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中川藤兵衛尉

喜連環濠 (2019/09/30 訪問)

こちらも大阪市内やけど河内国のお城。堀こそ残ってませんが、道路として原形を留めています。各入り口にはお地蔵さんがあります。

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中川藤兵衛尉

宇利和利城 (2019/09/30 訪問)

大阪市内やけど河内国のお城。今の大阪市営瓜破東住宅から瓜破東小学校を経て花塚山古墳まで辺りにあったそうです

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中川藤兵衛尉

一津屋城 (2019/09/30 訪問)

本城は現・松原第七中学校、出城は厳島神社になっています。後者は古墳上に建っており、まあ城っぽさはあります

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中川藤兵衛尉

三宅城 (2019/09/30 訪問)

現・屯倉神社。南に土塁と堀、東に土塁が残っています

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イシテル

明智城 (2019/03/16 訪問)

明智駅から歩いて明智城へ行きました。
駅から少し距離がありますが、小高い山の上で気軽に登城できる山城です。
一部、崩落のため立ち入り禁止のエリアがあり残念ですが、全体的に綺麗に整備されています。
冠木門の先には土塁、堀切があり、本丸、中の丸も良く残る城址です。
でも馬防柵跡の後ろは住宅街となっていました。

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くろもり

二つの城址碑 (2019/09/21 訪問)

「城びと>お城を探す」で表示される場所は城址碑のある「城跡公園」ですが、「城跡公園」は開発により碑を移した場所で、かっての城域は城跡公園から西に500m程の「古城交差点」付近(遺構なし)と伝わるそうです。
名鉄犬山線・下小田井駅から徒歩にて「古城交差点」まで7~8分程、「古城交差点」から「城跡公園」まで7~8分程でした。「城跡公園」の周りには駐車場はありません。

「城跡公園」に2つ城址碑があるのですが、1つは大正5年(1916年)、もう1つは昭和38年(1963年)と彫られています。おそらく大正の碑はかっての正しい城跡にあったのだと思いますが、開発により「城跡公園」に移され、その時に昭和の碑も建てられたのだと思います。カルビンさんの投稿の通り城址碑の裏に謂れが彫られているのですが、どちらの石碑も全く同じ説明で驚きました。「この昭和の石碑は大正の石碑の孫なんやなぁ」と石碑と石碑を建ててくれた小田井の人達の歴史を感じました。

築城主の織田敏定(おだとしさだ)さんは、織田信長の一族であり主筋でもある清洲織田氏(織田大和守家)の当主だったので、織田氏が好きな方にお勧めです。

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カズサン

惚れ惚れする堀と土塁 (2017/02/17 訪問)

 河越氏館を終えて滝の城へ滝の城址公園の北側の城山公園パーキングにナビを定めて走行し同駐車場に停め探訪。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさん)
 北側の駐車場から南に延びる丘陵を眺めながら城塁の遺構を探し探し南側の城山神社鳥居入口より登城開始、参道階段前の堀底登城路を登り本郭虎口前に出る、二の郭、本郭、三の郭と中堀、外堀、二重堀を探訪し堀、土塁の素晴らしさに惚れ惚れ、周辺宅地の中よくここまで残してくれた物だと只々感謝です、整備保存管理されており大勢の方に是非見て戴きたい土の城で、四脚門、同橋を復元されれば更に雰囲気が増し客足が増えるのではと思ったりします。

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カズサン

源義経絡みの中世城館 (2017/02/17 訪問)

 城郭放浪記さんの情報とガイドで武蔵の国で有名な平安末期鎌倉期中世武士団の館河越氏館を探訪、桓武平氏秩父氏の一族で頼朝の平家討伐に従い河越重頼の娘は義経の正室と成り重用されたが頼朝と義経の仲違いにより河越重頼、重房父子は誅殺され河越氏は衰退、以後再興、没落して戦国期は山内上杉氏、後北条氏の攻防の地と成った。

 館跡は河越館跡史跡公園と成り上戸小学校に北側に駐車場が在ります、開けた原っぱが河越氏館跡発掘調査跡に各遺跡に案内板、東屋風な建屋に河越氏館の歴史、発掘調査の結果報告、館のイメージ図、今後の計画等が掲示されて居り館の勉強教室の様です。
 風が吹くと埃っぽいですが広々として中世武士団の蹄の音が聞こえて来そうな雰囲気です。

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響ちゃん

曇り (2019/09/30 訪問)

朝は皆でラジオ体操ぽい

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イシテル

岐阜城5回目の登城です。 (2019/09/29 訪問)

今日、天気も良く、岐阜城に登りました。今回で5回目の登城となります。
信長公居城連携協議会が開催している「信長夢街道スタンプラリー」で岐阜城が最後となり、猛暑が落ち着くのを待って、登城。
スタンプを集めた応募券を提出すると記念品がもらえると書いてあり、楽しみにしていたのですが、いただいたのはステックのり....。
記念品ではないような...、始まって5か月だから無くなったのかな...、集めたスタンプ紙を記念にします。
晴天で濃尾平野、長良川、木曽川が良く見え、抜群の景色で癒されました。

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イシテル

空堀の残る平山城 (2019/09/28 訪問)

今は城山八幡宮があり、本丸には遺構は見られませんが、周囲に幾つかの空堀が残っています。
空堀から切岸となり本丸を守っている機構も良く見て取れます。
神社の裏には途中で分かれた2本の幹がまた合わさって一本になった連理木と呼ばれる木があり、夫婦円満のご利益があるそうです。

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にのまる

そうだ、京都行こう。 (2019/09/24 訪問)

西岸寺にある城址碑は「丸岡城址」でした。
明智光秀の丹波侵攻で落城。
その後、光秀は亀山城を築いたのだそうです。

「麒麟がくる」の大河ドラマ館、岐阜・可児・恵那に出来るのですね。
亀岡駅の北口(亀山城と反対側)にも建設中でした。すごく大きな建物だったので、どんだけ力入れてるんだ!と思ったら、建設中なのは〈京都スタジアム〉で、大河ドラマ館はその中の商業施設内に出来るみたいです。

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wako

岐阜城 (2019/09/29 訪問)

次の大河の影響もあっていつもより人がすごく多かった…。力を入れてアピールしてて、来年に岐阜公園歴史博物館に大河ドラマ館がオープンするとのことでした!
また信長祭に向けてか岐阜公園でも屋台などの準備がされてました。
岐阜公園含めて岐阜城の雰囲気がすごく好きです。
(去年の写真ですが夜景もとても綺麗です)

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カズサン

【遠江・獅子ヶ鼻砦】 静岡県菊川市 高天神城攻略六砦 (2017/02/04 訪問)

 大河ドラマ「直虎」ブームの余波で「静岡県菊川市大石1」の菊川市営保養センター小菊荘裏山に在る獅子ヶ鼻砦を探訪、車は隣の蓮池公園駐車場に停める。
 小菊荘の裏手に案内板と急峻な折り曲がった坂道登城路小笠原丘陵の先端部40m程の比高、南側先端が1曲輪奥に2曲輪、3曲輪、東側は崖、下段に降りて西に4曲輪5曲輪西に下って田畑に出ると南に折れて蓮池公園に戻ってくる1周です。
 高天神城攻略の徳川方六砦の中で交通便利に登城出来る城跡です。
 曲輪攻略ガイドは余湖図コレクションさんの俯瞰図を手元に廻りました。

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カズサン

源義家ご落胤東遠中世大城郭 (2017/01/28 訪問)

 大河ドラマ「直虎」ブームで東遠江の城廻り、横地城は以前より認知はしてましたが山城探訪の私としてのタイミングに成って無く今回まで未踏のままでしたしたが新野氏遺跡巡りの中で初登城、情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん余湖図コレクションさんに依り上池東のトイレの有る駐車場に停める。
 駐車場より千畳敷に至る急峻な登城路を登ると千畳敷、西の城、中の城、本丸金寿城と探訪しました。小笠原丘陵の入り組んだ丘陵を使った城郭を堪能し、駐車場に戻って上池と丑池の間の離合困難な登城路を登り西の城の西に至り非常に狭い道を西に進み、武藤館、藤丸館、隠し井戸、横地氏一族の墓を廻って広い県道245号線に降りる、対向車が無く無事下城。

 源義家から繋がり今川氏との攻防により約400年の東遠州の名門も衰退しました。

 

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橋吉

将軍家の旅館 (2010/05/10 訪問)

水口(みなくち)は東海道五十三次の50番目の宿場です。
交通の要所であるこの地にはかつて水口岡山城という山城が築かれていました。

やがて、江戸時代になり太平の世となると山城は必要なくなり、代わって将軍上洛の際の宿泊地が必要となりました。
そこで岡山城を廃し、あらたに平城を築いたのが水口城です。

将軍家の旅館ゆえ本丸御殿は二条城を模した豪華な造りだったそうです。
もっとも、将軍の宿舎として使われたのは、1回限りでした。

1682年(天和2年)に水口藩が成立し、加藤明友が入りましたが本丸御殿は使用しなかったそうです。

水口城は本丸と管理施設である二の丸がありましたが、二の丸の跡は確認することができませんでした。
本丸は凸型をして、その飛び出た部分(出丸)が「水口城資料館」となっています。

本来、本丸の四隅にあった矢倉の一つをここに復元しています。

竹下政権のふるさと創生事業+αで建てられたそうですが、なるべく当時の木材を使用することに心がけられたそうです。

御殿があった部分は県立水口高校のグランドとなっていました。

しかしながら周囲の堀は残っています。
さらに乾矢倉の石垣は綺麗に残っています。

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高石垣散策 (2019/09/27 訪問)

 2度目の登城です。高石垣が見事な城址ですが、他の石垣もよく残されています。ただ堀側から高石垣を見ようとすると生い茂った木が邪魔して十分見れません。

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音羽北城 (2019/09/26 訪問)

 音羽氏城の近くの倉庫の裏から登城しました。
案内板もなく登城路もあまり整備されていませんが単郭で石垣があってであろうと思われる石がごろごろ転がっています。土塁も見ることがでいます。

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音羽氏城 (2019/09/26 訪問)

 三重県伊賀市にある城で「マップからお城を探す」には載っていませんが、「廃城をゆく ベスト100城」という本に掲載されていましたので行って来ました。登城口には新しい案内版があり、道も概ね整備されていて歩きやすかったです。城は単郭で三方に大土塁があり、北側は高くなっています。この虎口と北側の土塁にも石が積まれた箇所があります。背後には空堀も見ることができ楽しめる城址です。

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城好きのメガネ

「東国無双の名城 玉縄城」 (2019/09/28 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
玉縄城は、三浦半島を本拠とする相模国の最大勢力である三浦氏を攻略するために、伊勢宗瑞が築いた城である。玉縄城は、扇谷上杉氏の後詰を阻止し、三浦氏との連携を遮断する役目を担った。三浦氏は支援を受けられないまま、滅亡した。二代目、北条氏綱は、北条氏時、北条為昌を城主とし、後北条氏の戦略拠点となった。北条為昌の死後、氏綱の養子となった北条綱成が城主となり、氏繁、氏舜、氏勝とつづく玉縄北条氏は小田原北条氏を支える有力な一門衆として活躍した。また、玉縄城は上杉謙信に「この城、東国無双の名城なり」といわしめるほどの堅城で、約80年にわたって一度も落城しなかったとされる。小田原征伐では、城主の北条氏勝は玉縄衆を率いて山中城を守備した。山中城を脱出した氏勝は、玉縄城で籠城。徳川家康の説得により、無血開城し、玉縄北条氏は滅亡した。

*主郭周辺は、清泉女学院中学高等学校の敷地内であるため見学は不可である。植木方面から陣屋坂を経由して、太鼓櫓、城碑、七曲坂、龍寶寺(玉縄北条氏の菩提寺)、玉縄ふるさと館、玉縄首塚の散策をオススメしたい。

<アクセス>
JR大船駅 徒歩20分

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