当初駐車予定の城山公園駐車場(35.813139、139.603496)が早朝(5:20くらい)だった為、ロープが張られて駐車不可。公園の周りをウロウロしながら、入口付近に妻を車に残し路駐して攻城。
2郭➡1郭➡3郭と駆け足で廻り妻のいる路駐場所へ。遊歩道が整備されているので歩き易いです。1郭と2郭間の堀切が見所だと思います。攻城時間は20分くらいでした。(妻と路駐が気になって早く戻りました。)
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2020/09/29 10:25
妻と二人で巾着田と筑波山巡り (2020/09/28 訪問)
当初駐車予定の城山公園駐車場(35.813139、139.603496)が早朝(5:20くらい)だった為、ロープが張られて駐車不可。公園の周りをウロウロしながら、入口付近に妻を車に残し路駐して攻城。
2郭➡1郭➡3郭と駆け足で廻り妻のいる路駐場所へ。遊歩道が整備されているので歩き易いです。1郭と2郭間の堀切が見所だと思います。攻城時間は20分くらいでした。(妻と路駐が気になって早く戻りました。)
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2020/09/29 08:13
若江の戦い (2020/09/13 訪問)
南北朝期に河内守護となった畠山基国が守護所として、また南朝方への備えとして築城し、遊佐氏が代々城主を務めました。その後、畠山政長、義就ら畠山氏の内紛の舞台となり、三好義継が城主の時には京を追われた足利義昭を迎え入れたりしましたが、佐久間信盛に攻められて落城。石山合戦での織田信長の拠点となった後、本願寺との和睦により八尾城に機能を移して廃城となったようです。
若江公民分館あたりが主郭、若江小学校も城域に含まれ、発掘調査により堀や土塁、石垣、井戸、礎石建物が確認されていますが、地表面に見られる遺構はなく、若江公民分館に説明板と石碑(見落としました…)、南側道向かいに石碑が見られるくらいです。
…と、これだけでは見どころに欠けるので、周辺の大坂の陣史跡めぐり(第9回)を。
このあたりは夏の陣の若江の戦いの古戦場で、河内方面から迫る幕府本軍を迎撃すべく木村重成や長宗我部盛親らが出陣、木村隊は若江に布陣し、藤堂高虎隊の先鋒を打ち破るも、続く井伊直孝隊の猛攻を受けて木村重成は討死、木村隊も壊滅しました。
若江公民分館から南に徒歩2分の蓮城寺には木村重成の位牌を安置する霊牌所があり、蓮城寺から南東に徒歩6分の第二寝屋川南側の公園には木村重成の墓があります。また、木村重成の墓の川向かいには木村重成に討ち取られた山口重信の墓があり、近鉄・若江岩田駅南側の商店街の先には、山口重信に討ち取られた飯島三郎右衛門の墓があります(ただし、現地では見つけられず、帰宅してからストリートビューで確認)。かつては近隣に木村重成像もあったようですが、今はなくなっているようです。
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2020/09/28 22:27
出丸と西ノ丸が伐採され、更に石垣が素晴らしい秀次の居城 (2020/09/27 訪問)
山城と居館からなる豊臣秀次の居城です。
久しぶりに行きましたが、山上では西ノ丸から琵琶湖が望め絶景でした。
出丸と西ノ丸が伐採され石垣が見られるようになっていて驚きました。
本丸下は全周が高い野面積で見応えありました。
特に北東側が良かったです。
本丸は秀次の菩提を弔うための瑞龍寺となっていて、枡形虎口があります。
山麓の秀次館は、最上段の石垣は大きい石が使われていますが草木で見辛かったです。
竹藪の中の石垣は竹の間からそれなりに見ることができ良かったです。
ただ夏は蚊が多く、直ぐに撤退させられました。
下山後に麓からも出丸と西ノ丸の石垣がよく見え、これぞ城山って感じでカッコいい姿でした。
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2020/09/28 20:20
三成に 過ぎたるものが 二つあり (2020/09/21 訪問)
佐和山の城に 島左近
と詠われた佐和山城。彦根城築城のため佐和山の石垣がほとんど利用され、僅かに隅石垣が残る程度。
麓に佐和山城天守の模型がありますが、江戸時代の古絵図のため信憑性は低いです。
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2020/09/28 20:06
♪美・米原 美・米原 (2020/09/21 訪問)
番場地区に駐車して高速ゲートをくぐり登城。
鎌刃城まで2kmとありますが比較的ゆるやかなコースなので心折れる事なく行けます。(むしろこの後行った佐和山城のほうがキツかった…)
何より鎌刃城の遺構を見ると疲れも吹っ飛びます。
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2020/09/28 19:53
竹中陣屋 (2020/09/20 訪問)
今回菩提山へは日没サドンデスとなる為、諦めて竹中陣屋のみ。
陣屋とはいえ小さな城規模はあろうかと
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2020/09/28 19:46
夏草や (2020/09/20 訪問)
夏草が石垣を覆いつくして隅石垣しかハッキリと確認できませんでした。
内側は土塁。外側は野面積みの石垣。
外枡形の形状です。
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2020/09/28 19:37
持船城 (2020/09/20 訪問)
【持船城】
<駐車場>山の中腹に専用駐車場あり。
<交通手段>レンタカー
<見所>堀切・曲輪・石垣?
<感想>GoTo静岡1泊2日攻城の旅2日目、3城目。この辺り一帯の地名である用宗は持舟→用船→用宗と変遷していったそうで、戦国時代に水軍の湊だった由来からきていることがわかる。東海道の山側丸子城と並んで、海側の街道の要衝であったようです。今川氏によって築城→武田氏→徳川氏→武田氏→甲州征伐で徳川氏、のち廃城と奪い奪われの城だったことがわかる。自分が思うに、街道の要衝というより駿府の西、安倍川の西側の湊と舟をとりたい、押さえたい為のものだったかと考える。
城跡は用宗浅間神社脇道から車で上がれます。中腹に専用駐車場の看板があるのでそこに駐車しました。間口が狭いので大きい1BOXや大きいRV車はきついかもしれません。中腹から舗装道を徒歩で登っていくと階段の登城口があります。階段を上がるとすぐ腰曲輪っぽい所がみかん畑になっていて石垣遺構?とみられるのがあります。のちに本丸~二の丸間の堀切にも同じ落し積みのような石垣遺構があったのでたぶんそうじゃないかと思われます。主郭は東西に伸びた広い楕円形、土塁遺構は特には見られなかった。新幹線がこの山を突っ切っているので、ここからの眺望は鉄道ファンの撮影スポットでもあるようです。本丸西側に二の丸があり堀切で区切っている。堀切の北に井戸跡があり、主郭側に石垣遺構が見られます。二の丸へは入れる道が見当たらない為行けずでした。主郭・二の丸の北側が未整備で入り込める状態ではなかったが、いい遺構が埋もれているのではないかと思った。二の丸南側の側道を通り、二の丸の腰曲輪が2つ程がある。この辺は畑にでもするのか草が刈られてきれいにされていた。
<満足度>◆◆◇
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2020/09/28 19:25
天文の乱の前と後。 (2020/09/21 訪問)
山形県の「洲島城」、どなたの投稿もなかったので、一番乗りしてみました。
天文の乱の前が、伊達 稙宗さんの家臣 冨塚氏の所領。後が、伊達 晴宗さんの家臣 湯目氏の居城になったそうです。
天文の乱は、いわゆる伊達 稙宗さん・晴宗さんの親子ケンカです。1542年~1548年の約6年間、もめます。ちょっと、ざっくりすぎですが、、、。
息子の晴宗さんが勝利したのですね。
Googleの道案内で到着した場所は、土塁?
一ヶ所だけ高くなった場所に祠がお祀りしてありました。周りは雑草。近づくと写真④があります。
きっと「洲島城跡」と書いてあったにちがいない!
近くに掘跡っぽい所があったのですが畑になっていました。しかも作業中です。
一番乗りと意気込んだわりに、お薦めポイントが弱い「洲島城」です。
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2020/09/28 17:58
2020/09/28 16:50
2020/09/28 14:48
2020/09/28 14:39
2020/09/28 11:42
天守が残念 (2020/09/17 訪問)
城のふもとからは素晴らしく見え、二の丸、天守曲輪までの立派な石垣でしたが、
あの天守は残念でした
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2020/09/28 08:52
道明寺・誉田の戦い (2020/09/13 訪問)
1月以来の大坂の陣史跡めぐり(第8回)は夏の陣の道明寺・誉田の戦いを。
大和方面から迫る幕府軍(水野勝成、伊達政宗ら)を河内平野の入口である国分村で迎撃すべく後藤基次、真田信繁、毛利勝永らが出陣するも、濃霧のため真田ら後続隊の到着が遅れ、幕府軍はすでに国分村に集結していたため、後藤隊は単独で国分村を見下ろす要衝・小松山に布陣し、10倍を超える幕府軍と対峙。奥田忠次を討ち取り、攻め寄せる幕府軍を何度も撃退するなど奮戦しましたが、8時間に及ぶ激闘の末、負傷した後藤基次は吉村武右衛門の介錯により自刃しました。
遅れ到着した薄田兼相、明石全登らは道明寺において幕府軍を迎え撃つも、薄田兼相は勇戦むなしく討死、残りの部隊は誉田村に撤退しました。そこにようやく真田、毛利ら後続隊が到着。戦線を立て直し、誉田八幡宮付近に布陣した真田隊と伊達軍の片倉重綱(重長)隊との間で激戦が繰り広げられました。そして、戦いが膠着状態になったところに八尾・若江での豊臣方の敗報を受け、豊臣軍は真田隊を殿軍として天王寺方面に撤退。真田信繁の「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」はこの時の言葉ですね。
小松山は現在の玉手山あたりとされ、玉手山一号墳の南西麓には石碑や説明板、後円部には奥田忠次の墓地があります。また、玉手山公園の歴史の丘には後藤基次と吉村武右衛門の石碑や説明板があり、その奥には大坂夏の陣両軍戦死者供養塔がある……はずですが、こちらはうっかり見逃してしまいました。
第二の戦場、道明寺は現在の道明寺天満宮のあたり(道明寺は明治の神仏分離令によって西隣に移転)で、近鉄・道明寺駅前には道明寺合戦記念碑と説明板が設けられ、駅から南西に徒歩12分の畑に囲まれた一角には薄田兼相の墓があります。
誉田八幡宮には誉田林古戦場址の石碑と説明板があります。大坂夏の陣だけでなく、南北朝初期には楠木正行と細川兄弟、室町中期には畠山政長と義就、畠山稙長と義英との間で再三戦場となった地のようです。
古戦場の痕跡はないものの、石碑や説明板はあちこちにありますし、何より小松山から河内国分駅越しに大和口を見渡していると、眼下を埋め尽くす幕府軍を前に、後藤又兵衛はどんな思いだったのかな……と往時に思いをはせるひと時でした。
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2020/09/28 06:52
日帰り志摩半島ドライブ (2020/08/04 訪問)
登れる灯台スタンプラリー目的の志摩半島行き。朝駆けで攻城してみました。城址碑や説明板は見つけられませんでした。東西両側の入口に通行止め表示がありましたが、東側の道には土砂崩落はなく通行可能です。回り込んで山中にも分け入ってみましたが、全くの未整備でした。
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2020/09/28 00:28
縄張りと歴史的に印象が強い城 (2020/09/18 訪問)
大きな三日月堀の丸馬出を含めて大きな堀で曲輪を区切った縄張りが素敵な
武田の戦いの城といった印象を持ちました。
1582年の甲州征伐で織田軍が攻めてきた時に戦わず城を捨てたという話。
最後に武田が滅んだ結末と合わせとてもインパクトがあり行ってみたかった城です。
いい雰囲気の城でした。
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2020/09/27 23:59
南北朝にも絡んだお城 (2020/09/21 訪問)
南朝方の拠点にもなったようです。
周囲が田畑の中、比高が数mと低い丘になっています。
周囲に堀もあり曲輪として認識できますがなかなかのどかなお城です。
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2020/09/27 23:47
飛騨の城跡へ行こう!2020 「中井均先生と歩く!高原諏訪城探訪」 (2020/09/27 訪問)
飛騨市主催のイベントに参加してきました。
午前が、滋賀県立大学の中井均先生と一緒に高原諏訪城を探索。午後は公民館で「高原諏訪城を考えるー縄張りから見た江馬氏館との関係ー」と題した講演会でした。
高原諏訪城は竪堀・堀切がはっきり残っています。それから、中井先生が絶賛されていたのが「切岸」。非常に急こう配になっていて現状でも登るのは難しいですね。土のお城として非常にレベルのたかい城です。それから注目は、主郭からの眺めがめちゃくちゃ素晴らしい。保存会の方たちが丁寧に整備をされているそうで、30分かけて登るだけの価値ありです。また主郭から江馬氏館が見えます。高原諏訪城と江馬氏館がセットであることの証といっていいと思います。
さて、午後の講演会ではその江馬氏館との関係が話題となりました。江馬氏館は発掘調査の結果、16世紀の前半までしか使われていなかったことが分かっています。一方で、高原諏訪城は1582年に落城したとされています。セットであるはずの江馬氏館は約50年前に廃絶していたのに高原諏訪城は16世紀末まで使われていた。これはどういうことなのかということに対していくつかの仮説が提示されていました。中井先生によると江馬氏館移転後は実用的な城というよりは、先祖伝来の地として維持され続けたのではないかということでした。ただこれは、まだまだ議論の余地があるみたいですね。
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2020/09/27 23:17
模擬天守ですが見栄えがする。 (2020/09/27 訪問)
別名「東町城」、戦国時代の国人である江馬氏が築城した城ですが、この天守は全く当時のものとは関係ありません。でも、段丘上にあって下を流れる高原川が見渡せます。逆に街から見上げると築50年で、なかなか趣がありますよ。結構、批判されている人もいますが、モニュメントとしてこれはこれでありかなと思います。
空堀など縄張もなかなか見ごたえがあるなと思いますが、いつの時代のものですかね?江馬氏の時代の遺構が残っているのか、それともその後に入った金森氏のものか。そもそも、江戸時代の初めに廃城となって以降の状況はどこまで残されているのか。近くに国史跡にもなっている江馬氏館との関係はどうなっているのか。いろいろと考えさせてくれる城跡です。
隣に駐車場がありますが、スカイドーム神岡という道の駅から歩いても5分です。
鉱山資料館と旧松葉家もセットになっていますので、こちらも一緒に観られるといいと思います。
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