(続き)
美濃から越前に逃れた明智光秀は、称念寺(福井県坂井市)の門前で浪人時代を過ごしたとされます。越前での光秀の動静は定かではありませんが、門前に寺子屋を開くも日々の生活に困窮する光秀を見かねた称念寺の住職が朝倉氏家臣を招いた連歌の会を設定し、光秀の妻・熙子が自慢の黒髪を売ってひそかに用立てた資金で連歌の会は大成功、光秀の朝倉氏への仕官が叶う…という黒髪伝説が称念寺に伝わり、境内には黒髪伝説にちなんだ松尾芭蕉の句碑「月さびよ明智が妻のはなしせむ」が立てられています。黒髪伝説のとおりではなかったとしても、光秀は何らかの形で朝倉氏に仕官したものと考えられますが、称念寺近く(北に徒歩8分)にある舟寄館を居館とする朝倉氏家臣・黒坂備中守景久に仕えたとも云われています。
朝倉氏に仕官したことに伴い、光秀は一乗谷の大手筋にあたる東大味に移り住んだようです。朝倉街道に面する小字「土居ノ内」あたりが光秀の館跡とされますが(諸説あり)、土居ノ内にある明智神社には墨で塗りつぶされた小さな木彫りの光秀坐像が祀られており、「あけっつぁま」と呼ばれています。明智神社向かいの東大味歴史文化資料館には、光秀や東大味地区、一乗谷についての様々なパネルが展示されていました。称念寺とともに東大味は明智玉(後の細川ガラシャ)の生誕地と云われています。また、明智神社近く(西に徒歩3分)の西蓮寺には柴田勝家・勝定の二通の安堵状が寺宝として伝わりますが、これは勝家らが越前一向一揆と戦う際に、光秀が東大味の人々を戦火から守るべく勝家らに依頼して出させたものとされ、その恩からこの地では今なお光秀は慕われているんだとか。
福井県坂井市にある雄島の大湊神社には、光秀が朝倉氏に仕えていた頃に雄島を訪れて詠んだとされる漢詩の石碑が立てられています。正直、漢詩の意味はよくわかりませんが「源光秀」の文字は読み取れました。
ところで、光秀はこの後、朝倉義景を頼って落ち延びてきた足利義昭に一乗谷で(細川藤孝を通じて)仕えたものと思っていましたが、近年発見された「針薬方」によれば、光秀は永禄9年には義昭の檄文に応じて田中城(滋賀県高島市)に籠城していることが確実視されています。「針薬方」は光秀が田中城籠城中に語った金創や出産時の対処法を伝え聞いた米田貞能がまとめた医学書で、一乗谷城下町には医師の屋敷跡が確認されるなど、当時の越前は他国にも名の通った医療先進地だったことから、光秀も浪人時代に医術を身に付け、寺子屋でなく医師として生計を立てていたとも考えられます。
さて、光秀が永禄9年に田中城に籠城していたとなると、朝倉氏を出奔して馳せ参じたかどうかはともかくも、義昭が安養寺北麓に設けられた御所に滞在していた時点ではすでに義昭に仕えていたと考えられ、一向に上洛の兵を挙げようとしない義景を見限って織田信長を頼るよう義昭に勧めたというのも理解しやすくなります。そして、光秀(と藤孝)の仲介により立政寺の正法軒(岐阜市)で義昭と信長が会見し、上洛へとつながっていきます(続く)。
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