群馬県高崎市の高崎城です。この地には1428年和田氏が築いた和田城があったとされます。和田氏は戦国時代上杉謙信に従い1561年北条攻めに従軍しましたが、謙信が北条氏攻略の目的を達せず引き上げると、武田信玄方に離反、信玄は鉄砲隊を送り和田城を固めさせたと言われます。1564年上杉謙信は離反した和田城を攻めますが、鉄砲隊や和田氏軍勢の奮戦により撃退したとされます。また、和田氏は1575年の長篠の戦にも出陣、鳶ケ巣砦を守り徳川軍の酒井忠次の攻撃により和田当主業繁は討死したと言われます。のち、和田氏は武田氏滅亡後北条氏に従い豊臣秀吉の小田原攻めにとない和田城も落城、廃城となっています。関東は徳川家康に与えられ、この地には井伊直正が12万石で箕輪城に入城しますが、1598年中山街道と三国街道の分岐点の交通の要衝である和田城跡に築城し高崎城と命名し居城としてます。井伊氏の後、城主は数々替わり1717年大河内氏が城主となり明治維新まで続いています。この城では1633年3代将軍の座を家光と争い幽閉されていた駿河大納言忠長が自刃しています。城は鳥川に沿って築城された平城で、本丸を西の丸・梅の木郭・榎郭などが囲み、二の丸、三の丸が梯郭式で配され、土塁と水堀に囲まれた東西500m南北1000m程の規模とされます。現在城址跡は市街化に呑み込まれ市役所などが立ち並び、土塁や水堀が一部残るのみでしたが、民家に移築されていた本丸乾櫓が三の丸模擬石垣に復元、同じく東門が移築復元されています。
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