「伊達の三傑」の一人茂庭(鬼庭)綱元の墓を訪ねて栗原市栗駒の文字(もんじ)にある洞泉院を訪問した。綱元は武人としての働きとともに、奥羽仕置き時、政宗による一揆煽動の嫌疑の弁明役や、文禄の役の伊達軍名護屋留守居など、政宗の外交・治世に貢献し、秀吉や家康とも数々の逸話が残る人物である。
慶長9年(1604)政宗五男の宗綱が栗原郡岩ヶ崎城主に任じられると、綱元は本藩の評定役を兼ねたまま、その後見役を命じられたと云う。元和元年(1618)宗綱が早世すると、高野山に登り三年間にわたり供養の日々を送ったと云う。寛永13年(1636)5月24日、政宗が死去すると政務を退き、自らの隠居領の文字に移り洞泉院を創建して政宗、宗綱の供養に余生を過ごし、4年後の寛永17年5月24日に91歳で死去したと云う。
宗綱が配された岩ヶ崎城は栗原市栗駒(旧栗駒町)岩ヶ崎にあり、南北朝時代に葛西一族の富沢氏によって築城された中世山城である。規模は東西650m、南北250m、最西端の比高70mの最高所を本丸とし、東に向けて二の丸、三の丸が続き、東端まで大小多くの平場群で構成されていた。自然地形を利用した中世的な縄張だが桝形跡に近世の改修を思わせる箇所もある。
城址には桜、紫陽花、紅葉などが植樹され公園として整備されている。この日も春先から延びた城址内の草刈り作業が行われており、日頃から管理が行き届いていると感じた。
また宗綱時代に綱元の家臣団が居住した茂庭町の円鏡寺山門は岩ヶ崎城からの移築と云う。
東北自動車道若柳・金成ICより11km(16分)ほど。
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