JR和泉橋本駅近くの明教寺が積善寺城の本丸跡となります。秀吉の紀州征伐後、廃城となったこともあり、遺構は残っていませんが、貝塚中央病院から明教寺方面に行く橋のところに解説板が設置されています。
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2025/03/17 13:42
2024/11/02 05:29
公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:積善寺城 (2024/10/01 訪問)
畠中城から徒歩20分弱で、説明板前(34.429667、135.362944)に着きました。
1558年(永禄元年)頃に根来衆によって築かれました。 根来衆が岸和田の三好氏と戦ったとき、砦として築かれたのが始まりと云われ、その後、根来衆の拠点の一つとして整備されました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉が岸和田城に入って本格的な戦いとなりましたが、この頃には積善寺城は二重・三重の堀を巡らせた堅固な城になっており、出原右京を大将として九千五百名の根来衆が立て籠もっていたそうです。
秀吉方の攻撃にも落城せず、貝塚寺内の卜半斎了珍の仲介により開城となりました。
積善寺城は現在の橋本集落一帯に築かれていました。 本丸は明教寺付近であったそうですが、行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=貝吹山城を目指す為、和泉橋本駅から電車で久米田駅に向かいました。
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2024/08/10 12:03
しゃくぜん(釈然)と‥ (2024/02/24 訪問)
積善寺城は「しゃくぜんじじょう」と読みます。「せきぜんじ」だと思ってたのに‥。しゃくぜんとしない(ポカッ!)。
天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めの際には、豊臣の軍勢が10万を超えるのに対して、根来・雑賀衆は9千人程度が沢城・積善寺城・畠中城・千石堀城などに詰めていたようです。
千石堀城が陥落したのち、積善寺城も攻撃を受けますが、この時には増援を含め9千以上の兵が城内にいたようです。
城址に関する遺構は残っていません。かつてあった堀(溝)も宅地化に伴って埋められているようです。東を流れる近木川が天然の堀の役目を果たし、集落に向かう橋の手前に案内板が立ち、城址に向かうという雰囲気を盛り上げてくれます。この橋は一方通行の上、交通量も多いので写真撮影の際には注意が必要です。
追記‥「赤いヤリ」の投稿に二番槍の「緑のヤリ」の写真を追加して、タイトルを「一番槍と二番槍」に改修しました。
追っかけで見ていただけると有難いです。三番槍はホームランバーかな‥(ポカッ)
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2023/07/06 17:44
分類・構造 | 平城 |
---|---|
天守構造 | 不明 |
築城主 | 根来衆 |
築城年 | 永禄元年(1558) |
主な城主 | 出原右京(根来衆) |
廃城年 | 天正13年(1585) |
遺構 | (発掘調査:空堀) |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 大阪府貝塚市橋本 |
問い合わせ先 | 貝塚市教育部社会教育課 |
問い合わせ先電話番号 | 072-433-7125 |