佐賀城の「鯱の門」には、今でも無数の弾痕跡が残っています(写真①②)。これは1874年(明治7年)にあった佐賀士族と官軍との戦い「佐賀の乱」で官軍が放った銃弾によるものです。この士族の先頭に立ち乱を主導した罪で、旧佐賀藩士の「江藤新平」は処刑され、41才の若さで亡くなりました。彼は本当に乱を主導した反逆者だったのでしょうか? 今その歴史が見直されているそうです。
佐賀城の本丸歴史館で開かれている、「江藤新平特別展」を見に行ってきました(写真⑤⑥)。幼い頃を藩の弘道館で蘭学を学び、藩主の鍋島直正(写真⑨)にその才能を見出され、戊辰戦争では朝敵と見なされぬよう奔走して佐賀藩の窮地を救います。その後、明治政府に入ると十傑と称され、司法卿(現在の法務大臣)となり検事弁護士制度や全国に裁判所を設置し、三権分立や議会制度を作って大日本帝国憲法の編纂をするなど、今ある司法制度の礎を作った人物とされています。そこまで明治政府に貢献した江藤が、なぜその明治政府によって処刑されたのでしょうか?
征韓論に端を発し、徴兵制度により士族は職を失い、佐賀の士族たちは新政府に不満を抱き、県庁のあった佐賀城を占拠し直談判します。その藩士たちを説得しようと、同郷の大隈重信(写真⑦)が反対するのを押し切って江藤は佐賀へ戻ります。そこへ大久保利通が官軍(徴兵制により組織された政府の軍隊)を送ったため、士族たちは反乱軍と見なされ攻撃を受けました。これが佐賀の乱と言われるもので、弾痕跡はこの時できたものです。
征韓論で西郷隆盛と対立する大久保は、西郷に同調する江藤を、この機に反乱軍のリーダーに仕立てる事で排除しようとしたのではないかと言われています。藩士たちを説得しようと佐賀へ戻った江藤ですが、官軍と戦う気などは全く無いにもかかわらず、攻めて来られれば反撃するしかありません。しかしこのままでは不利と悟り、西郷に協力を求めるため薩摩へ行くも断られ、ならば政府を説得するため東京へ戻る途中に土佐で捕らわれてしまいます。そして弁護弁明の機会が与えられる事もなく、大久保は江藤の作った司法制度を無視して、即時に死刑を命じてわずか2日後に執行されたようです。
佐賀の乱の2年後の明治9年、この乱を契機に大久保は廃刀令を出し、武士が刀を持つ事を禁ずる事で士族の力を奪おうとします。しかしその狙いとは逆に、士族たちの不満は頂点に達し、翌明治10年には西郷隆盛と薩摩士族を中心とした西南戦争へと突き進んで行きました。
佐賀市内にある神野公園には、その江藤新平の銅像が建てられています(写真⑧)。今でも命日の4月14日には銅像祭りが開催され、その遺徳が偲ばれているそうです。
もし江藤が生きていたら、西南戦争も起きる事はなかったのではないか🤔? そんな事をふと考えていたら、本丸歴史館の大広間では「佐賀の八賢人」なる寸劇が行われていました。ユーモアを交えた分かりやすい寸劇なので、最後は八賢人を楽しく学ぶ事ができました。開催日時等は(写真⑩)を御覧下さい!(入場無料)。
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