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カズサン

本丸寸景3/3 (2024/11/04 訪問)

 台風21号崩れの秋雨前線、風雨・突風が一昨日、城址は木の葉、小枝、枯れた枝が散乱してました、紅葉にはまだ早い時期でしたが旗日でしたので、家族連れピクニック、学生のトレーニング連が本丸に集っていましたので、サラッと本丸内部を一時去って、搦手門跡、西の丸Ⅰ(笹曲輪)、本丸西側の鉢巻石垣、腰巻石垣の見学確認と西側を廻って、南西の角の石畳散策路を登って本丸大手門跡へ、少し人出が引いましたので、本丸東側の土塁、南端突き出し部、東門跡を内部から、東枡形側と観察、西側土塁側発掘出土の枯山水の庭園を試しデジカメで収めて、本丸南端の展望台より遠州灘、浜松市街アクトタワー、蛇行した天竜川を眺めて終わりとしました。
 12月に入ったら楓の紅葉も見頃になるでしょう。

 試しデジカメの探訪投稿ご覧頂きありがとうございました。
 

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イオ

山田方谷ゆかりの地めぐり (2024/09/15 訪問)

5年ぶりの再訪ですが、今回は山上の城には行かず、城下と周辺の山田方谷ゆかりの地をめぐりました。

山田方谷は江戸末期の儒者・陽明学者で、学者としては佐久間象山と並び称せられ、教育者としては藩校「有終館」の学頭を務め、また家塾を開いて三島中洲や河井継之助ら多くの人材を育成しました。藩主・板倉勝静から10万両の負債を抱えて破綻寸前だった松山藩の藩政改革を命じられると、7年で負債を完済したばかりか逆に10万両の蓄財を成し、軍制改革では後の奇兵隊や屯田制の先駆けというべき制度を設けた、当代きっての人物です。数年前に観た「英雄たちの選択」で初めてその事績を知って以来、知れば知るほどに素晴らしい人物だなぁ…と心酔しています。

山田方谷記念館(高梁市向町)
まずは前回に入口の前まで来ていながら時間の都合で断念した山田方谷記念館から。方谷の事績が「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」の3つのテーマに分けて紹介されていて、歴史資料や解説パネルの他、ビデオの上映もされていました。記念館の前には方谷先生像も建てられています。

藩校有終館跡(高梁市中之町)
方谷が学頭(校長)として藩士子弟の教育に務めた藩校跡で、現在は幼稚園になっていますが、門の脇には方谷が植えたと伝わるクロマツが今も立っています。

牛麓舎跡(高梁市御前町)
方谷が有終館の学頭に就任した際に与えられた邸宅に開いた家塾で、備中松山城のある臥牛山の南麓にあたるため牛麓舎と名付けられました。身分を問わず受け入れたため門人は数十人を数え、後に二松學舎を創立する三島中洲ら多くの人材を輩出しています。

旧備中松山藩御茶屋跡(高梁市奥万田町)
藩政改革に目途がついたところで方谷は隠居を願い出て長瀬に移住しましたが、引き続き藩政には参画したため、城下滞在時は利用されていなかった御茶屋(藩主別邸)を宿舎としました。水車が併設されていたことから、通称「水車」と呼ばれています。

山田方谷旧宅及び長瀬塾跡(高梁市中井町西方)
隠居した方谷の長瀬の屋敷には明治に長瀬塾が開かれ、翌年には塾舎を増築しなければならないほどに入門者が殺到したようです。屋敷と長瀬塾跡地はJR伯備線・方谷駅になっていて、駅前に山田方谷旧宅及び長瀬塾跡の石碑と説明板が立てられています。駅名は方谷の名を残したいという地元の陳情によるもので、駅には「山田方谷」生誕の地の案内板が立てられ、方谷とゆかりの史跡の説明パネルが展示された方谷駅資料室も併設されています。長瀬の屋敷には、越後国長岡藩から河井継之助が訪れて半年余り方谷に師事しています。高梁川の向かいには長瀬を去る継之助が方谷との別れを惜しんだとされる地に立つ見返りの榎が見えました。

方谷園(高梁市中井町西方)
方谷の功績を顕彰するために方谷と山田家累代の墓所を整備した公園です。前回訪れているため今回は行きませんでしたが、近くにある方谷の里ふれあいセンターの方谷資料展示室は未訪なので、次の機会にはそちらもあわせてまた。

…ということで、「必ずやまた参ります…」と方谷先生に誓ってから5年も経ってしまいましたが、今回の遠征でようやく山田方谷ゆかりの地めぐりを果たすことができました。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑤ (2024/10/20 訪問)

朝日山城からの転戦です。大楯公園として整備されています。広く平坦な本丸ですが、空堀がしっかりと残っていました。小さな三の丸は庄内平野ビュースポットになっています。北楯大堰を開鑿した北楯大学助利長の銅像がありました。佐久地域の4用水を大学の卒論の対象とした私ですので大堰には非常に興味があります。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:槙島城 (2024/10/02 訪問)

宇治駅から徒歩15分ちょっとで、槙島城石碑前(34.899112、135.797852)に着きました。

1573年(天正元年)に足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた「槇島城の戦い」の舞台となった城です。
義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となりましたが、1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による伏見城築城後はその戦略的価値がなくなり廃城となりました。
義昭退去によって実質上、足利幕府は滅んだとされており、室町幕府終焉の地ともいわれています。

伏見城築城にあたり宇治川の流路を付け替える工事の際に、石垣も「槇島堤」に利用されたため遺構は残っていないようです。
児童公園の一角に石碑と案内板があります。説明板には縄張り図あります。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の大阪府動物園前駅へ向かいました。
本日の攻城徒歩=40425歩、攻城距離=28.29Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:超昇寺城 (2024/10/02 訪問)

大和西大寺駅から徒歩10分ちょっとで、籔突入口(34.696943、135.790256)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、超昇寺氏によって築かれたと云われています。
1567年(永禄10年)頃には筒井順慶が西大寺に人足を求めて城を改修し、松永久秀に備えましたが、1569年(永禄12年)に筒井氏は追われ、松永氏によって10日間かけて超昇寺城は破却されたそうです。
その後に筒井氏が盛り返すと再び修築され、天正年間(1573年~1592年)に大和一国破城までは存続していたそうです。

超昇寺城は御前池の西側、佐紀神社の北側にある微丘陵に築かれていました。
竹藪のなかに突入し土橋、空堀らしきものを確認しましたが、竹藪でよくわかりません。
攻城時間は10分くらいでした。(竹籔に躊躇して途中で断念しました)
次の攻城先=槙島城を目指す為、大和西大寺駅から電車で宇治駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:稲八妻城 (2024/10/02 訪問)

新祝園駅から徒歩25分くらいで、南稲八妻跨道橋(34.757799、135.777916)に着きました。

応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続きました。
南山城(みなみやましろ)も例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていました。
1485年(文明17年)南山城の国人衆や農民らが両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めます。その際、農民らの立て籠もったのが草路城とされます。
1493年(明応2年)伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになりました。
これに反対する一部の国人衆は稲八妻城に立てこもって抵抗したそうです。
上記のように、山城国一揆(1485~1493年)が崩壊した稲八妻城は、文献上には現れるものの、その城跡は未だ確定されていないとのことです。

戦国時代の1559年(永禄2年)に、松永久秀が大幅に改修の手を加え、大和国侵攻への拠点としたのではないかとされています。
久秀は1559年(永禄2年)信貴山城を大修築、翌1560年(永禄3年)には多聞山城を築城し、大和国にその勢力を伸ばしていきます。
稲八妻城の終焉は、1568年(永禄11年)の信長上洛によるとされています。

高い城塁?を直登しました。倒れた竹が行くてを阻みましたが、なんとかそれらしき場所に辿り着けました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=超昇寺城を目指す為、新祝園駅から電車で大和西大寺駅に向かいました。
当初予定の次の攻城先は槙島城でしたが、時間に余裕ができたので、9日目にバスの遅延で行けなかった超昇寺城に行くことにしました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:草路城 (2024/10/02 訪問)

同志社前駅から徒歩20分ちょっとで、咋岡神社(くいおかじんじゃ)鳥居前(34.811577、135.786096)に着きました。

草路城の築城年代は定かでないようですが、国人草内氏によって築かれたと考えられているようです。
応仁・文明の乱(1467年-1477年)後も南山城では東西両軍の対立は続き、1482年(文明14年)に東軍の畠山政長が東軍の諸勢を草路城へ集め、西軍の畠山義就に備えたが西軍に攻められ落城しています。
1485年(文明17年)の山城国一揆では東軍の拠点となっています。

草路城は、草内地区の咋岡神社境内一帯の築かれていました。
神社の参道入口脇に神社の案内板がありますが、破れた案内板に草路城の文字が見えます。
遺構は、神社境内の西面と南東角に土塁跡、神社社殿の北側に横堀が残っていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=稲八妻城を目指す為、興戸駅から電車で新祝園駅に向かいました。

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歴史案内活動のご案内【①11月9日(土)②11月16日(土)10:00~12:30】 (2024/11/09 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

ついこないだ始まったと思った2024年も、もう11月を迎えました。
躑躅ヶ崎館跡にみそなわす武田神社も七五三シーズンでにぎわう頃です。
また、そろそろ境内の樹々が色づくころでもあります。
境内の植生は多様で、11月頃から冬にかけて比較的長く紅葉を目にできます。
そんな11月、武田神社にて当隊による歴史案内活動を行います。

日時:①11月9日(日)10:00頃~12:30頃
   ②11月16日(土)10:00頃~12:30頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは原則無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天延期の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

今回のガイドは局長・大塚與左衛門が行います。
皆さんのご来訪も楽しみにしています。

そういえば、西曲輪の北側にある味噌曲輪での発掘調査、
行くたびに様相が変わっていて興味を引きます。
Eが最後に訪れた6月にはあちこちにブルーシートが掛けれられてました。
いずれは神社東側の出入口の大手のように当時の姿に復元整備されるのでしょうか。
(E)

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しんちゃん

ハタジョウダジョ~ (2024/10/06 訪問)

なんか怒られそうなタイトルですが、なかなかやっかいな城址です。石垣なども残っていますが、ほぼほぼ整備されてない。
ぴーかるさんは金毘羅権現から直登したそうですが、温暖化の影響で林の中は蜘蛛の巣だらけ、直登はパスしたい。
あさんの投稿にあった登城口を探しているのですが、高校に人がいない。しかたがないので自転車置き場の裏からおじゃましました。城址の西側の堀切のあたりに到達し主郭のある東側のピークを目指します。ここからだと結構距離がある。なかなか城域は広いです。
幾つか堀切と郭らしき場所を越えて主郭を目指します。主要部のある山頂部の下にも堀切が残っています。
ネイティブではありますが遺構はけっこう残っているようです。少し勿体ない気がしますね(危ないし)。

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朝田 辰兵衛

東京文化財ウィーク

東京都立中央図書館の「江戸城で暮らす展―中奥・大奥―(10/26~11/10)」に行ってきました。入場無料です。
別室では甲冑展示があり,間近で見れたうえに撮影可能でした。
麻布十番駅から歩いたのですが,仙台坂を登る必要がありますので,広尾駅からアクセスした方が宜しいかと思います。
絵はがきとメモ帳(徳川十五代将軍印譜集)をお土産でいただきました。まだ開催しておりますので,興味のある方はぜひ。

もうひとつは,刀好きの方におすすめの展示だと思います。
東京富士美術館の「サムライ・アート展(10/12~12/22)」です。
HPからチラシをダウンロード&プリントして持っていけば,1500円のところを1200円に割引されます。
東京文化財ウィーク企画とは違いますが,全国的に台風21号関連の大雨に見舞われた日に行って来た展示です。
個人的には,浮世絵がよかったです。第四次川中島合戦で,啄木鳥戦法を上杉軍に見破られた山本勘助が責任を感じ,敵陣に突っ込んで体中に矢が刺さり,絶命寸前の表情をとらえた1枚が気に入りました。

赤い城さんへ…
東京都大田区内のあの寺を予想されましたネ。あれっ,もしかしてリクエストかな…?
ちょっと努力してみよっかな…

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エボママ

大好きなお城です (2024/04/27 訪問)

家康が幼き頃に育った街、駿府。
私はこの駿府城が大好きです。

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エボママ

念願の大坂城へ (2024/05/04 訪問)

太閤秀吉殿のお城へ行きました。

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しんちゃん

補完 (2024/11/02 訪問)

前回の投稿ではPCにデータを移動中に電源が落ちて、主郭周辺の写真が破損してしまいました。この日は結構雨が降っていて、宇陀松山城(リピート)への訪問は難しいと判断、近くの福住城を再訪することになりました。
傘をさしながらの訪問になりますので、平山城とはいえ注意して登ります。まだ昼の1時半ぐらいだというのに城址の中はかなり暗いです。まず神社のある郭に到着。周囲には土塁が残っています。そこから堀切を経て主郭に入ります。あまり濡れたくないので早々に引き揚げました。
※城址の東側の道沿い、妙成院の南の小さな社のある区画に駐車出来、その南側に登城口があります。

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エボママ

大好きになりました (2024/11/04 訪問)

さすが軍師勘兵衛。ここにお城を築き、天下取りを夢見ていたとは。黒田が天下をとっていたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。

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エボママ

最高でした (2024/11/03 訪問)

念願の福岡城へ行きました。
VRで見られるのも良かったです。

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しんちゃん

和歌山城番外編 (2024/02/25 訪問)

和歌山城の投稿をしていると、好きな案件が多すぎて終わりません。和泉砂岩の石垣と花崗斑岩の組み合わせも最高だし、緑泥片岩の石垣も素晴らしい。周辺の城めぐりをしながら石垣の産地も回れる稀有な城で、さまざまな見方から城めぐりを楽しむことができます。
ちょっと長くなってきたので番外編にシフトしました。
写真は大手門の南側、伏虎像の周辺から二の丸庭園・二の丸のあたりですね。裏坂からは直接天守まで行くことが出来ます。徳川御三家の城だけあっていろいろな意味で見どころの多い城です。

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ぴーかる

越前朝倉氏発祥の地 (2024/10/12 訪問)

【朝倉城】
<駐車場他>駐車場<35.392527, 134.762674>の公園
<交通手段>車

<見所>主郭の構造・主郭櫓台・堀切
<感想>日帰り丹波の黒豆購入と城攻めの旅ラスト4城目。現地説明板によると養父市八鹿町朝倉は越前朝倉氏発祥の地で孝徳天皇の皇子表米親王を始まりとし、平安時代末期に地名を苗字として武家の朝倉氏が興りました。朝倉城は鎌倉時代に朝倉信高の築城と伝えられています。
 朝倉氏発祥の地の説明板奥の墓地から登城します。墓地の最上段は城跡の北の凵形の堀切の中に建っています。獣柵の扉を開けて登って行きます。主郭へはそのまますぐに到達できますが、まずは南の尾根曲輪から攻略、主郭の周囲は南以外は崖になっていて、南に切岸を造り南尾根に深い堀切で遮断しています。尾根の東の側道を進んでも遺構は無いので尾根に上がって下さい。主郭から南に伸びる尾根曲輪は薄っすらと段が残っていて南端に凵形の曲輪、その南にV字の堀切があり尾根は少し西に曲がって続いており城跡の南はこの辺りで終わっています。
 主郭は円錐状の山の頂部を水平に切り取った円形で南東隅に登城路と同じ位置に虎口跡があります。虎口跡に石積み跡があり主郭は中心の櫓台まで反時計回りに大きく回らされる構造になっています。櫓台は凸形の形状がくっきり残っていて、特に東面は石垣があったような礫石が残っています。主郭内は芝生整備されていて構造が良くわかりました。眺望は抜群に良く、全方位が見渡せて天気も良く気持ちよく散策出来ました。なかなかいい城跡でした。走行距離348㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇
<グルメ>丹波市高見城で投稿した黒枝豆がりの場所は現在は田んぼに転作していました。修正しておきました。今回は「JAひかみとれたて野菜直売所」にて黒枝豆を買いました。美味しさはお勧めしますが、価格が2年程前まで枝付1束600~700円程度だったのが今は1000円するので値段的にはちょっとお高いな、といった感じでした。量的にはもいだ袋詰めより枝付の束で買った方がお得です。丹波栗・新米もこの時期お勧めです。

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しんちゃん

柳生定食(水)柳生古城・剣塚 (2024/11/02 訪問)

柳生古城は柳生城の北方600mにあります。街道の交わる要衝の地にあり、天文13年(1544)に筒井氏の攻撃を受けた際に本城より先に落城した外城の可能性があるようです。登城道がしっかりとついており、尾根上に堀や郭が連続して連なるわかりやすい縄張りをしています。個人的には柳生城より城跡らしくて好感が持てます。主郭の北と南には堀切が二つづつ付いていて、郭や腰郭も有ります。
また堀の周囲に土塁もついているようです。
主郭には剣塚が祀られていて、柳生の里に来たんだなという実感がわきます。

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トク

福岡城の謎-天守台で不思議発見?🤔 (2024/11/04 訪問)

福岡城で現存櫓である多聞櫓の秋の内部公開と、各ポイントでクイズを解きながら歩くウオークラリーに参加した後、幻の天守が撤去された天守台を見てきました。

天守台は、本丸側(北)に登り口があるので、普段みなさんは必ず本丸側から見て登って、景色を眺め楽しまれて帰ると思います(写真⑥→⑦で登る)。私は今回初めて人気のない反対側の武具櫓側(南)からも見てみました。そしてそこから眺めていると、ある事に気づいてビックリしました。

ではみなさん、その武具櫓側(南)から見た天守台の写真(写真①)を見て下さい。何か変だと思いませんか? この上には高層(五重六階)の大天守が築かれるはずでした(想像写真③)(一度築かれてから壊した?との論争も進行中ですが・・)。ならばこのような大きな天守を載せるはずの天守台がなぜこのような形をしているのでしょうか? しかもこれは、あの築城名人の黒田長政が築いた天守台(現存)です。

この天守台、よく見ると左右対称ではない事に私は気づきました。石積みの傾斜が、右側(東)はゆるやか(約35°)で、左側(西)は急(約45°)になっています。普通は天守を安定させるため、天守台は左右対称に築くと思います。ましてやこの上に高層(五重六階)の重い大天守を建てるのであればなおさらです(私の疑問点の説明:写真②)。

地盤や地形に理由があるのかと思い、石垣の下を一周してよく見てみました(写真⑥→⑦→⑧→⑨→⑩)。固いまたは柔いなど地盤に支障がありそうな感じはなく、障害物もなく広さも十分でした。左右に見える樹木は築城後に生えたものなので関係ありません。左右対称に同じ角度で積もうと思えばできそうな感じです。

もしかして、天守を天守台の右(東)に寄せて建てようとする(右に荷重をかける)のであれば、少しはこのような傾斜にしたのは分かる気がします。しかし天守台内部を見ると、四方外側の端に土台があるくりぬいた形のため、天守台の四隅いっぱいの大きさに最初から天守を建てようとしていたのが分かります(写真④⑤)。また両側(東西)には、渡り廊下でつなげようとしていたようですが、天守台の外なのでこれも関係ないと思います。よって天守はほぼ独立した形に近いと言っていいと思います。だったらなおさら左右対称の同じ傾斜で積んだ方が安定すると思うのですが・・・?

なぜこうしたのか結局解らず、もやもやした気持ちで終わってしまいました。
 

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カズサン

搦手門より西廻り2/3 (2024/11/04 訪問)

 大手門・大手道辺り1/3の続きです。

 本丸は家族連れとトレーニングのパーティーが多くサラッと流し、搦手門跡の残存石垣辺り、西の丸Ⅰ(笹曲輪)の虎口と東側土塁法面の堀底を通って、本丸西側の鉢巻石垣が残ってる上部へ廻り鉢巻石垣を北から南へと観察し、下部の西の丸Ⅱへ降りて、腰巻石垣が残ってる辺りを観察して、南西下部より本丸大手門跡へ石畳遊歩道を登る。
 一昨日の台風21号崩れ秋雨前線の通過の風雨と突風で枯れ葉に小枝が遊歩道に散乱、湿りも有りやぶ蚊の襲来を受ける。
 コンパクトカメラの試し撮り探訪の続きです。

 次に本丸寸景3/3に続く。
 

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