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チェブ

素鷲神社。 (2024/02/10 訪問)

下河辺 政平さんが築城した「小川城」。
小川小学校内に標柱があるそうですが、中には入れないだろうと思い『素鷲神社』で「小川城」探しです。
小川小学校と神社周辺が本丸、道を挟んだ向こう側が三の丸です。緩やかに下る間の道は堀跡です。
三の丸も公共の場です。

『素鷲神社』の御由緒に城内と城外にお祀りするとあり、「小川城」を想わせる記述がありました。

『素鷲神社』、カップルや夫婦と思われる方々が参拝してました。
記述にある城内、城外の神様って円満の神様なのかな?

腕を組む仲良し2人組を横目に、1人 大きなケヤキにパワーを頂いた「小川城」攻めでした。

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しんちゃん

いくつあるのか一夜城 (2024/03/10 訪問)

伏屋城は織田信長の命で羽柴秀吉が築いたと伝わり、現在は土塁の一部が残ります。チェブさんの投稿にあるように一夜城や太閤城の別名があるようです。墨俣城と同じ方法で一週間ほどの工期で完成したそうです。こっそり築城して石垣山城みたいに周囲の木を切り倒した感じでしょうか? 敵の見張はいったい何をしていたんでしょう。

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しんちゃん

良い人間から先に死んじゃう (2024/03/10 訪問)

垂井城は慶長5年・平塚為廣が一万二千石で入って城を築いたとされています。専精寺の周辺が城跡と見られ、境内に立派な城址碑と案内板が立っています。階段から降って行った先には岐阜の名水、垂井の泉があります。
トクさんの投稿にあった為廣の辞世の句碑もありますね。関ヶ原の合戦は良い人間から死んでいった気がします(大谷吉継など)。宇喜多秀家や石田三成など真面目に戦った者が損をするという構図はいつの時代も変わらないのかな。

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todo94

三連休初日の攻城⑤ (2024/02/10 訪問)

宇和島市を離れ、この日最後の攻城へと向かいます。城の北西に広がるミカン畑の中の細い坂道をひたすら車で登っていきました。城の北方からおそらく八幡浜市と西予市の境辺りをトレースしたのかなと思います。黄色いペグとグーグルマップを頼りに何とか山頂にたどり着くことができました。ここも説明板を始め城に関する表示はありませんでしたが、主郭と思しき場所に土塁が認められるなど、この日攻城した城の中では最も山城の趣きを感じることができました。楽天モバイルの圏内でピクミンブルームの花植えを続けることができ、花の跡をたどって帰路に着いたので迷うことはありませんでした。

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しんちゃん

築山神社は元・東照宮 (2024/01/02 訪問)

築山館は八坂神社・築山神社の境内とその北側と東側にかけて築かれていたそうで、一辺はおよそ145m、面積は2.4ヘクタールに及んだそうです。大内氏の別館として大内教弘によって築かれたとされており、築山神社の周辺に築地が残っています。かつては壮大な館舎があり林泉(庭園)の景観はことに素晴らしかったようです。
かつては大石を積み上げていたそうですが文久3年、毛利氏が萩城から山口に移鎮した際、館の造営のために石を持って行ってしまったそうです。境内にある築山神社は明治2年(1869)に氷上山興隆寺にあった東照宮をこの地に移したものらしいです。祭神は大内義隆で他にもいろいろな人を祀っていますが、相殿に徳川家康や市川元教の霊を祀っているようです。
明治政府ってやることホントにたいがいだけど、やはり家康公の祟りは怖かったんでしょうか。

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しんちゃん

カムバック大賞 (2024/01/02 訪問)

元和3年(1617)に毛利輝元の次男・就隆が3万石を分知され慶安元年(1648)に当地に館を移したことが徳山城の始まりとされています。
初め陣屋でしたが藩の改易(宗家との境界線争い)からの復興を経て、天保7年(1836)に幕府より「城主格」を賜り、晴れて徳山城となりました。今は文化会館の敷地になっています。正面に風呂上りみたいな女性の銅像があります。威風堂々とした表情ですが、そんなプーさんみたいな格好でドヤられても目のやり場に困りますな。(そんなに困っていない)
近くにある祐すい神社は徳山藩主毛利家の霊社とされ初代藩主就隆公と九代藩主元蕃(もとみつ)公を祀っています。城址と全く関係ありませんが正面道路の対岸にある地下道への入り口が面白いので掲載しました。キモカワイイってやつですね。
そういえば近くに動物園が有りますな。

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しんちゃん

無残にも破城を言い渡された総石垣の城 (2024/01/01 訪問)

亀居城は関ヶ原の合戦の後に安芸国50万石に封じられた福島正則が毛利氏への押えとして築いた城です。慶長8年(1603)から5年をかけて築かれた総石垣の壮大な城で、続百名城の城郭と比較しても遜色ないほどの立派なものです。
広島城の支城としての域を超えている城であったため、疑念をいだいた徳川家より破城を命じられ慶長16年(1611)廃城になったとされています。
現在は亀居城公園として整備がされていて城址のすぐ近くまで車で行くことができます。北西に本丸が築かれ、立派な天守台が備わっています。南東に段状に二の丸、有の丸、なしの丸と続き、下方に腰郭が備わっています。本丸からの眺望はすばらしく遠く瀬戸内海や周防国を見渡せます。
亀居城が破城となった慶長16年6月24日(1611/8/2)にはかつての盟友、加藤清正が亡くなっており、毒殺のうわさが絶えません。慶長10年5月には織田秀信、慶長7年10月18日には小早川秀秋が不審な死を遂げています。
想像になりますが福島正則が素直に破城に応じなければ彼らと同様の最期を迎えていたかもしれません。晩年は大幅に所領を減らされ、死後も遺体を勝手に火葬にしたとして残る所領を没収されています。ちょっと酷すぎると思います。

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ryu

美濃金山城に登る (2024/03/08 訪問)

奥美濃へのスキーの帰り、郡上八幡城を探訪後に訪問。
麓の蘭丸ふるさとの森第一駐車場から歩いて登りたかったが、時間の都合で車道伝いに車で登り、途中、大堀切を見て、出丸跡横の美濃金山城登山口駐車場まで上がり、ここから歩く。
三の丸門跡~破城の痕跡が残る石垣~二の丸跡~大手桝形~天守台西南隅石~本丸跡~本丸虎口~南腰曲輪跡~二の丸物見櫓跡と見てまわり、物見の櫓展望所から明智荘を遠望し、駐車場に戻る。可児市観光案内所でスタンプを押し、美濃金山城米蔵跡を見て美濃太田駅へ戻る。

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ryu

郡上八幡城に登る (2024/03/08 訪問)

奥美濃へのスキーの帰り郡上八幡城を訪問する。
麓の駐車場に車を停めて登城。
山上までつづら折れで登る狭い車道をショートカットするようにつけられた登山道(登城道?)を登る。
木造の天守を見て、大きな堀切跡にある山上の駐車場から尾根伝いに搦手方面まで歩き、搦手の堀切を見る。

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しんちゃん

麓編 奥平於ふう・貞友公の墓 武家屋敷跡 (2024/03/17 訪問)

今回はお墓の話ばっかりになります。日近城は林道でもいけますが、道がとても悪いので麓の廣祥院あたりから登って行った方が良いでしょう。車で来られた方は日近の里の駐車場が隣にあります。廣祥院の左(西)側に日近奥平氏の墓所が有りました。
寺の右手には武家屋敷跡があり、そのあたりから城址に行けるのですが、周辺で崩落している場所があるので注意が必要です。登城道から一段下がったあたりに於ふうさんの父、貞友公のお墓が有ります。向かって右の崩れているお墓がそうです。
武家屋敷の上段が貞友公が剃髪して居住した屋敷跡になるのですが、その片隅に於ふうさん、その祖母の貞子さん、仙千代さんのお墓があります。コオリ坂で処刑されたあと鳳来寺山麓にさらされた首を於ふうの祖母・貞子が持ち帰って埋葬したと伝わっています。そういえば虎千代の首はどこにいったのか?どこか別の場所に埋葬してあるようです。なんか生々しい話になって申し訳ないです。

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ぴーかる

古瀬間城 (2023/01/27 訪問)

【古瀬間城】
<駐車場他>浄願寺駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<見所>眺望
<感想>日帰り松平郷の旅5城目。現地説明板によると古瀬間城は松平氏が高橋荘攻略の拠点として1506年に松平忠宗(長沢松平家)に築城させたと言われています。一説によれば1590年徳川家康の関東移封によって廃城したと言われています。
 城跡へは浄願寺境内の奥に獣柵の扉がありますので開けて入ります。扉の前に松平忠宗のものと伝えられる墓があります。城跡へはすぐにたどり着けます。山の尾根の先端部分を切り開いて山の上方を堀切で区切っています。ほぼ主郭のみの単郭円形の城郭で細い帯曲輪で巻いています。櫓台跡がありましたが薄くなりすぎていてよく分かりません。豊田市お金持ってます、立派な展望台櫓が建てられています。展望台から西方向の眺望が良かったので当時は西からの動きがよくわかったのだと思います。城跡の山側の小督の局の墓碑があるのでお参りしました。御城印は現在、豊田市駅前のショッピングモール【T-FACE】で販売されています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

充実している大手側の遺構 三日月堀もある (2024/03/17 訪問)

松平城山城は遺構に富んだ城です。街道を挟んで大給城と敵を挟撃するために改修を施されているようで趣向を凝らした遺構が残っています。主郭の南西には巨石が積み上げられたような遺構が残ります。南側は腰郭になっており、下からよじ登ってくる敵を迎撃するのに役立ったと思います。主郭内は堀切で分断され土橋がかかっています。主郭北東部には他の三河の城でも見ることが出来る三日月堀が有ります。その先の大堀切を越えていった先にも三日月堀を二つ逆手につなげたような遺構があります。
さらに北上すると土橋の分岐点があり、東に大手の石垣、西に郭が有るようで、大手から主郭に向かってくる敵や、逆に主郭から大手に北上してくる敵の両者とも迎撃することが可能なようです。

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しんちゃん

奥の城 大堀切が尾根を分断す (2023/11/19 訪問)

今さらですが山家城・奥の城の投稿です。下の城の投稿からだいぶたっていますが、ご容赦を。
この城は全国の山城の中でもかなりすごい遺構を誇ります。正直、林城より好きですね。国の史跡にしましょうよ。
東西に伸びる尾根に渡って山家城は築かれています。主郭の東側には見事な石垣が残っていますが主郭背後の堀切から北東に向かって遺構がまだ続きます。見ごたえのある山城が二つ続いているようなもので上の城は「奥の城」と呼ばれています。大きな堀切がそのまま左右に竪堀となって幾条にも連なっていきます。このへんは奥の城で最もダイナミックな部分です。そこから先に主郭に通じる道が有るんですがちょうど見える場所に熊のフンが落ちています。この城では二つ目、実は去年の11月から熊のフンのある城を三つ訪問してます。皆様、どんな身近な城でも山城では熊スズが必須です。
山家城に話を戻しますが熊のフンがあろうが無かろうが遺構は隅々まで見ます。慣れってやつですね。
東のコの字状の土塁(?)まで見た後戻りますが、間違って南の郭の方に行きました。そこから修正して出口に戻ります。あちこちで不穏な音がするとクマか!と緊張が走りますが不思議と落ち着いています。生きてるって素晴らしいですね。

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井戸周辺を観るために (2024/03/22 訪問)

 皿倉山、帆柱山から延びる花尾山山頂に位置する連郭式の山城です。麻生氏の城と伝わっています。周囲には畝状空堀があり、石垣も多く残っていました。ただ後世の石垣もあると思われ要注意です。本丸の東側の曲輪から北へ降りて行くと、長さ約50m、比高差25mにおよぶ2列の登り石垣があり最下部には方形石組みの井戸があります。井戸には今も水が湧き出ているようでした。登り石垣に囲まれた井戸がどのような意味があるのかわかりませんが、他で見たことはなく一番の見どころだと思っています。非常に興味深い遺構です。井戸へ降りて行くとき振り向くと東側に畝状竪堀がありました。北九州の城らしく畝状竪堀も多く配置されています。さらに馬場に向かって歩いて行くと大堀切がありました。
見どころが多い城址だと思います。花尾公園として手入れもよくされていて散策しやすい城址です。

八幡駅もしくは黒崎駅からバスに乗り花尾西登山口もしくは花尾東登山口で降り花尾公園まで急坂を10分くらい歩くと花尾公園の入口に行くことができます。入口から少し歩くと中登山道と東登山道に分かれます。自分は中登山道から登り東登山道を経由して下山しました。ほとんどが緩やかな坂で歩きやすくなっています。

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カズサン

美濃南部城廻り長森城は切通陣屋 (2024/03/16 訪問)

 昨年の西美濃未踏の城廻り時間切れとなり今回の伊木山城メイン登城に合わせて登城しました、駐車場が心配でグーグルマップで探し近くの長森南公民館駐車場なら可能かなと挑戦。

 駐車場:岐阜市長森南公民館(岐阜市切通5丁目3-14)(35°23'46"N 136°47'48"E)丁度1台空き有り利用。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 登城は長森南公園駐車場から北に直線で250m程ですが住宅街で方向が良く分からずスマホのグーグルマップに堀切観音堂をスポットして案内通り進行、旧中山道(県道181号線)を渡って通りに「切通陣屋跡35m」の指示看板あり北に進行し、切通陣屋跡碑、切通観音幟旗が眼前に見えてくる、現在は切通観音堂が鎮座し祀られている。
 城址の遺構は良く分かりません、現在は切通陣屋跡之碑、切通陣屋跡解説板、切通観音は長森城跡の石板碑、切通陣屋跡標柱が在り標柱の横に手作りの「磐城平藩美濃領厚見郡切通陣屋要図」がクリアケースに入り掲示されている、良く分かります。
 
 歴史は美濃源氏土岐氏が南北朝時代の頃、美濃守護職の居城を土岐市から長森城に移り代々土岐氏の居城と成った、手狭に成った為以後土岐氏は川手城を築き本拠地とした。
 時代は下って磐城平藩安藤氏の美濃飛び地1万8千石を治める陣屋を享和3年(1803年)築き明治維新まで続いた。(案内板、古城盛衰記さんによる)

 旧中山道の通りには町屋の家並みが昔の在り日の風情を楽しませてくれます。
 岐阜市長森南公民館さん駐車利用させて頂きありがとうございました。
  

 

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イオ

久宝寺寺内町 (2024/01/14 訪問)

久宝寺寺内町は戦国中期に久宝寺御坊と呼ばれた一向宗の顕証寺を中心に形成された寺内町で、寺内町としての特権は江戸初期までに失われましたが以降も在郷町として存続しました。

久宝寺城に続いて登城(登町?)。寺内町の周囲は二重の堀と土塁で囲まれていましたが、現在では顕証寺の南辺に江戸中期に南に拡張された際の土塁と堀(の名残の水路)が見られるくらいです。寺内町は碁盤の目状に区画され、東に東口と今口、西に西口と古口、南に南口、北に北口が設けられており、各木戸口には地蔵尊が祀られています。八尾街道が西口から寺内町の中を通って東口を出て八尾へと続いていて、西口と東口付近に道標が建てられています。東口脇には顕証寺が引水した溜井戸で唯一の上水だった寺井戸跡もありました。大坂夏の陣では長宗我部盛親と藤堂高虎が久宝寺寺内町をめぐって戦いになっており、今口には長宗我部物見の松址があります。

蓮如が開いた寺内町の中核寺院だけあって顕証寺は山門も本堂も見上げるほどの巨大さで、北辺の白壁の長屋門も見事でした。長屋門の道向かいには寺内町ふれあい館があり、展示コーナーなどもあるようですが、この日は駐車場工事中で入口が閉鎖されていたため入館していません。そして寺内町の古民家をいくつか見学(外観のみ)して寺内町を後にしました。

先日の塚口に続いての寺内町ですが、木戸口ごとに祠(塚口は愛宕祠、久宝寺は地蔵尊)が祀られていたのが印象的でした。さすがは寺内町。城郭的な遺構はほとんど見られないにせよ、古い町並みはなかなか風情がありました。
 

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todo94

三連休初日の攻城④ (2024/02/10 訪問)

グーグルマップのポイントの写真を1枚目にしてみました。周囲を一巡りしてみましたが、登城できそうにありませんでした。法華津本城の画像検索ではスピーカーが載った櫓が建つ2枚目の写真が何枚も引っかかります。「城郭放浪記」さんのサイトの写真も2枚目のものでした。昌官忠さん投稿の日吉神社の写真が3枚目で神社からミカン畑を通り抜ければ櫓の場所まで行くことはできます。宇和島市のサイトに載っている法華津本城の航空写真はグーグルマップの地点の写真のように思えました。

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赤い城

シダを掻き分け (2024/03/04 訪問)

南側、横峰寺参拝の駐車場あたりからのルートがあるようですが今回は北西側からアタックしました。
説明板がある氷見公益会に車を置きました。
登城口が分からなかったので農作業中の近所の方に聞き込み。
伊予弁なのとご高齢で全て聞き取ることは出来ませんでしたが「あの山の向こう」「川を渡る」「高速をくぐる」はわかったのでそれを頼りにGO。

これまで培ったルートファインディング力は伊達ではなく登城口を発見、登ります。
登城路は冬でもシダで覆われていますが道はありました。

手前の山から尾根伝いに繋がっていてトラロープが張られた急坂を登ると主郭に着きます。
何故か白いベンチが置いてあり眺望も良いです。
主郭には土塁が付いていてその奥南側に堀切が三条施されています。
深さもありなかなかの見ごたえでした。

高峠城主の石川通清が剣山城の黒川氏に備えた城です。
その後、金子氏が入りましたが小早川隆景の伊予侵攻により落城しました。

夏は厳しいと思いますが遺構がよく残る良い城でした。

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しんちゃん

於ふうさんの父・奥平貞友公の城 (2024/03/17 訪問)

日近城は長篠・設楽原の合戦の悲劇の人、於ふうさんの父・奥平貞友の居城です。天正期に徳川方によって改修を受けているようですが、あくまで地方の小城に過ぎず、また挟撃が出来るような城も近くに無いため羽柴の大軍には対抗できなかっただろうと思います。
また貞友公は於ふうさんの首を弔った墓の近くに剃髪して居住しており、そんな可哀そうな人を(家康公が)無理に戦に引きずり込もうとしたかは不明です。
城址近くまで林道が続いていますが、道は悪いし廣祥院近くの日近の里駐車場に車を停め下から歩いて行った方が良いと思います(自車で来られた場合)。ちなみに自分は林道途中の停めれそうな場所に車を停め歩いていきました。帰り道に、行きには無かった新鮮な熊のフンを発見しました(しかも二頭ぶん)。
ちょっとタイミングがずれていたら遭遇していたかもしれないです。今はどこの山でも熊スズは必須のようです。城址の話に戻りますが、本丸の西側に曲輪を二つ配しており街道が良く見えます。本丸には土塁が残っており南側には馬走りが東西に伸びています。本丸東には堀切が二つありその先はトイレになっており、トイレの状態はなかなか良い方です。堀切の間は大きな土塁が横たわり二つの堀の間を四方に遮断しているようですが土塁の上は確認していません。

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若戸大橋 (2024/03/20 訪問)

 黒田六端城のひとつですが、城址であったとされる中ノ島は1940年に航路確保のため削平され島ごと消滅しています。若戸大橋の中央部真下あたりが城址位置とのことです。

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