に知立神社に行きました。重要文化財である1509年再建の神宮寺多宝塔があり見応えありました。
<満足度>◆◇◇
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2024/07/02 19:50
板東武士の鑑なれば (2024/05/05 訪問)
畠山館は「板東武士の鑑」とうたわれた畠山重忠公の居館跡で、現在は史跡公園として整備されています。社のような建物の中には重忠公と家臣のものと伝わる五輪塔があり、重忠公が郷土の人にどれだけ大切に思われているかが伝わってきます。
馬を担いでいるインパクトのある銅像は、一ノ谷の合戦で、崖を降って敵を急襲する際に愛馬・三日月が怪我をしないように背負って降ったという逸話をもとに製作したものです。ちなみに日本在来馬の重さは350kg~420kgとされています。
重忠公は元久2年(1205)二俣川で北条義時の大軍を相手に130騎ほどの少数で戦い、愛甲三郎季隆に射られて討死したとのことです。
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2024/07/02 19:11
愛甲城 愛甲三郎季隆 (2024/01/27 訪問)
愛甲城‥神奈川県厚木市愛甲西
愛甲城は鎌倉時代の御家人・愛甲三郎季隆の居館跡とされています。現在は公民館の敷地となり、神明社や城址稲荷が建っており、北側には玉川が流れ、間には畑地が広がっています。
愛甲三郎季隆は弓矢に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めたとのことです。元久2年(1205)の畠山重忠の乱では幕府方として参陣し、二俣川の戦いで得意の弓で重忠に矢を命中させ首級を挙げたとされています。しかし、建暦3年(1213)の和田合戦では和田義盛に味方し、兄の小太郎義久ら一族とともに討死したとのことです。
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2024/07/02 19:07
閑話:タイムアタック京都・滋賀 (2024/05/07 訪問)
岬上の城郭はめぼしい遺構が堀切しか無く、毎回似たコメントになるので苦しかったです。北の城郭岬編で一区切りついたので休憩を兼ねてタイムアタック後編、伏見寺田屋からです。
・寺田屋①→14.美豆城→15.神足城②→16.開田城③→17.今里城④→18.上植野城⑤→19.菱川城⑥→20.横大路城→21.下三栖城→22.瀬田城⑦→23.山田城⑧→24.金森城 降雨により中止 (22~24は滋賀県・〇は写真番号)
10時スタート黒丸城より終了金森城は16時30分でした。6時間半で24か所は時間的コスパが非常に良いでした。一部土塁が残っていたり空堀が残っていたりと遺構が少々残っている城郭もありましたが大半は石碑・案内板と神社でした。割り切って城訪問もいいものですね。遺構が少ないのは都心部なので仕方がないと思います。楽に城郭と絡む事が出来るのでお勧めです
今後、北の城郭投稿は暫くの間封印して城訪問中断以前の投稿に入りたいと思います
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2024/07/02 18:54
瀬田の唐橋 (2024/02/10 訪問)
瀬田城は琵琶湖から流れる瀬田川の東岸に築かれた城で、瀬田橋とともに重要な軍事的な意味合いを持つ拠点でありました。近江が織田信長の支配下にあった時代の城主・山岡景隆は織田信長の信頼も厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていたそうです。
唐橋には藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説が残っており、宇治川の合戦の舞台となるなど歴史的に大きな意味を持っています。かつて信長は足利義昭より副将軍や管領の地位に就くよう提案を受けますが、かわりに「堺」「大津」「草津」の支配権を要求しました。名前ばかりの官職より、よほどこれらの土地が魅力的だったのだと思います。
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2024/07/02 16:05
海老ヶ島城探訪未消化でした (2024/06/07 訪問)
小原城を終えて南西に約30km程、常陸未踏の城探訪6城目海老ヶ島城を初登城。
駐車場:西松原コミュニティセンター(西松原自治会)駐車場利用(36°15'28"N 140°01'53"E h=30m)
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
駐車場から先ず史跡マークの新善光寺を目指す、城跡の案内板など無し指示看板も無し、史跡マークが示す山門前にも特にない、東の参道門柱前に新善光寺由緒が有り、その中に「1595年に宍戸氏14代安芸守義長公が海老ケ島の郷(現在地)に移城するのに伴い、道場を当地に移す」の記載が唯一「海老ケ島城」の名称。
その後余湖図コレクションさんの俯瞰図を頼りに歩い見るが、東の大川が東外堀かな?龍泉寺辺りに遺構があるとの情報も有り訪ねるが案内板も無し、あまり深く踏み込んで居ませんので堀跡、土塁は良く分からず、グーグルマップの史跡マークで南県道14号線との合流点に「海老ヶ島城二郭土塁跡」が有り龍泉寺より集落中心の交差点に戻り、南へ約300m程歩くと14号線に接して塚の様な土盛りが有り史跡マークの二郭土塁跡か?案内板は無い、上に祠が有りっ祀られている南西面に鳥居。
史跡マーク二郭土塁跡に来る前の途中に堀跡、土塁跡と思われる個所も有る。
グーグルマップの航空写真を見ると西松原、東松原集落全体が昔の海老ケ島城域に当たる様に見受けられます、周囲の樹木の周りが土塁の囲み、東の大川が外堀りの代用?外は水田が取り囲んでいる、昔の沼と湿田なのでしょうか?
それにしても集落内の住宅は入母屋大屋根でお寺の建物より立派な住宅が多く散見されます、龍泉寺を訪ねるのに迷うほどでした。
案内図、解説板、指示板などの設置が有れば遺構の散策も楽しいのですが?
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2024/07/02 10:41
本丸水堀跡はグラウンドゴルフ場へ変身 (2024/06/07 訪問)
加倉井館を終えて南西に約6km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪5城目小原城を初探訪。
駐車場:特に無し、小原城本丸跡沿い県道193号線の東側の側道が広く路駐(36°21'41"N 140°19'24"E h=40m)
参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
小原城本丸跡は東側が県道に面して、御城稲荷神社鳥居、傍に小原城本丸跡の案内板、標柱、指示板が纏まって据えられてる、本丸の周囲は水堀が有った様ですが、平成3年環境整備上やむなく埋立られて、現在集落の方々のグラウンドゴルフ場に成っています、北角の土塁が高く聳えその他四方は低く曲輪高さの微高地。内部には御城稲荷神社の祠、社務所兼集会所?当日は会合されていました。
余湖図コレクションさんの俯瞰図を見ると、北の小原神社口、北西の2郭土塁、3郭土塁の残存、水堀の残存など在るようですが本丸跡のみで探訪終了。
案内板によると。
小原城は、宍戸城の北東部にあってこれを抑える重要な拠点であった。築城年代は明らかでないが、里見氏が永享元年(1429年)小原に領地を得、里見七郎義俊が文亀2年(1502年)現在の館を中心に小原城(館)を形成し、周囲の坂場・和尚塚・橋場(木戸場)には、見張場を置いたと伝えられる。
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2024/07/02 08:01
四方土塁が完存 (2024/05/04 訪問)
室町中期から戦国期にかけて築かれた三瀬氏の居城で、宮川と大谷川に三方を囲まれた断崖上に位置し、熊野街道と宮川の水運を掌握する要衝の地であることから、北畠具教が三瀬館に隠棲した際には三瀬館守護の拠点となりました。なお、具教謀殺の刺客の一人の長野左京進は、三瀬砦に在城していたとも城主の三瀬左京と同一人物とも云われるようです。
県道沿いの案内表示に従って南に入ったところの駐車場から登城開始。駐車場のすぐ先から西と南に土塁が続き、土塁東側の登城道は空堀跡と思われます。登城道の突き当りに三瀬砦跡の石碑があり、その脇が主郭東辺の虎口で、虎口の北側には三瀬砦跡の説明板が立てられています。方形の主郭は四方を高く分厚い土塁で囲み、井戸が遺っています。西辺の幅広い土塁上には八幡社が祀られていました。西辺の土塁の西側にも土塁囲みの小さな曲輪があり、南側は宮川まで落ち込む断崖、西側は堀切で遮断しています。また、三瀬砦から北東約150mには三瀬氏菩提寺の慶雲寺があり、慶雲寺との間の川上と呼ばれる一帯には侍屋敷があったそうで、それぞれ説明板が立てられています。
ほぼ単郭の小さな城砦ながら、伊賀や甲賀の城に見られるような分厚く高い四方土塁が完存しており、大いに見応えがありました。
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2024/07/02 07:12
多摩ニュータウンN0.513遺跡 (2024/01/27 訪問)
多摩ニュータウンの造成工事に先立って行われた発掘調査で、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡があったことが判明し、中世の城郭跡や、武蔵国分寺や国府とも関係の深い奈良時代の瓦窯跡が発見されたとのこと(案内板より)。
城の主は不明ですが、主郭には小型の建物跡と柵列の跡があり、周囲には2~3m規模の空堀と土塁状の腰郭(2郭)が配されていたようです。規模的に砦のようなもので、見張り台などに使われていたのではないかと推測されています。
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2024/07/02 07:09
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