山梨県韮崎市の武田氏滅亡前に最後に築いた新府城です。城は、1575年長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗後、武田親族筆頭の穴山信君が甲斐国内に新たな城の築城を武田勝頼に献策(武田家の疲弊と家中分裂を狙った策略とも言われます)、1581年正月勝頼が真田昌幸に織田徳川軍を迎え撃つ堅固な城づくりを命じたのが始まりです。昌幸は躑躅ケ埼館の西15kmの七里ケ岩と呼ばれる釜無川に侵食され断崖となった台地上に1月末から昼夜兼行で築き11月頃には9割方完成、12月末に勝頼は躑躅ケ埼館から移住したとされます。しかし、1582年新府城普請の負担への不満から木曽義昌が謀反・織田軍が武田侵攻をはじめたため、勝頼は1万を率いて迎え撃ちますが、穴山氏などの裏切りが発生したため、武田軍は新府城へ籠城するため引き上げますが、兵の逃亡が相次ぎ新府城へ着いた時は兵2千までに減少。新府城を守るには兵が少なく、勝頼は城に火をかけ重臣小山田信茂の岩殿城へ向かいますが小山田氏も裏切り、途中の天目山で僅か家臣40名程と3月11日最後を迎えています。同年6月本能寺の変で織田信長が亡ぶと徳川対北条の旧武田領の覇権争いが勃発、徳川家康が要害である新府城跡を修復本陣とし、1万の徳川軍に対し兵力で勝る北条軍5万相手に戦線を維持、和睦に至っています。北条氏滅亡後、甲府城が築かれると新府城は廃城となっています。城は釜無川と塩川に挟まれた台地に築かれ西側は断崖絶壁で、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪を配した東西550m南北600mの規模で、甲州流丸馬出しや三日月堀、鉄砲出構などが確認できるようです。訪問日、到着時で小雨でしたがスマホの雨雲レーダーで豪雨となる予報で登城は断念しました。全体を回る場合は県道17号線沿いの駐車場から道路を渡り歩道を釜無川方向へ進み、搦手から二の丸、本丸と回り三の丸から車止めの有る車道を県道17号線へ戻る約50分コースとなるようです。本丸だけなら県道から藤武神社の階段を上りますが、県道付近でもやぶ蚊が多く、虫よけスプレーは必須です。
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