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トク

⑥【護佐丸と沖縄6城】(3)座喜味城(2/2) (2025/02/04 訪問)

3城目、座喜味城の続き(2/2)です。築城名人と呼ばれた理由を続けます。
【理由4】
次は防御です。敵は正面(写真①②)から攻めて来たとします。そして二の郭の正面を突破すると、このアーチ門が立ちはだかります(写真③)。ここでふと左を見ると道があり(写真④)、敵はこの道にうまく誘き寄せられるでしょう。しかしその先は行き止まり!(写真⑤)。しまったと気づいた時にはもう遅く、石垣の上から矢を射掛けられ背後から囲まれて、敵は万事休すです。
【理由5】
護佐丸は今帰仁城で大曲の城壁技術を学びます。そして座喜味ではさらに進化し、曲線をもっと大きくくねらせました(写真⑥⑦)。これなら敵をどの角度からも攻める事ができますね。

いやすごいです! 護佐丸という人物は、めちゃくちゃ頭のいい人物だと思いました。

護佐丸はここから、自分の叔母の子を国王に嫁がせ縁戚関係を結び、権勢を振るうようになります。またこの読谷の海から貿易を積極的に行い巨額の富を得て、この座喜味城で国王に次ぐ琉球王国No.2の地位に伸し上がり全盛期を迎えました。

しかしその8年後の1430年またも状況が一変します。琉球統一後も最後まで国王に従おうとしない勝連按司「茂知附」(もちづき)が、東から国王を脅かすようになったのです。国王尚巴志はまたも護佐丸に、勝連城を監視できる中城(なかぐすく)の地に、巨大な城を築き牽制せよと命じます。そして10年後、その勝連の地から護佐丸にとって、人生最大のライバルが現れる事になるのです。

私は高台の一の郭から読谷の町と海を眺めてみました(写真⑨)。全盛期をここで過ごし栄華を極めていた護佐丸は、予期せぬライバルの出現に、どんな複雑な思いを抱いていたのでしょうか?

次は、そのライバルの居城「勝連城」を訪れます。
 

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todo94

住宅地 (2025/02/10 訪問)

日向小林城からの転戦です。台地の上の城ですが、すっかり住宅地と化しています。グーグルマップのポイント近くにはソーラーパネルが設置されていました。公園の一角に小林古墳の標柱が建っていて、かっこ付きで「城山」とあるのが、ここが城であったことを物語っていました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその35 松崎城 (2025/02/08 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその35

「椿の海と水城サミット2025」の一環として実施された『山城ガールむつみ隊長と行くガタゴトバスツアー』に参加して多古町の5つの城を攻めてきました。
その④は松崎城。城址は能満寺というお寺になっています。地元の人は「まつざき」ではなく「まっさき」と読むらしく、この地方に侵攻した正木氏と関係があると言われているそうです。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその34 次浦城 (2025/02/08 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその34

「椿の海と水城サミット2025」の一環として実施された『山城ガールむつみ隊長と行くガタゴトバスツアー』に参加して多古町の5つの城を攻めてきました。
その③は次浦城。地形図で見るとほぼ正方形で、土塁に囲まれた「方形居館」だったようです。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその33 土橋(つちはし)城 (2025/02/08 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその33

「椿の海と水城サミット2025」の一環として実施された『山城ガールむつみ隊長と行くガタゴトバスツアー』に参加して多古町の5つの城を攻めてきました。
その②は土橋城。千葉氏の宗家争いの舞台となった城で、隣接する東禅寺には敗れた千葉胤直一族の墓と伝わる古いお墓がありました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその32 (2025/02/08 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその32

「椿の海と水城サミット2025」の一環として実施された『山城ガールむつみ隊長と行くガタゴトバスツアー』に参加して多古町の5つの城を攻めてきました。
その①は久保城。ほぼ私有地なので普段は城址碑ぐらいしか見られませんが、土地所有者のご厚意により見学する事が出来ました。感謝。

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ぴーかる

多治見国長邸 (2024/12/28 訪問)

【多治見国長邸】
<駐車場他>多治見橋パーキング(コインP)に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り小里城攻め旅4城目。現地説明板によると多治見国長は美濃国守護土岐頼貞の同族で頼貞の十男である土岐頼兼(2城目に行った天神山城登城口横の墓地の人)とともに後醍醐天皇の鎌倉討幕計画に参加します。クーデターは失敗し(1324年正中の変)土岐頼兼は討死します。
 現地は寂れた商店街の一角に館跡碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

長岡城二の丸,冬の風物詩開催中❢ (2025/02/15 訪問)

長岡城二の丸の甘味&茶処『美松』。1959(昭和34)年2月4日創業。今年で66年となりました。毎年2月の創業月に「美松のサンキューまつり」を開催しています。シュークリーム1個39円(税抜)で,10個単位での販売です。税込で1箱420円となります。
この日は晴天に恵まれ,私が並んだ13時には,ホテルα-1長岡まで列が続いていました。ほぼ1時間待ちでした。
同じ二の丸内のアオーレ長岡で,バスケBリーグのゲームが夕方から予定されていました。1時間以上待ちを想定していたので,御の字です。
消費期限が販売日限りなので,13:30まで並ばれていた方で打ち切りとなったようです…。

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dougen

2017.11.28登城 (2017/11/28 訪問)

関門海峡を見下ろす場所に門司城址があり、現在は和布刈(めかり)公園として整備されています。
残念ながら、時間の都合で城址まで行くことができませんでした。

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dougen

2017.11.28登城 (2017/11/28 訪問)

北九州市の中心部にあり、現在は勝山公園として整備されています。
天守は唐造りが再現されているものの、本来は層塔型で破風が無いシンプルな造りだった様です。
もし建て替えを行うことがあれば、本来の外観を再現して欲しいところです。
近世の城郭らしい、立派な石垣や大きな水濠が堪能できる城址です。

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日爪城(城びと未登録) 小ぶりだが土木量は多い (2025/02/16 訪問)

 約1キロ南の清水山城の出城との位置づけもあるので清水山城のくくりで投稿します。清水山城からは北側が見通せないのを補う役割とか。城域からは北方や琵琶湖がよく見えます。
 Googleマップは、日爪城登城口の標柱に正しく導いてくれますが、現在はさらに北西に数十m進んだところが直通の道の入り口になっています。標柱から登城し始めると、獣害柵に当たるので、柵に沿って右に進んでください。
 主郭と東の郭だけの小さな作りですが、最初に現れる土塁/堀切/切岸は、高低差が大きく、かつ、南北58mと長大です。堀切の外側に土塁がある点も含めて、「おお!」っとなりました。東の郭と主郭の間は痩せ尾根を利用した長い土橋です。主郭の南西に続く尾根からの攻撃に対して、主郭にL字型の土塁、尾根を断ち切る4重の堀切にも執念を感じます。しかしながら、周辺の城と共に、明智光秀に攻められ、落城。
 北面中腹に「根小屋」と伝えられる平削段があります。「根小屋」は、西日本には珍しいそうです。この城の一族は、美濃から来たとされている関係でしょうか。

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トク

⑤【護佐丸と沖縄6城】(3)座喜味城(1/2) (2025/02/05 訪問)

3城目は、護佐丸が築城した「座喜味城」です。山田城から転戦しました。
名護行の山田のバス停(前々々回の写真⑩)から50m先を左折した小学校の前にもう一つ山田のバス停があり、そこに停まる[48]読谷行のバスに乗り15分読谷BTで下車、その先のバスがすぐに無くタクシーの電話番号が書いてあったので、タクシーを呼び座喜味城まで行きました(10分900円)。帰りは徒歩10分の「上地」のバス停(写真⑩)から、1日3本しかない[29]那覇BT行のバスの時間にうまく合わせて帰りました。

まず座喜味城の入口には「ユンタンザミュージアム」があります。続100名城スタンプは外に置いてありました(写真①)。1階のトイレまでは無料で使えますが、展示室へ入るのは有料です。私はせっかくなので見学し、城の模型(写真②)や歴史、また護佐丸に関する説明や、太平洋戦争で住民が戦火にあった読谷村の記録(写真③④)などの説明を見てから入りました。

座喜味城は二郭しかないコンパクトな城ですが、にもかかわらずここを築城した護佐丸が、なぜ築城名人と呼ばれるようになったのか? その理由が訪れてみてよく解りました。では私が学んだその5つの理由を御紹介します。
【理由1】
ここは地盤が軟弱な場所でした。従来の四角い門では崩れやすいため、護佐丸は沖縄で初めてアーチ門という技術を採用します(写真⑤)。それだけではありません。さらにそのアーチ門の中央にはくさびを入れる事でさらに強度を増したようです(写真⑥)。
【理由2】
同じく地盤が軟弱な場所に立てたため、石垣は崩れやすかったようです。そこで護佐丸は最も崩れやすい所には、新たに5~6角形の石で組む相方積み(亀甲積み)とい技法を採用します(写真⑦)。それ以外の部分には、布積みでかつ交互に石を重ね合わせようにし(写真⑧)、外郭の一部は野面積みで、短期間でかつ強固な石垣を築こうとしたようです。
【理由3】
石不足や人手不足を補うため、奄美より大量の人手を雇い、自分の山田城の石を人手でここまで運ばせる事で、短期間で築城を成し遂げたようです。外郭に野面積みの石垣があったので、それが山田城から運ばれた石かもしれませんね(写真⑨)。

残りの理由は(2/2)に続きます。
 

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todo94

13年ぶりの再訪 (2025/02/10 訪問)

野首城、陰陽石からの転戦です。13年前に訪れているのでスルーしようかとも思いましたが、どんな城だったか全く思い出すことができなかったので再訪することにいたしました。城山公園として整備されていますので見て回るのに困難はありませんが、主郭の一部や帯曲輪などあまり手が入っていない部分も残っています。吉川弘文館の「九州の名城を歩く~宮崎鹿児島編」所収の城で本書を持参していたのだから、本書の縄張り図を見ながら探索すればよかったと反省しています。

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dougen

2017.11.28登城 (2017/11/28 訪問)

現在は周囲が埋め立てられていますが、往時は丹生島という干潮時のみ陸続きとなる天然の要害でした。
今でも城塁は急峻な崖となっており、島だったことが良くわかります。
また、遺構としては、石垣と空堀が残り、櫓も2基現存しています。

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dougen

2017.11.27登城 (2017/11/27 訪問)

本丸は日出小学校となっていますが、周辺には石垣や堀跡、移築現存している櫓が残っており、遺構散策が楽しめます。

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戦国roman

🏯山城攻略〜備前国 砥石城〜 戦国三梟雄ここに生誕す (2025/01/23 訪問)

この日最後は宇喜多秀家生誕の城へ
私は二枚目の写真の登山口のところの道路脇に駐車して攻城しました。

砥石城
築城年 大永年間(1521年〜1528年)
築城者 宇喜多能家
主な城主 宇喜多能家、浮田大和守、島村氏、宇喜多春家

案内板では登山口から15分とのことですが10分で本丸に到着しました。
それなりの山道なので靴は滑らないものをお勧めします。
途中小さいですが曲輪がいくつかありました。
本丸は木が刈られ整備されているので眺めはいいです。
少し見にくいですが本丸の野面積み石垣は見事です。
足元が狭いのでご注意ください。

御城印:少し離れた(約8km)長船刀剣博物館となりの物産館にて購入

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戦国roman

🏯山城攻略〜備前国 下津井城〜 戦国三梟雄の城 (2025/01/23 訪問)

戦国三梟雄と言えば
斎藤道三、松永久秀そして宇喜多秀家
そして毛利元就、尼子経久とともに中国三大謀将の
両方にノミネートされているいわゆる曲者ですね~。
私は聖人君子よりこういうタイプが好きです(笑)
その宇喜多秀家が築城した城の一つです。

こちらは児島半島の先端の下津井港を見下ろす高台に築かれた城で眺めは最高です。
写真の「下津井マップ」右の赤丸のところが瀬戸大橋架橋記念公園の駐車場で整備された数十台停めれる駐車場ですがそこから城域は少し歩きます。
港にある「むかし下津井廻船問屋」が資料館になっているのでとりあえず情報入手のため訪問したところ、左の赤丸のところから城域に入って石垣のすぐ前に駐車スペースがあり便利とのことです。

下津井城
築城年 文禄年間(1592年〜1596年)
築城者 宇喜多秀家
主な城主 宇喜多氏、池田氏

築城は宇喜多秀家ですがその後、江戸期に入って池田氏が大幅に整備され現在のような本格的な石垣の城となりました。
私は西の丸の自然の地形を生かした縄張りと瀬戸大橋と島々を望む眺望がすばらしいと思います。



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戦国roman

🏯城攻略〜備中国 庭瀬城〜 備中境目七城 (2025/01/23 訪問)

備中境目七城の一つ
戦国期に一体だった撫川城とは歩いても5分ほどの距離ですが城前に5台ほどの駐車スペースもあります。

庭瀬城
築城年 永禄2年(1559)
築城者 三村元親
主な城主 三村氏、戸川氏、板倉氏

周囲を堀で囲まれていますが当時泥沼地だったのでお手の物でしょうか?

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戦国roman

🏯城攻略〜備中国 撫川城〜 備中境目七城 (2025/01/23 訪問)

先日投稿した備中境目七城のうち撫川城・庭瀬城を攻城しました。
七城には庭瀬城しかノミネートされていませんが撫川城と庭瀬城は戦国期には一体の城でありました。

撫川城
築城年 永禄2年(1559)
築城者 三村家親
主な城主 戸川達安(2万9千石)、板倉勝喜(2万石)

周辺は住宅地になっていますが看板があるところが公園になっており、そこに数台駐車できるスペースとトイレがあります。
そこから堀を渡ると移築された現存の撫川陣屋総門があります。
堀には石垣や土塁もあります。
案内板によると西側の石垣の左側(北西部)に櫓台があるとのことです。


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とばつびしゃもん

琉球国王の城 (2024/12/31 訪問)

14年ぶりの登城。予約した8時15分~ガイドツアーで登城開始。
首里杜館からスタート。守礼門、木曳門を通って下之御庭へ。毎朝の御開門式を見学して、奉神門から復元中の正殿を覆う建物内部に入り素屋根見学エリアや木材倉庫・加工場を見学。復元中の正殿を目前で見学できるのは今だけ。
世誇殿の前で1時間のツアーは終了。ガイドさんはとてもわかりやすい解説で、守礼門の額は台風が近づくと取り外すことや、復元作業の人材の多くは県外から来ていて年末年始は地元へ戻るため作業は中止中とか教えてくれました。
その後、東のアザナ、淑順門、継世門などを見て回って首里杜館へ戻る。
2時間かけて攻城。再建の際には朱色に輝く正殿を見に再登城したい。

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