矢島御所は室町時代最後の将軍・足利義昭が永禄8~9年(1565~1566)にかけて居住した居館とされています。明治6年頃にはまだ三方を囲む土塁が残っていたようですが、今は矢島自治会館の周辺に、わずかな土盛りが残るのみです。かつては土塁の外側に二重の堀が巡らされていたようですが、周辺の道路や少林寺の境あたりになるのでしょうか。
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2024/07/09 00:07
2024/07/08 21:31
離島にある南北朝時代の城跡、名古屋城築城の石丁場 (2024/06/22 訪問)
知多半島の南先端にある師崎港からフェリーで篠島港へ渡り、篠島内は徒歩で巡りました。
南北朝時代に室賀秋季が築城したと云われます。
南朝の義良親王(後の後村上天皇)が東国へ向かう途中に暴風雨に遭遇して篠島に漂着し、滞在したとされます。
山頂部の広い主郭は城山水神天狗となっており、低いですが北側に土塁状が見られました。
主郭の周囲に郭が見られますが、薮や個人宅になっていて、どこまでが縄張りか分かり辛いです。
大した遺構は見られませんでしたが、愛知県では唯一島に残る城跡ということで(日間賀島に「城ノ山」と記される伝承地があるそうですが)、尾張に住む私としては行くことができて良かったです。
篠島には、加藤清正が名古屋城築城のため、石垣の石を切り出した石丁場(採石地)があります。
海岸の石丁場は、篠島小・中学校の北西側の小山べた・ホラボウズといわれる所から、南西側の南風ヶ崎にかけて矢穴石が多いです。
小山べた・ホラボウズへは、干潮時でも濡れた岩場を渡る必要があり危険ですが、見事な矢穴石があります。
南風ヶ崎では篠島内で最も矢穴の数と列も多い巨石を間近で見ることができ、切出し途中の状態がよく分かり、1番の見所と思います。矢穴の残石もいくつか見られました。
陸上の弁財採石地でも矢穴の数が多い巨石があり、矢穴の残石も見られました。
お寺の庭や街中に再利用残石があるとのことで、狭い道が入り組んだ街で探すのは難しかったですが、いくつか見付かりました。
篠島城に行かれる際は石丁場・残石にも併せて行かれることをお勧めしたいです。
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2024/07/08 21:23
意外と大きなお城だったという (2024/01/13 訪問)
荒木村重が最後に籠ったお城として知られるお城の一角にある花隈公園はやたら石垣が目立つがお城との繋がりはない(高低差はイメージできるけど)。実際の本丸はこの公園の4倍くらいあったそうで意外と大きなお城だったらしい。
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2024/07/08 19:36
美しい堀切 (2022/11/20 訪問)
訪問データー:1時間20分:1.9km:累計高低差254m
その日の一番最初に訪問開始したのは朝6時半、川添の案内板の前にバイクを停めました。そこから苦手な民家の小道を通り抜けます。一軒の番犬がこちらを見た途端に唸り吠える、随分の間吠え続けていました。悪い事をしているつもりはないが少し後ろめたくなります。
案内に従って寺丸・大夫丸を過ぎるといよいよ六の丸からの段曲輪が始まります。北側通路からは急勾配の虎口や境界の石列?が良く見えます。一番の見所の本丸土塁と背後の堀切も美しいです。こちらは迷うことなくサクサク歩けますし案内も必要最低限で気分がいいです。
気分よく降りてきて来たところ先程の番犬にまたも吠えられる。こちらに限らず良く犬に吠えられます。忠犬なんでしょうけど。民家周辺は苦手です。
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2024/07/08 19:02
2024/07/08 18:38
2024/07/08 15:12
丘陵南東端の小代氏館 (2024/06/08 訪問)
高坂氏館を終えて、昼食を近くのピオニウォーク東松山店で摂り、高坂氏館からは南東に約1.3km程、ピオニウォーク東松山店からは南に約0.8km程の所に在る、小代氏館(正代館)を初登城。今回の源範頼館、野本氏館、高坂氏館に次4城目でラストに成ります。
駐車場:小代氏館跡地の青蓮寺北門柱西横の参拝者駐車場を利用。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
北の門柱より入り南行、西行し青蓮寺本堂参拝、西横に弘安4年銘板石塔婆が祀られている、石板塔婆が屋根付き建物で覆われて、標柱、建物には小代重俊供養塔の表示看板、解説板が設置されて、小代氏の系譜、経歴なども記されている。
弘安4年と言うと2度目の元寇の弘安の役の年に成り、小代氏は地頭職が肥後(現在は熊本県荒尾市)であり参陣したのでしょう。
本殿の南に山門が有り、2段に成って南の川方面に落ちている、南から見ると郭の切岸が連なってるように見える、南を沼、河川で守り北、西、東は堀土塁で防ぐ城館で有った様ですが、堀跡、土塁跡は確認できていません。
南側の見通しは非常に良い。東の都幾川、南の九十九川、越辺川に囲まれてる丘陵先端部、この丘陵には北西部先端に高坂氏館が構えてる。川は最終的には荒川に注がれているようです。
4城を終え、高坂氏館の土塁と深い堀に感動し浜松に帰路を取り、順調な高速道路走行でした。
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2024/07/08 06:42
原田しろあと館 (2024/06/21 訪問)
阪急曽根駅から西に徒歩7分くらい。
周囲は住宅地となっています。
原田しろあと館が城趾で説明板も立っています。
皆さんのレポートにあるように平日は閉館、やむなく外周を回るのみの登城となりました。
(とは言っても1周はできません。)
土塁が残りますが外から見上げるのみ。
少し西に行くと原田井の洗い場がありました。
かつては水路が巡っていたようです。
原田城は北城と南城で構成されますがしろあと館がある所は北城。
南城の跡にも向かいましたが更地となっていて遺構は残りません。
このしろあと館ですが開館日の土日にはイベントも催され、地元の皆さんの憩いの場になっているようです。
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2024/07/08 00:05
丸亀城の石垣 (2018/01/03 訪問)
日本百名城の丸亀城は標高66mの亀山を利用して築かれた総石垣の渦郭式の平山城です。三の丸から右回りに回りながら登っていけば本丸にたどり着きます。三の丸には麻生にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸の一部が移築されており「延寿閣別館」の案内板が立っています。
本丸の北側には三の丸井戸という花崗岩製の立派な井戸があり、深さは31間(約56m)もあるそうです。城外への抜け穴伝説もある不思議な井戸です。
丸亀城の石垣は総高60mもあり、単体で一番高い部分は三の丸で22mにもなるそうです。全体の高さだけならユルい山城に匹敵すると思います。ふもとの方には野面積の石垣が残り、やや古い時代のものと思われます。
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2024/07/07 23:40
鬼ノ城 屏風折れの石垣 (2013/12/15 訪問)
鬼ノ城の「西門」に並ぶもう一つの見どころが「屏風折れの石垣」だと思います。1300年前に築かれた山城ですが、詳細は不明で案内板には温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し居住したと言われていると書かれています。平安時代には山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数建っていたとも記載があるので密教仏教がここで隆盛を誇っていたとも考えられます。
これだけ不明な点が多いにもかかわらず、鬼ノ城が百名城に登録されているのもすごい話ですが、訪問して見ると、そのスケールと雰囲気に圧倒されました。少し異世界訪問の感覚が入ってますね。
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2024/07/07 20:02
大草城 (2024/05/11 訪問)
【大草城】
<駐車場他>大草公園駐車場5台程あり。知多市観光協会にて御城印販売・パンフレット・城カードもらえます。
<交通手段>車
<見所>水堀・土塁
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅8城目。現地説明板によると大草城は、織田信長の弟で織田長益(有楽斎)が知多郡南部の大野谷を拝領し大草の地に築城し始めましたが、本能寺の変により築城途中で断念した幻の城である。織田長益は小牧長久手の戦いの後に秀吉から摂津国へ転封になり廃城となりました。
城跡は平山城となっていますが丘城といった感じで小山の周囲を水堀で取り囲み小山に大きく主郭と2郭を配しています。小山とはいえ、空堀はよくありますが、切り立った崖の際に水堀が残る中世の城跡は珍しいのでなかなかの見応えがあります。山頂の主要部はだいぶ大きく削平しており、全体を高土塁で囲んでいて主郭と2郭の間に仕切り土塁があります。主郭はグラウンドになってしまっているので、そこにある古い模擬天守も遺構を邪魔した感はなく味があります。周囲の土塁は高土塁で土塁上が散策できるようになっています。なかなか楽しめました。
<満足度>◆◆◇
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2024/07/07 18:53
へいっ (2024/02/24 訪問)
畠中城は奈良時代には神前氏の先祖となる渡来人の館で、平安時代には当主・神前清実が源行家を匿ったとされています。戦国時代には根来衆の城として築造され、元亀元年(1570)の野田城・福島城の戦いで織田信長に敵対し落城、天正13年(1585)の豊臣秀吉の根来攻めの際にも攻撃を受け落城したとのこと。江戸時代には本丸跡が要家の庄屋屋敷となり、要家は岸和田藩より七人大庄屋の一人として列せられたそうです。
今でも誰か住んでいるようですが、要氏の子孫の方かどうかはわかりません。長屋門(南側)の写真を取り損ねたので、別の写真で代用します。北側の壁が少し倒れかかっているようです。江戸時代から使われているのであれば維持は大変だと思います。
「壁が倒れるぞー」「へー ほうかい」 などと言ってはいけません。
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2024/07/07 18:14
青蓮寺城から虹を見上げる (2024/02/18 訪問)
三重県名張市青蓮寺に存在した青蓮寺城は青木城とも呼ばれ、地蔵院の周辺が城址になっています。地蔵院まで車で行けば楽なのですが、今回は南側の麓から登っています。こちらからだとなかなか比高があり、角度も急でかなり急峻です。途中にいくつか曲輪跡かもしれない扁平地がありました。南側には遺構はありませんが、北側三方を囲っている土塁はかなりの高さがあるようで、外側を堀切が巡っています。案内板によると天正9年9月の第二次天正伊賀の乱の際に織田信長が4万の軍を率い伊賀国に攻め込んできて、青蓮寺城は上出城、雪岡城、愛宕山砦らとともに焼き払われてしまったとあります。実際の総大将は織田信雄とされていますが、この周辺でも激しい戦闘が行われたのだと思います。
この日は城址から虹がキレイに見え、帰途に就いた先でも良く見えていました。というより、かなり明るいですね。ふもとの方が照らされて明るくなってます。
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2024/07/07 17:33
主郭石碑までは到着 (2022/11/20 訪問)
林道突き当たりの駐車場から比高90m程度に主郭はあります。主郭の石碑迄の往復は35分程度でした。残念ながら雑草が生い茂り主郭全体と派生尾根にある馬場跡などには進入しませんでした。それでも主郭に辿り着くまでには片側スロープ通路脇には段曲輪があり、堀切・土塁も付いており、部分的に石積も見る事が出来ます。一部自然石の斜面を登る場所さえ気を付けると気軽に訪問できる城跡だと思います。
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2024/07/07 16:31
高土塁と深い堀が残って居ます (2024/06/08 訪問)
野本氏館を終えて南南西約1.7km程に在る高坂氏館初登城、以前より訪ねたいと願って居た今回メインの城館です。
駐車場:高済寺山門横の参拝者駐車場を利用。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
東から入ったので小高い丘にある様な地理的状態、車を駐めると西に土塁が見える、見学を望んでいた高坂氏館の土塁、実際の大きさに圧倒される、南土塁の断面辺りに解説板、西側に廻り込んで西正面の土塁の高さを実感、堀も深い、山門から本堂に廻り参拝、土塁の北西頂部登る、加賀爪氏累代の墓所に成っている、頂部より南、西、北を眺めて土塁、堀の深さを実感する。
皆さんの投稿写真などで残存の高土塁、堀を観たいと願って居た高坂氏館探訪実感しました。
昼近くでしたので東に降りた近くのスーパーモール・ビオニウォーク東松山で昼食を摂りました。
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2024/07/07 15:35
無量寿寺北裏手に土塁が残って居ます (2024/06/08 訪問)
源範頼館を終えて、南西に約5km程に在る野本氏館を初登城。
駐車場:館跡である無量寿寺南の山門前参拝者駐車場利用。
参考資料:余湖図コレクションさん東松山市HPグーグルマップに依る。
参拝者駐車場に駐めて、山門の脇板塀に野本館跡解説板が有り確認、山門前の参道南に野本館跡標柱あり、本堂参拝、丁度法要中でした、表に出られたご住職にことわり北裏手の土塁を見学させて頂く、土塁の残存、浅い堀跡を少しですが見る事が出来ます。
無量寿寺の南には野本将軍塚古墳が大きく聳えています、長軸115mの前方後円墳で古墳時代前期、後円墳頂部に利仁神社が鎮座、915年鎮守府将軍藤原利仁が祀られている。
野本館は野本基員を初代とする野本氏一族の館跡です。詳細は投稿写真でご確認ください。
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2024/07/07 14:56
移築門 (2024/07/04 訪問)
狭山陣屋の大手門は本願寺堺別院に移築されています。堺の街散歩をしているときに立ち寄りました。
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2024/07/07 13:05
住宅地の近くの山城 (2024/01/28 訪問)
初沢城は初沢川の東にある丘陵の頂部に築かれています。片倉城主の長井氏によって築かれたとされていますが、江戸時代に記された「新編武蔵風土記稿」によれば横山党の一族・椚田氏の居城と推測されています。
比高100mほどの標高294mの地点に本丸が有りますが、近くまで住宅地が迫っているので、車はポリコウに捕まらない所に置いて遊歩道を登って行けば、さほど苦労せずにたどり着くことが出来ます。水タンクのある周辺が二の丸跡とされ、本丸の周辺には腰曲輪も残っているようです。本丸からは周囲を見渡すことが出来(木々が生い茂っていますが)南側には堀切があり、その先は二の丸跡に繋がっています。
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2024/07/07 12:44
滅んじゃいねーぜ (2024/01/28 訪問)
八幡八雲神社が横山党の根拠地とされており、境内に横山党始祖・横山義孝を祭る横山神社が建てられ、近くに案板板が立っています。横山党は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて存在した武蔵国の武士団「武蔵七党」の一つであり、その中でも70余りの氏族を含む最大規模の勢力を持っていたようです。
鎌倉時代、梶原氏の失脚後、北条氏の勢力が拡大し「和田義盛の乱」の際には一族の棟梁・横山右馬介太郎時兼は和田氏に味方し、一族ともども討ち果たされてしまいました。しかし時兼の子・野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散らばっていったそうです。
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2024/07/07 11:29
聖地巡礼 (2024/07/06 訪問)
江戸時代の後半にはすでに観光地化していたといいます。川中島古戦場(長野市)。遡ること16世紀中頃、領土拡大を目指した武田信玄と、その被害を訴えた豪族を助けに赴いた上杉謙信が何度か衝突した地としてあまりに有名ですね。
風林火山ブームというのは、徳川幕府が甲州軍学を教育現場で採用した頃にもあったようです。家康が武田の旧臣を多く召し抱えたことと無関係ではないでしょう。この頃編纂されたのが軍記「甲陽軍鑑」。幕臣をはじめ、広く庶民に読まれた物語で、そのクライマックスの信玄vs謙信の一騎打ちのシーンは浮世絵などで描かれ、講談でも派手に語られたといいます。わくわくの止まらなかった人々はその足で当地を訪れたのだと思います。今で言う「聖地巡礼」ですかね。
軍鑑の史料的価値については、これまで何度か触れたので割愛しますが、そこに描かれた両雄の一騎打ち(川中島第4次。八幡原の戦い。1561)の信憑性についても疑いが残っていますので、付け加えておきます。
というわけで、すっかり“巡礼者”の仲間入りを果たした小生。大会戦におけるひとつひとつの場面の真偽はともかく、決戦の地の空気感や距離感、高低差、そして海津城(現在は松代城。真田の本拠ですね)はしっかり味わってから帰ります。
*隣接する長野市立博物館内に「川中島の戦い」の常設展示あり。入館料一般300円。
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