南北朝時代に島原の有馬隆泰によって築城。
城址の近くに竹崎城を再現した展望台あり。
有明海を望む360度のパノラマは最高〜😀
桜の開花は今から!
竹崎カニ🦀やカキ🦪、周辺の海中鳥居⛩️も
オススメです。
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2025/03/23 17:56
竹崎城址 春のパノラマ&お花見 (2025/03/23 訪問)
南北朝時代に島原の有馬隆泰によって築城。
城址の近くに竹崎城を再現した展望台あり。
有明海を望む360度のパノラマは最高〜😀
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2025/03/23 17:33
台地を利用した土の城 (2025/02/02 訪問)
京成大佐倉駅から歩いて10分。東光寺ビョウの標柱から登城開始。
東山虎口を抜けて東山馬場にある本佐倉城址案内所へ。案内所では年配のガイドさんによる千葉一族の歴史解説を聞き10分ほどビデオ映像を視聴。案内所横のトイレ前に設置された続日本100名城スタンプをポン。東山の土塁の上からは筑波山まで望めるビューポイントだが小雨の中では厳しい。
入手したパンフのルートに沿って進む。Ⅳ郭虎口、城山虎口を通って城主の空間である城山郭へ。続いて奥の山、倉跡を右手に見て一旦内郭の外へ出る。
セッテイ空堀を横切ってセッテイ虎口から再び内郭内へ。金明竹が群生する小径を進み南奥虎口を通って東光寺ビョウを抜ける。2時間の攻城で土の城を満喫。案内所のガイドさんは外郭部分の見どころも教えてくれたが佐倉城攻めを急ぐため回避。
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2025/03/23 14:43
鮎河城 (2025/01/18 訪問)
【鮎河城】
<駐車場他>うぐい川公園駐車場
<交通手段>車
<見所>堀切
<感想>現地説明板によると鮎河城は南北朝時代に南朝に属していた頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝軍反撃の拠点とした要塞である。1337年に兵を挙げ鮎河城に立て籠もったが、北朝軍の佐々木秀綱に従った山中橘六・小佐治右衛門三郎・美濃部兵部三郎らの軍に攻められ陥落しました。
登城口は<34.957139, 136.342950>から獣よけ柵の扉を開けて入れます。登城口の道路沿い北側に現地説明板と城跡碑があります。麓居館跡のようです。登城口扉を開けて中に入ると正等院跡の五輪塔や墓碑が削平地に並んでいます。なんとなく道があるので奥へ進むと鮎河城への矢印板がありますが、途中から道がロストしてしまいます。そこから直登しますが植林整備されているのでそんなに難しいものではありません。尾根を見て(東側)右方向(南)が比較的緩やかなので、徐々に右方向に流れながらジグザグに登って行けば、ちょうど尾根の南端辺りに登り着けます。
尾根から北へ向かって進むと、尾根上の削平地が広くなっているのでここから削平地かなあ。という感じになってきます。少しだけ段差があります。落葉の間に礫石が所々見える場所があり、落葉の下は結構な岩場か岩を利用した防御遺構があったかもしれません。城跡は南北に走る尾根上を利用した小さな城で主郭を中心に主郭の南北を堀切で仕切り、主郭の南側に副郭、副郭の南側に斜面状の削平地(曲輪かどうか判別不能)、主郭の西側斜面に細い武者走りがあります。主郭の北側は堀切の先は尾根曲輪が続いています。主郭の周囲の切岸は結構削られていて人手で加工した遺構がくっきり残っていて見応えがありました。
<満足度>◆◆◇
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2025/03/23 10:56
武田氏三代の栄枯盛衰 謎のハローキティ (2025/03/15 訪問)
武田氏館(躑躅ヶ崎館)は武田信玄の父・信虎が永正16年(1519)に石和から館を移したのが始まりとされています。その後、信玄。勝頼と三代に渡って使用されて来ました。主郭は一辺約200mで、現在は武田神社になっており、周囲に堀と土塁が残っています。今でこそ水堀だけど、昔はどうだったんだろう・・? 個人的には武田氏の城は空堀で有ってほしい(なんで?)。
いや、武田って土臭い、泥臭いのが良く似合うし(ポカッ)。そもそも水堀なんて女々しい堀は武田には似合わない(怒られるぞ~)。
今の時代、いろいろ怒られそうなことを書きましたが、私は武田の漢らしい空堀は好きです。石垣はやっぱり野面積・・。
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2025/03/23 10:11
2025/03/23 10:07
2025/03/23 10:03
2025/03/23 10:00
2025/03/23 09:57
2025/03/23 09:54
2025/03/23 09:49
2025/03/23 09:35
傘をさしながら散策 (2025/03/15 訪問)
甲府城に行ってきました。この日は朝から雨なのですが、甲府城や躑躅ヶ崎館なら傘をさしながら散策できます。近くで要害山城の2順目のスタンプを捺印。1冊目を無くした時の予備にもう一冊持っています。この付近は百名城2つと続百名城2つと名城が集中している場所です。これだけ集中している場所もなかなか無いです。遊亀橋を渡って坂下門跡→中の門跡→鉄門→天守台→稲荷櫓と移動しました。
舞鶴城に遊亀橋を渡って行くので、ここも鶴亀になります。
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2025/03/23 09:33
2025/03/23 09:22
富士道中 (2025/03/22 訪問)
富士五湖めぐりの続きです。「城びと」じゃなくて「富士びと」じゃないか・・と言われそうですが、ご容赦を。
城・桜・富士山はやはり風情があっていい。豊橋市に住んでいるので3時間ぐらいで、すそ野まで行けます。すぐ近くじゃ無いのが良いんですよ。個人的には桜・富士山が見える城で一杯やりたいです。そんな城は無かったかな? できれば天守も欲しい。
山中湖→河口湖→精進湖→本栖湖の順で回りました。西湖はどうしたって? 申し訳ないがパスです。西湖は一か所からしか富士山が見えないので、今回ははしょりました。それぞれ違った角度から見ると別の表情を見せてくれます。宝永火口の側から見た富士山も新鮮な感じがして良かったです。
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2025/03/23 08:24
献血前の登城① (2025/03/15 訪問)
全都道府県で5回以上の献血達成がそろそろ見えてきました。4回しか献血をしていない県のうち、雪の心配が少なく距離も手ごろな茨城県を行き先に選びました。午前2時に起きて2:30に出発。今まで茨城に行くときは上信越道、北関東道経由でしたが、今回初めて中央道と首都圏中央連絡自動車道でアプローチしました。圏央道は運転の荒い車が多くあまり走りたくない道です。登城直前にすき家にて朝食をとりました。駒城に近づくと近辺の様子が先達の皆さんの投稿写真と明らかに違っています。そう、樹木がきれいに伐採されていたのです。ごく一部の土塁しか残されていない城にとっては過分の好待遇のように思えました。
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2025/03/23 07:52
麒麟がくる紀行(丹波攻め)
(続き)
織田軍の一員として各地を転戦していた明智光秀は賜姓と任官を受けて惟任日向守となり、織田信長の命により丹波攻めを開始します。しかし丹波は山間部に国衆が割拠している上に足利義昭を支持する国衆が多いため、困難な戦いとなりました。
余部城(京都府亀岡市)を丹波攻めの拠点として、小畠永明や川勝継氏らの協力により宇津城(京都市右京区・未訪)を攻め、千手寺城(亀岡市)を足掛かりに八木城(京都府南丹市)を攻略し、御影山城(亀岡市)、須知城(京都府京丹波町)、笑路城(亀岡市・未訪)など反信長の諸城を降していく中で多紀郡を領する波多野氏など光秀に従う国衆も増えていきましたが、「丹波の赤鬼」と恐れられる荻野(赤井)直正が籠る黒井城(兵庫県丹波市)の包囲中に、義昭の調略によって波多野秀治が離反し、背後を衝かれた光秀軍は総崩れとなって敗走。これにより光秀に従っていた国衆の多くが離反し、丹波攻めは頓挫してしまいました。
その後しばらく畿内周辺を転戦していた光秀でしたが、丹波での新たな本拠として亀山城(亀岡市)を築いて丹波攻めを再開。波多野氏の八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻略するため、神尾山城(亀岡市)を中継地として籾井城(丹波篠山市・未訪)や細工所城(丹波篠山市)などの支城を攻め、八上城の周囲には堀や柵をめぐらせ付城群を築いて完全に包囲。黒井城との間には金山城(丹波篠山市)を築いて両城の連携を断ち、ついに八上城は落城。波多野秀治らは神尾山城を経て安土に送られ磔となりました。さらに前年に荻野直正が病死していたこともあって八上城に続いて黒井城も攻め落とし、福知山周辺の掃討戦を経て丹波平定を果たしました。
丹波攻めにおける光秀ゆかりの史跡としては、八木城には光秀が勝鬨をあげたと伝わる勝どき岩、落城時に内藤一族の姫が脱出したと伝わる姫の洞窟があります。須知城には光秀が改修したと思われる見事な高石垣が遺り、山麓の玉雲寺は落城時に焼失するも光秀が再興したと伝わります。八上城には波多野氏の人質となっていた明智光秀の母が磔にされたと伝わる松の跡がありますが、あくまで伝承であって、史実としては否定されているようです。
(続く)
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2025/03/23 07:14
力を振り絞って (2025/02/23 訪問)
幸山城まで来たので福山城を目指さない訳にはいきません。
脚は限界に近いのですが登城路は整備されているので登っていきます。
土橋状になった道を経て進みます、が結構な急坂。
おまけにまた雪が舞ってきました。
八畳岩を経て妙見展望台には見向きもせずひたすら登ります。
ようやく主郭、福山山頂です。
北側が一の檀、西に浅くなった空堀があります。
二の檀との間には門跡と石列、その先には井戸跡もあります。
二の檀西側にも空堀と土塁が残ります。
天気が良ければ眺望も良さそうですね。
二の檀と三の檀の間にも石列が残ります。
南北朝時代に大井田氏経が足利軍の東上を阻止するために籠城して戦った福山合戦の舞台ですが元々は山岳寺院を改修して城郭にしたそうです。
山城連戦、さすがに疲れました😅
加齢による体力の衰えを痛感しました、がこの鍛錬が2週間後の登城に役立つことになりました。
【見どころ】
・曲輪を分ける石列と井戸跡
・主郭部からの眺望
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2025/03/23 00:10
2025/03/22 23:18
上田城
先日訪問した際は冬季休館で東虎口櫓門と北櫓・南櫓は公開されていませんでした。10年ほど前に訪れた際には、内部を見ることができたので、少し古い写真ですが投稿させていただきます。
だいぶ暖かくなってきて、気温だけならすっかり春です。上田城も、そろそろ櫓も公開がされる時期だと思います。忙しくて、何度も訪れることは出来ませんが、地元の方であれば桜の時期や紅葉の時期に訪問して、それぞれの季節ごとに楽しむことが出来ると思います。
そろそろ桜の季節になりますね。来週末か、涼しい所だと再来週あたりでしょうか。
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2025/03/22 23:17
城めぐりのきっかけ
遅ればせながら城めぐりのきっかけの投稿です。
城めぐりのきっかけは、自分も50代のある日100名城スタンプ帳付きの城の本を買ったことです。もともと小学生、中学生の頃、日本の歴史が好きで同じ趣味を持っていた同級生と名古屋城とか岩村城などへ行っていました。その頃のことを書くと長くなるので今回はパスします。高校生、大学生の頃は部活に夢中になり、社会人となってからは土曜日、日曜日も出勤、出張することが多く城へ行くこともほとんどなく過ごしました。ただ歴史小説は好きで多忙な時期でも時間があるときは司馬遼太郎や池波正太郎などの小説は読んでいました。50歳頃、出会ったのが100名城のスタンプ帳です。出張したときに時間があれば城址へ行ってスタンプをゲットしようと思ったことと、運動不足なのでメタボ対策にもなるだろうという安易な気持ちで城めぐりをスタートしました。それほど気合を入れることなくぶらぶら回っていたのですが、小谷城へ行ったときに山城に目覚め、スイッチが入ります。100名城に限らず積極的に山城を中心に登城するようになりました。60歳近くになり仕事等に時間的な余裕ができ、また働き方改革という国の方針で休みを取りやすくなったことも後押しになったと思います。城びとは城の情報を求めてネットサーフィン(死語?)をしていたときに出会いました。当時は登録者も今より少なかったのですが、多くの方が城めぐりを楽しんでいることを知りました。城びとのおかげで城の痕跡が全くない城址碑だけの城跡や学校、神社仏閣などになってしまっている城跡も行くようになり、登録されている城を登城して「行ったお城」の数が増えて行くことは励みになりました。
最近はは城びと登録の城に限らず行きたい城に行くことにしています。また過去に登城したことのある城でも、行きたくなれば繰り返し行くようにしています。
ただ今は花粉症の季節となり、今週からその症状に悩まされています。今日も天気のいい土曜日でしたが、気力を削がれ籠城していました。 それなりの年齢になってきたので、自分のペースでボチボチ城めぐりをしていくことにしています。
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