大河ドラマ「麒麟がくる」にあわせて明智光秀ゆかりの地をめぐろう、と始めた麒麟がくる紀行でしたが、コロナ禍で思うように進められないなどもありながら、昨秋の田中城で「ここは絶対に外せない」と考えていたところは全て訪れることができました。とはいえ、始めてから5年以上も経っていると最初の頃に訪れたところなどは半ば忘れてしまっていますし、この5年あまりに訪れたゆかりの地を光秀の生涯に沿って再構成して振り返ってみたいと思います。
まずは「明智光秀生誕地」から。前半生不詳であり出自にも諸説ある光秀だけに生誕地とされる地も6か所あります。
1 明智長山城(岐阜県可児市)
2 落合砦(岐阜県恵那市)
3 一日市場館(岐阜県瑞浪市)
4 中洞白山神社(岐阜県山県市)
5 多羅城(岐阜県大垣市)
6 十兵衛屋敷(滋賀県多賀町)
桔梗紋を家紋とする土岐氏支流の明智氏の出とする説が有力とされますが、大河ドラマでも岐阜県可児市の明智長山城を居城とする土岐明智氏として描かれていました。明智長山城北麓の天龍寺には明智氏歴代の墓所があり、明智荘には光秀の産湯の井戸跡(未訪)もあります。
明智の地名が残る岐阜県恵那市の落合砦も光秀の生誕地と伝わります。落合砦には産湯の井戸があり、近隣の明知城周辺には生母とされる於牧の方の墓所や、天神神社に明智光秀公学問所、八王子神社の柿本人麻呂社に明智光秀公手植えの楓、龍護寺には明智光秀公御霊廟があるなど、ゆかりの地が数多くあります。ただ、光秀が土岐明智氏の出だとするならば、明智遠山氏代々の居城(明知城)の周辺で生まれ育ち、明智遠山氏の菩提寺(龍護寺)に祀られているのはどう解釈すればいいんだろう…と思っていましたが、龍護寺の説明板の系譜によれば、光秀の叔父の明智光安が養子として明智遠山氏の家督を継いで遠山景行となったとのことで、その説に基づくとこの地が光秀生誕地であり、叔父のもとで若い頃を過ごした地ということになるようです。
岐阜県瑞浪市の一日市場館跡(一日市場八幡神社)も光秀の生誕地のひとつに数えられています。鎌倉初期にこの地に入った源光衡が本拠として一日市場館を築き、地名にちなんで土岐氏を称したことから土岐源氏発祥の地とされますが、光秀もこの地で生まれて一日市場館の井戸で湯浴みし、2歳で叔父の明智光安に引き取られたとの言い伝えがあるようです。境内には土岐源氏発祥の地の石碑や初代・光衡公の銅像に加えて、「明智光秀公ゆかりの地」の石碑と光秀の石像が建てられていました。
岐阜県山県市の中洞地区を光秀の生誕地とする伝承もあります。土岐元頼と中洞の豪族の娘との間に生まれ、やがて明智光綱の養子になったとのことで、中洞白山神社には産湯の井戸が、近くの武儀川には光秀を身ごもった母が「たとえ三日でも天下を取る男子を」と祈ったと伝わる行徳岩があります。近くには光秀の母が住んでいたとされる庵の跡もあるようです。
岐阜県大垣市にあった多羅城を光秀の生誕地とする説もあります。明智光綱(光隆)の妹が多羅城主の進士信周に嫁いで男子を生みましたが、兄に子がなかったため兄の養子とした二男が後の光秀である、とのこと。甥っ子を跡継ぎとする、なるほどありそうな話ではありますね。多羅城の所在地は特定されておらず、西高木家陣屋や城ケ平城、樫原城などが候補地とされていますが、城ケ平城や樫原城には「明智光秀生誕の地 多羅城」と記されたのぼり旗が堂々と翻っていました(笑)
岐阜県だけでなく隣接する滋賀県多賀町にも光秀の生誕地(出身地)とされる十兵衛屋敷があります。光秀が近江出身というとトンデモ説のように思えますが、江戸前期に彦根藩井伊氏に献上された「淡海温故録」の記述と地元に伝わる口伝に基づく説であり、曰く、美濃の土岐成頼を離反した明智十左衛門が六角高頼を頼ってこの地に住むようになり、その二、三代後に生まれたのが光秀なんだとか。十兵衛屋敷には光秀と見津五人衆らのイラストボードが立ち並び、十兵衛屋敷跡の標柱、説明板、さらに十兵衛茶屋には光秀多賀出身説の資料が多数展示されていました。
…いくら前半生不詳といっても生誕地が6か所はやりすぎだろ、とは思いますが、それぞれ出自は違っても明智光綱なり光安なりに引き取られている点はほぼ共通しており、幼少期から青年期を美濃で過ごしたと考えてよさそうです(ただし多賀説では多賀から美濃を経ることなく越前に行っています)。大河ドラマで描かれたように斎藤道三に仕えたかどうかは諸説あるものの、美濃在住時に妻木氏の熙子を妻に迎え、その後に越前に移り住んだと考えられます(続く)。
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