坂田城から転戦。車で25分くらいで着きました。
総門下手前の空きスペース(35.742052、140.528127)に駐車して攻城しました。
正しくは、飯高壇林南駐車場または飯高壇林北駐車場を利用することをお薦めします。
飯高城は平山刑部少輔常時の居城として知られています。
平山氏についての詳細は不明ですが、北条氏の家臣である武蔵平山氏がこの地に封じられたのではないかと推測されています。
1580年(天正8年)に、日蓮宗に帰依していた平山常時は日生上人を招いて城内に学問所を設けました。
平山常時の息子・常吉は1590年(天正18年)に飯高城を蓮成院日尊に寄進し川島蓮成寺に隠居。蓮成院日尊が開いたのが、飯高檀林です。
飯高檀林は日蓮宗最古の学問所といわれており、江戸時代には徳川光圀もたびたび参詣しています。
現在城址は飯高寺の境内となっており、土塁や枡形虎口などの遺構を確認することができます。
飯高檀林
1573年(天正元年)要行院日統(ようぎょういんにっとう)が匝瑳市飯塚の光福寺に学室を開いたことが檀林の前身とされています。
後に京都から教蔵院日生(きょうぞういんにっしょう)を招き、1579年(天正7年)に土地の有力者平山刑部の後援をえて学室を当地の妙福寺に移しました。
これが飯高檀林の発祥で、僧侶の教育と宗学を研究しきわめることを目的として開設され、1580年(天正8年)には現在の土地に移されました。
その後、家康の側室、お万の方の帰依が厚く、生母の意を汲んだ紀伊頼宣、水戸頼房の寄進により、規模が整えられました。
境内建物の配置上の中心が、多くの寺院に見られる「本堂」ではなく「講堂」となっている点に特徴があり、これは僧侶の養成・教育機関としての寺院の機能がそのまま境内配置にあらわれた結果だそうです。
学問所として開かれた飯高檀林も、1872年(明治5年)の「学制」発布により1874年(明治7年)に廃檀となり、294年間の長い歴史を閉じました。
城跡としてだけでなくお寺も立派で、講堂、鐘楼、鼓楼、総門が国指定重要文化財に指定されています。
攻城時間は25分くらいでした。
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