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くろもり

三日月の丸くなるまで (2013/11/10 訪問)

岩手県の盛岡城を築城した南部氏が、盛岡城に移る前に本拠としていた城です。比高約90mの小高い山城ですが、鍛冶屋御門跡に古い崩れかかった石垣が残っており、天守を模した三戸城温故館からの景色は、往時の南部騎馬軍団が野を翔ける様を連想させてくれました。

城址にある三戸城のイラスト地図は、「三戸御古城之図」と、新渡戸稲造氏の父である盛岡藩士・新渡戸十次郎氏らが作成した「三戸郡三戸御古城御縄張測量の図」を元に作成されているそうです。※8枚目の写真

城と三戸駅との間にある法泉寺に三戸城の搦手門、龍川寺に三戸城の伝・表門(どこの門かは不明とのこと)が移築されています。※9,10枚目の写真

南部氏の隆盛を称える「三日月の丸くなるまで南部領」という言葉、子供の頃は「三日月が満月になるから領土が3倍か4倍くらいに増えたんだ!」なんて思っていましたが、三日月が満月に変わる「時間(約12日)」と「距離(南部領内)」を掛け合わせて、南部領内は移動に約12日かかるほどの広さと謳っていると知った時に、とても感動した記憶があります。誰が思いついたのか知りませんが、そのセンスしびれます・・・

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井伊谷の祐

座間城址へ行きました (2019/01/17 訪問)

本当に何の痕跡もありません。ただ、白井織部様のちっちゃな石碑だけ。裏のお寺さんは白井氏の持仏堂が元になっているようですので、このお寺を含めこの辺りにお城があったのでしょうね。

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朝田 辰兵衛

ここで景虎が没していなければ… (2018/04/07 訪問)

北条からの養子というだけあって,小田原征伐のシナリオが変わっていたことでしょう。登城に関しては,斐太歴史の里総合案内所から,東登城道を徒歩約20分で本丸跡。上信越自動車道の4車線化工事が完了するまでは,北登城道は通行止め。他に南登城道があります。
ランチのおすすめは,R292沿いにある“とん汁のたちばな”。とん汁ラーメンにしようか迷いましたが,とん汁定食(大盛)で。全国を食べ歩いている方は,ここのご飯のおいしさに気づくでしょう。

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こるまろ

金山要害山城 (2017/03/30 訪問)

ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/39537892/

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こるまろ

玉造要害山城 (2015/10/28 訪問)

玉造温泉にある玉作湯神社の隣にあります。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/36749207/

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たかりん

徳島県最大規模の山城 (2019/01/14 訪問)

続100名城は、名前くらいは知っている、あるいは名前自体初耳のお城も数多くあり、先入観がないフラットな状態で臨めるのが楽しいです。この一宮城も阿波九城の一つで名前くらいは…というレベルの知識でした。標高は本丸部分が約144mで、麓からの比高は約120m、秀吉の四国平定により阿波を与えられた蜂須賀家政が、徳島に築城する前、最初はここに入り本拠にしたそうで、その際に石垣造りなどの改修をしたそうです。朝イチで向かいましたが登城口至近の一宮神社の駐車場(と思わしき狭小な空き地)には先客1台あり、後続車に変な停め方をされて身動きできなくなるのも嫌なので(実際他でありました、怒!)ちょっと離れますが、安全策で併せて参拝予定の大日寺駐車場にお世話になりました。おかげで10分ほどロスしましたが、登城口から少し上るとすぐに石段道になります。道はよく整備されており途中いくつか平坦地もありますが、基本 本丸到達までは延々と石段が続くので、それなりの心構えで臨んでください。倉庫跡や明神丸、才蔵丸といった曲輪跡を見たため、約30分くらいでメインの本丸に到着です。徳島城同様、「阿波の青石」を用いた野面積みの巨大な石垣遺構が残っていました。城跡の維持管理は一宮城跡保勝会という団体の皆さんのおかげだそうで、感謝です!

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にのまる

未来の森ミュージアムは3月末まで休館。 (2019/01/03 訪問)

一国二城を許されていた肥後の麦島城が地震で倒壊後、少し北に再建された八代城。内堀に囲まれた本丸はカドケシみたいな形です。各隅部にある櫓台跡に登ってみました。全部同じような感じでした(^_^;)
小天守と大天守跡も行ってみましたが、月見櫓跡から続く石垣の上の道は狭くてヤバかったです。強風の時はやめといた方がいいです。歩きスマホも危険です。水堀が待ち構えています。が、たどり着いた先の小天守と大天守跡の石垣、素敵でした!凝ってます。ここの四角い空間の真ん中に天守がすっぽりはまっていた?いろんな角度から眺めたかったけれどコーナーにまわるのはやっぱりちょっと怖かったです。大天守が再建されなかった諸事情のひとつに、「怖かったから。」というのがあるのではないかと推測します。

博物館でいただいたパンフレットを今頃になって見ていたら、熊本地震で被災した廊下橋門石垣隅角部の修復が昨年夏に終了したとありました。手当たり次第撮った写真の中にあるかもしれないと思って確認してみたらありました。10枚目の写真です。「白いから石灰岩?」と思って撮った写真でした。とりあえずパシャパシャ撮っておくといいこともある、と思いました。

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こるまろ

尼子十旗 高瀬城 (2019/01/14 訪問)

ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42421991/

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じゅんじん

(2008/05/05 訪問)

図書館裏にあります

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じゅんじん

石垣に松 (2009/02/28 訪問)

ここの石垣は素晴らしかった。萌え萌えです。

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じゅんじん

IC近く (2009/07/16 訪問)

浄願寺前に立派な城址碑があります。

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カルビン

この年の初被弾は山上城でした(時期早くない?) (2014/05/28 訪問)

以前群馬県前橋駅から中央前橋駅に移動し、上毛鉄道上毛線沿いのお城を攻略しに行った際、膳城の後に訪問したのが山上城。
漫画「花の慶次」で関ヶ原合戦前に上杉家に加わった浪人衆の中にいた山上道及が城主だった場所です。
・・・あの人が城主?イメージ浮かばないわ~ww

城域は城址公園になっており、奥の主郭と思われる場所には朽ちる寸前の錆びついた遊具が・・・なんか哀愁漂ってましたorz

遺構の派手さ・大きさは先に見た膳城には及ばないものの、形の良い土塁や堀、虎口等が見られました。

南側にある芝生の場所は木々が無く明るいイメージなのですが、遺構の残る北側は木々が生い茂っている為、暗いイメージがしました。。。陰と陽が備わったお城ですな(汗)


どうしても遺構を見るには日影メインになっていた訳ですが、この時期にして早くも蚊に刺されまして・・・
この年初被弾となりましたorz

ちなみに膳駅から徒歩15分くらいで到着出来ます。

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イオ

楠公さんから言われては… (2019/01/13 訪問)

楠木正成公つながりの〆は下赤坂城。

上赤坂城からの道中、消防署の隣に駐車場の案内があるのが見えましたが、上赤坂城をじっくり堪能しすぎて日没も間近なため、中学校を抜けて現地の駐車場まで行こう、と思いきや、中学校の門が閉まっていました…。やむなく先ほど見掛けた駐車場まで戻って、そこから徒歩約10分で城址に到着。すっかり薄暗くなった中、城址碑と説明板を眺め、棚田を見渡し、遺構も特に無いし帰ろうかと思った時に目に入ったのが、楠公さんの肖像の案内板。そして…

「歩いてまいろうではないか 自動車の乗り入れは禁止である」

あらら、そうなんですか!? 駐車場だったと思しきスペースはありますが、乗り入れ禁止になっていたとは。帰宅してから確認してみると、確かに千早赤阪村のホームページでその旨案内されていました(http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/images/stories/kakuka/kankosangyoushinkou-ka/tanada/H3011-tanadaaccess.pdf)。ただ、道路沿いの下赤坂城址の案内表示はそのまま残っているので、そちらを早く何とかしないと中学校に迷い込む人が続出すると思うんですが…。

ともあれ、楠公さんから言われては従うしかありませんが、棚田のついでならともかく、城址碑と説明板だけのために往復20分歩く価値があるかと考えると…微妙ですね。

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イオ

河内平野を睥睨す (2019/01/13 訪問)

千早城に続いては、楠木正成公つながりで上赤坂城へ。

登城口から少し登ると一の木戸。そこから先は尾根筋を掘削した切通道が続き、途中、喰い違い的に折れ曲がった箇所もあったりで、城塞感を満喫しながら登ることができました。国史跡だけあって整備状態も良く、そろばん橋付近の堀切や竪堀、二の丸周辺の横堀と竪堀、本丸を取り巻く帯曲輪など、見応えのある遺構が数多くありましたが、私が一番気に入ったのは、本丸からの河内平野一帯を見晴るかす絶景! 近くはPLの塔、遠くはあべのハルカス、彼方には淡路島まで見通すことができ、ここが赤坂城塞群の中心であることを実感しました。

…それにしても、苗木城や岐阜城など、山城からの眺望に強く惹かれるのは、元登山部の習性ゆえかもしれません。

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刑部

小寺氏の城 (2018/05/04 訪問)

ここは、黒田官兵衛ゆかりの城址。運動公園としても整備されていてとても見学しやすい城址です!

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こるまろ

2019消防出初式 (2019/01/06 訪問)

本丸と内堀で放水ありました。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42382620/

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こるまろ

2019新年明けまして米子城! (2019/01/01 訪問)

元旦初日の出は雲ってて拝めず。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42361960/

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刑部

唯一の現存する建築物 (2019/01/13 訪問)

大変立派な薬医門です、さすが 御三家。

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todo94

3度目の日本100名城スタンプラリー94城目 (2019/01/13 訪問)

2010年以来、9年ぶりの吉野ヶ里は小雨の降る中の散策となりました。園内を広く俯瞰できる展望スポットが増えているように感じました。にのまるさんも投稿されているイノシシの親子、私も思わず撮影してしまいました。展示室や北墳丘墓の中もしっかりと見て回りました。今回が少なくとも7回目になる吉野ヶ里、初めて訪れたのは前世紀中でその時はまだ国立の歴史公園にはなっておらず、入園料はかかりませんでしたが、寄付金を支払っていただいた立派な有柄銅剣のペーパーナイフ、今でも大切に保管しています。

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夏の雪だるま

蒲生氏郷築城の城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城の一つ三重県松坂市の松坂城です。この地方を治めていた北畠氏が1567年からの織田信長の伊勢侵攻に屈服、信長次男信雄に家督を譲り、信雄が南伊勢の領主となります。信長亡き後、豊臣秀吉に信雄は伊勢から追われ、替わって158年蒲生氏郷が入封。それまでの松ヶ島城から南2.5kmの四五百森と呼ばれるこの地に1588年新たに築城したのが松坂城です。阪内川南、標高35mの独立丘陵に本丸を中心として東に二の丸、南に隠居丸、西にきたい丸を石垣造りとし、麓の三の丸を水堀で囲み、東西600m南北850mの規模で、松ヶ島城下から寺社や商家を移住させ城下町も新たに整備しています。氏郷が会津へ移封となると1591年服部氏、1595年古田氏が城主となり、1619年徳川頼宣が和歌山藩主となるとこの地は和歌山藩領となり、以後、藩内勢州18万石を統轄する城代が置かれ明治維新まで続いています。現在城跡は、三の丸や堀は大部分が市街地となっていますが、裏門側に御城番屋敷が残り、本丸・二の丸・隠居丸・きいた丸が松坂公園として、城址公園には建物は残っていないものの、高い石垣が往時を偲ばせます。

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