みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

くっしー

空堀が良かった。 (2020/02/10 訪問)

「ニッポン城めぐり」で偶然見つけたので行ってきました。

縄張りはそれほど大きくないですが、なかなか良かったですよ!
特に「空堀」はなかなか大きな掘削で見ごたえがありました。本丸を囲む形で二の丸と西の曲輪を隔てています。
築城は織田信秀(信長の父)で、その後丹羽氏が支配。小牧・長久手の戦いで落城すると廃城となったそうです。

ちなみに、発掘調査で城内から古墳が見つかっているそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

skoba

雲海の城 (2007/01/04 訪問)

三大山城の一城。早朝から雲海に浮かぶ松山城を見てから登城する。雲海に浮かぶ現存の城が見れて感動しました。巨大な岩盤を利用した石垣は圧巻で、現存最小の天守にもかかわらず心に残る一城でした。大河ドラマの真田丸のオープニングに使われたお城です。登城途中は猿が出ますので気をつけてください。

+ 続きを読む

岡山平野を見下ろす要所 (2020/02/09 訪問)

城の構造や歴史は先達(備前石工河内屋治兵衛さん)の投稿を参照。山頂からは、岡山城を含め、西方が見渡せ、要所とわかる
津本陽の「備前物語 宇喜多秀家」に、明禅寺攻めの描写があり、「二本の樹木のあいだに張った縄に巨石を引っかけ、大勢の軍兵が引き...巨石は唸りをたてて宙を飛び」と。山頂付近だけでなく、登城道にも花崗岩が露頭。敵に飛ばす巨石にはこと欠かない。
三村の二万に対し宇喜多五千が勝ったのは、決戦に先立ち当日に明禅寺城を落としたのに加え、休ませた兵を次々と投入する「繰り引きの戦法」が斬新で効果大だったのだと。
登城道は、落ち葉が掃かれ、登り易かったです。地元の方々がラジオ体操を兼ねて来られ、維持管理されているのだと思います。

+ 続きを読む

カルビン

徳川家に冷遇されていった悲しい大久保家のお城 (2016/05/03 訪問)

以前三島大社をメインに静岡県東部を訪問した際に立ち寄った沼津城。

現在は開発が進み、城址公園となった場所にはお城で有った事を示す遺構は残っておりません。
代わりに城碑と解説が充実しております。

大通り沿いに何ヶ所か石垣(移築)や遺構跡地があるので、そちらも一緒に見れれば良いのでしょうが・・・その詳細位置が訪問した当時解らなかった為に、跡地しか確認出来ませんでしたorz
(以前車で訪問した際、駐車出来る場所を見つけられず・・・信号待ちで見つけた外堀跡とその際用いられた石垣の写真も添付しておきますw)

沼津には徒歩圏内に沼津城の城主だった大久保忠佐の菩提・妙伝寺もありますので、セット訪問推奨です。


大久保家は徳川幕府設立に大きな力になったものの、戦闘力こそあれ、その後幕府運営に適した人材がいなかった為か、徐々に冷遇されて最後には御家断絶してしまいます。
(大久保忠佐の弟・彦佐衛門忠教(三河物語の著者・旗本で復帰)や、忠教の甥・忠隣も小田原藩改易後にその系統の忠朝が大久保家の累代の功績が認められて藩主として復帰する等、大久保家は復活した)

江戸幕府設立あたりから、その功労者であったバズの本多家・榊原家等多くの武闘派の家が徐々に勢力減退して行ったのを見て、徳川家って冷たいな~と思えてなりません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

関ケ原古戦場(西軍編) (2020/02/01 訪問)

さて、朝一番で登った松尾山から下りてくると、いよいよ関ケ原古戦場めぐりです。実際には東軍西軍関係なく近い順にめぐっていったんですが、西軍編、東軍編、両軍・垂井町編に分けて投稿します。

大谷吉継陣跡

大谷吉継は小早川秀秋の寝返りに備えて、松尾山を見渡せる若宮八幡神社の裏手に布陣しました。
参道の南側に無料駐車場があり、神社の脇を登っていくと陣跡の石碑と塹壕状の土塁・横堀が見られます。また、陣跡から東に行くと松尾山眺望地、北に登っていくと吉継の墓所があります。
関ケ原で戦った諸将の中では大谷吉継が一番好きで(真田信繁の舅どのでもありますし)、墓所にも手をあわせてきたんですが、吉継の介錯をした側近の湯浅五助と大谷隊と戦った藤堂高虎の甥・藤堂高刑との約束、そして吉継の墓を藤堂氏が建立したことを現地の説明板で知り、胸が熱くなる思いでした…。

平塚為広碑

平塚為広は大谷吉継の前衛として布陣し、吉継から前線の指揮を任されて奮戦しましたが、小早川秀秋に続く脇坂安治らの寝返りにより、吉継に辞世の句を送って討死。それに対する吉継の返句(辞世の句)とともにこれまた胸が熱くなります…。
平塚為広「名のために捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば」
大谷吉継「契りあらば六の巷に待てしばし おくれ先立つ事はありとも」
石碑は大谷吉継陣跡東側の広域農道(戦国ロード)沿いにあります。駐車場はないので、見通しのよい路肩に駐車しました。
なお、「元始、女性は太陽であった」で知られる平塚らいてうは為広の末裔で、この石碑の建立にも関わっているんだとか。

宇喜多秀家陣跡

宇喜多秀家は南天満山に布陣し、西軍主力として福島正則らと激戦を繰り広げました。
天満神社に石碑が建てられ、参道沿いに土塁や横堀が見られる…ようですが、車道(未舗装)を往復したので見逃してしまいました。駐車場はないので、空きスペースに駐車しました。

小西行長陣跡

小西行長は北天満山に布陣し、この地から開戦を告げる烽火を上げ、寺沢広高らと戦いました。
関ケ原開戦地(無料駐車場あり)の奥に石碑があります。

島津義弘陣跡

島津義弘は現在の神明神社から北西の薩摩池あたりに布陣、石田三成からの再三の攻撃要請にも応じませんでしたが、西軍総崩れにより敵中に孤立する中での敵中突破は「島津の退き口」としてあまりに有名です。
神明神社裏手に石碑と説明板があります。開戦地駐車場から徒歩3分の距離ですが、近くに数台駐められそうなスペースはあります。

石田三成陣跡

石田三成は関ケ原を一望し北国街道の抑えとなる笹尾山に布陣し、小早川秀秋の寝返りまでは数で勝る東軍諸隊を相手に善戦しました。
笹尾山の麓に竹矢来や馬防柵が復元され、山頂には石碑と関ケ原を見渡す展望台が設けられています。麓の無料駐車場から山頂までは遊歩道が整備され、5分もあれば登れます。

島左近陣地

島左近は石田三成隊の前衛として笹尾山の麓に布陣、黒田長政隊や細川忠興隊を相手に奮戦し、鬼左近と恐れられました。
麓の竹矢来の前に説明板が設置されています。また、左近陣の西側には同じく前衛として布陣した蒲生郷舎の陣地(の説明板)もあるようですが、見逃してしまいました…。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

竪石垣が特徴の復元整備館 (2016/06/19 訪問)

 平成28年6月安芸の吉川元春館を肥前城廻り前に初登城しました。
 資料館の有る戦国の庭歴史館に車を停めて、歴史館で勉強、資料を頂きすぐ傍の復元整備されてる吉川元春館を探訪、毛利氏の石垣の特徴である竪石垣を観察し、館内に、庭園、復元台所等館内を一周探訪する。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

前ちゃん

三好山 (2020/02/11 訪問)

比較的登りやすい。上からの眺望もよかった

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

山口駿河守幻夢斎

土塁と水堀が良好に残る古城跡 (2018/12/25 訪問)

高岡城は、加賀100万石の初代(あるいは2代)藩主前田利長公の隠居所として築かれました。
最初の隠居地富山が火災で焼失、次いで、魚津城に移った後、高岡に新城を築いてうつったといわれますが、高岡城は、未完成のまま、廃城になったともいわれています。
現在は、国の史跡、日本100名城に選定され、高岡古城公園として整備されています。
駐車場もありますし、高岡駅から歩いて15分ほどで行くことができます。
近世城郭でありながら、石垣はほとんど用いておらず、水堀と土塁が良好に残されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

富士山と江の島 (2020/02/08 訪問)

近くにリパークがあるのですが、道幅の割に交通量が多く、バックで車庫入れするのに少し躊躇してしまいます。旗立山という小さな丘ですが、富士山と江の島を見事に望むことができました。此処も、2022年の大河ドラマに出てくるといいなあ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

見えまくり。 (2020/01/21 訪問)

 初めて真田の郷に足を踏み入れたのが2年前の1月。上田駅周辺は平気だったのに真田は猛吹雪で、その時の自然に対する恐怖と畏怖は忘れることができません。
 ですが!その年の秋に砥石城を端から端まで歩いて心理的ダメージも回復したので、このたび真田の郷ウォーキングに行ってきました。2年前と同じ1月ですが今年は暖冬で雪も寒さも大丈夫でした。
 石舟バス停から登っていきましたが、車道をぐるぐる歩かなくてもショートカットできる歩道があったので上がっていくと真田本城入口のところで車道と合流しました。その先「熊久保集落コース(車と歩行者)」と「風光明媚コース(歩行者)」に分かれていたので風光明媚コースから上がりましたが遠くまで見渡せて爽快な眺めでした。
 そして、いきなり視界が開け、別世界が出現!手入れの行き届いた気持ちのいい広場で、ここでもしばし眺望を楽しみました。
 と、ここまではまだプロローグ。この先に一郭→二郭→三郭と細長い連郭式の曲輪群がありました。一見シンプルではありますが周囲は崖。そして雪が降るととんでもないことになるはずで、この日も三郭の水道の水が凍っていました。(当時からある水の手の名残でしょうか?)二郭の虎口と腰曲輪、石積が遺構としての見どころだと思いますが(表示があったのでわかりました)、城としての見どころはここからの監視力の凄さ。上州道も周辺のお城も一望のもと。(現地に周辺のお城の地図あります。)
 このあと真田氏館跡に寄りましたが、ほんとは松尾古城(と日向畑遺跡)に行きたくてたまりません。どのくらい大変なのでしょうか…。

⭐︎猿さん、お久しぶりです‼︎

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

寺尾城ツアーに参加して (2020/02/11 訪問)

余りメジャーじゃないお城ですが、イマジネーションを掻き立てるには充分でした!
小高い山と平地との高低差を上手く利用したお城だったようです!
また、海にも近く水運が発達していたようです!
寺尾城跡の高台からは、富士山も見えてここが城山であることを感じさせられました!

+ 続きを読む

くっしー

武蔵塚を探していたら・・・長久手城発見!! (2020/02/10 訪問)

長久手古戦場近くで森長可の墓を探していて見つけました。(そっちはそっちでまた投稿予定。)
加藤忠景という人物の居城らしく、「小牧・長久手の戦い」で戦死。城も入状になったみたいですね。
そのご供養され、観音堂が建てられたそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

秀吉ゆかりの頭陀寺城 (2020/02/11 訪問)

言い伝えに「少年時代の秀吉が、旅をしてる時に松下氏に拾われて3年間奉公した」等々諸説あるが、秀吉が松下家に3年間仕えた事は確かなようだ。私の驚きは、「1568年に父親の井伊直親を殺されて力を失った、幼少の井伊直政かくまって養子にした事」だ。徳川家の家臣だった松下氏が井伊家を助けなけば、井伊直政が徳川家康に目をつけてもらえるはずもなく、天下を取った豊臣秀吉に重宝される事も無かったはずだ。松下屋敷跡は、当時は水堀に囲まれた100m四方の大きな屋敷で、頭陀寺絵図によると寺の本堂から屋敷から一体となって頭陀寺城を形成していたようだ。頭陀寺の境内に歴史資料館がある。残念ながら撮影禁止、書物も販売していないが、非常に貴重な資料がいくつも展示してあり、満足度が高い。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まーやん

読み「しゅうち」なんだけど… (2020/02/11 訪問)

晴天の丹波路を北上し須知城跡に行ってきた。
前回は琴滝のついでに登ったが倒木に次ぐ倒木に阻まれ進めなくなりリタイア。今回は明石(あげし)ルートから登った。
まぁまぁ真っ直ぐの登りで結構しんどかった。土が滑るのでトレッキングシューズとポール必須で。
曲輪の説明などはないが、頂上付近に曲輪か並んでいると思われる。主曲輪付近に石垣が多く残っており見ごたえがあった。
頂上からは名峰美女山から京丹波町の町並みが見えるほか、琴滝も荘厳。玉雲寺は明智に焼かれ再建された島津所縁の寺。見所も多い。
この大河ドラマで丹波の歴史に光が当たってほしいと願う。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

誰も気に留めない小山 (2020/02/11 訪問)

少なくとも20年前からこの高さ6m程度の小山が目には入っていたが、遺構だと知ったのはこのサイトだ。外国船に対抗するための大砲台場との事だが、あらたまって案内板を見てビックリ!今から170年前は、高さが27mあったとの事。。。しかもこの山の位置が、海岸堤防の位置だったと言う。今の海岸は当時より500mも南にあり、それだけ天竜川の堆砂や地盤変動があったという事。台場の頂上から遠州灘を見ようとすると巨大な防潮堤で視界を遮って見えないが、その防潮堤で高さ15m程度。防潮堤の倍の高さを誇ったという事は、浜松城からも見えたであろう。いずれARなどで再現される事を願う。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

七本槍賤ケ岳砦は絶景 (2016/05/05 訪問)

 平成28年5月連休日帰り滋賀県未踏の城廻り、観音寺城を終えて賤ケ岳砦初登城、情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんによる。
 連休で人出も多くリフトの駐車場は満車、若干並んで待ちほどなく駐車出来ました、リフトへの道すがら七本槍の各武将ごとに案内板が並んでる、清正、正則、嘉明、且元、安治等聞き及んでる武将たち。
 リフトで山頂駅へそこから急峻な坂道を七本槍の武将撮影看板夫々の武将ごとに在り見ながら登ると辛い坂道もなんのその山頂曲輪へ琵琶湖、余呉湖を見下ろせ絶景圧巻、賤ケ岳合戦方向も一望下、440年前も昨日の様歴史実感でワクワクして来ます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まーやん

八木城大河ドラマ出るかなー② (2020/02/11 訪問)

麓や人物の話を少し。

昔、暴れ川であった大堰川(桂川)は麓の龍興寺(りょうこうじ)前の道路辺りを流れていたらしく、多くの寺院や塔中が配され、尼寺までも抱える妙心寺派の大寺院であった。現在もおびただしい石垣が残され、内藤氏の居館跡と伝わる東雲寺の入口は枡形となっている。
有事は居館から真っ直ぐの道を駆け城に詰めたと伝わっている。
山頂からは北部が見えないが鶴首山城が配され監視できる体制であったらしい。

さて、内藤家だが、細川の被官であり丹波を支配していたが、松永久秀の弟が養子で入り内藤宗勝を名乗り版図を広げたが、若狭攻めで失敗し、黒井城攻めで討死したことで没落していく。

家督争いに敗れたジョアンは八木城落城の難に遭わず将軍足利義昭に帯同し京から堺を経て鞆の浦に逃れる。ここで小西行長に出会う。

小西に遣えることとなったジョアンは朝鮮の役(文法の役)で共に外交官として活躍し停戦交渉に臨むが秀吉に嘘がばれ怒りを買うがなぜか生き延びる。

その後、主君小西行長は関ヶ原の戦で討死するがジョアンは難を逃れ有馬、加藤の後に前田家の客将となる。この時高山右近とともに高田にいたのではと言われている。

徳川家康がキリシタン追放令ひ発すると高山右近とともにマニラに渡り、右近は2年で亡くなったがその後12年に渡り日本人町の発展に尽くし天命を全うしている。

キリシタンということで家系図からも抹消されていたが近年の研究で様々なことが判明してきており、ジョアンの甲冑は二代将軍秀忠がイギリスに贈りロンドン塔に現存している。

八木城は昨年赤色航測図を作成した成果などを園部城域内にある南丹市文化博物館で3/29(日)まで展示している。

命が軽んじられていた時代に四度の難を逃れ海外を股にかけ信仰に生き抜いた人生は習うべきものがある。是非大河ドラマで取り上げていただきたい。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

児島湾に臨む小山 (2020/02/09 訪問)

現在は干拓地が拡がっているが、戦国時代は児島湾は広かったと。宇喜多直家は16才で最前線の乙子城主となった。備前、美作の城の多くは、宇喜多直家が絡んで説明される。

+ 続きを読む

小城小次郎

小川城

単身流れてきた赤松氏の一族が謙信に認められて小川可遊斎を名乗り、見知らぬ土地で孤軍奮闘したという熱い歴史を負っている。そんなお城が、今や新幹線駅から徒歩圏の超駅近物件へと変貌した。

+ 続きを読む

まーやん

八木城大河ドラマ出るかなー① (2020/02/11 訪問)

地元の方々が遊歩道などを整備されたと伺ったので久々に登ってきた。
春日神社に車を置き内藤ジョアンの碑を左へ曲がると京都縦貫道下の隨道が城門風となっておりそこを抜けると登山口だ。
麓エリアに武家屋敷群があり階段状の平地が見られる。
城山登山道はかつて地元小学生が城山の合目標柱を建ててくれていたが、間隔が驚く程適当だった。(かわいい笑)今は山頂からしっかり計測され標柱が立てられている。
山頂の少し手前に対面所という番所の役割を果たしたと言われる曲輪がある。
石垣が見えてきたら馬屋を上がり左に曲がれば本丸だ。本丸には金之間と呼ばれる一段高い曲輪があるほか東側は三段になっている。
本丸からは京と丹波の境西山山系から愛宕山系、大堰川(桂川)など亀岡盆地が一望できる。
急峻な地形を生かし竹に油を塗り立て掛けて滑って登れないようにして明智軍をかわしていたが火を放たれ炎上したと伝わる。
また、妙見宮辺りに地下道の出口があり難を逃れられるようになっていたという伝承も。(ほんまかいな)

山陰道を眼下に見下ろし、篠山街道へも近接し、船井郡と桑田郡に跨がる広大な城域は、武将名のついた曲輪が多数あり一般的な名称ではなかなか説明しにくい(笑)

馬屋から二之丸の間には堀切があり、亀岡市神前(こうざき)方面には竪堀も見られるとのこと。

烏嶽曲輪を見た後、妙見宮から降りようとしたが倒木により通行が規制されており、来た道から下山した。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1503