官兵衛の正室・光の実家・櫛橋氏の居城である。本丸は観音寺、二の丸は志方小学校となっていて遺構はない。観音寺には櫛橋家累代の墓があった。
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2018/02/27 05:58
官兵衛紀行 (2014/11/15 訪問)
官兵衛の正室・光の実家・櫛橋氏の居城である。本丸は観音寺、二の丸は志方小学校となっていて遺構はない。観音寺には櫛橋家累代の墓があった。
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2018/02/27 05:28
官兵衛紀行 (2014/11/15 訪問)
称名寺となっている加古川城。加古川評定が行われた場所で、播磨の諸豪が織田から離反し毛利について官兵衛が苦境に陥ることになった故地である。
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2018/02/27 00:10
2018/02/26 23:09
本城の北にある端城 (2018/02/24 訪問)
宇佐山城の本城の北には端城(はじろ)がある。後者には石垣は無いが、複数の曲輪で構成された城である。城の西側は絶壁(加工されたと思われる)。本城との間の尾根筋もかなり狭かったり坂が急だったりするので、行き帰りには十分に注意が必要である。
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2018/02/26 22:29
遊歩道の定義は (2013/10/12 訪問)
出石城を横目で見ながら稲荷神社の前から有子山城へ登場しました。ネット情報でわかっていた事でしたが、聞きしに勝る急坂でした。崖と言ってもよいのではないのでしょうか。しかも足元は岩がごつごつして歩きにくい。ロープがあり、ときどきそれを利用して登ります。また降りるときもロープがなければ転落していたかもしれません。遊歩道の標識がありましたが、管理者は遊歩道の定義をどう考えているのでしょうか。遊びながら歩ける道でない。
石垣が見られる所まで来ると歩行は断然楽になります。無骨な野面積の石垣は、登山に疲れた心を癒してくれます。本丸と千畳敷の間の堀切は圧巻でしたね。本丸からの景色は出石の街はもちろん遠くまで確認できます。風も心地よく清々しいひと時を過ごすことができます
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2018/02/26 22:15
2018/02/26 22:03
2018/02/26 20:09
官兵衛紀行 (2014/11/15 訪問)
神吉城は常楽寺となっている。神吉氏の居城で櫛橋氏とともに織田に反旗を翻し落城している。
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2018/02/26 20:05
官兵衛紀行 (2014/11/15 訪問)
軍師官兵衛では織田に反旗を翻す別所氏の内情もくわしく描かれていた。かんかん井戸、本丸残石から二の丸、そして別所長治の首塚まで脚を伸ばした。
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2018/02/26 20:01
官兵衛紀行 (2014/11/15 訪問)
三木城攻めの最中に陣没した半兵衛の墓は三木市にある。予定はしていなかったが、竹中半兵衛の墓の近くには秀吉の本陣があったので立ち寄って行くことにした。「三木城跡及び付城跡・土塁」として国史跡に登録されており、立派な山城の装いである。土塁に囲まれた主郭には展望台が設置されており、三木城を望むことができる。
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2018/02/26 19:29
移築城門 (2014/11/23 訪問)
直方陣屋は黒田長清が築き、その嫡男が宗家を継いだことで藩領が福岡藩に還付される。西徳寺に移築門が残る。
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2018/02/26 19:26
黒田六端城 (2014/11/23 訪問)
谷間のようになっている水曲輪。奥に石垣の残石がありかなりの広さの曲輪である。ここから二の丸に登っていく所で早速、畝状竪堀と横堀がお出迎え。この地域の城には本当に畝状竪堀が多い。城址碑の建つ二の丸の虎口はしっかりとした遺構。石垣の残る本丸から桝形虎口を越えて馬屋跡に向かう途中には更に見事な畝状竪堀が連なっていた。馬屋跡の先端の石垣まで確認してきた道を引き返す。駐車場から左手に折れ、出丸へ。出丸の下の曲輪には明瞭な土塁、そして、その下には短い畝状竪堀が並んでいる。別曲輪にも脚を伸ばしてみたが、整備の手が行き届かなくなり藪が深くなっていったのでほどほどの所で引き返すことにする。駐車場から右手に向かうとまたしても畝状竪堀がお出迎え。ここの畝状竪堀は非常に深く、幅も広い。畑谷城の三重堀を連想するほどの規模で、竪堀が並んだ様を撮影するのは至難の業である。この先の別曲輪は整備の手が入っていないので曲輪をしっかりと確認することは難しかった。畝状竪堀だけでも満腹状態だが、虎口や石垣などの多彩な遺構も残り、2014年に初攻城した100を越える城の中で間違いなくトップクラスの城であると思う。
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2018/02/26 10:29
2018/02/26 10:14
黒い模擬城門や櫓がある (2009/07/12 訪問)
仁科氏の南方面への拠点の城。城主古厩氏は仁科氏の三男であった。
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2018/02/26 06:45
黒田六端城 (2014/11/23 訪問)
福岡県最高峰の福智山の登山口から鷹取山に向けて登っていく。上段を下段が取り囲む輪郭式の城郭。破城を受けているが虎口は明瞭に残っている。これだけの高所に石垣の城を築くということに、驚きを禁じ得ない。
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2018/02/26 06:39
黒田六端城 (2014/11/22 訪問)
黒田六端城の中では城主の石高が最も少ない松尾城なので、城の規模は決して大きくはない。しかし、主郭周りはきれいに整備されていて非常に見応えがある。石垣が組まれた虎口、幟が翻る南側横矢、櫓台の東側には三重の堀切、北側には畝状竪堀と見どころが満載であった。
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2018/02/26 06:34
官兵衛紀行 (2014/11/22 訪問)
官兵衛紀行に登場した城井ノ上城の三丁弓の岩の前は車でスルー。その先の登城口に駐車スペースがしっかりある。裏門まで40分との表示があったが、臆することなく登城路を登っていった。すぐに表門に到達。人一人通るのがやっとの狭い岩穴である。主郭はあまり削平された感じがなく天然の要害と言った感じ。山賊のアジトといった趣である。炭焼き窯を越え、番人の穴のあく裏門下に辿り着き、鎖を伝って裏門の岩穴に達するまで登城口から15分ほどの所要。きれいに紅葉している木も多く中々の眺めであった。
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2018/02/25 23:36
武運開けたり。 (2018/02/24 訪問)
駿府城天守台見学のあと、攻城。
麓の匠宿は賑わっていたが、山は別(^_^;)
誰もいない😢
北の曲輪まで来たところで周囲を見渡すと四方を木立に囲まれており、帰り道に自信がもてなくなってしまった。(ナビくん、山道苦手だし。)
「駿府城ついでに来た女子」(という設定)が、兵糧もなく後詰も来ない中侵攻すべきかそれとも撤退か。この選択を誤り滅亡への道を突き進んだ武将に想いを馳せながら(嘘です。盛りすぎ。)逡巡していると、天の助けか、本曲輪の方から人の気配。逃してなるものかと諸事質問し、得た返答は「絶対行くべき」。
背中を押され、侵攻続行。
二の曲輪まで来たところで先ほどの御方が戻ってこられ、何と!ガイド付きで本曲輪から麓の人里、そして片桐且元の墓所がある誓願寺まで案内してくださった。
(美濃国から出陣中の甲冑隊員さん、ありがとうございましたm(_ _)m)
おかげさまで滅亡回避どころか大勝利して平定。
…が、山城をナメてはいけない。下りはめちゃくちゃ急峻。明日あたり筋肉痛だ😅
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2018/02/25 21:38
2018/02/25 21:23
雲海を眼下に (2013/12/24 訪問)
黒井駅を降りて徒歩にて向かいました。興禅寺の横の道を向ければ登山口にたどり着きます。一般コースを登って行きましたが、道が整備されていて坂もそれほど急ではなく、まずまず登りやすい。石踏の段まで一気に登りました。途中に堅堀のようなものを認めていました。石踏の段からは本丸までは、そんなに遠くありません。東曲輪までくると石垣が迎えてくれます。その後、三の丸、二の丸、本丸、西曲輪と歩きました。石垣が残っていて、曲輪もわかりやすい。早朝の事もあり雲海を眼下に認める。「結構楽勝かな」
と思ったのはここまで。帰りは東出丸を見ようと別のルートで降りて行きました。道は結構難儀で滑りやすく、一度尻もちをつきました。
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