初めて小浜宿に行って参りました。
「おばま」ではありません。「こはま」と読みます。
明治時代以降に宝塚温泉街に賑わいが移るまで、ここが宝塚で一番賑わった場所でした。
西宮街道、有馬街道、京伏見街道が合流する交通の要衝であり、江戸時代には宿場町として明治時代まで大いに栄えた小浜宿ですが、そのルーツは16世紀前半までに成立していた浄土真宗(一向宗)門徒による寺内町に由来します。
小浜の寺内町は周辺よりも高くなった台地上に寺内町を展開するといった風に、地形を巧みに利用した町で、今でも大堀川沿いにその面影を見ることができます。
但しこの大堀川、何と人口の堀なんだとか。
道理で流路が自然っぽくないわけだ。
かなりの大規模な土木工事だったことでしょう。宗教の力、恐るべし。
そして北、西、南側をその大堀川がぐるりと巡り、東側には土塁と堀が守りを固めていたといい、東門跡周辺に僅かながらその跡が残っています。
また、北門跡には現在国府橋が架かっていますが、これは明治時代以降に架けられたもの。
本来は、小浜に北から入るには細く狭い『いわし坂』を通らなくてはならず、この辺りの大堀川はさながら深い谷のようです。
なるほど、所謂『小浜城』と呼ばれるわけです。
小浜の寺内町の中心は、小浜御坊の別名を持つ毫摂寺です。
このお寺の出身の娘が、後に豊臣秀次に見初められ側室として嫁ぐ小浜の方ですが、例の秀次事件によって六条河原で一族もろとも処刑されてしまいます。そしてその件に連座して小浜の町は焼き討ちされてしまうという、実に血生臭い歴史があるのです。
寺内町から宿場町への転換期はこのあたりからかもしれません。
元々交通の一大拠点で賑わっていたし、秀吉が有馬へ湯治に向かう途中に千利休に茶を点てさせた話もあるほど良質な水が豊富だった事もあり酒造りの名所としても知られていたそうです。
平和な世の中になり、いつしか物々しい防御の必要性は薄れていったことでしょう。
今は年月の経過と共に古い建物は姿を消してゆき、阪神大震災によって甚大な被害を受け、当時の面影はすっかり薄れてしまいましたが、町割りと町名は当時のまま。
当時の賑わいに想いを馳せながら歩くのも良いものですよ。
…なんか、『小浜城』じゃなくて『小浜宿』のレポートになってしまいましたねw
あ、マイカーで訪れるならば『旧和田家住宅』近くのコインパーキングが安いしオススメですよ。
但し道が結構狭いので、くれぐれも通行には気をつけて。
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