2010年以来、9年ぶりの吉野ヶ里は小雨の降る中の散策となりました。園内を広く俯瞰できる展望スポットが増えているように感じました。にのまるさんも投稿されているイノシシの親子、私も思わず撮影してしまいました。展示室や北墳丘墓の中もしっかりと見て回りました。今回が少なくとも7回目になる吉野ヶ里、初めて訪れたのは前世紀中でその時はまだ国立の歴史公園にはなっておらず、入園料はかかりませんでしたが、寄付金を支払っていただいた立派な有柄銅剣のペーパーナイフ、今でも大切に保管しています。
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2019/01/18 06:38
3度目の日本100名城スタンプラリー94城目 (2019/01/13 訪問)
2010年以来、9年ぶりの吉野ヶ里は小雨の降る中の散策となりました。園内を広く俯瞰できる展望スポットが増えているように感じました。にのまるさんも投稿されているイノシシの親子、私も思わず撮影してしまいました。展示室や北墳丘墓の中もしっかりと見て回りました。今回が少なくとも7回目になる吉野ヶ里、初めて訪れたのは前世紀中でその時はまだ国立の歴史公園にはなっておらず、入園料はかかりませんでしたが、寄付金を支払っていただいた立派な有柄銅剣のペーパーナイフ、今でも大切に保管しています。
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2019/01/18 06:35
蒲生氏郷築城の城 (2016/09/21 訪問)
日本百名城の一つ三重県松坂市の松坂城です。この地方を治めていた北畠氏が1567年からの織田信長の伊勢侵攻に屈服、信長次男信雄に家督を譲り、信雄が南伊勢の領主となります。信長亡き後、豊臣秀吉に信雄は伊勢から追われ、替わって158年蒲生氏郷が入封。それまでの松ヶ島城から南2.5kmの四五百森と呼ばれるこの地に1588年新たに築城したのが松坂城です。阪内川南、標高35mの独立丘陵に本丸を中心として東に二の丸、南に隠居丸、西にきたい丸を石垣造りとし、麓の三の丸を水堀で囲み、東西600m南北850mの規模で、松ヶ島城下から寺社や商家を移住させ城下町も新たに整備しています。氏郷が会津へ移封となると1591年服部氏、1595年古田氏が城主となり、1619年徳川頼宣が和歌山藩主となるとこの地は和歌山藩領となり、以後、藩内勢州18万石を統轄する城代が置かれ明治維新まで続いています。現在城跡は、三の丸や堀は大部分が市街地となっていますが、裏門側に御城番屋敷が残り、本丸・二の丸・隠居丸・きいた丸が松坂公園として、城址公園には建物は残っていないものの、高い石垣が往時を偲ばせます。
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2019/01/18 06:32
将軍上洛時の宿泊用御殿のあった城 (2016/09/21 訪問)
三重県亀山市の亀山城です。1265年関氏が隣接する亀山市若山町の亀山古城跡へ築城したのが始まりとされ、現在の地にも戦国期の空堀が確認されていることから、この地に関氏時代に移った可能性もあります。1573年織田信長により関氏が追放されるまで関氏の居城となっています。1590年岡本氏がこの地に封じられると旧城を母体に築城を行い、本丸、二の丸、三の丸を配し天守も建てられたとされます。1636年本多俊次が城主になると城の大改修が行われ本丸、二の丸、東三の丸、西の丸、西出丸を整備、外周に堀を廻らし、本丸に将軍上洛時の宿泊所用本丸御殿、二の丸に藩主居館と政庁を兼ねた二の丸御殿が造られ、東西700m南北500mの規模とされます。城下は東海道が通り東海道53次の亀山宿として栄えています。城主はその後めまぐるしく替わり1744年石川氏が城主となると明治維新まで続いています。明治になると城の建物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、堀の一部が残るのみで、本丸付近が亀山神社・ますみ児童公園、二の丸が亀山西小学校・市役所、西の丸が亀山中学校や住宅地、東三の丸が市街地となっています。
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2019/01/18 06:27
織田信孝の城 (2016/09/20 訪問)
三重県鈴鹿市の神戸城です。1550年頃伊勢平氏子孫の関氏一族神戸氏が築いたとされます。神戸氏は北伊勢に勢力を持っていましたが、織田信長の伊勢侵攻により信長に屈服、1568年信長三男信孝を養子に迎え和睦します。神戸氏当主具盛はのちに強制的に蟄居幽閉され、信孝が神戸氏を継ぎ城を改修するとともに1580年金箔の瓦を用いた五重の天守閣を築き、城下は伊勢街道の宿場町として大いに栄えたとされます。本能寺の変で信長が亡くなると信孝は岐阜城に移り、跡目相続で豊臣秀吉と対立、1583年柴田勝家とともに秀吉と戦い、勝家が賤ヶ岳・北ノ庄城で敗れると、岐阜城で降伏開城、後に切腹となっています。1595年神戸城の天守は桑名城へ移された後、神戸城は江戸時代に城主が次々替わる中、天守は再建されず、1732年本多忠統が2万石で城主となり明治維新まで続いています。城は本丸、二の丸、三の丸の周囲を堀が囲む平城で、現在は堀が埋められ城跡のほとんどが神戸高校敷地や住宅地となり、僅かに本丸部分が神戸公園となり石垣や堀が残っています。
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2019/01/18 06:25
高石垣の城 (2016/09/21 訪問)
日本百名城の一つ三重県伊賀市の伊賀上野城です。1585年大和郡山から伊賀国へ移封となった筒井定次により築城され、上野盆地中央の丘陵に本丸や三層天守などが造られたとされます。関ヶ原の戦いの功績により1608年藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封すると、大阪城の豊臣氏への備えとして上野城は大々的に改修され、西側へ拡張高さ28mの高石垣が設けられ、五層天守の造営も始められましたが、完成直前の1612年台風により倒壊。1615年大阪夏の陣で大阪城は落城、豊臣氏が滅んだことから、天守閣は再建されず、上野城は藤堂氏の支城として城代が置かれ、二の丸(筒井氏時代の本丸)に城代屋敷が造られ、麓に武家屋敷が建て外堀を廻らせた東西900m南北700mの規模と言われ、外堀の外側に城下町を整備、藤堂氏支城として明治維新を迎えています。城は北に阪部川、南に久米川、西に木津川に挟まれた標高180mの独立丘陵に築かれ明治維新により破却された城跡の本丸に復興天守閣が昭和10年に建てられています。麓部分の武家屋敷や外堀は市街化により消失したものの、本丸、二の丸が上野公園として整備され、復興天守と本丸の高石垣、松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和17年に建てられた俳聖殿、忍者体験もできる忍者博物館などが有名です。
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2019/01/18 06:22
藤堂高虎の城 (2016/09/21 訪問)
三重県津市の津城です。織田信長の弟信包により1571年より築城がはじめられ1580年五層の天守が造られ完成しています。その後富田氏が城主となり、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の攻撃を受け津の町は火の海となり、天守閣なども焼失したと言われます。1608年藤堂高虎が20万石で入封すると城を大々的に改修、本丸・各曲輪・堀を広げ石垣を高くし、町外れを通っていた伊勢街道を城下引き入れ、城下町も整備しますが、天守閣は再建されませんでした。城は、伊勢湾近郊の伊勢街道が通る交通の要衝であり、南北を安濃川と岩田川に挟まれた要害の地に築かれ、本丸の左右に東の丸と西の丸を置き、内堀で囲み、その回りに二の丸を配置し、外堀で囲んだ平城で、東西・南北約650mの規模とされます。現在城跡は外堀が埋められ大部分が市街化しており、本丸・西の丸の石垣と縮小された内堀、再建された丑寅櫓、藩校正門(入徳門)が移設され、藤堂高虎像が置かれお城公園とし整備されています。
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2019/01/18 00:47
2018.12.29 (2018/12/29 訪問)
瀬木城から県道380号を北に進んで行くと、ビニールハウスが建ち並ぶ農地の中に高い土塁があり、牧野城址となります。
市の史跡に指定されており、解説板と城址の石碑が設置されています。
遺構は土塁が一部残るのみですが、高さに圧倒されます。
なお、駐車場はありませんが、周りが農地ということもあり、路上駐車しても問題ありません。
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2019/01/18 00:26
無高の城 (2013/11/09 訪問)
江戸時代の松前藩は米がとれなかった為、石高が無く、無高(むたか)の藩でした。※一応、格として1万石でちゃんとした大名だったそうです。
木古内駅からバスで向かったのですが、本州では1時間30分も車で走っていれば田園を見る機会も多いですが、確かに道中で田園を見た記憶がありません。でも、今ではこの辺りでもお米は取れるそうです。
お城に野生のキツネがいたり、二ノ丸から津軽半島が見えたりと、蝦夷の地に感動しましたが、一番印象に残ったのはシャクシャインの耳塚でした。
城下町の和菓子屋さんの中村屋で、桜色のカステラをお土産に買って会社に持って行ったところ、次の日に女の子のお子さんがいる上司から「娘が気に入ったからもう一つくれ!」と催促されましたw
女子へのお土産にはいいかもしれません。すいません、カステラの写真は撮ってませんでした・・・
確か「花の松前」ていう名前のお菓子だったと思います。
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2019/01/17 23:58
2019/01/17 23:37
六角氏の居城 (2016/09/21 訪問)
日本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県近江八幡市の観音寺城です。城は、南北朝の頃には存在していたと言われ、石垣が本格的に使用された安土城に先立つ30年以上前の16世紀前半には六角氏の居城としてこの当時では他に類のなく石垣が多用されています。1568年織田信長が大軍を率いて上洛の途中、敵対する六角氏を攻撃、支城の箕作城・和田山城を落とされると六角氏は戦うこと無く観音寺城から逃亡、城は織田氏のものとなっています。1579年観音寺城から北東2kmに安土城が完成すると、観音時城は廃城となったようです。標高432mの繖山山頂から南山麓にかけ郭が多数築かれた大城郭で、東西1000m南北700mの城域とされます。現在の観音正寺を中心に周辺に多数の郭が配置され、本丸や平井丸、池田丸など各郭に石垣が多用されています。先にこの地にあった観音正寺は城を築くため麓に移され戦国時代が終わると、この地に再造営されたと伝えられます。
登城ルートは複数有りますが、一番近いと言われる観音正寺から登城。国道8号線から観音正寺への道標の通り舗装林道へ入っていくと料金所があり600円徴収。料金所の方に城について聞くと、写真の城址図をもらえます。その先の林道は車1台分の幅しかなく、待避所が2~300m間隔であるので、ライトを付け安全速度で行きます。車止めのある広場へ車を止め、観音正寺へ歩いて行くと、道の上の木立の中に石垣が見えます。15分程で寺に着くと入口に料金所が有り拝観料500円を徴収。寺の本堂手前の仏像から左手に閂戸を開け山道を行くと、15分程で本丸です。本丸から右側に虎口石垣、左側の自然石の階段を下り丁字路を右に行くと立派な石垣の平井屋敷跡や池田屋敷跡があります。時間のある方は池田屋敷跡の下側にある大石垣などもお勧めです。全体を見るにはかなりの時間を要すると思われます。山道は蜘蛛の巣だらけで、軍手をはめ道に落ちている枝を振りながら歩くと良いです。
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2019/01/17 23:34
秀吉の出世城 (2016/09/22 訪問)
滋賀県長浜市の長浜城です。室町時代初め佐々木高氏が出城を築き、以後、家臣の今浜氏などが守将を勤めたのが長浜城の元と言われます。戦国時代、姉川の合戦の功により湖北三郡を与えられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が小谷城からこの地に城下町を移し、地名を長浜と改め1574年から2年を掛け築城しています。織田信長が亡くなると後継者を決める清州会議後、長浜城は柴田勝家の城となり、甥の柴田勝豊が入城しますが、勝家と秀吉の争いが始まり、城は秀吉に攻められ降伏開城しています。その後山内一豊、内藤信成などが城主となりますが、1615年廃城となっています。城は内堀と外堀に囲まれた琵琶湖湖畔の水城で水門から船が場内に出入りでき、東西700m南北1200mの規模とされます。廃城後、城の建物や石垣は、彦根城築城に際して移築され、彦根城の天秤櫓や三重隅櫓は長浜城の遺稿とされます。城跡は現在、城中心部が豊公園となり模擬天守閣が建てられ、往時を偲ばせています。
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2019/01/17 23:31
浅井氏の居城 (2016/09/22 訪問)
本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県長浜市の小谷城です。城は江北を治めた京極氏の家臣であった浅井氏が京極氏の内紛に乗じ自立1524年築城したとされます。城は、北国街道・中山道の交通の要衝にあり、標高395mの頂に山王丸、それから続く尾根部に小丸、京極丸、中ノ丸、本丸、大広間、桜馬場、赤尾屋敷、御馬屋、御茶屋、番所、金吾丸、出丸が配され、麓の清水谷には家臣屋敷と城下町が配されています。1570年織田信長の朝倉攻めに対して、浅井長政は織田との同盟を破棄、織田軍を朝倉軍と挟撃敗走させています。これにより同年、浅井・朝倉と織田・徳川の姉川の戦いが勃発、朝倉軍の敗走により、浅井・朝倉軍は敗れ、織田軍の小谷城攻めが始まります。1573年援軍として来ていた朝倉軍の砦を織田軍が強襲、朝倉軍が撤退を始めると猛追し、朝倉軍は壊滅的となり居城の一乗谷城も陥落し滅亡します。越前を制圧した織田軍は小谷城を3万の大軍で包囲。しかし、5000の兵が守る堅城の小谷城は攻撃に耐えます。そこで木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が兵3000で、本丸の長政と小丸の父久秀の分断を図るため中間にある兵600が守る京極丸を夜襲により占領。引き続き久秀の小丸が陥落させられ、本丸の長政は落城を覚悟。信長の妹お市の方と娘達を信長に引き渡し後、自害落城しています。城は、城攻めに功のあった木下藤吉郎に与えられるも、藤吉郎は山城で不便な小谷城を廃して長浜城を築いています。当日は、中腹の出丸下の駐車場から小谷城攻めで藤吉郎が陥落させた京極丸まで登城。京極丸から上の山王丸にある一番大きな石垣は見逃してしまいました。向い側の峰にある大嶽城・福寿丸・山崎丸は援軍の朝倉氏の陣地跡で、地元の方の話では熊の巣があるとのことで、そちらを訪れる方はご注意ください。
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2019/01/17 23:22
徳川四天王井伊氏の居城 (2016/09/21 訪問)
日本百名城の一つ滋賀県彦根市の彦根城です。1600年関ヶ原の戦いで功をあげた徳川四天王の一人井伊直政が石田三成の領地を与えられ、1601年佐和山城に入城。彦根山に新城築城を計画するも病死。子の直継が1603年築城を開始。将軍家康が奉行を差し向け12カ国の大名を動員し、1622年完成させています。その後井伊氏は代々幕府の大老などの要職を勤め、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼も彦根藩主です。その間彦根藩は18万石から加増を繰り返し30万石となり幕末を迎えています。明治政府による廃城令が出されましたが、参議大隈重信の明治天皇への進言により破却を免れ、天守や櫓などの遺稿が残り、天守が国宝、櫓などの建物が重要文化財に指定され、城址が特別史跡となっています。城は、琵琶湖近くの標高50mの独立丘陵の彦根山に、本丸、西の丸、太鼓丸、井戸丸、鐘の丸、山崎丸を丘陵上に配し、東麓に二の丸、三の丸に重臣等の屋敷を配し三重の堀で囲んだ東西1400m南北1000mの規模とされます。
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2019/01/17 23:20
2019/01/17 23:13
2019/01/17 23:13
戦国葛西氏家臣の城、江戸時代伊達留守氏要害 (2016/06/11 訪問)
岩手県奥州市の水沢城です。いつ頃築城されたかは定かでありませんが、葛西氏家臣佐々木氏により築かれたとされます。1590年葛西氏は小田原の戦いに参陣せず領地没収となり、この地は伊達領となり要害と呼ばれ家臣が配されたが、1629年留守氏が城主となり明治維新まで続いています。留守氏は宮城県仙台市北部の領主でしたが、戦国時代弱体化のため伊達氏より養子を送り込まれ、伊達氏の配下となっています。戦国末期は政宗の叔父の政景が留守氏当主となっています。城は本丸、二の丸、三の丸、南曲輪からなる平城で土塁と水堀で囲まれ東西300m南北300mの規模とされ1万6千石の城下町として整備されてます。城は現在本丸・二の丸は住宅地となり、三の丸の一部は奥州市役所となっています。市役所には推定500年の姥杉が三の丸土塁の遺構に立っており、冠木門も移設され残っています。市役所の西500mにある日高神社は初代城主留守宗利が社殿を改築したとされ、留守宗利の銅像があります。
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2019/01/17 23:09
稗貫氏の居城 (2015/11/03 訪問)
岩手県花巻市にある花巻城です。城は三方を川に囲まれた台地に東西710m、南北500mの規模で本丸・二の丸・三の丸を擁する平山城です。古くは鳥谷ケ崎城と言い、前九年の役の安倍氏の城柵と伝えられ、源頼朝の奥州藤原氏征伐の戦功により稗貫郡を領した稗貫氏が1559年ここに本拠を移したとされます。稗貫氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず大崎・葛西・和賀氏と同じく領地没収となり、鳥谷ケ崎城には浅野長政の代官浅野重吉と城兵250名程が入城。奥州仕置軍が引き上げた後、領地没収に不満を持つ大崎・葛西・和賀・稗貫の旧臣などが各地で蜂起、1591年鳥谷ケ崎城は、和賀・稗貫の一揆軍2千数百名が包囲。城は東を北上川、南を豊沢川、北を瀬川が囲む台地に作られた堅城であり、城方が保有する多数の鉄砲により、簡単には落城せず、その間に三戸城の南部信直が5百騎を率いて代官・城兵を救出し三戸城に後退しています。一時的に一揆軍が城を占拠するも、その後、豊臣氏の征伐軍により鎮圧されています。そして、岩手県は南部氏と伊達氏に二分され、南部領の南限は現在の釜石市、遠野市、和賀郡、花巻市が境となります。鳥谷ケ崎城には南部領の南方の抑えとして重臣の北信愛を入れ名も花巻城と改めてます。1600年関ヶ原の戦いを好機とみて、秀吉に領地を没収された和賀・稗貫氏の残党が伊達政宗の煽動により再度一揆を起こし、9月20日の夜一揆軍5百名が花巻城に押し寄せました。関ヶ原の戦いは15日に徳川家康の勝利で終わっていますが、奥羽には情報が届いていなかったためです。花巻城主の北信愛は各方面に蜂起した一揆軍に対して援軍を次々と送り出していたため城内には十数名の兵しか残っておらず、一揆軍は三の丸、二の丸を打ち破ってたちまち本丸に迫ってきたため、信愛は本丸の城門を固め鉄砲に火薬だけを詰めさせ兵以外の次女たちにも空鉄砲を盛んに撃たせ城兵が多数いるように見せかけ必死に防戦、彼我の銃声が多数とどろくと城外に出撃していた南部軍がこれを聞きつけ城ヘ引き返し、一揆軍の背後から襲いかかり、形勢は逆転し一揆軍は潰走したと言わてます。以後、城主の北信愛が没すると藩主利直の次男政直の2万石の城下町となり、政直没後は城代を置き南部藩南境を守る重要な城として明治維新まで続いています。
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2019/01/17 23:08
吉川元春館麓より (2019/01/13 訪問)
石垣があります
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2019/01/17 23:07
斯波氏の居城 (2016/06/11 訪問)
JR盛岡駅から南約20kmにある岩手県紫波町の高水寺城です。標高180mの独立丘陵に築城されたこの城は斯波氏の累代の居城です。足利尊氏に奥州管領に任ぜられた斯波家長がこの城を本拠とし奥州の北朝方として活躍しています。室町時代になると斯波郡の領主として地位を確立、格式の高さから斯波御所と呼ばれたとされます。戦国時代に入ると南下攻勢をかける南部氏と争うようなり、1549年には岩手郡の雫石方面を攻略、雫石城に二男を、三男を猪去城に置き支配下を拡大しています。しかし北の南部氏の侵攻を受け次第に劣勢となり、また、配下の反乱が起こるなど弱体化、これを見て、1588年南部氏当主信直みずからが出陣、斯波氏は防戦するも南部氏の攻撃を受け滅亡しています。高水寺城を占領した南部氏は郡山城と改称、城代を配しましたが、居城として築城していた盛岡城築城に難航、一時この城を居城としています。しかし、盛岡城が完成するとこの城の建物は盛岡城に転用され、1677年廃城となっています。本丸(御殿)は東西60m南北120m、本丸の東南に二の丸(若殿屋敷)があり東西50m南北100m、本丸の北東に三の丸(姫御殿)があり東西30南北60mの規模で各丸には段状に腰郭が配され、城全体は東西700m南北1200mと大きな規模とされます。現在城跡は城山公園となっています。
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