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POYO58

城外にも見どころが

搦手道を下ること約15分後、だんだん明るくなってきて出口が見えてきました。そこから大きな広場へ降りてみると何やら四角の形になっているのがわかったので下へ行ってみるとやっぱり米蔵跡でした。約15メートルほどの長さの大きな石垣が建ってました。今は公園として整備されているようですがこんなところで遊べるのでしょうか?近くには樹齢150年の大きな大きな木がたってました。

2年ぶりの再攻城も楽しませていただきました♪
次は犬山城へ向かいます。

スタンプは戦国山城ミュージアムで押すことができます。

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ぴーかる

挙母城 (2024/01/27 訪問)

【挙母城】
<駐車場他>豊田市美術館駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り松平郷の旅ラスト7城目。挙母城の築城は1782年に挙母藩藩主の内藤氏が築城し桜城から移転しました。復興隅櫓の櫓台石垣が現存だとか、移築の米蔵があるとか知らずに、下調べなしに行っちゃったので撮影不足に終わってしまいました。 
これにてサブタイトル トヨタ車以外でトヨタ市の城跡攻めたるぞ!旅終了、以前行った市場城もそうだし、今回巡った城跡も整備力がよかった、豊田市すごいネ。423㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

福島正則の築こうとした総石垣の海城 (2024/01/04 訪問)

鞆城の始まりは元亀4年(1573)に織田信長によって京都を追われた足利義昭をかくまうために築かれた鞆要害とされています。足利義昭公は天正4年(1576)頃から当地に滞在しており要害もそのころに築かれたと思います。
現在の縄張りは関ヶ原の合戦の後に、安芸・備後国を領有した福島正則によって大改修されたもので、工事は慶長14年(1609)まで行われてましたが、完成を待たずに破却されています。
本丸跡は鞆の浦歴史民俗資料館になっていて周辺に石垣が残っています。特徴的な回の刻印のある石が複数見受けられ、三の丸の移築石垣にも回の刻印がありました。三の丸の石垣は病院建設時に23m北側の道路に面した場所に移されていますが、向きは180度近く変えられているようです。かつての石垣は海岸線に面し、福島氏改修時には軍船を係留できる海城であったことを示しているようです。

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しんちゃん

上関御茶屋/番所 山口県熊毛郡上関町・長島 萩藩毛利氏の海の要塞 (2024/01/01 訪問)

上関御茶屋/番所は上関海峡を越えた長島に築かれていました。今では御茶屋の石垣と番所の石垣が残っています。番所跡の石垣は宅地の土台に流用されているようですね。番所の背後に遍照寺が建っているのですが、この土台の石垣が凄いです。まるで城塞のようです。
上関御茶屋は江戸時代、毛利藩主や参勤交代の九州の諸大名、幕府の役人、朝鮮通信使などの接待や宿泊に使われた施設で総面積は約3000坪にも及んだそうです。
御茶屋 /番所跡 /遍照寺、物見、台場などと合わせて幕末には萩藩毛利氏の海上要塞のような風体だったのではないかと思います。

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しんちゃん

室津台場 山口県熊毛郡大字室津 (2024/01/01 訪問)

あれ‥いつの間にか しんしんちゃんになってる‥そうか昨日勢いで‥。酔ってたのかな~?まあいいや。

室津台場は上関台場と同様に萩藩毛利氏によって築かれました。上関海峡には今では上関大橋がかかり本州と長島を結んでおります。かつ北(本州)の室津台場、南(長島)の上関台場で海峡を渡る船を監視、挟撃できるようになっています。周辺には上関城や上関御茶屋/番所があり海上拠点のようになっています。室津台場にかつてあった石垣は撤去されたのか、今では見当たりません。
上関台場には石垣が残っていますが、危険なので見に行かないようにして下さい。

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todo94

建国記念の日の攻城① (2024/02/11 訪問)

西予市宇和町のホテルに泊をとり早朝にチェックアウト。すき家で朝食をとった後向かったのは、日本一細長い半島・佐田岬半島の中ほどに位置する中尾城です。持珠院がその故地です。前日には全く目にすることができなかった標柱や説明板があるだけでうれしくなってしまいました。

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朝田 辰兵衛

3連休の行軍ラストは緑ヶ丘霊園で… (2024/02/12 訪問)

一番近いJR津田山駅からアクセス。彼岸でもないのに,にぎわっていました。噴水広場にはカップルまで…。少しばかりしんみりしたところで帰路につきました。
東急田園都市線の溝の口駅からでも,1㎞以内でアクセス。自身の行軍スケジュールにプラスアルファしやすいのではないかと思います。

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しんちゃん

上関台場 山口県熊毛郡上関町長島 (2024/01/01 訪問)

上関台場は弘化2年(1845)に萩藩毛利氏によって築かれました。嘉永2(1849)に石垣の台場に改修を受け現在は小公園として整備されています。石垣の周囲に柵が有るのですが脇から下に降りれる(?)みたい。石垣が見たくて降りてみたのは良いが、下絶壁じゃん。やばい‥戻らないと、と思いつつ石垣をパシャ。危ないので絶対に真似をしないでください。
そそくさ上に戻りました。元日から何をやっているのやら‥。(この数時間後に例の地震が来ます)

関係ないですが愛知県の寺部城は城びとの城だったんですね(ぴーかるさんの投稿で気づきました、感謝)。城びとの城に気づかないとは城びと失格です‥。生まれ変わって精進致します。
そんなわけで今日から(新)しんしんちゃんです。プロフィール名も変えられるんですね~。中身は何も変わっていない気が‥
たけちゃんマンセブンみたいですね。

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ぴーかる

寺部城 (2023/01/27 訪問)

【寺部城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<見所>建物跡
<感想>日帰り松平郷の旅6城目。寺部城は文明年間(1469年~1487年)に鈴木重時によって築かれたとされます。鈴木氏は高橋荘東部を支配して、松平氏と対立します。1566年に織田方の佐久間信盛に攻められて城は落城し寺部鈴木氏は松平氏の臣下となります。1618年に尾張徳川家家老となった渡辺守綱が1万4千石で入封し寺部陣屋を構えます。渡辺家は代々相続して明治維新まで存続します。
 現在陣屋跡は公園化されて南半分が寂れたパターゴルフコースみたいになっています。北半分に陣屋時代の土蔵跡・茶室跡の建物遺構があります。西隅に寺部城時代の土塁が残されています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

唯一の水源が「いぼ取り井戸」 歴史は古く平安時代にまで遡る (2023/12/30 訪問)

大嶋城は長治元年(1104)海老名氏の祖・家季によって築かれたとされています。小山の上に主郭が有りますが山上まで車で行くことが出来、主郭には住吉神社が鎮座しています。
海老名七代景知は赤松円心に属し、弟の詮季(あきすえ)や同族の泰知(やすとも)とともに白旗城に籠って新田義貞の軍と戦ったとされています。そのすきに大嶋城は新田義貞に与したものによって焼き払われたと現地の案内板には記載があります。
主郭から階段が下に続いていて、郭や堀切などの遺構を確認することが出来ます。訪問時が夕方だったので林の中は暗く判別がしづらい状態です。城内には唯一の水源という「いぼとり井戸」と「海老名一族の墓」があります。
これが唯一の水源ということは城兵の皆さんは皆、お肌すべすべだったということですかね?
城内に「すべすべ井戸」とかあるといいですよね。そんな井戸があったら別名・美肌城とか呼ばれたりして。

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くり

松坂城 (2019/05/21 訪問)

松坂城と御城番屋敷

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くり

犬山城 (2018/03/18 訪問)

天守から見渡す城下町

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しんちゃん

小牧・長久手の合戦の中入りで討死か? (2024/03/10 訪問)

一宮城は三菱東京UFJに一角に石碑とプレートが設置してあります。遺構は消滅し石碑のみが、ここがかつて城跡であったことを示しています。
ちゃんと日本城郭大系にも記載があり、かつて尾張国一の宮・真澄田神社の神官・関十郎左衛門によって築かれたとされており、四方に堀と土塁を配した東西およそ50m、南北およそ90mの平城であったようです。
十郎左衛門の子・小十郎長安は小牧長久手の合戦で羽柴勢に属し、池田恒興(鬼武蔵の説もあり)らと共に討ち死にしたとあります。一宮城は天正18年(1590ごろ)に廃城になったようです。関一族のその後の動向は不明です。

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しんちゃん

山内一豊誕生の地 (2024/03/10 訪問)

明応年間、五藤光秋がこの地に屋敷を構えた後、岩倉織田氏の家臣・山内盛豊が黒田城を築きました。関ヶ原の合戦で功をあげ土佐国に加増転封となった山内一豊公は盛豊公の次男とされています。現在は木曽川小学校の南東部に冠木門を備えた小公園があり、城址碑が立っています。ここに山内一豊公と愛馬の銅像があるのですが、馬の目つきが良くないですね。なついている様子を表現していると思うのですが、まるでカツア〇‥いえいえ実に愛らしいお馬さんです。カツ揚げ食ってウマ勝った(ポカッ!)
東にある法蓮寺には山内盛豊公と十郎父子の墓と山内一豊公誕生の地の石碑があります。十郎さんは浩治3年(1557)織田信長の手勢と見られる盗賊に黒田城を襲われた際に討死したとされています。

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イタさん

周辺に源氏三代の縁が多い (2024/03/19 訪問)

駐車した辺りに鳥居が多く、神明宮などの扁額がある。山号があるので寺と思うが、大行院または、大行院神明殿と碑・案内に記されている。一画に帯刀先生源義賢公の墓、源氏三代供養塔(義賢・木曽義仲・義高)などがある。

館は平安末期に帯刀先生源義賢により築かれたと伝わる。南東隅に土塁・堀跡が見られ、北西角の土塁跡と思える場所がある。大蔵神社の建つ辺りは数メートル高い。神社西には堀跡が50~60メートル程、藪化し残っている。南から西にかけての土塁がわりと残る。

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イタさん

虎ヶ岡城 埼玉県児玉郡美里町 (2024/03/21 訪問)

北武蔵ハイキングコースになっており、東の円良田特産センター、南の波久礼駅方向、西の陣見山側から来られる。城山の説明板に、花園城の支城として、藤田氏が築城、または鉢形城の支城として猪俣氏が築城とあるが、詳細は不明。鉢形城の食糧の供給を担い、天正18年豊臣勢の真田氏に攻められ落城、と載る。

尾根を西から行くと、先のピークに屋根が見えた辺りに堀切がある。更に堀切、正面は主郭の高い法面、右手から主郭下の郭(腰・帯曲輪とも)に上がる。後世の階段が付けられ、東屋の建つ山頂・主郭にでる。円良田へ下れば郭跡、二条の堀切が見られたが、更に下に井戸跡があるようだが、陣見山の西から歩いたため、登り返すのに躊躇し確認しなかった。主郭の下郭から波久礼駅側に下れば、小さな削平地らしきものもあるが、急坂となって下るハイキングコースになっている。

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いのさん

久々の松本城 (2024/03/21 訪問)

 久々に松本城に日帰り登城。といっても10年前は長野観光の一部として、5年前は電車の乗り継ぎ時間の合間。ということで、今回がまあ初の本格登城。
 まずは、松本市役所展望台へ。玄関入り口の受付で位置の確認(受付の女性もいつものことのようで、そつのない対応でした)し、5階までエレベーター、5階から6階は階段。窓は開けられるので、撮影には支障なし。ただし、「窓を開けたら、必ず締めて施錠」して欲しいとのこと。北アルプスを背景に太鼓門を含めて松本城公園全体が見渡せます。高さ的には市役所屋上(ドアは施錠され、許可無く立ち入り禁止です)のほうが良いように思うのですが。展望台は市役所内なので、土日祝日は入れないはず。ご利用の際は各自ご確認を。
 外堀を左右に見つつ、太鼓門から入城。玄蕃石を左手に門をくぐると「鳩ふん注意」の注意書きあり。頭上注意だそうです。たしかに、門の梁にはまだら模様がいっぱい。
 天気は快晴。まずは内堀越しに天守群を右から左からと眺めまわることに。天守をはさんでの小天守と辰巳附櫓・月見櫓の微妙なシンメトリー?やはり、このあたりからの定番の写真を撮ることは致し方のないことかと。松本城の漆黒の下見板を見ると、白い物がべったり。ここでも『鳩どもめが!』と心の中での叫びが。下見板は毎年漆の塗り替えがあるそうですけど。(作業風景の写真は5年前のものです)
 平日なので、登城待ち時間「0」ということで、入城はすぐにできましたが、団体さんが同時に入ると観覧スペースが限定的な箇所が多いせいか結構中は混雑気味になります。冬期の入城では極厚の靴下(階段が滑りやすいので、滑り止め加工が必要?)か暖かルームシューズ(少々荷物になりますが)が必要と思えるほど。スリッパ無し(階段で脱げたりして危険なのでしょうか)のため、足下は極寒です。
 天守一階に上がると、入側より母屋の床が一段高い構造。屈んで覗くと土台部分がみえます(懐中電灯などが必要ですが)。天守の土台部分が見えるのは貴重なのでは。ただし、通路になっている入側の幅が狭いため、立ち止まってのぞき込む際には、他の入場者の通行の妨げにならないよう配慮が必要です。ついつい、撮影に夢中になり周囲の状況を忘れることへの反省をこめて。 
 内部の階段は急傾斜、一段一段の高さが大きい、幅が狭い、同じ階段で同時に登り降りがあるので、団体と出くわすと階段では、満員電車並?の混雑で足下、頭上に危険がいっぱいです。階段近くでカメラを構えると「階段周辺撮影禁止」と係りの人に注意されます。注意書きもあります。狭くて急な階段なので写真撮影による階段での渋滞や転落等の危険などがあるからのようです。10年前は無かったような記憶が。観光客も増え、簡単スマホ撮影ができるなど、管理上色々あるのでしょうか。「周辺ってどこから?」と、ついつっこんでしまいたい気分ですが。
 「武者窓」と案内がある格子窓で、普通は突上げ戸か半間くらいの板の引戸なのが、格子状の引戸?がありました。私の多くもない経験では見たことありませんでした。他に事例があるなら教えて欲しいです。
 窓から外を見ると、松本城独特だと思いますが、『捨て瓦』がよく見えます。昭和の修理以来、屋根の氷柱の落下による屋根瓦の破損を防止するためのものだそうです。寒冷地の今の管理ならではの姿が見られて面白いです。漆塗りを含めて維持管理、色々大変そうです。氷柱のある松本城も一度見てみたいとは思います。極寒だとは思いますが。
 天守から辰巳附櫓へ移動する際、天守と櫓の境の扉を見ると、姫路城の大天守と渡櫓の間の扉と比べるとなんと、か弱そうなつくり。大人の一蹴りで抜けそうな感あり。やはり、泰平の世となってからの作りだからでしょうか。
 出口となっている月見櫓を改めて見ると、寄棟の屋根、大きな開口に赤い廻り縁。戦いの城と宴の城が同居した奇妙?な風景がまた松本城の魅力なのではと。
 帰り際に外堀跡を見ると、西側部分の家屋がほとんど撤去されていました。記憶では土壌汚染の問題があると聞いていますが。どのような整備がなされるのか、楽しみではあります。
 
 

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チェブ

素鷲神社。 (2024/02/10 訪問)

下河辺 政平さんが築城した「小川城」。
小川小学校内に標柱があるそうですが、中には入れないだろうと思い『素鷲神社』で「小川城」探しです。
小川小学校と神社周辺が本丸、道を挟んだ向こう側が三の丸です。緩やかに下る間の道は堀跡です。
三の丸も公共の場です。

『素鷲神社』の御由緒に城内と城外にお祀りするとあり、「小川城」を想わせる記述がありました。

『素鷲神社』、カップルや夫婦と思われる方々が参拝してました。
記述にある城内、城外の神様って円満の神様なのかな?

腕を組む仲良し2人組を横目に、1人 大きなケヤキにパワーを頂いた「小川城」攻めでした。

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しんちゃん

いくつあるのか一夜城 (2024/03/10 訪問)

伏屋城は織田信長の命で羽柴秀吉が築いたと伝わり、現在は土塁の一部が残ります。チェブさんの投稿にあるように一夜城や太閤城の別名があるようです。墨俣城と同じ方法で一週間ほどの工期で完成したそうです。こっそり築城して石垣山城みたいに周囲の木を切り倒した感じでしょうか? 敵の見張はいったい何をしていたんでしょう。

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しんちゃん

良い人間から先に死んじゃう (2024/03/10 訪問)

垂井城は慶長5年・平塚為廣が一万二千石で入って城を築いたとされています。専精寺の周辺が城跡と見られ、境内に立派な城址碑と案内板が立っています。階段から降って行った先には岐阜の名水、垂井の泉があります。
トクさんの投稿にあった為廣の辞世の句碑もありますね。関ヶ原の合戦は良い人間から死んでいった気がします(大谷吉継など)。宇喜多秀家や石田三成など真面目に戦った者が損をするという構図はいつの時代も変わらないのかな。

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