室町初期に美濃国守護土岐氏の一族・土岐頼兼が築城、明智氏を名乗って代々の居城としました。戦国期、明智光継は娘の小見の方を斎藤道三の正室としましたが、弘治2(1556)年、長良川の戦いで道三が斎藤義龍に討たれると、道三に味方したとして明智長山城は義龍の攻撃を受け落城。一族が自刃する中、明智光秀は明智氏の再興を託されて落ち延びたとされます。
東西に続く丘陵沿いに多くの曲輪跡があるものの、土塁や堀といった山城らしい要素はほとんど見られません。しかし、説明板や石碑、標柱が随所に建てられ、大手口跡には模擬冠木門、馬場跡には逆茂木と馬防柵、大手曲輪と本丸には展望台が設けられるなど、明智光秀生誕の地として訪れた人に、少しでも往時の雰囲気を感じてもらおうという意気込みが感じられます。実際、この日もガイド付きの団体さんと何組か行き会い、大河ドラマの影響力はすごいなー、と実感。
また、大手道の登城口近くにある天龍寺には明智氏歴代の墓所があるほか、命日にちなんで6尺1寸3分(約184cm)の日本一大きな明智光秀の位牌(と木像)が祀られています。
この日の時点では、本丸跡の展望台は改修工事中のため立ち入り禁止となっており(10月31日まで)、山城からの眺望好きとしては残念でしたが、工事期間中、展望台近くの木に展望台からの眺望のパノラマ写真が掲示されていて、私のように残念に感じるであろう人への配慮に、かえって嬉しい気持ちになりました。…そうそう、展望台といえば大手門近くの大手曲輪にも設けられていますが、こちらは麓にあるので眺望も何も(笑)
また、本丸から水ノ手曲輪に続く搦手道が通行止めのため、水ノ手曲輪や西大手曲輪、乾曲輪に行くのはあきらめたのですが、赤い城さんの投稿で、下から登って行くことができたと知り愕然…。搦手道は来年1月頃に開通予定らしいので、展望台とあわせて開通後に再訪したいと思っています。
それにしても、(諸説あるにしても)この日訪れた土田城は織田信長の生母・土田御前の出身地、明智長山城は信長正室の帰蝶(濃姫)の生母・小見の方の出身地であり、信長を討った明智光秀の出身地でもある…。そう考えると、可児市って信長の生涯に大きく関わった人たちのゆかりの地なんですね。
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