日本の百名城の一つ岐阜県恵那市の岩村城です。比高日本一の高取城(奈良県)、天守閣が残る城として標高日本一の備中松山城(岡山県)と並び江戸諸藩の府城の中で最も標高が高い日本三大山城の一つともなっています。鎌倉時代、源頼朝の重臣加藤景廉がこの地の地頭に任ぜられ遠山氏を名乗り城館を築いたのが始まりとされ、その後、鎌倉から戦国時代まで美濃遠山氏の居城となっています。戦国時代になると、この地は信濃・美濃勢力の接点に位置したため、各勢力の抗争が激しくなると本格的な城に改修されます。1550年代前半武田信玄は信濃小笠原氏を攻略・木曽氏を従属させ、中信地方を支配下に置き、東美濃の岩村城遠山氏も武田氏に従わせます。しかし、遠山氏は台頭してきた織田信長とも好みを結び信長の叔母のおつやの方と遠山景任が婚姻。1571年景任が病没すると信長は幼少の五男坊丸を遠山氏の養子に入れ、おつやの方が後見人として城主となり、岩村城は実質織田氏の支配下となります。1572年武田信玄が西上作戦で徳川家康の遠江へ侵攻すると、別働隊で秋山信友が東美濃の岩村城へ侵攻。おつやの方へ使者を送り調略し、信友とおつやの方が婚姻することで岩村城は無血開城します。信玄亡き後、1575年長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れると信長は嫡子信忠の軍勢で岩村城攻撃を開始。織田軍は大軍で攻め立てますが城兵は頑強に抵抗、籠城5ヶ月秋山信友は助命を条件に降伏。しかし信長は信友・おつやの方をとらえると処刑し、城兵も殺害されたとされます。その後、岩村城は信長家臣川尻氏が城主となり改修、現在の城郭に近いものとなったとされます。本能寺の変で信長が亡くなると森氏が城主となり17年の歳月をかけ近世城郭に改修。その後、小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで、城は戦いに巻き込まれますが、1601年松平氏が城主となり城主居館を山頂から山麓に移し城下町を整備。その後、丹羽氏、松平氏など譜代大名が城主となって明治維新を迎えています。城は最高所の標高が717mの本丸、二の丸、三の丸、八幡曲輪、東曲輪、帯曲輪、出丸、南曲輪などを配し、石垣で固められ多数の井戸がある要塞堅固な城で、明治維新により建物は壊されましたが、6段石垣などが有名な山城となっています。山麓の藩主邸跡に太鼓櫓、表御門、平重門が復元され、藩校知新館正門が移築されています。訪問日は麓の藩主邸跡では小雨でしたが、本丸付近は豪雨で、6段石垣が撮れず本丸付近の写真が非常に悪くすみません。再訪ができることを祈りながら退散しました。
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