桟原城
宗氏3代目藩主義真が築いた城。遺構とされる桟原幼稚園に移築された城門を見てから、案内板に従い城址へ進むとそこは陸自の施設。もちろん中に入って登城開始とはいかず、周辺の石垣を見て回り攻城終了。翌日の金田城攻めに備えて宿営。
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2024/03/30 21:03
対馬藩政務の拠点の城 (2024/03/09 訪問)
桟原城
宗氏3代目藩主義真が築いた城。遺構とされる桟原幼稚園に移築された城門を見てから、案内板に従い城址へ進むとそこは陸自の施設。もちろん中に入って登城開始とはいかず、周辺の石垣を見て回り攻城終了。翌日の金田城攻めに備えて宿営。
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2024/03/30 20:36
石塁で囲われた城 (2024/03/09 訪問)
対馬博物館の横を通り、案内板に従い入城口へ。一の丸へは2つルートがあり、三の丸、二の丸を通るルートを選択して登城開始。
5分程登ると三の丸。三の丸、二の丸、一の丸が直線状に並ぶ連郭式の山城で、曲輪間も石塁で囲われている。文禄・慶長の役の際に築城されたそうだが、とにかく残された石垣・石塁のたたずまいに感動。所々に横矢桝形という設備や虎口が見られる。
入城口から50分ほどで一の丸到達。一の丸では二の丸側の食い違い虎口も見事だが、北西側の虎口もきれいな姿が見られました。
登るに連れ、曲輪からの眺望が変わるのも楽しく、ゆっくり攻城して2時間弱。
下城後、対馬藩お船江を見学。対馬バーガー(うまし)で小腹を満たし、桟原城へ向かう。
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2024/03/30 14:49
地形を生かした攻めづらい総構え (2024/03/30 訪問)
虎伏城とも呼ばれるほどの縄張りで奥に進むと急峻な地形が待ち構え本丸までの行手を阻む
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2024/03/30 14:42
現存の風格 (2024/03/29 訪問)
柿渋塗りの黒塀が江戸時代築城なのに戦闘的な構えです
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2024/03/30 10:38
信玄公の面影が今も色濃く残る (2024/03/18 訪問)
甲府駅では、南口にはまず信玄公の銅像があります(写真①)。なかなかの迫力です。北口には父の信虎公の銅像もありました(写真②)。この信虎公の銅像前のバス乗り場から武田神社行のバスに乗り10分、終点で降りると武田神社(躑躅ヶ崎館)です(写真③⑨)。
神社内にある宝物殿では、信玄公の肖像画・武田二十四将図・甲州金・信玄公軍扇・孫子の旗(風林火山)などの実物が展示されていました。撮影禁止のためお伝え出来ないのが残念です。しかし、それらをじっと見ていると、だんだんと身震いがしてきます。そして思わずつぶやいてしまいました。「御旗盾無御照覧あれ!」
【余談】甲府名物「ほうとう」
駅前には甲府名物「ほうとう」と書いた店が多くあったので、どんなものか気になって食べてみました。ここの特徴は、よく煮込んだかぼちゃが多く入っていて、それがとてもおいしかったです(写真⑩)。なるほど・・・信玄公は、かぼちゃが好きだったのかな?🤔
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2024/03/30 09:05
東三河の重要拠点 (2024/03/17 訪問)
吉田城は、豊川と朝倉川の合流点にある丘陵上にあり、東三河平野部の中心に位置する地域支配の重要拠点で、豊川に隣接して腰曲輪を挟みながら本丸を置き、本丸を取り囲むように二の丸、三の丸を配し、東西及び南側に藩士屋敷を展開しています。また、最も外側の堀が取り囲む範囲は東西約1400m、南北約700mもあり、この地方を代表する城郭です。
吉田城は、徳川譜代大名の出世城で江戸時代には9家22代が歴代藩主を務めています。1590年池田輝政公が15万石で入城すると、15万石に相応しい城にする為、大規模な拡張整備を行っており、本丸に石垣を積み上げ、堀を二重・三重に巡らせています。また、三重櫓5基、二重櫓3基、櫓門5基配していました。(現在、現存している櫓・櫓門は無く、本丸の隅櫓の一つ鉄櫓が鉄筋コンクリートで再建されています。)
カズサンさんが、より詳しく吉田城をご紹介していただいた後で、大変恐縮ではございますが、カズサンさんのご投稿に触発され、30年以上慣れ親しんだ吉田城に、3か月ぶりくらいで行ってきましたので、投稿させていただきます。
吉田城がある豊橋公園といえば、豊橋まつり、炎の祭典、祇園花火大会、桜花見祭り等が開催される公園で豊橋市民だけでなく、この地方の方々が多く利用する公園です。自分も子供が小さい頃から、この公園を利用させていただいています。
続100名城に選定され、再建鉄櫓・石垣・空堀・土塁等見どころも沢山あり、ゆっくりと過ごすには最適かと思います。
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2024/03/29 22:08
百万(メガ)石とまでは言わないが。 (2023/12/30 訪問)
メガとはイングリッシュな人たちの言葉で百万を意味します。メガビッグ、メガデス、メガ粒子砲、メガバンク‥こっちじゃない。
妻鹿城は薩摩氏長の子孫であるとされる妻鹿孫三郎長宗によって築かれたとされています。妻鹿長宗は元弘の乱の時、元弘3年(1333)一族と共に赤松則村に従い北条方と戦い、その功により妻鹿地方を領有し、城もそのころに築かれたものと思います。
黒田官兵衛孝高の父、職隆は息子孝高に家督を譲って姫路城から妻鹿城(功山城)に移ったとされています。三木城合戦の後、秀吉は三木城を居城としますが、孝高は三木城より姫路城の方が毛利攻めに良いと進言し、秀吉に姫路城を譲って妻鹿城に入ったとされています。(三木城では戦略的に不備であると進言したとも)
妻鹿城はおそらく黒田二代によって改修を受けていると思いますが、縄張りに特に派手なものは有りません。しかし岩肌がむき出しになった登城道はなかなかに険しく攻略時にはかなりてこずったと思います。鉄塔のある郭を越えていくと枡形のような場所に二重の隅櫓跡があります。先には土橋が主郭に向かって続きますが右手に一段下がって郭が連なり郭の間も土塁で仕切ってあります。北端は展望台になっており、西には市川が流れ眺望はすこぶる良く、遠く姫路を見渡せます。黒田家の城と勇んで来ると少し肩透かしを食らいますが、地味に遺構の残る良い城だと思います。
職隆の孫・長政は関ヶ原の合戦で大きな功績を挙げ、筑前国名島に52万3千石で入りました。今でいう1400億円くらいです。百万(メガ)石とまでは言いませんが0.5メガ石まで言ったので十分ではないでしょうか。
いや~うらやましい。どこかの竹藪に1メガ円(百万円)でいいから落ちていないかな~。
※少し怪しげな縄張り図を見ると他にもたくさん郭の様なものがありますが、いくつかしか見れていません。主郭の先にも郭があって磐座があるようです。
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2024/03/29 19:02
前田利家公生誕の地! 前田利長生誕の地でもあったりする。 (2024/02/03 訪問)
荒子城は富士天満社の周辺に築かれていたとされ東西約68m、南北約50mほどの規模で周囲に堀を巡らせていたようです。天文年間(1532~55)前田利昌によって築かれたとされ、利昌の子・利久、利家、利家の子・利長と親子三代に渡って居住し、天正3年(1575)利家が越前国府中に移り、天正9年に利長も同地に移った後に廃城になったようです。
境内には大きな「前田利家卿御誕生之遺址」の石碑がどーんと立っています。ちなみに前田利長の生誕の地でもあるようなのですが、それらしい石碑は有りません。利長公もなかなか知名度はあるのですが偉大すぎるオヤジの前では霞んでしまっているようです。
二代目の宿命ですかね。
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2024/03/29 18:48
蟹江城合戦の前田與十郎の城 (2024/02/03 訪問)
前田城は前田速念寺の境内に築かれていたようです。街中の城跡なので土塁などの遺構は当然のように有りませんが、石碑や城址碑などがいくつもあります。境内には前田氏の墓があり、前田仲利、利成と最後の城主とされる前田與十郎の墓があります。
前田與十郎長定は前田対馬守家2代当主とされ代々の当主は與(与)十郎を名乗り、前田利家の本家筋に当たるそうです。長定は佐久間信盛に仕え、本能寺の変の後は佐久間信栄のもとで織田信勝に仕えたようです。
小牧・長久手の戦いの際に起きた蟹江城合戦では滝川一益の調略で羽柴方に寝返り守将の佐久間信辰を追い出し、蟹江城に籠城するも徳川家康・織田信雄の2万の軍に前田城・下市場城ともども包囲されてしまいます。舟入の戦いで羽柴方の九鬼嘉隆が破れ制海権を奪われたのち、敵の総攻撃を受け蟹江城は開城したそうです。和平交渉のさなか長定は船で妻子ともども脱出を試みますが、長定は逃がしてはならぬと、妻子ともども討ち取られてしまったとあります。(「三河物語」に記載があるようです)
城内にある前田與十郎の墓はこの長定の墓のようです。
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2024/03/29 18:38
佐賀城 (2024/02/11 訪問)
【百名城69城目】
<駐車場他>佐賀城本丸歴史館駐車場
<交通手段>車
<見所>水堀・鯱の門・天守台・復元本丸御殿
<感想>1泊2日久留米・佐賀の旅3城目。いつものように外郭を一巡り。外堀は西側から⇒船着場跡⇒龍造寺隆信生誕地⇒南堀⇒西堀⇒北堀⇒図書館から城跡内へ、多布施川を見て⇒本丸石垣の外観⇒本丸歴史館⇒天守台の順で巡りました。ブラタモリで放送していた多布施川を引き込んで城内の水路と用水に利用している事、知らなかったら佐賀城の水堀の良さも半減していたことだろう。佐賀平野に残る環濠城跡も見て水濠城の集大成だということがつくづくと感じました。
<満足度>★★★☆☆
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2024/03/29 12:54
2024/03/29 11:07
大野城は木曾三川大野極楽寺公園の中 (2024/03/16 訪問)
昨年の10月西美濃未踏の城廻りで時間切れ取り残した、更木陣屋、長森城、伏屋城、松倉城を伊木山城、野口館メインの日帰り城廻りをすべて終えて、帰路にはまだ時間も有り、東海北陸道IC経由の途中に在る大野城に寄り登城する。
駐車場:木曾三川公園内大野極楽寺公園駐車場利用(満車状態でしたが1台の空きが有り駐車)
参考資料:グーグルマップに依る。スマホで情報ゲット。
大野城は既に登城した尾張の国に常滑市大野城、愛西市大野城と在り、此処一宮市大野城とで3城と成ります。
駐車場から西の野球場A面側へ移動約100m弱、A面球場と桜の里公園の間の散策路上北面一画に自然石に刻んだ「大野城跡」碑と磨かれた御影石「大野城跡」解説板が並んであります。
染井吉野桜が咲いたらさぞ見事な景観な事でしょう。駐車所側にエドコヒガンサクラ系か?少し咲いていましたので写真もアップします。
野球場は3面とも競技中で大勢の人で賑わっていました、桜の時期は超満員でしょう。
解説板には、天正12年(1584年)小牧長久手の戦いでは、下奈良、宮後、河田の砦と共に秀吉側の砦として利用された。元石清水八幡宮(京都府)祠官大野伊賀守治定が信長に召し出されてこの地に城館を築く。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍の先陣一柳直盛の兵を大野伊賀守治定の子大野才兵衛が案内し岐阜城攻めに加わった。と記されています。(抜粋)
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2024/03/29 11:05
見事な高石垣ときれいな舞鶴城公園を散策 (2024/03/18 訪問)
甲府城を訪れてきました。JR甲府駅を南口から降りると、見事な高石垣と稲荷櫓がすぐの目の前にあり、いきなり圧倒されてしまいました(写真①)。
現在は舞鶴城公園になっていて、市民の憩いの場となっているようです。翌日朝駆けで再登城したのですが、ボランティアの方々が行っているのでしょうか? 早朝から多くの方々が清掃や手入れをされていて、ごみ一つなく芝もきれいに刈られ、とても気持ちよく散策する事ができました(ありがとうございます)。
野面と打込接を併用したこの高石垣は、東日本では珍しくなかなか見られない光景ではないかと思いました。秀吉の命で入った浅野長政・幸長父子が築いたようですが、かなりの技術だと思います。この規模からして、この二人がいかに秀吉から江戸の家康に対する抑えの役を任され、それに応えようとしていたかが推測されます。また再建された鉄門(写真②)や、稲荷櫓もとてもきれいでした。天守台(写真③)に登ると、そこから躑躅ヶ崎館の方向(写真④)や、新府城の方向(写真⑤)も眺める事ができ甲府盆地が一望できました。
江戸期に入り、平岩親吉、徳川忠長(国松=問題を起こした家光の弟)、柳沢吉保など結構有名な人物が城主となっていたのですね。吉保の時代に、御殿などが建てられ、現在のような城が完成されたようです。
夜に宿泊したホテルの窓からは、ライトアップされた甲府城(鉄門など)が目の前に見えて再度感激。ビール片手にずっと眠くなるまで眺めてしまいました(写真⑥夜景はピンぼけしてしまいました(すいません)実際はもっときれいでした)(写真⑦翌朝ホテル前から見た同じ場所です)。
【余談】特急「ふじかわ」号(身延線)
静岡から甲府まで特急ふじかわ号で往復しました(写真⑧)。特急ですが身延線の山深い単線を片道2時間かけてゆっくりと走ります。静岡駅では何と後ろ向きで発車します。そして富士駅でスイッチバック。富士駅から富士宮駅付近までは、車窓から雄大なでっかい富士山をしばらく眺めることができました😲(写真⑨⑩)。では静岡駅で乗車する時、座席の向きを基準に、どちら側の席に座れば富士山がよく見えるでしょうか?🤔 興味のある方は考えてみて下さいね😊!
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2024/03/29 09:43
2024/03/29 09:40
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