群馬県高崎市の百名城の一つ箕輪城です。この地の豪族長野氏が1500年頃築城、長野業政の時山内上杉氏の柱石となって弱体化する山内上杉氏を支え北条氏や武田氏に対抗し、数度の武田信玄の西上野侵攻に対して箕輪衆を率いて撃退、信玄をして「業政がいる限り上野を攻めとることはできぬ」と言わしめたとされます。業政が亡くなると1566年武田信玄が箕輪城を攻略、家臣の内藤昌豊を配置しています。この時の攻城戦では、長野氏の家臣として剣聖上泉信綱(柳生石舟斎の師)も籠城戦に参加しており、落城が近づくと城から出撃、武田軍の中を切り抜け落ち延びたとされます。武田氏滅亡後は、北条氏、そして織田氏家臣滝川氏、本能寺の変の後は北条氏、そして豊臣秀吉の北条征伐後は、徳川家康の家臣井伊直正が12万石で入城しています。しかし、9年後の1598年交通の要衝の地である高崎に高崎城を築城し居城と定め、箕輪城は廃城となっています。箕輪城は高崎駅西北8kmにあり、榛名白川東岸の標高280mの独立丘陵に南北1000m東西400mの規模で国指定史跡範囲19ha、深さ20mの堀や本丸、二の丸、三の丸、など20に余る郭が見事にのこっている中世を代表する平山城となっています。近世城郭のような天守閣や石垣はありませんが、訪問した時に郭馬出西虎口城門の復元工事が行われていました。
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