埼玉県さいたま市の岩槻城です。15世紀中頃太田道真・道灌親子や忍城城主となる成田氏が築いたとなどの諸説があります。岩槻城は城主である太田氏と武蔵攻略を狙う小田原北条氏との間で、激しい攻防があり、1525年北条方のものとなり、1531年太田氏が奪還しています。扇谷上杉氏や山内上杉氏が滅亡・衰退すると太田氏は越後上杉氏と結び謙信の関東出兵を先導しています。しかし次第に北条氏に圧迫され北条氏方となり、1567年太田氏当主氏資が上総の三船山の戦いで戦死すると、北条氏直の弟氏房が太田氏を継いで城主となっています。豊臣秀吉の北条征伐では豊臣軍2万に攻められた岩槻城は2千の兵で籠城、2日間の攻防の末降伏落城してます。徳川家康が関東に入封すると家臣高力氏が2万石で入城。その後老中幕閣が相次いで城主となり1756年大岡氏が2万石で城主となり明治維新を迎えています。城は元荒川の南西側の沼地に本丸、二の丸、三の丸、その他曲輪の主要部を配置した平城で城を築城する際、沼に白鳥が舞い降りたので別名白鳥城とも呼ばれています。北側の沼地の対岸の元荒川との間に新正寺曲輪、南側の沼地の対岸に新曲輪、鍛冶曲輪、東は元荒川、西側の沼地の対岸には武家屋敷や城下町があり、その周囲は土塁と堀の総構となっていました。現在城地は沼が埋めたてられ市街地となり、新曲輪部分が岩槻城址公園として整備され土塁や堀障子などが残り、民家に移築されていた黒門、裏門などの城門が公園内に移築されています。
+ 続きを読む











