宮城県の仙台城から北東約45㎞の涌谷町にある涌谷城です。江合川河岸の丘陵標高30mに築かれた平山城で、背面は深い谷で本丸、二の丸、腰曲輪の東西109m、南北327mの規模とされます。古くは1430年頃大崎氏5代満持の弟高詮の次男涌谷美濃守が築いたとされ、東の葛西氏に備える城でした。1590年豊臣秀吉の小田原攻めへ大崎氏は参陣しなかったため支族の涌谷氏も領地没収となり、のちに伊達領となり当城は伊達氏の重臣亘理重宗が城主となり改修され近世城郭に整備されます。その後亘理氏は伊達姓を許され伊達一門として2万2千6百余石となり、一国一城令が出た後も、表向き要害と呼ばれてますが実質的には城郭で、表門脇の二層隅櫓もわざと太鼓堂と呼んだと言われています。涌谷伊達氏2代伊達安芸宗重の時、仙台伊達氏4代藩主にわずか2歳の綱村が就任し、叔父の一関藩主伊達宗勝が実権を握り権勢を振うという事態が発生します。この時、涌谷伊達氏の伊達安芸は幕府にこの実情を提訴、このため幕府で審門が行われることになり、幕府大老宅での審門中、宗勝派が伊達安芸を惨殺する事件が起こり宗勝派が処罰される通称伊達騒動が起こっています。このことは山本周五郎の「樅の木は残った」の小説になっています。この騒動で涌谷伊達氏は忠臣として評価され、涌谷伊達氏は幕末まで続いています。現在、本丸は涌谷神社となり宮城県で唯一現存する隅櫓(太鼓堂)の隣には模擬天守閣が建てられ資料館として使用、城跡は城山公園として整備され桜の名所として市民の憩いの場となっています。
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