山頂付近に石垣があります、私の好きな野面積みの石垣! 駐車場に案内板があり 素人の私でもわかりやすく解説、とても良い城址です。
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2019/01/20 09:54
続100名城 黒井城 (2018/05/04 訪問)
山頂付近に石垣があります、私の好きな野面積みの石垣! 駐車場に案内板があり 素人の私でもわかりやすく解説、とても良い城址です。
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2019/01/20 09:52
片倉景綱の城 (2015/10/04 訪問)
宮城県最南端の白石市にある白石城です。伊達政宗の重臣片倉氏が城主として、江戸時代一国一城令後も伊達藩では例外として仙台城とともに城と認められ、本丸は9mの石垣の上に三層櫓を立てるほどの壮大な城でありました。戦国時代、米沢城を本拠とする伊達氏の家臣白石氏が城主でしたが、1591年豊臣秀吉に、この地方を没収され蒲生氏郷の領地となり、1598年には上杉景勝領となり上杉家臣甘糟景継が城主となっています。1600年の関ヶ原の戦で、徳川方の伊達政宗は白石城を攻撃、城主甘糟景継は会津若松城に詰めていたため甥の登坂勝乃が守備していましたが、伊達軍は元々支配していた城であり地理や城の網張に明るく1日で本丸以外を攻略、上杉方は守備を諦め降伏、1日で落城となっています。落城後伊達氏家臣石川大和守が一時城主となりましたが、1602年片倉景綱が1万8千石で城主となり片倉家が城主として明治維新まで続いています。片倉景綱は幼い頃伊達政宗の十歳年上の近侍となり、伊達家の「知の片倉景綱」と呼ばれ(ちなみに武は伊達成実)軍師的役割を果たし伊達家の主要な戦で政宗を助け活躍した重臣です。また、1866年戊辰戦争の際、東北諸藩代表がこの白石城に集まり奥羽列藩同盟が結ばれた歴史的場所となっています。白石城は、市の中心部、白石駅の西500mにある標高76mの丘陵北端に築城され、本丸、二の丸、中ノ丸や曲輪などを配し、外側には館堀川があり、西南は沼と空堀、北東は二重の塀をめぐらし、前面には三の丸・外曲輪を配した壮大な平山城で、東西700m南北500m程の規模を有し伊達藩の南端を守る重要な城でした。現在は益岡公園(白石城)として市民の憩いの場となっています。
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2019/01/20 09:49
葛西氏居城 (2015/09/26 訪問)
仙台城から北東約60㎞に有る宮城県登米市にある寺池城です。築城時期は不明ですが、岩手県南部から宮城県北部を領地とする戦国大名30万石の葛西氏の居城でした。葛西氏は小田原征伐に参陣しなかったため豊臣秀吉により1590年改易となり葛西氏の領地は豊臣秀吉家臣木村氏に与えられ、城は木村氏の居城となっています。しかし葛西大崎一揆が勃発し、寺池城を占拠、このため木村氏は佐沼城へ逃れています。その後、伊達政宗が一揆を鎮圧、この地域は伊達氏のものとなり一時城は廃れますが、1604年伊達氏家臣白石氏が1万5千石で寺池城主と成り、その後、1682年に伊達性を名乗ることが許され、登米伊達氏として幕末を迎えています。城は北上川右岸の丘陵部に築かれた平山城で、東西100m南北450mの規模で、本丸、二の丸を有していましたが、現在は、公園、裁判所、住宅地となり遺稿があまり残っていません。
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2019/01/20 09:46
伊達騒動伊達安芸の城 (2015/09/20 訪問)
宮城県の仙台城から北東約45㎞の涌谷町にある涌谷城です。江合川河岸の丘陵標高30mに築かれた平山城で、背面は深い谷で本丸、二の丸、腰曲輪の東西109m、南北327mの規模とされます。古くは1430年頃大崎氏5代満持の弟高詮の次男涌谷美濃守が築いたとされ、東の葛西氏に備える城でした。1590年豊臣秀吉の小田原攻めへ大崎氏は参陣しなかったため支族の涌谷氏も領地没収となり、のちに伊達領となり当城は伊達氏の重臣亘理重宗が城主となり改修され近世城郭に整備されます。その後亘理氏は伊達姓を許され伊達一門として2万2千6百余石となり、一国一城令が出た後も、表向き要害と呼ばれてますが実質的には城郭で、表門脇の二層隅櫓もわざと太鼓堂と呼んだと言われています。涌谷伊達氏2代伊達安芸宗重の時、仙台伊達氏4代藩主にわずか2歳の綱村が就任し、叔父の一関藩主伊達宗勝が実権を握り権勢を振うという事態が発生します。この時、涌谷伊達氏の伊達安芸は幕府にこの実情を提訴、このため幕府で審門が行われることになり、幕府大老宅での審門中、宗勝派が伊達安芸を惨殺する事件が起こり宗勝派が処罰される通称伊達騒動が起こっています。このことは山本周五郎の「樅の木は残った」の小説になっています。この騒動で涌谷伊達氏は忠臣として評価され、涌谷伊達氏は幕末まで続いています。現在、本丸は涌谷神社となり宮城県で唯一現存する隅櫓(太鼓堂)の隣には模擬天守閣が建てられ資料館として使用、城跡は城山公園として整備され桜の名所として市民の憩いの場となっています。
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2019/01/20 09:43
葛西・大崎氏攻防の城 (2015/09/26 訪問)
仙台城から北北東約70㎞の宮城県登米市にある佐沼城です。築城ははっきりしませんが、奥州征伐の恩賞で鎌倉時代は葛西氏の持城となっています。戦国時代は大崎氏が城を奪い大崎氏家臣石川氏の城となりますが、小田原の戦いに大崎氏は参集しなかったため1590年奥州仕置きにより大崎氏は改易、城は豊臣秀吉家臣木村吉清に与えられます。その後行われた太閤検地に反対する一揆が起こると木村氏は佐沼城に籠城。伊達政宗が軍を率いて、木村氏を救出。その後、再び起きた一揆では、一揆軍2500名が佐沼城に籠城。伊達政宗が攻撃落城させ一揆を鎮圧させています。城は伊達領となり家臣の津田氏が配され佐沼要害と呼ばれ、1756年亘理氏が配され幕末を迎えています。城は、標高15mの丘陵の山頂に本丸、周辺に二の丸を配し、北と東に川が流れ、西側は湿地帯となり、水堀を周囲に回し東西350m南北550mの規模の要害だったようです。現在は、本丸が鹿ヶ城公園として整備され、土塁と水堀が往時を偲ばせます。城の鎮護のため鹿を生き埋めにしたことから鹿ヶ城とも呼ばれたとされます。公園の隣接に歴史博物館が佐沼城の資料も展示してあります。
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2019/01/20 09:41
伊達氏北方の城 (2016/05/14 訪問)
宮城県利府町の利府城です。鎌倉時代留守氏重臣の村岡氏の村岡城として築かれたとされます。1569年留守氏で相続問題が発生。留守氏の血筋を守ろうとする村岡氏と伊達氏から養子を迎え伊達氏の勢力下で留守氏の安泰を図るべきとの伊達派が対立。村岡氏は伊達政景の養子縁組に反発し挙兵。しかし、留守氏当主となった伊達政景に攻められ1570年落城滅亡しています。同年伊達氏と敵対する北の大崎氏と葛西氏に対する押さえとして留守政景が南西5kmにある岩切城と比べると規模は小さいですが、伊達勢力圏北方の押さえの城として村岡城へ移り改修整備し利府城と改称し居城としてます。20年の在城後、留守氏は1590年黒川郡の大谷城に配置替えとなり利府城は廃城となってます。城は利府町の館山と呼ばれる標高100mの独立丘陵の山頂に東西100m写真は南北50mの本丸を置き、西側の一段低くなった尾根続きに二の丸、三の丸が配されていたとされます。現在は館山公園として整備されています。
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2019/01/20 09:40
見所は石垣 (2018/05/04 訪問)
転用石を使った石垣が見もの、神仏を重んじた光秀とは思えない。それでも早期に築城が優先したのでしょうか・・・。
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2019/01/20 09:39
留守氏の城 (2016/05/14 訪問)
宮城県仙台市の岩切城です。「別冊歴史REAL日本の山城100名城」に掲載されていたので、訪れてみました。平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝が重臣伊沢氏を陸奥国留守職に任命、伊沢氏は留守性を名乗り岩切城を築き居城としたとされます。七北田川の水運に恵まれたこの地はこの地域の政治経済の中心地として大いに栄えたとされます。1346年足利尊氏が奥州管領として吉良氏・畠山氏を任命しますが、足利氏内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化、吉良氏と畠山氏も二派に分かれ争い、留守氏は畠山氏と共に尊氏側に加担し、1351年岩切城に籠城するも、直義側の吉良氏・和賀氏等の攻撃を受け岩切城は落城、留守氏の勢力は衰えたとされます。その後留守氏は奥州管領となった大崎氏に従い勢力の回復を図ります。戦国時代になると勢力が強くなった伊達氏と結び1567年伊達晴宗の三男政景を養子に迎えます。政景は留守氏家中の反伊達派を撃ち、北方の大崎氏や葛西氏に備えるため北東にある利府城に1570年居城を移し岩切城は廃城となっています。岩切城は標高106mの高森山を中心に高森山頂部に本丸、その東南に二の丸、それに続き三の丸が配されています。さらにその東側の尾根にも多数の郭が配されて、規模の大きな山城となっています。城は県民の森にあり、道路沿いに城址碑がありそこが入口となっています。
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2019/01/20 09:36
仙台城の前の政宗の城 (2015/09/20 訪問)
宮城県大崎市岩出山町にある岩出山城です。
岩出山城は、北羽前街道と羽後街道が交わる交通の要衝に足利氏一門の奥州探題大崎氏の重臣氏家直益が応永年間(1394~1427年)に築いた山城です。
豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣しなかった大崎氏は1590年の奥州仕置によって改易となり、大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられましたが、検地等への不満から一揆が発生。この責任を取らされ木村氏は領地没収となり、1591年米沢(山形県南部)から伊達政宗が葛西・大崎旧領(岩手県南部・宮城県)へ移封となりました。当時、奥州検地を行っていた徳川家康が約40日間在城し城を改修し、伊達政宗に引き渡したとされています。
1593年第一次朝鮮出兵文禄の役では、京都で行われた出陣式で伊達軍は黒漆の具足や銀箔の太刀などで統一、京都の民衆はさすが伊達者と叫んだとされ、そこからおしゃれな男性を「伊達者」と呼ぶようになったと言われています。
1599年政宗33歳の時、長女五郎八姫と徳川家康の六男松平忠輝の婚儀が成立、これ以降政宗は徳川派となり、1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成派の上杉景勝と戦い宮城県南部にある上杉氏の白石城を攻め落としています。
以降1603年に岩出山城から南約50㎞の仙台城を築城し移るまでの12年間、伊達政宗の居城となり、その後、岩出山城は、政宗の四男宗泰を初代とする岩出山伊達氏が1万5千石を領し幕末まで続いております。
城は、江合川南岸の標高108mの丘陵東端に築かれ、本丸は東西32m、南北205m、入口には石垣が組まれ、本丸の西側に83m四方の二の丸、三の丸が配され東西800m南北700mの大規模な城郭だったと伝えられます。本丸には、仙台城本丸に現在有る伊達政宗公銅像が1962年に設置されたことにより、かつて仙台城本丸にあったコンクリート製(第二次大戦の金属回収令で撤去された銅像の代わりとして設置)の伊達政宗の移設された像があります。
今、本丸は公園、二の丸は岩出山高校、岩出山小学校となり、北側には藩校として現存する最古の建物である国史跡指定の有備館があります。
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2019/01/20 09:33
伊達騒動の原田甲斐の城 (2016/05/14 訪問)
宮城県柴田町の柴田城(船岡城)です。山本周五郎の伊達騒動を題材とした小説「樅の木は残った」で有名な原田甲斐の城で、現在、観光地として多くの人がおとずれる公園となっています。伊達騒動は史実では1660年伊達4代藩主に2歳の綱村が就任。叔父の一関藩主伊達宗勝が実権をにぎり藩政を専横。奉行の原田甲斐も加担。これを一族の伊達宗重が幕府に上訴。幕府大老酒井家で審問が行われた時、原田甲斐が宗重を斬殺。原田甲斐は大老家臣に斬り捨てられたとされます。このため、原田家は一族が処罰され断絶。一関藩宗勝は改易となっています。小説では、原田甲斐は伊達藩を幕府の改易から守った英雄として描かれています。城は、東北本線船岡駅から西南の丘陵北端に築かれ、72m四方の本丸、54m四方の二の丸、126m四方の三の丸が配されています。城の起源はあきらかではありませんが、1200年鎌倉幕府に背いたとして攻め落とされた芝田館が当城とされます。戦国時代にはいり、伊達氏家臣の四保定朝が城主となり四保館と称し、二代宗義の時、四保氏から柴田氏と改めています。1593年柴田氏は所替えとなり、屋代勘解由が一時城主となりますが、1617年原田宗資が城主となります。1671年原田家当主宗輔は伊達騒動により徳川幕府大老酒井忠清邸で斬死し、原田家は断絶。城は幕命によりすべての建物が壊され城地も深さ1mも掘り下げられ表土を捨てられたとされます。その後1684年柴田氏が城主となり三の丸に居館を建て、明治維新を迎えています。城は公園化され大変きれいですが、遺構はほとんど残っておらず残念です。
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2019/01/20 09:28
一夜城 (2016/05/28 訪問)
神奈川県小田原市にある石垣山一夜城です。小田原城の北条氏攻めのため豊臣秀吉が小田原城西方3kmの標高257mの笠懸山に80日程をかけ築城、この時白紙を戸板などに張り付け白壁のように見せかけ、完成後前面の杉林を夜中に切り倒し、このため翌朝一夜にして現れた大城郭に北条方は恐れおののいたと言われます。一夜城と言われる由来です。しかし、にわか作りではなく、城は総延長1.9kmの石垣が造られ本丸、二の丸、西曲輪、井戸曲輪など多数の曲輪を配し東西275m南北550mの規模の大掛かりな城郭となってます。城はその後、関東に移封となった徳川家康の家臣小田原城主大久保氏により要害として管理されたとされますが、いつ頃廃城となったか定かではありません。現在城は、石垣山一夜城歴史公園となっています。城へ向かう農道沿いには参陣した武将たちの説明板があります。当日はJR早川駅から徒歩で石垣山農道を行き30分程でした。車でも公園入口に駐車場がありますので大丈夫です。
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2019/01/20 09:27
2019/01/20 09:26
北条氏の居城 (2016/05/28 訪問)
神奈川県小田原市にある百名城の一つ小田原城です。鎌倉時代初期土肥遠平がこの地に館を置いたのが始まりとされます。1416年上杉禅秀の乱で土肥氏は禅秀に味方して敗れ、小田原は大森頼春に与えられ本格的な城として築城されます。1495年伊豆の北条早雲が突如小田原城を襲い大森氏から城を奪取、以来北条氏の本城として氏綱・氏康・氏政と城を改修・拡張が続けられたとされます。1561年上杉謙信、1569年武田信玄の攻撃を受けるも撃退、難攻不落を誇っています。北条時代の小田原城は城下町をすっぽり包んだ総構が特徴で、土塁・空堀の総延長は9kmとも12kmとも言われる大城郭で、現在の小田原城から北西の小田原高校周辺が主郭とされ、現在の小田原城を含む東西約2.8km南北約2.4kmの規模であったとされます。しかし、1590年豊臣秀吉が20万と言われる大軍により小田原城に押し寄せ、約6万の兵で小田原城に籠城した北条氏も3か月で降伏開城。関東は徳川家康に与えられ、小田原城は家康家臣の大久保氏が4万石で城主となりますが、1614年改易となります。その後数々の城代が置かれますが、1632年稲葉正勝が城主となり翌年の大地震で倒壊した城を大改修し本丸・二の丸・三の丸を築き近代的な城郭にしたと言われます。1685年稲葉氏が越後高田に転封となると大久保氏が再度城主となり明治維新まで続いています。明治維新により天守などは解体されますが、現在城は本丸・二の丸が小田原城址公園となり、三の丸は小学校や文化会館、住宅地となっています。市政20年復興事業により昭和35年天守閣が再建、その後も常盤木門が昭和46年に、銅門が平成9年に、馬出門が平成21年に再建されてます。
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2019/01/20 09:24
住宅街の中の城 (2016/05/19 訪問)
神奈川県横浜市鶴見区にある寺尾城です。急用で上京したおり、要件も片付き帰りまで時間がとれたので、横浜市ホームページに掲載された「なぞに包まれた中世の寺尾城」を見て住宅街の中にあるとのことで、興味を持ち訪れてみました。寺尾城は戦国時代、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守5代百数十年にわたる城です。1435年頃には城主としてこの地域を治めていたとされます。小田原北条氏が勢力を伸ばすと北条氏の旗本相模衆十四家の一家に加わる豪族となっています。1569年武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は落城したとされます。殿山公園から西方の丘陵一帯が城跡とされ、東西300m南北300mの規模とされます。平成5年の発掘調査では、空堀は深さ3m、幅6m程あったと言われ、現在も一部に空堀や土塁が残るとされますが、現地を歩きましたが住宅地となっているため遺構はわかりづらかったです。川崎鶴見臨港バスの宝蔵院入口バス停から見える坂道登口に寺尾城址説明板があり、住宅地に上がる坂道を登り丘陵頂部付近の住宅街の中に寺尾城址碑があるようですが、疲れていたせいかその前を通ったのですが、見逃してしましました。また、住宅街の南側麓には殿山公園がありそこにも説明板があります。現地は丘陵地を住宅街としたせいか坂道が急で道も細く入り組んでいました。
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2019/01/20 09:22
北条と武田の攻防の城 (2016/05/29 訪問)
東京都八王子市にある滝山城です。1521年武蔵の有力豪族の大石定重が築いたとされます。しかし、大石氏は北条氏の圧力に対抗できず北条氏の軍門にくだり北条氏康の三男氏照をを養子に迎えています。当主となった氏照は滝山城を大幅に拡大整備、本丸、中の丸、二の丸、千畳敷、三の丸、小宮曲輪を配した大規模な平山城とされます。城は多摩川と秋川の合流点の丘陵部に造られ、北側と東側は多摩川を、西側は谷地川を天然の堀とし、南側は複数の曲輪で守られています。1569年武田信玄が2万の軍勢で北条領へ攻め入り、多摩川の対岸に本陣を張り、北条氏照以下2000名が守る滝山城を武田勝頼を先鋒として攻撃したとされます。戦闘は苛烈を極め、氏照も先頭に立ち戦い手傷を負いながらも指揮を取るも三の丸が落ち、二の丸でなんとか防いだとされます。信玄は兵の消耗を嫌い軍を小田原城へ向けたとされます。このことにより、滝山城の防備に不安を感じた氏照は、天険の地に八王子城を築き1587年頃には移り、滝山城は廃城になったとされます。当日はJR八王子駅から路線バスに乗り滝山城址下バス停で降り、徒歩5分程でした。車の方も駐車場30台があります。城址ではアプリをダウンロードしスマホをかざすと滝山城の建物などが見れるようになってます。
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2019/01/20 09:20
激戦の城 (2016/05/29 訪問)
東京都八王子市にある八王子城です。滝山城を居城としていた北条氏照が1569年北条領に侵攻してきた武田信玄に攻められ三の丸を落とされ落城苦戦した経験から、1570年代に要害の地である八王子に築城したのが始まりとされます。1587年頃豊臣秀吉の北条攻めに備え八王子城に居城を変えたとされます。城は標高460mの深沢山の急峻な山頂に本丸、本丸直下の山頂周囲に松木曲輪、小宮曲輪、中腹に高丸、金子丸、麓に南北40m東西100mの土塁に囲まれた御主殿と呼ばれる城主の館があります。1590年豊臣秀吉の小田原攻めが始まると城主の北条氏照は主力を率いて小田原城に籠城、八王子城には家臣の横地監物が1000の兵と農民・領民・婦女子を含め3000名で籠城。これに対し北国勢の上杉景勝・前田利家の1万5千が攻撃。多勢に無勢で1日で落城したとされます。その後小田原開城により北条氏照は兄氏政とともに切腹。氏照の死の100年後、八王子城の麓に氏照家臣の子孫で水戸藩家老となった中山氏が氏照の供養塔を造っています。当日はJR高尾駅からバスで行きました。土日は八王子城址まで1時間に1本のバスが運行されていますが、時間が合わず約10分毎に走る路線バスで都道61号線沿いの霊園前バス停で降り徒歩15分で城址を訪れました。麓の御主殿は楽に回れましたが、標高460mの本丸までは登山のような急坂の道で、キャラバンシューズ等が望ましいです。本丸は詰めの城のような感じで、本丸下の曲輪は多少の広さはありますが、本丸は物見台程度の小さな広さで城址碑と小さな祠があるのみです。
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2019/01/20 09:17
巨大城郭 (2016/05/19 訪問)
東京都にある江戸城(皇居)です。江戸城は1457年太田道灌によって根城・中城・外城の三曲輪による城として築かれています。1486年道灌は主家扇谷上杉氏に誘殺され、その後、扇谷上杉氏の本拠となりますが、1524年北条氏の攻撃により陥落、以降、北条氏の武蔵統一の前進基地となっています。1590年豊臣秀吉の北条氏征伐では、前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され開城。北条氏が滅亡すると徳川家康が居城をここに定めています。以来、家康・秀忠・家光の三代に渡って西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成、空前の大城郭で千代田区の範囲が江戸城域とされます。江戸城天守閣は1607年秀忠の時完成、その後大改築され1638年家光の時に国内で最も大きい天守閣となっています。外観5層、内部6階で地上から58mの高さと言われますが、1657年明暦の大火で全焼、以後再建されませんでした。明治維新以降江戸城は皇居となり、東御苑と呼ばれる本丸・二の丸・三の丸の一部は月曜・金曜を除き公開されています。平成28年11月15日から東御苑内の富士見櫓が一般公開されています。
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2019/01/20 08:50
加古川評定の舞台。吉親ェ… (2019/01/19 訪問)
高砂城と高砂町探訪を済ませたついでに寄ってみました。
個人的には十数年以上ぶりの訪城となりました。
築城年はかなり古く、遅くとも承久3年(1221年)以降には築かれていたようです。
この地は西国街道(山陽道)を監視出来るような立地でした。実際、明治に入るまで防備上の観点から加古川に橋が架けられることはなかったので、街道での防備上それなりに重要な地点だったようです。
加古川の水運も監視できますし、渡し船の船着場の跡もすぐ近くですし。
さて、話を戻しましょう。
どんな城だったかというと、『播磨鑑』によれば五十間(約90m)四方の規模であったらしい。城壁には狭間が空けられ、堀をめぐらして逆茂木を設けて、敵が容易に接近出来ないようにしていたらしい。
『播磨鑑』を真に受けると、城というより方形の居館に近かったようです。
また、江戸時代後期の絵図『播州三木城地図』に「加古糟谷城跡」として書き込まれてるようで、それによると堀と空堀で囲まれた三つの曲輪を持つ城であり、二十間(約36m)四方の一の曲輪、二つの櫓を持つ二の曲輪、それらとは独立した二十間(約31m)×四十間(約72m)の出曲輪から成っており、大手には階段、外周には土塁が作られていたという、『播磨鑑』とはまた違った内容も。
もっとも、『播磨鑑』の古い記述が享保4年(1719)。
んで、廃城が元和元年(1615)。
実に104年も経ってから書かれた文献なので、信憑性としては何とも微妙…。
『播州三木城地図』に至っては時代がさらに下る資料なので、言わずもがな。
発掘調査もされていないようで、はっきり言って実像が謎だらけの加古川城ですが、やはり有名なのは加古川評定でしょう。
詳細は省きますが、別所長治の代理として出席した別所吉親が秀吉を見下して軍議を決裂させたばっかりに、結果的に『三木の干殺し』の憂き目に遭うんですね。そして吉親は一人徹底抗戦の姿勢を貫こうとして開城間際に城兵に殺されちゃうという、何とも因果応報な結果に…。
播州攻めでいち早く秀吉に味方した糟屋氏。武則の代になると賤ヶ岳七本槍で有名となるほどの活躍ぶりで秀吉に大いに貢献。最終的に播州加古川一万二千石の大名に出世するのですが、時流を読み誤って関ヶ原で西軍に与して敗北、改易されてしまいます。
そして元和元年(1615年)6月15日付けで破却。廃城となってしまうのです。
現況ですが、称名寺一帯が城跡とされています。
残念ながら、表立って明確な遺構はほぼ皆無といって良い状況です。
しかし実際に訪れてみると、称名寺周辺に溝や水路など、思わせぶりな痕跡が。
地図を拡大してみると大きめの水路がしっかり書き込まれており、何らかの関係がありそうな??
山門の左右とかも微妙に起伏があります。
…まぁ、公的な調査資料がない以上、ほとんど推測しか出来ない現状です。
車で訪城の際は、称名寺門前の駐車場を利用すると良いでしょう。但し、あくまでお寺の駐車場なので、必要以上の長居は良くないかもです。
ニッケパークタウンの駐車場をお借りして寺家町(商店街が西国街道の加古川宿にあたります)探訪のついでに徒歩での訪城が無難です。
また、称名寺周辺は住宅密集地でもあるので、特に写真撮影などの際はくれぐれも不審者に間違われないようにw
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2019/01/20 06:19
続日本100名城スタンプ87個目 (2019/01/13 訪問)
本当は吉野ヶ里から太宰府展示館に向かって大野城のスタンプをゲットしたかったのですが、太宰府天満宮に向かう車で大渋滞が発生していて太宰府展示館に行くことは諦めました。センター試験の前の週で参拝者が多かったのでしょうか。渋滞を避けて水城館にアクセス。昨年7月、豪雨のための休館で入れなかった水城館に入ることができました。リーフレット類もたくさんいただきました。
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2019/01/20 06:16
福山散歩 (2019/01/19 訪問)
2度目の参城です。本日も晴天なり。青空にお城がよく映えます。
いつ行っても駅裏ってことを忘れる閑静な城内。
居心地最高です。
前回見なかった城主・水野勝成公の寿碑もしっかり見ました。木々に覆われてひっそりと立つ寿碑。
これは見逃してしまう、、
1日4回、鐘櫓の鐘が鳴るとのことで、正午にその音を聞くぞ!と思っていたのに、お腹がすいてレストランに吸い込まれたので聞けず。。
またリベンジします!
そして今日は福山城に関係する神社、お寺も巡り御朱印をいただきました。(三蔵稲荷神社、阿部神社、備後護国神社、福山八幡宮、聡敏神社、艮神社、賢忠寺、草戸稲荷神社、明王院)
お城を守り、城下町繁栄を祈る神社やお寺がその時代から今まで続いているんだなぁ~心が洗われます。
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