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イシテル

三河屈指の堅固な山城 (2019/01/25 訪問)

主郭・二の曲輪を守る数々の腰曲輪と竪堀、それに連なる尾根上に配置された各曲輪。
想像していた以上に大規模の山城であり、また各遺構も整備され綺麗に残されています。
主郭・二の曲輪は何段もの腰曲輪、帯曲輪で囲まれており、物見曲輪も造られ、軍事的要地として固く守られていたことが良く解ります。登城道も遊歩道として整備され、非常に歩き易く慣れていない方にも楽しめる山城です。
名電山中駅で降り、歩いて登城しました。登城口(舞木口側)は、思っていたより駅から近く、15分ほどで到着。
獣除けの柵の扉を開け中に入ると遊歩道となっており、登り始めから、これも15分も掛からずに尾根に配置された曲輪群に辿り着きました。約1時間ほど各曲輪を廻って遺構を堪能し、東尾根の曲輪に戻り途中で山中八幡宮側の登城口へ向かい下城。山中八幡宮でお参りをして帰りました。山中八幡宮は徳川所縁の神社で三河一向一揆で門徒に追われた家康が隠れた洞窟「鳩ヶ窟」があるそうです。
今回は舞木口から登城しましたが山中八幡宮をお参りしてからこちら側の登城口(神社の駐車場有)を登るのも良いかと思います。
舞木口側の登城口近くにある山中城用駐車場と山中八幡宮側登城口の写真をUPしておきますので、これから登城される方が参考いただければと思います。
遊歩道、山城の各遺構を整備いただいている地元の方々に感謝致します。

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ぴーかる

松坂城 (2020/01/04 訪問)

【百名城50城目】
<駐車場他>城跡横の松阪市駐車場無料
<交通手段>車

<見所>天守台・石垣・城番屋敷
<感想>新春1泊2日伊勢攻め城の旅4城目。約5ケ月ぶりの百・続百名城の攻城。蒲生氏郷の石垣造りの城を見るのは初めてで、いつも以上にアドレナリン出まくりの中訪城、期待通りのいい石垣遺構でした。まず表門から資料館にて押印と御城印購入、資料館には松坂城の古写真や金箔鬼瓦等が展示されています。資料館自体も明治時代に建てられたものなので文化財になっている。資料館後に二の丸(陣屋跡)、裏門跡・隠居丸跡石垣を見て本丸跡へ。
 天守台は本丸上段の西隅にあるが、入口階段はきたい丸という広い郭側にあり、きたい丸・帯郭と合わせると天守はど真中にある感じになり蒲生氏郷の城造りの意向が読取れた。また天守階段最上段に古墳の石棺蓋が使用されていた遺構は知らなかったので新知識が増えた。きたい丸から北側に抜けて藤見櫓跡、きたい丸の帯郭から石垣を観察、ここの石垣も11~12㍍程はある高石垣で見応えある。またきたい丸西側の帯郭には土塁が見られる。その下方は石垣でなく切岸になっていた。
 きたい丸南側から隠居丸南側に抜けて二の丸の石垣を観察、東側の太鼓櫓石垣に「すだれ」のある石垣がある。織豊期にも化粧の石垣はあったのだろうか、後からつけたものなのか江戸期に造りなおしているのかちょっと疑問に思った。東側の長石垣も見応えある。
 城跡をひとめぐりした後城番屋敷を見学、長屋で一軒だけ見れてあとは個人宅になっているのでした。米蔵も現存で内部非公開でした。ここを見て終了、本居宣長館には行かなかった。
 松坂城は安土城を真似たと言われるが、松坂城の方が郭の削平地が広く郭の土居を石垣で囲む等してあまりそうは思わなかった。中心部の郭配地は似ているかも。これにて百・続百名城の伊勢国制覇、攻めも50/100城目で後半戦も楽しむぞ。

<満足度>★★★★☆

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こるまろ

初めての広島城 (2011/01/22 訪問)

広島城初訪問は出張のついでに観光気分で。

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カルビン

獣の鳴き声(汗) (2020/01/25 訪問)

秩父北部には行きたいけど熊出没の可能性大の山城が多くて出足鈍ってましたが、1ヶ所山城ではないものの交通の便が悪い険地にある諏訪城に行っていなかったので、今回行ってきました。

西武秩父駅から和同黒谷方面行バスで下小川バス停下車、そこから徒歩10分ちょっとで諏訪城に到着。

道中は秩父鉄道線沿いで民家もありますが、城域となる諏訪神社付近は無人区域となります。
しかも2つの川に囲まれた嶺の突端になる為、いきなり人外地区になりまして・・・

冬季なので全然気にしていなかったのですが、諏訪神社と諏訪城の解説があるところまで入ったところでいきなり獣の大きな鳴き声が(驚)
以前山梨県の武田八幡宮にて見た熊の鳴き声そっくりだったのでかなり焦るも、その後気配が無かったので周囲を警戒しつつ大きな音を立てながらダッシュで神社裏の崖上突端の段曲輪を確認して戻りました ε =(ーωー;)

今回は姿を見ていなかったので違ったかもしれませんが・・・近年冬眠しない熊の出没件数多いみたいなので対策はしっかりしていないと危ないですね(汗)

諏訪神社近辺は天然の要害なので曲輪以外に遺構は見当たらなかったものの、その手前の地区に食い違い虎口や堀・土塁形状等諏訪城の遺構と思われるものが見られました。
やはり冬枯れしきれず撮影に耐えがたい場所も多く、写真では伝わり辛いのが残念なところ・・・


諏訪神社には駐車スペースあったものの、車で行くには道中の道が細いので厳しいかもしれません(軽自動車ならなんとかなるかも)

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ヒロケン

また行かんといかん(;´д`)トホホ (2013/01/29 訪問)

角牟礼城跡は標高576mで、天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩盤で囲まれている。角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として玖珠郡衆により守られていた城である。天正十四年の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった城として有名です。
文禄2年には豊臣秀吉が文禄の役で失態をおかした大友義統を徐国し、翌年に毛利高政を入部させた。関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島氏が入部する。しかし、来島氏は1万4千石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、角牟礼城はそのまま放置され長い歴史の幕を閉じています。

平成5年から発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口、大手門と搦め手門に同じ規模の門跡、また、二の丸には礎石建物が発見されている。(2013年の現地案内板より抜粋)
三の丸跡まで車で行け、見所満載ではありますが、撮影時間を入れても1時間もあれば、城跡を一周することができます。(車で登城した場合です)

2013年1月29日現在では、石垣・三の丸跡・井戸跡・曲輪が良好に残り、搦め手門跡から続く石垣はこの城の最大の見所です。2013年の情報ですが、皆さんの投稿を見てもあまり変わっていない印象があります。
残念なのが、自分の登城後に続百名城に選定されていることから、スタンプ集めに再登城しなければなりませんが、今年の長期連休ゴールデンウィークも盆休みも行く所が決まっているので、再登城がいつになるか(;´д`)トホホ。

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todo94

聚楽第の遺構 (2020/01/12 訪問)

東西の濠跡付近にそれぞれ石碑が建っています。特に西の正親小学校には説明板もあります。この日の午後、京の冬の旅特別公開で大徳寺で国宝の唐門を拝見して参りました。聚楽第の遺構とのことです。残念ながら写真撮影禁止ですが。

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朝田 辰兵衛

水圧鉄管ワキの巡視路が“登り石垣”だったら萌えるのに…。 (2020/01/25 訪問)

だいたいどこの水力発電所も,ヘッドタンク(水槽)~発電所間の水圧鉄管周辺というのはマムシの居住区となっております。さらに,ここはクマ出没の危険性もあります。夏場の蜂や蚊は当然なくらい。今が登城ベストシーズンです。ちなみに来週は隣の金谷山でレルヒ祭が開催予定ですが,雪が全くありません。
主郭南西側にも登城口がありますが,パネル等の撮影がしたかったので,主郭東側より登城しました。
アプローチは,先日のほむほむさんの書き込みで充分ですので割愛させていただきます。
標高:283m,比高:235m。
水圧鉄管ワキは左を通りますが,ヘッドタンク(水槽)から山頂までは右回りで。
電気関係従事者は,全くリフレッシュできない…と,思われる登城ルートです。

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宗春

龍岡城 (2020/01/24 訪問)

お城としての見所は堀ぐらいのものですね。
中は学校になっているので入るのに気が引けました。

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宗春

小諸城 (2020/01/24 訪問)

駅から近く、散策には丁度良いお城でした。

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ds042047

出張がてら、ホテルから (2016/12/03 訪問)

時間あれば…

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ds042047

(2017/11/03 訪問)

大雨によりゆっくりできず…

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姫街道

太田川沿いにある堅固な山城 (2020/01/25 訪問)

天方城は本城と新城があり、しっかりと勉強しなければならないのだが、今回は新城へ行った。麓からの道中が険しく長いため日没が迫りに不安になったが、着いてビックリ。非常に整備が行き届いた公園となっており、一つ一つの縄張りが大切に保存されていた。
ここは何と言ってもロケーションが最高!見晴らし台が整備されており、さらには、見晴らし台から眼下が見渡せるように適切に伐採が行われてあった。山城にあって伐採された姿は当時の姿であり、本丸から眼下を見渡して当時の状況に想いを馳せる事は、凄く楽しい。

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姫街道

縄張り完成度の高い城 (2020/01/25 訪問)

社山城から飯田城へと夕暮れ時足早にまわる。飯田城や天方城は、遠州の小京都と呼ばれる森町の管轄。森町は、時代を問わず歴史的遺産に対して整備が行き届いている気がする。こと、飯田城はまさに縄張り完成度が高い城!縄張りの一つ一つに管理番号を付けて表記してあり、現地で全体図との整合性が取りやすい。適切に伐採がなされているため主曲輪からの眺望も良い。古城と新城があり地元の豪族である山内氏の城作りの特徴的雰囲気も伝わってくる良い城だ。古城から新城をつなぐ街道なのか車で新城まで行く事ができる道路として整備しつつあるが、旧街道沿いにあったであろう石碑を残しつつ道路整備をしているのも良かった。

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くっしー

石碑があるだけ (2020/01/25 訪問)

室町時代に橋本氏によって築かれた城らしいです。
現状、遺構は消失しており石碑がたっている。
石碑の北に神明社が建っているが、その一帯が城だったらしい。

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赤い城

公園に石碑があるのみ (2020/01/25 訪問)

倉賀野駅から徒歩で10分。
雁児童公園が跡地で石碑と説明板が立っています。
遺構はありません。
烏川の蛇行したところに位置していて自然の堀になっていたようです。

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姫街道

天竜川渡河点の城塞 (2020/01/25 訪問)

我が家から最も近い山城。夕暮れ前にお散歩がてらに初登城。上洛を目指す武田信玄の本陣が一言坂の戦い後、社山城→亀井戸城→二俣城と攻略して行ったのであろう。登城すると木がおいしげって隙間からしか下界が見えないが、当時は眼下に天竜川、約7km先の二俣城まで見渡せただろう。諸説あるようだが、一連の二俣城攻略を信玄公は亀井戸城ではなく、この社山城から指揮を取ったのではないかと私は想像する。なぜなら、武田信玄が陣を張ったと言われる社山城から2キロほど北に行った合代島地域は、つい最近まで北東に鬱蒼とした山を抱えており、奇襲攻撃を受けやすかったと思うからだ。しかも信玄は病持ち。難行不落の二俣城を落とすのを見届けたら、天竜川渡河点の城塞として築かれたこの城からさっさと天竜川を渡って西に急ぎたかったはずだ。徳川対武田の攻防図からも、何となくそう感じる。社山城の縄張りは、典型的な中世期の山城でわかりやすい。
PS.次の日亀井戸城も行ってみた。今は城の面影も寂しく、社山城に比べるとこじんまりとしている。ただ、地元の人に聞くと一般的に言われている位置と違い、もっと高い位置にあったそうだ。これからの発見を期待したい。

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くっしー

二つの有名な戦いで戦場に。 (2020/01/25 訪問)

小牧・長久手の戦いと関ケ原の戦いで戦場となった城です。
遺構は残っていないようです。
看板の後ろに写っているお城風の建物は、羽島市歴史民俗資料館です。

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くっしー

別の城に向かう途中、偶然見つけた・・・亘利城 (2020/01/25 訪問)

なんか、看板がたっているから何かと思って車を止めると…城跡の説明が!!
尾張国葉栗郡松原島村(現:岐阜県各務原市)にあった城で、土岐頼芸の家臣・松原源吾と松原内匠の兄弟が築いたそうです。
まあ、「城屋敷」という地名に残っているだけで、遺構は消失しているみたいですが…

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TAKO

名古屋城夜会 (2020/01/02 訪問)

夜の名古屋城も趣きがあって良かったです。

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姫街道

武田氏時代の山城、徳川時代の平城 (2020/02/09 訪問)



諏訪原城が楽しくては5週連続で通ってしまった。やはり、武田時代と徳川時代の両方がその特徴を生かして現在しているところが本当に魅力的だ。いくつか自分の中で課題があった。まず武田時代だが、今は一騎掛けになっている土橋がどうやって本曲輪に行ったかについて。竪土塁を経由して水の手曲輪に出ただろうと実際に歩いてみて感じた。諏訪原城には非常に堅固な出曲輪があり、当時の出丸は出曲輪の後方支援の役割もあったのではないかと想像する。城山延命地蔵尊参道入口から出曲輪にも行ってみたが、非常に堅固で要塞だ。東から来た敵は出曲輪で撃退出来るくらいだ。諏訪原城は西から見れば平城だが、東から見ればまさに武田の山城そのもの。東斜面ゾーンが整備されて、見事な内堀や縦堀を見る事ができる。諏訪原城を東斜面から見上げると、作手町で見た古宮城そっくりだった。ニの曲輪東馬出やニの曲輪南馬出し付近から鉄砲弾が発見されているのも魅力的だ。次に徳川時代だが、ニの曲輪北馬出の復元した門の位置関係がどうしても納得いかなかったが、先月末に島田工業高校から素晴らしいジオラマがビジターセンターに寄贈され、一目瞭然で理解した。1573年に信玄公が亡くなった年に築造された城なので、いわば全盛期の武田方の築城技術が結集された山城で整備も常に行われており、本当に素晴らしい史跡だ。

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