しゃくぜんじじょう

積善寺城

大阪府貝塚市


旧国名 : 和泉

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①説明板
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)10日目:積善寺城 (2024/10/01 訪問)

畠中城から徒歩20分弱で、説明板前(34.429667、135.362944)に着きました。

1558年(永禄元年)頃に根来衆によって築かれました。 根来衆が岸和田の三好氏と戦ったとき、砦として築かれたのが始まりと云われ、その後、根来衆の拠点の一つとして整備されました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉が岸和田城に入って本格的な戦いとなりましたが、この頃には積善寺城は二重・三重の堀を巡らせた堅固な城になっており、出原右京を大将として九千五百名の根来衆が立て籠もっていたそうです。
秀吉方の攻撃にも落城せず、貝塚寺内の卜半斎了珍の仲介により開城となりました。

積善寺城は現在の橋本集落一帯に築かれていました。 本丸は明教寺付近であったそうですが、行っていません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=貝吹山城を目指す為、和泉橋本駅から電車で久米田駅に向かいました。

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しんちゃん

しゃくぜん(釈然)と‥ (2024/02/24 訪問)

積善寺城は「しゃくぜんじじょう」と読みます。「せきぜんじ」だと思ってたのに‥。しゃくぜんとしない(ポカッ!)。
天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めの際には、豊臣の軍勢が10万を超えるのに対して、根来・雑賀衆は9千人程度が沢城・積善寺城・畠中城・千石堀城などに詰めていたようです。
千石堀城が陥落したのち、積善寺城も攻撃を受けますが、この時には増援を含め9千以上の兵が城内にいたようです。
城址に関する遺構は残っていません。かつてあった堀(溝)も宅地化に伴って埋められているようです。東を流れる近木川が天然の堀の役目を果たし、集落に向かう橋の手前に案内板が立ち、城址に向かうという雰囲気を盛り上げてくれます。この橋は一方通行の上、交通量も多いので写真撮影の際には注意が必要です。

追記‥「赤いヤリ」の投稿に二番槍の「緑のヤリ」の写真を追加して、タイトルを「一番槍と二番槍」に改修しました。
 追っかけで見ていただけると有難いです。三番槍はホームランバーかな‥(ポカッ)

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安楽寺 (2023/07/06 訪問)

 千石堀城跡より徒歩15分くらいで、安楽寺を経由して近木川福永橋近くにある説明板へ行きました。

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ぴーかる

積善寺城 (2022/04/30 訪問)

【積善寺城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR和泉橋本駅より徒歩

<感想>2022年春のJR列車大阪ちょこ城巡りの旅1城目。積善寺城は1558年根来衆が対三好氏に対するために築きました。秀吉の紀州攻めの時には積善寺城や千石堀城・諸城は中村一氏の岸和田城と攻防しましたが最後は和睦開城したようです。
 城びとポイントである安楽寺山門を撮影しGoogleマップの積善寺ポイントを目指しましたが工事中の通行止めとなっており、県道の方へ徒歩で迂回して近木川の橋北側にある説明板を撮影した。城は比定地で近木川の南側一帯であろうと思われる。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
天守構造 不明
築城主 根来衆
築城年 永禄元年(1558)
主な城主 出原右京(根来衆)
廃城年 天正13年(1585)
遺構 (発掘調査:空堀)
再建造物 説明板
住所 大阪府貝塚市橋本
問い合わせ先 貝塚市教育部社会教育課
問い合わせ先電話番号 072-433-7125