長野県小諸市の百名城の一つ小諸城です。城の起源は平安時代この地を支配していた木曽義仲の家臣小室氏が建てた館が始まりとされ、南北朝時代に小室氏が衰退すると大井氏の領地となり1487年大井氏が築城。この地は関東と信州を結ぶ交通の要衝であり、戦国時代に入る北信濃攻略を狙う武田信玄が大井氏を攻略、小諸城の原型となる連郭式の平山城を完成させています。1582年武田氏が滅亡すると織田信長の家臣滝川一益の領地となり家臣道家氏が城主となりますが、本能寺の変で滝川氏は伊勢へ退去後、旧武田領をめぐり北条氏政と徳川家康が争い、小諸城は徳川氏のものとなりますが、豊臣秀吉の小田原征伐後、仙石秀久が5万石で入封、近世城郭に大改修し現在の城となっています。関ヶ原の戦いでは、徳川氏が上田城の真田氏攻め徳川軍3万8千の本陣として使用したとされます。その後、城主はめまぐしく替わり、1702年牧野氏が城主となり明治維新まで続いています。城は千曲川に面した断崖の上に南北150mの幅で本丸・二の丸・三の丸が700m程の長さで連なり、本丸が一番低く三の丸が一番高い珍しい構造で、城下町より城が低く穴城とも呼ばれたとされます。また、島崎藤村の詩(小諸なる古城のほとり)でも有名な小諸城です。現在本丸・二の丸が市営公園懐古園となって天守台や石垣が残り入口に三の門が現存しています。三の門が訪問時修繕中で、覆いがかけられていました。また、しなの鉄道の線路を越えた所にある大手門公園に大手門が現存しています。
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