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ブラタヌシ

冬とお城 (2018/02/03 訪問)

雪が合う城です。
堀の凍りも寒さを感じます。

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とみー

本丸にある櫓門には必見!! (2019/01/20 訪問)

土浦市立博物館の専用駐車場に車を停めて土浦市立博物館を見て、登城開始!まず見えてくるのが東櫓です。この櫓は、明治時代に焼失してしまいましたが、平成10年(1998年)に復元されました。土浦市立博物館の付属展示館として、土浦城について紹介しています。木造で復元されていて江戸時代の姿がよく伝わってきます。櫓の中にいる係の人に言えば東櫓の復元画像を見せていただくこともできます。東櫓を出て本丸を見ていると、櫓門を発見!この櫓門は、本丸にある櫓門として関東で唯一現存している櫓門です。それに、大興奮!!!櫓門を見たら今度は、堀の周りを歩きます。水堀の本丸側には土塁があります。その上に塀があって城って感じです。パンフレットは、土浦市立博物館の中にあります。 駐車場・・・無料

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イオ

「常普請」の城 (2019/02/17 訪問)

大手門の内側だけでも石垣分はお腹いっぱい状態でしたが、続いては「城内」(壺阪口門、二ノ門、吉野口門の内側)を回り尽くすべく、まずは二ノ門に向かいます。

正直、大手門内の石垣がいくら凄くても、登城道沿いの石垣となると門周辺にあるくらいだろうと思っていましたが、道の左右に広がる屋敷跡の斜面もほとんどが石垣で固められていて、大手門内とは違う意味で驚かされてしまいました。
途中、国見櫓からの眺望を堪能したり、屋敷跡で藪漕ぎしたりしながら二ノ門に到着。水堀と猿石を見た後、また大手門前まで戻って今度は吉野口門へ。こちらも、本丸下部を取り巻く石垣に吉野口門付近の竪石垣や堀切など、見どころ盛りだくさんです。さらに進んだ先の赤土郭には大堀切があるようですが、この日は時間切れのためここまで。吉野口郭を少し散策して、帰宅の途につきました。

この日歩いた「城内」のほぼ全域にわたって石垣が見られましたが、中心部から離れた場所の石垣はあちこちで崩落が進んでおり、昨秋「大和の城めぐり」と題した講演で、千田先生が高取城の石垣が危機的な状況にあると話されていたのを思い出し、その現状を目の当たりにして、何とも言えない気持ちになりました。高取城は、現役だった江戸期にあっても、修理に際して幕府の許可を要しない「常普請」の城とされていたとのことですし、この高い山中の、広大な城域全体を維持していくのはやはり並大抵のことではないのでしょうね。それだけに、高取城が「最強の城」に選ばれたことをひとつの契機に、
「最強の城」に選ばれる → 訪れる人が増える → こんなに人が来るのなら、と国や県が史跡としての価値を見直す → 保全が進む
という流れになってくれれば…と願わずにいられません。

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todo94

海防 (2019/02/19 訪問)

四国の城めぐりの締めは、港山城。湯築城を本拠とする河野氏が海防のために築いた城とのこと。簡単に主郭にたどり着くことができましたが、素晴らしい眺望を楽しむことができました。興居島の小富士がとてもよく目だって見えます。マイナーな城めぐりをしていて中国人団体に出くわしたのは初めてです。親子連れやカップルもいてなかなか賑わっていました。

今回の城めぐりは四国の西側をくるっと一周。2日間のレンタカーの走行距離は500kmを越えていました。

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くろもり

夜叉九郎 (2014/09/20 訪問)

夜叉九郎こと戸沢盛安公の戸沢氏が築城したと伝わる城で、関ヶ原の合戦の後は蘆名氏・佐竹氏が城主を務めました。戸沢盛安公は小田原の役で参陣した時に亡くなってしまったので、石垣山城の麓にある海蔵寺にお墓があるそうなのですが、明治以降に不明になっているそうで、私も石垣山城を訪れた時にお墓を探してみましたが、見つけられませんでした。

角館城は横手盆地の北端の小山に築かれた城で、本丸跡からは横手盆地を一望することができました。遺構は土塁らしい地形等はあるのですが、確信がもてるような規模ではありませんでした。ただ、縄張は明確に残っていたので散策は楽しかったです。

城の南に広がる武家屋敷通りには、青柳家や岩橋家や石黒家等の侍屋敷が残っており、特に青柳家の資料の展示は地方都市の小さな博物館よりも豊富だったと記憶しています。内部撮影可で、写真を見かえしても甲冑だけで10以上ありました。武家屋敷通りは海外の方も多く訪れる観光地で、お城・歴史に興味がない方でも楽しめると思います。

角館城主の佐竹北家ですが、秋田県知事の佐竹敬久氏は第21代御当主です。「龍角散のど飴」のCMに殿様役として出演されていたので、記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。「龍角散」は佐竹家宗家のお殿様(佐竹義堯公)の為に改良された薬なので、その縁でCM出演となったようです。

戸沢氏、佐竹北氏とゆかりが深い所ですが、個人的には武家屋敷通りから東に入った所にある天寧寺を訪れることができたのが一番の喜びでした。会津の名門・蘆名氏がここで断絶したので蘆名氏のお墓があります。恥ずかしい話、お墓参り中に号泣してしまいました。蘆名氏の墓碑と家臣の墓碑があるその一段下に草履取りと言われる二人の小さな名前のない墓があり、それを見た途端涙が止まらなくなってしまいました・・・蘆名氏がそれほど好きというわけではないので、自分でも驚いてしまいました。蘆名氏のお墓の下りに共感してくれる方がどれくらいいるか分かりませんが・・・角館とにかく最高です。いい思い出をありがとう。

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朝田 辰兵衛

約30年ぶりに登ると… (2018/05/26 訪問)

ビミョーに変わってました。城郭よりも約30年ぶりの変化のほうが新鮮に感じてしまいました。登りやすくルートを変えているところがありました。それから,三の丸に当時あった無線局舎はなくなってましたねぇ…。立入禁止のロープが張られて発掘調査が進んでいるようでした。おそらく,撤退させられたのでしょう。
そうそう,ここは日本海のロケーションがイイので,晴れてる日に登らないと損だと思います。佐渡もしっかり見えますから。

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スミヤキ

行って損なし苗木城 (2019/02/22 訪問)

天然の巨岩と人工的に作られた石垣を巧みに配置した城郭は、一見の価値有りです!

岐阜県中津川の市街地から、国道257号線を北上して木曽川を渡る城山大橋まで来ると右手に城跡を確認でき、期待に胸が高鳴ります。

お城を登る前に中津川市苗木遠山資料館に立ち寄ることをおすすめします。「続日本100名城」スタンプもそうですが、3月末まで「東美濃の山城周遊スタンプラリー」も催され、限定の山城カードをゲットできます!資料館で新鮮な情報と見所を確認して、いざ!

凄いです! まず巨岩の迫力に圧倒され、バラエティーに富んだ様々な積み方の石垣が保存状態の良い形で残されていることに驚かせられます。戦国時代・江戸時代には、赤い土壁と懸造による張り出した建築物、巨岩の上に建つ天守が存在していたようです。壮観ですよね!

天守跡展望台からの眺望も素晴らしく、恵那山や木曽川周辺、中津川市街も一望できます。

これからの桜咲く時期、新緑の季節、栗の収穫期、紅葉の頃、いつ行っても楽しめると思います。

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カルビン

近場でも遭難しますw (2014/02/13 訪問)

お城巡りはこの数ヶ月前から始めてましたが、本格的にスイッチ入ったのは間違い無くこの日でした。

大雪の為公共交通機関がマヒし、会社も臨時休暇となったので、家から比較的近くにある滝山城にやってきました。

流石に歩いて行ける道路コンディションでは無かった為、八王子駅からバスで訪問。
何故かバスは走ってました(ーωー;)


バス停は滝山城の目の前にあるので、早速入ろうとしたら、やはり大雪に阻まれましてw

しかしいるもんですね~。。。先に城域に入った方と思われる足跡あるんですよw
その足跡に合わせて進みました(戻らんのかいw)

こんな雪わんさかの中、まともに遺構が見れる訳も無いのですが、ホントこういう時に限ってやる気スイッチ入りましてw
山の神曲輪とか、主郭の石碑とか、木橋とか・・・結構奥まった場所まで見学しましたよ(笑)

雪をかき分け、途中で転倒(雪が深くてダメージは無かった)したりで、当然の様に帰りはびしょぬれになってましたw


あ、勿論その後普通の日に数度訪問してますw
続100名城スタンプは近くを通った際に加住市民センターにて頂きました。

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チェブ

城跡団地。 (2019/02/24 訪問)

土豪の本木氏の居城と推定されている「加納城」。
住所の場所に着いても住宅街です。
街の掲示板の下方に「城跡団地」と書いてあります。
地名の桶川団地や加納団地ではなく「城跡団地」と名付けるなんて、粋じゃないですか!
ちょっと期待しちゃいます。

「城跡団地」とは言っても高い建物はなく住宅街です。城跡団地の(?)舗装されてない駐車場があり、奥に「加納城」の石碑があります。
わずかに土塁と堀、残ってます。

「城跡団地」と名付けられた場所にある「加納城」。
開発が進む中で安泰です。

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こるまろ

登山口が分かりにくい (2019/02/25 訪問)

案内看板が乏しく登山口を見つけるのに苦労しました。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42549008/

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こるまろ

ばたでん乗車前に (2019/02/24 訪問)

一畑電車(ばたでん)乗車前の時間調整で散策。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42547273/ (ブログには松江城は登場しません)

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なつりん

【冬とお城】 (2019/02/24 訪問)

日本百名山の常念岳と日本百名城の松本城

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にのまる

比企城館跡群に隠れているけどよいとこ。 (2019/02/12 訪問)

鉢形城から八高線で小川町へ移動。「青山城」も登城口の「見晴らしの丘」の文字もどこかで見たような…。
「あの時のあそこのあれだよね。」と同行者と記憶が一致。
「あの時のあそこのあれ」とは、
「比企城館跡群巡りをした時に彷徨った小倉城の奥の方のうら寂しい三叉路にあった道標に書かれていた手書きの文字」です。
昨年4月の小倉城の投稿に書いて写真も載せたのですが、調子に乗って歩いていたら小倉城域から外れてしまい、「←青山城、見晴らしの丘」などの案内を見て、「行こうか?でも帰れなくなるかもしれないからやめておこう。」となった、その青山城ではないか⁈ワクワクが止まりません!
麓から見晴らしの丘まではヘアピンカーブの車道ですがショートカットできる歩道もあります。その先は遊歩道が整備されていて前進あるのみ。20分程で仙元山山頂に到着。スカイツリーも浅間山(多分…)も望めました。山頂からさらに10分程進んで青山城に到着。堀切→三郭→堀切→本郭。本郭を囲む土塁にうっすら浅い虎口のような窪みがあり、少し降りてみたところそこにも竪堀のようなものがありました。二郭へ降りようと思ったら本郭を囲む石垣だったと思われる、小倉城と同じ緑泥石片岩の石積みの名残りが!
そしてその先、小倉城へと続く遊歩道がありました。2.5kmくらいで着くそうです。その場の勢いで行くには遠すぎて行きませんでしたが、青山城と小倉城が10ヶ月を経てリンクしたのは結構感動でした。

遊歩道沿いではありませんが、山の中に「割谷(青山)板碑石材採掘遺跡」というのがあるそうです(平成26年に国史跡指定)。緑泥石片岩の破片が一面にあるそうで、聞いただけで垂涎モノです。いつか行ってみたいです。
ちなみに「青山城」と呼ぶか「割谷城」と呼ぶかは地元意識による違いのようです。

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todo94

出城 (2019/02/17 訪問)

空港に向かう帰路の途次、立ち寄ってみました。室町前期の築城、河野氏の出城とのことです。小さな丘の上に祇園神社が建っていてそこが主郭のようです。東側は畑になっていて私有地のようでした。

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三河のかづ

岩津新城跡 (2019/02/24 訪問)

岩津七城の伝わっています。2月23日(土)に過去の発掘調査の報告会を聴講したため翌日現地の現在の様子を見てきました。発掘場所は埋め戻され宅地化が進んでいるためこの堀跡(竹やぶ)の部分は残って欲しいと思いました。

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まーやん

むむむ (2019/02/25 訪問)

出先のついでに行ってみたが、各サイトの投稿通り説明書きも何もなく、ただただ公園名のみが創造を掻き立てていた。。。
付近に革嶋春日神社があり謂れが記されている。
さらに付近には三宮神社なるそこそこの規模の神社もあり、巨大なむくの木が城域の範囲を創造せしめる。(実際の範囲は不明です)

革嶋氏は佐竹氏の流れを汲む血筋で、諸々変遷を経て西岡衆(にしのおかしゅう)と呼ばれる山城国の国人衆となった模様。
三好三人衆、織田信長、細川藤孝、明智光秀、豊臣秀吉と様々な人物の影響を受け盛衰を繰り返すが元の領地に舞い戻り栄えた珍しい存在。
革嶋家の文書は鎌倉時代から当家の歴史を物語る貴重なものらしい。

毎年開かれる向日市祭りでは、西岡衆として革嶋市介秀存の幟を掲げ武者行列に加わっている。

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まーやん

なんなんだここは?(・・;) (2019/02/10 訪問)

一宮城址から車で半時間弱で勝瑞城館跡に着いた。
この日は日曜日だったから勝瑞発掘現場事務所は休館。武田石油も営業していなかったので、お隣の靴屋さんで無造作に置かれたスタンプをゲット(・・;)

まずは城跡へ。見性寺境内になっており、三好氏四代のお墓がある。城は長宗我部氏の侵攻に備え作られたものとのこと。北側の吉野川方向には青色発光ダイオードで有名な日亜科学工業がある。

南側のローソン横の工事スペースに車を置き館跡へ。
資料を見ると、阿波細川氏の居館であったものを細川持隆を自害に追い込み三好実休が実権を握ったが和泉で戦死。その子長治は細川に追い詰められ自害。さらに跡を継いだ三好(十河)存保は長宗我部氏の侵攻で讃岐へ撤退したとある。虎丸城のことか。

ここはだだっ広くて、工事中で、マンションがあって、西陽で何も見えず、創造を掻き立てるものがなかった。・゜・(ノД`)・゜・。

しかし、濠や出土品などは大変素晴らしいらしく、国の指定を受けている。今後の発掘調査の更なる進展と、出土品の活用方法に期待したい。

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くろもり

小野寺さん上洛 (2014/09/20 訪問)

戦国時代は小野寺氏が居城としていた城で、関ヶ原の合戦後は佐竹氏家臣の伊達・須田・戸村氏が城代を務めた城でした。

横手城は横手盆地の東に位置する山の上に築かれ、西を流れる横手川が天然の堀を成し、東には沼が広がり、城としての立地は申し分ない印象を受けました。模擬天守からは横手盆地を一望でき、雪は多いでしょうが、豊かな土地であろうなと実感できました。模擬天守は資料館にもなっており、館内撮影可で佐竹氏時代の資料や具足等の展示がありました。

天正10年(1582年)、横手城主・小野寺景道公は上洛して織田信長と会見したそうです。戦国の時代にどのようなルートで上洛したのか気になりますが、やはり日本海を海路で進んだのでしょうか。

また、カルビンさんの投稿にもありますが、本多正純・正勝両公の墓碑が城の近くにあり、正純公が横手で詠んだとされる「日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」の歌碑を見ると切なくなってしまいました。

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朝田 辰兵衛

トイレの神様は… (2018/05/19 訪問)

こちらにおわしまする。

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カルビン

up出遅れたw (2018/05/26 訪問)

続100名城解禁してから結構早めに来たのに、upするタイミングを逸してしまい、真逆の時期になってしまった鮫ヶ尾城w

北陸新幹線・上越妙高駅からJRのレンタサイクルにで鮫ヶ尾城攻略してきました。


30分弱でお城の麓まで到着し、舗装された上り坂の突当りに自転車止めて、先に妙高市斐太県民休養地管理棟にて続100名城スタンプとパンフレットを頂き、教えて頂いた通り・・・って・・・え~~、一回下ってから登るの~?

折角登ってきたのに降りるのが惜しい自分は道を探していたら、管理棟からオバチャンが出てきて、
「そっちじゃないですよ~!」って言われてしまいましたw
すいません、知ってて抗ってたんです(ーωー;)ゞ


渋々降りてから登り、2、30分くらい登ったかな?潜在写真で良く見る主郭に到着。

丁度熊蜂が縄張り争いをしているシーズンで、通ろうとすると熊蜂通せんぼしよるんですよw
(意外と回りこむと邪魔しないので覚えておくと良いですよw)

主郭から奥には大堀切を挟んでは曲輪が・・・っていうのが繰り返されてましたが(これは素晴らしいです(・∀・))、ある所まで行くと堀切を降りる道がなくなり、残念ながらその先は行けずに断念。

他にも虎口や竪堀等、良質な遺構は主郭附近まで登ったあたりに密集している感じでした。


正直続100名城には「なぜここ選んだ?」と言わざるを得ない場所多いですが、鮫ヶ尾城は納得行くお城でした。
ちなみに見た事の無い模様の蛇を見たんですが・・・あれマムシなんかな。。。(ちょっと模様が違う気が)

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