(続き)
明智光秀は丹波攻めの前から織田信長の命により朝倉・浅井攻め(福井県・滋賀県長浜市)、高屋城(大阪府羽曳野市)の戦い、長篠の戦い(愛知県新城市)、越前一向一揆攻め(福井県)と東奔西走していましたが、さすがに信長肝いりの丹波攻めの間くらいは専念させてもらってたんだろう…と思いきや、丹波攻めを始めて間もないうちに越前・丹後への援軍を命じられるわ、丹波攻めが頓挫するや石山本願寺(大阪市中央区)との戦いに駆り出されるわ、天王寺の戦い(大阪市天王寺区)の後には過労(赤痢とも)で倒れ、療養の甲斐あってようやく快復したと思ったら今度は妻の熙子が病死…。光秀にとって心身ともにつらい時期だったことでしょう。
それでも東奔西走の日々は続きます。雑賀攻め(和歌山市)、信貴山城(奈良県平群町)の戦いに続いて丹波攻めを再開するも、羽柴秀吉の援軍として神吉城(兵庫県加古川市・未訪)攻め、信長に反旗を翻した荒木村重が籠る有岡城(兵庫県伊丹市)の戦いに動員されるなど、やはり専念はさせてもらえませんでした。それでも何とか丹波平定を果たし、京都御馬揃えの運営責任者も無事に務め、甲斐武田氏を滅ぼして安土城(滋賀県近江八幡市)での徳川家康の饗応役を命じられたところで光秀に一大転機が訪れます(続く)。
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