静岡県浜松市の浜松城です。築城者は不明ですが15世紀頃築城され当時は曳馬城と呼ばれ16世紀前半には今川氏家臣飯尾氏が城主を勤めていたとされます。今川氏滅亡後1570年徳川家康が遠江攻略の拠点として改修、岡崎城より移り浜松城と改名17年間居城とし、二代将軍秀忠もこの城で誕生しています。1572年武田信玄が大軍を率い上洛のため侵攻、家康方の二俣城を攻略後、浜松城へ籠城する家康の前を素通りし岡崎方面へ向かったことから、家康は追撃背後を襲い三方ヶ原の戦いが勃発、武田軍3万に対して徳川軍8千・援軍の織田軍3千の1万1千が戦い徳川・織田軍が大敗し家康は浜松城に逃げ帰ったとされ、その直後自戒のため有名な「しかみ像」の絵を描かせたとされます。1590年家康が関東移封となると秀吉家臣堀尾氏が城主となり三層四階の天守閣や現在に残る野面積石垣を築いたとされます。関ヶ原の戦い後、城主は代々徳川の譜代大名が勤め、歴代の城主により城は随時改修されています。城は西から天守台、本丸、二の丸、三の丸と東へ連なり、城の南を走る東海道側へ大手門があり、東西600m南北650mの規模とされます。城跡は現在天守台・本丸などが浜松城公園として整備され、二の丸には市役所・小学校などが建ち、三の丸は市街地となっています。
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