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イオ

西の城(青木山城) (2024/05/04 訪問)

(続き)

西の城は青木山城とも呼ばれ、一之瀬川支流の大谷川と前川にはさまれた青木山頂部に位置する城で、東の城と一体になって機能したとされます。

東の城駐車場から歩いてもすぐですが、西の城登城用に開放されている公民館駐車場まで車で行って登城開始。案内表示に従って進むと、西の城の東麓に向井将監館跡と呼ばれる屋敷地がありますが、木々が生い茂っていて墓石くらいしか見当たりません。北東麓が登城口で、近くの田んぼの中にも未舗装の登城用駐車場が設けられていました。登城道の木製階段を上ったところから山道になり、しばらく登って行くと東端の堀切(表示では空堀)に至ります。ここから登城道沿いに三条の堀切と土塁や小曲輪が連続し、北東への分岐にも堀切と土塁が設けられています。青木山の頂部が主郭で、主郭の西側には四重の堀切、さらに両側が切り立った西尾根の先にも2条の堀切が見られました。

西の城は尾根筋に曲輪と堀切と土塁を設けただけのシンプルな縄張ながら、四重堀切など明瞭に遺っている上に、よく整備されて登城もしやすく、手軽に楽しく登城できる城でした。東の城とあわせて西の城にもぜひ。
 

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しんちゃん

伝説の残る城 (2024/02/17 訪問)

八田城は小振りではありますが、訪れやすく遺構が良好に残る良い城です。害獣除けのゲートを開閉するだけで良く、地権者や地元の方々の、多くの人にすばらしい城跡を見て欲しいという気持ちが伝わってきます。有り難く訪問させていただきます。
北から東を回り込むようにして主要部に向かっていきます。南側には大堀切があり井戸もありました。東の曲輪を見てから虎口を通って主郭に到達します。主郭の周囲には分厚い土塁が良好に残っており、南側には見張台と見られる箇所が有りました。
八田城は鎌倉時代に相模から三浦五郎左衛門尉盛時が来て築いたとされています。後に大和田氏と姓を改め、11代盛成は伊勢国司・北畠顕能に仕えたとのこと。永禄12年(1569)織田信長の命を受けた羽柴秀吉が攻めたが、城主大和田監物が良く防ぎ、秀吉は攻めあぐね、山から濃霧が発生したため撤退したと伝わっているようです。

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モト

明治に築城の日本で最後の城 (2024/06/11 訪問)

現在は千束神社が建っています。
その周りに石垣が残っています。
日本で最後に完成した城になります。
最新であり、最後城です。
城が完成したのは明治だそうで、館が完成してから1年後には廃城になったというある意味すごい歴史を持つ城です。

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しんちゃん

唯一無二 (2013/12/14 訪問)

近世城郭としての高知城は慶長6年(1601)から慶長16年(1611)にかけて山内一豊によって築かれました。現在の本丸の建造物は享保12年(1727)の火事でほぼ焼失し、天守が再建されたのは寛延2年(1749)ごろ、その他の建造物が再建されたのは宝暦3年(1753)ごろとされています。江戸中期に再建されたとはいえ、本丸内に御殿と天守が現存する唯一無二の城郭です。
現在失われた建造物も、史実に忠実に復元できるのなら、長い時を経て文化財となり得るでしょう。復元建造物がレプリカであるのなら、金閣寺や首里城もただのレプリカになってしまいます。私は首里城は百億を超える国税を投入してまで再建するべきではないと思います。世界遺産となっているのは度重なる火災で焼き石となった石垣で、自力で再建するといっていたのだから、あとでこっそり国税を受け入れるのは無にしましょう。城郭や文化遺産が政治の二枚舌に翻弄されるのは勘弁していただきたいのです。

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小城小次郎

でかすぎ (2024/01/13 訪問)

大阪市の真ん中にあるのにでかすぎて最寄りの駅から天守までどうしても20分はかかる。西の丸にある現存乾櫓を堀の外側から見ようと思うと更に歩く。大きい上に高さもある大坂城のド迫力は、歩けば歩くほど実感できる。

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にのまる

東横インの朝食ビュッフェを甘く見ていたせいで行けました。 (2024/06/22 訪問)

只見線完乗から長岡(城)を経由し新潟へ。
夜ごはんは会津若松で逃した“ソースカツ丼”を求めて「須坂屋そば新潟駅前店」へ行きました。(へぎそばは次回まわしにして今回は普通のお蕎麦のセットにしました。)
昨年バスセンターのカレーを目指して行った時にお店の前を通った時はお昼だったのもあってか静かなイメージでしたが、夜はすごく賑やかでびっくりでした。
初・ソースカツ丼は柔らかくて甘くてジューシーでとってもおいしかったです!

宿泊先は列車旅人御用達の東横イン。翌朝、朝食ビュッフェに下りてみると大混雑で大行列∑(゚Д゚)
朝食は早々に諦め、出発まで部屋でゴロゴロするかぁと思ったのですが、頭の片隅にあった新潟城のことを思い出し、検索してみると約2.5㎞の距離。
乗車予定の列車まで1時間と少し。
これは…行ける!!
急いで荷物をまとめチェックアウトして向かいました。

新潟城は『遺構消滅,推定地,再建造物ナシの最難関の城』(朝田辰兵衛さんのレポートより引用させていただきました。)

ー其処が城跡だから行くのだ。ほかに理由はないー

萬代橋を渡ると遠回りになりそうだったので八千代橋を渡り、無事に白山公園に到着。公園内を少し歩きました。近くのアーケードの商店街がすてきな雰囲気を醸し出していて興味を惹かれました。
そしてまた走って新潟駅に戻りました。
あとから検索してみると白山駅を使えたなぁという感じでしたが、その時は1分1秒が大事。調べてダメだったら時間の無駄だし、走るのがいちばんだなと(^^)

ということで朝田辰兵衛さんの地元を駆け抜けました。新潟駅はバスターミナルが完成し、様変わりしていました。駅前もさらに開発中のようで。
バスセンターのカレーのお店がどうなったのかまで確認できませんでしたが駅の売店でお土産にレトルトを購入しました。これもおいしいです😋

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しんちゃん

土佐の海岸 (2013/12/14 訪問)

高知市の南西、宇佐大橋を越えて、横波半島に渡り県道47号線(横浪黒潮ライン)を西に進んでいくと、途中に帷子崎展望台や武市瑞山(半平太)銅像があり、駐車場も備わっています。リアス式海岸と呼ばれる険しくも美しい地形で、武市瑞山の銅像は遠く太平洋を見つめています。瑞山は土佐における尊王攘夷の先駆けとなる土佐勤王党を結成し、吉田東洋を暗殺したとされます。その後も岡田以蔵らを用いて天誅を繰り返しますが、後に取締りを受ける側となり切腹を申し付けられた際には、三文字割腹の法を用い、腹を三回掻き切って、両脇から二名が心臓を突いて介錯としたとされます。生き方も最期も激しかった人物で、地元では根強い人気があるようです。

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しんちゃん

若宮八幡宮 (2013/12/14 訪問)

高知県高知市にある若宮八幡宮は長宗我部元親公にゆかりの深い神社です。永禄3年(1560)元親公は初陣に臨んで当社の馬場先に陣を構え、見事 初陣を勝利で飾ったとされ、依頼合戦の度に当社で戦勝祈願を行ったとされています。
外苑には1999年に建てられた元親公の銅像が立っています。初陣の時の若々しくも凛々しい姿で台座を含めた高さは7mほどで、槍の長さは約6mもあります。

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ぴーかる

緒川城 (2024/05/11 訪問)

【緒川城】
<駐車場他>於大公園駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅6城目。現地説明板によると緒川城は文明年間(1469~1487年)に水野貞守によって築城されました。以来130年間水野氏の居城となります。1606年水野分長が三河新城1万石に移封となり廃城となります。
 上記駐車場に駐車し、乾坤院総門(緒川城移築城門)⇒水野家3代の墓所⇒城跡と徒歩で巡りました。城跡は土塁が1部残されており周辺は住宅地になっています。水野忠政も居城だったことから、その娘の於大の方の出生地でもあり、土塁下の公園に出生地碑があります。於大公園も立派で、水野家墓所の横に遊具施設が沢山あることから家族連れで賑わっていました。移築城門、水野家墓地、於大公園と散策が楽しめる場所でした。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

御城稲荷神社が城跡 (2024/06/07 訪問)

 榎本城を終えて北東に約6.5km程、栃木市小山市未踏の城廻り4城めでラストの御城(小薬城)を初登城。

 駐車場:御城稲荷神社社務所集会所横
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 ラスト4城目は御城、別称小薬城ともいわれてる、少し陽も落ちて暗く成って来ましたが、敷地は御城稲荷神社境内、立派な「史跡御城」刻印の石碑、案内板解説板は無い。神社の参道の南に石製の鳥居が有りすぐ南に水路が有るが、堀跡のようである、社務所の南には広場と成っている。
 暗くなってきており早々に退散終了としました。
 早朝から多良埼城メインに常陸未踏の城7城、栃木市小山市未踏の城4城を訪ねる事が出来ました。
   

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カズサン

広大な城郭も農地水田改良 (2024/06/07 訪問)

 藤岡城を終えて北東に約12km程、栃木市小山市未踏の城廻り3城目榎本城へ初登城。

 駐車場:無し、榎本城跡石碑前辺りに路駐、他の地点も路駐。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 狭い集落の道に路駐し、城びととグーグルマップの史跡マーク地点に石碑と解説板、裏の堀と土塁を撮影、車の往来が有ったのですぐ退散、余湖図コレクションさんの城郭マーク、城郭放浪記さんの城郭マークを車で移動し確認するが現在は水田の中、田植えが終わって早苗の水田風景、景色は最高。
 
 解説板には。
 城郭の規模は東西613m、南北396mという複郭で広大、西は永野川、東は巴波川、杣行川が南流する要害の地であった。
 小山氏は祇園城の出城として築いたと伝わる、小田原北条氏へ備えるが北条氏に従い、上杉氏に占領され、北条氏に再占領、と上杉氏北条氏の覇権争いに翻弄される。秀吉の小田原征伐後は結城領、その後廃城に成ったが、慶長10年(1605年)10月本多忠純が28000石の城主として復活。しかし本多氏も寛永16年(1639年)断絶し、榎本城はついに廃城と成った。
 北西約5km程の大中寺に本多忠純の墓があるそうです。

 広大な城域も耕地整理農地整理で水田と成り、法宣寺辺りから北の石碑の有る辺りが城域の北辺のようで土塁と堀が点在残って居る様子。
 石碑と解説板が重なり合ってるのは頂けない、読みづらく写真を撮り難い。
 

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しんちゃん

滝山三城 (2024/01/28 訪問)

高月城は秋川が多摩川に合流する手前の丘陵の先端に築かれています。比高わずか40m程度ですが、山城という扱いになっているようです。いいのかニャ?
切通を抜けていくと堀切があり、登城道を登って行くと、いくつか曲輪があり、虎口を経て主郭に到達します。長禄2年(1458)に山内上杉氏の重臣で武蔵国守護代・大石顕重によって築かれたとされています。

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岸和田城

岸和田城がふるえる

怪談グランプリで入賞経験もある「深津さくら」さんをはじめ、おばけ座がお届けするこわーい話や不思議な話。
あなたはどこまで耐えられるか!恐怖の夏を岸和田で体感!

参加者様は岸和田城庭園への「夜間特別入場」もして頂けます。

8月4日開催、チケットは只今販売中です。お待ちしております。
https://teket.jp/9607/35576

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しんちゃん

伊達行朝 (2023/05/04 訪問)

天慶3年(940)藤原秀郷が平将門を追悼する際に築いた上館・中館・下館の三つの館のうちの中館を伊佐氏が改修したものが伊佐城であるとする説があるようです。南北朝の時代には伊達行朝が伊佐城に入り、北畠親房に呼応し北朝の高師冬の軍と戦ったとのことです。伊佐城は興国4年(1343)に落城しますが、行朝と同族の中村経長は囲いを突破して奥羽に帰って行ったようです。
伊佐城跡は現在観音寺になっていますが、境内になぜか伊達行朝の供養塔らしき塔が残っています。

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POYO58

大桑城(愛知県豊田市大桑町) (2024/05/25 訪問)

城びと未登録の城に行ってまいりました。ほんとは道の駅だけを寄るつもりが、道の駅にたくさんの御城印が売ってたので行ってみました。ただとにかくアクセスが悪く、結構小さいお城でした。しかし、一応武田信玄の支配下にあったという深い歴史や、遺構も土橋と土塁で成り立った虎口がきれいに残っていたので未登録な割にはすごいなと思いました。現在は主郭しか残っていないようですが、その主郭を土塁が囲み、虎口の手前には土橋と堀切が設けられていました。また、井戸も残っていて、歴史背景を感じられるお城でした。

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零汰

見落とす (2022/11/22 訪問)

訪問データー:1時間15分:2.6km:累計高低差229m

342mの山頂を主郭として南東に2か所、南西に1か所の曲輪群を尾根の通路で繋げているようです。その他にも幾つかの曲輪が点在しています。南西に2か所の堀切を設けており、南東には畝堀が存在してします。(鬼神城郭放浪記さんより)

ルート図より右下の案内板の位置に駐車して半時計周りで主郭を目指しました。直登でしたが歩き易いので割と早く畝堀を伝って南東の曲輪に辿り着き、赤ルートで進み2本の堀切に到着しました。帰宅後城郭放浪記さんの縄張図で復習したところ主郭から南西の派生尾根にもう一つの曲輪群を見落としていた事に気が付きました。その曲輪群の西の畝堀も見落としてしまい残念です。尚、正規のルートは時計回りのようです。

こちらが城訪問中断前の最後の城となりました。今年4月まで1年半の長く痛い中断期間でした。

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イオ

東の城 (2024/05/04 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期に愛洲氏の居城として一之瀬川の段丘に築かれた城で、南朝方についた愛洲氏は宗良親王を一之瀬城に迎えています。室町中期に愛洲氏が五ヶ所城に居城を移したことによって支城となっていましたが、北畠信意(織田信雄)が大河内城から田丸城を居城とすると、田丸具忠が一之瀬城に移りました。

一之瀬城には東の城と西の城があり、まずは東の城から。旧小学校前の東の城駐車場向かいのトイレの脇に一之瀬城の説明板があり、その隣に一之瀬城の資料や縄張図の入ったボックスが設置されています。ネットで拾ってきた縄張図くらいしか手元になかったので、大変参考になりました。ありがとうございます。

一之瀬神社の裏山が主郭で、主郭の西側に横堀がめぐらされています。堀底道を進んで北側に回り込み、この横堀を一条目と数えて段丘北端を三重の堀切で遮断しています。内側の横堀(堀切)は東端で竪堀となって東下に落ち、竪堀の脇には主郭への木製階段が設けられています。主郭の切岸はなかなか切り立っていて、西側や北側からはよじ登るのは困難なので階段は有難いですね。階段を上がったところは枡形状の小曲輪になっていて、その先が主郭です。主郭には案内表示があるくらいですが、端から切岸の下を見下ろすと足がすくむくらいの高さがあります。主郭南下の腰曲輪を経て東下に下りて行くと、浅くなってはいるものの竪堀群が見られました。竪堀群から南に進んだ先にも竪堀があり、資料の縄張図によれば、一之瀬神社の社殿造営時の整備で失われてしまった主郭南側の三重堀切(内側)から続く竪堀のようです。一之瀬神社にお参りして最後に段丘の南へ。南端部には見張り台と呼ばれる曲輪があり、宗良親王御遺跡の石碑が立てられています。見張り台は三方が断崖になっていて、その名の通り往時は見晴らしが良かったと思われますが、現在は木々が生い茂ってほとんど眺望はききません。

登城口の資料に加えて、あちこちに案内表示があり階段まで設けて見学しやすく整備されています。南側の三重堀切が失われたのは残念ですが、北側の三重堀切は見事に遺っていて大いに見応えがありました。次いでは資料にもある西の城(青木山城)に向かいます(続く)。
 

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しんちゃん

大石信重 (2024/01/28 訪問)

二宮城は大石氏の祖・大石信重によって築かれたとされます。二宮神社が城址とされ、周囲より高地になっています。信重は南北朝時代には北朝方に属し1351年の笛吹峠の合戦では先陣を務め、新田義貞の三男・義宗の軍と戦ったそうです。その時の戦功で武蔵国入間・多摩に13郷を与えられ、二宮に館を構えたとされています。
特に遺構は残っていませんが、神社の階段の上から周囲を見渡すと城址としての雰囲気を感じ取ることは出来ました。

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赤い城

堀を流れる水も清らか (2024/06/19 訪問)

陣屋跡には西条高校が建っています。
当然中には入れないので堀の回りを一周しました。
大手門のある東側の堀は広く、陣屋というよりは平城と言っても過言ではありません。

北側から西側に回ります。
西条は水が綺麗な街としても有名ですが堀底が見えるほど綺麗な水が流れています。
市内の至る所に「うちぬき」と呼ばれる地下水の自噴井があり、水汲み場も設置されています。
この水で造るお酒も美味しい!

話が逸れました。
堀の回りを歩き、最後は大手門。
西条高校の校門になっていて両脇を土塁が支えていました。

西条郷土博物館や五百亀記念館も隣接していますが時間の都合で見学は次回。
お昼の西条ナポリタン食べに向かいました。

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夏の散歩 堺 (2024/07/04 訪問)

 戦国時代の小説を読んでいると頻繁に登場する堺の街。一度歩いてみたいと思い行って来ました。
16世紀、南蛮貿易によってさらに盛んになった海外貿易と鉄砲生産によって会合衆などの豪商が莫大な富を蓄え大きな力を持ち黄金の日々を謳歌していました。西側は海、他の三方を濠で囲んで防御する「環濠都市」を形成し外敵の侵入を防ぐことで、戦国時代にあっても大名に支配されない自治都市を築いていました。堺に滞在したポルトガル人宣教師ガスパル・ビレラは「日本のベニス」と本国への報告書に記載しています。ポルトガルから種子島に伝来した鉄砲ですが、堺の商人がいち早く島を訪れてその製法を習得し生産を始めました。そして堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地となりました。
 ただ大坂の陣や大東亜戦争時の堺大空襲により当時の面影はほとんど残っていません。鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代の唯一残っている鉄砲鍛冶の作業場兼住居です。妙国寺は新しくなっていますが、本能寺の変のときに徳川家康が滞在していた寺と伝わっています。他には環濠の一部と千利休屋敷跡や街の中に立っている石碑などが当時を教えてくれます。それなりの楽しく散策しました。

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