王子神社から無理矢理登ってみました。堀切、郭らしきものを視認いたしましたが、説明板や標柱など、現地の表示は何もなかったのでなんとも言えません。一応、これが2015年に攻略した十神山城に次いで尼子十砦の2城目になります。
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2021/04/08 06:43
尼子十砦2城目 (2021/03/27 訪問)
王子神社から無理矢理登ってみました。堀切、郭らしきものを視認いたしましたが、説明板や標柱など、現地の表示は何もなかったのでなんとも言えません。一応、これが2015年に攻略した十神山城に次いで尼子十砦の2城目になります。
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2021/04/07 22:31
綺麗に整備された城 (2021/04/03 訪問)
城址北側に駐車場があり、説明板もあります。
駐車場にパンフレットが置いてあります。
駐車場脇から登ると北の丸、更に進むと北下段と本丸の間に堀切があります。
二の丸、高見とよく整備されていて歩きやすい。
大手門に周り、東の丸方面に登っていくと竪堀や堀切も確認できます。
全体的によく整備されています。
個人的には本丸と東の丸の間の堀切が良い感じ。
地元の武将、久野氏の居城で久野氏が関東移封後は豊臣家臣の松下氏、徳川時代には北条氏重が治めた城です。
地元の方が力を入れている感じがよくわかりました。
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2021/04/07 20:47
お城公園っぽくなってきた (2021/01/24 訪問)
かつて駐車場だったところに施されたカラー舗装はよく見ると埋もれた堀の平面復元のようだ。中世浜松城の想像復元図も大きく掲示されているし、周辺施設がなくなってから一気にお城公園っぽくなってきた。
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2021/04/07 14:07
2021/04/07 08:51
一日まるごと小谷城(主郭部詰丸) (2021/03/14 訪問)
(続き)
大堀切の先は中丸。南北三段の曲輪で構成され、あちこちに石垣が見られます。上段北東部には刀洗池と呼ばれる井戸跡があり、その脇を登って行くと京極丸に至ります。京極丸は大広間に次ぐ規模の曲輪で、浅井氏の庇護下にあった近江国守護・京極氏の居所があったとされ、東辺を巨大な土塁で守っています。京極丸から西下を見下ろすと大きな帯曲輪があり、石塁で築かれた枡形虎口がある…んですが、切岸は急で高さもあり、下りられそうにないので中丸まで戻って行ってみました。帯曲輪の南西部に苔むした石材が散乱しており、この虎口が羽柴秀吉が攻め上った清水谷からの水の手道に続いています。
京極丸の一段上が浅井久政が自刃したとされる小丸で、東西二段の曲輪で構成されています。さらに上って行くと、崩された石垣が目に飛び込んできて、その前を東側に回り込むと大石垣と呼ばれる小谷城最大の石垣が状態よく残っています。崩された石垣を乗り越えて進んだ先が主郭部の詰めの丸にあたる山王丸で、最高所の土塁にも石垣が見られます。
南東尾根の主郭部はここまでですが、小谷城はまだまだここでお終いではありません。(続く)
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2021/04/07 06:48
2021/04/07 06:23
東京近郊11城巡り⑪:白金館 (2021/04/01 訪問)
東京近郊11城巡り11城目(ラスト)は白金館です。
目黒駅より徒歩10分ちょっと位で自然教育園内の土塁前(35.637133、139.721202)に着きました。
応永年間(1394~1428)に、柳下上総介という人物がこの地に館を築いたとされます。
上総介は、のちに白金長者と呼ばれるほどの財を成したとされるが、柳下氏と白金館に関しては、これ以上のことは分かっていないようです。
比定地周辺は、江戸時代に高松藩の下屋敷となり、明治維新後、屋敷の跡地は軍の火薬庫に使用され、戦後は国立自然教育園と東京都庭園美術館となっています。
自然教育園の入園料は320円ですが、65歳以上の自分は無料でした(ラッキー)。
お客さんの多くが植物を熱心に観察し写真を撮っていますが、自分は土塁の写真を撮って撤収です(すみません、植物に興味はありません)。
城びとでは遺構は消滅となっていましたので、自然教育園内の土塁は後世のものなのでしょうか?
攻城時間は25分くらいでした。
今回の歩行歩数=40144歩、歩行距離=31.31Kmでした。(2021/03/24の38527歩、30.05Kmを越えましたが、今回は筋肉痛ありません)
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2021/04/06 22:39
城さんぽ (2021/04/06 訪問)
竹田城へ登って、降りてきて、
立雲峡からも少し見る。
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2021/04/06 21:58
コロナで時間短縮でした (2021/04/03 訪問)
掛川駅から徒歩で10分。
車なら大手門駐車場が良いかと。
前回9時開門だったのでそれに合わせて行ったところコロナで開門は10時。
終わりも15時半の時短営業中でした。
なので天守には入れませんでしたが散り際の桜を見ながら周辺散策しました。
元は朝比奈泰能が築城、徳川期になると山内一豊が入り天守が築かれ近世城郭となりました。
この街のシンボル的存在。
最近は山城が多かったけど建物のある城も悪くないと思いました。
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2021/04/06 21:00
2021/04/06 20:46
かなりキツイです。 (2021/04/06 訪問)
本日訪れました。
階段を登り天神社の裏が初沢城になってます。
かなり急な坂道で、本丸があったと思われる頂上までは30分くらいかかります。
遺構は郭が少し残っているぐらいです。
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2021/04/06 20:39
結構広い山城です。 (2021/04/06 訪問)
本日訪れました。
整備されており、遺構も残っています。
途中から、男坂と女坂に分かれており男坂はかなり急。
先にビジターセンターに寄ってから案内図をもらってから見学すると楽しめます。
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2021/04/06 15:31
多忙な日々の中の癒やし (2021/04/05 訪問)
癒やされるなぁ
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2021/04/06 08:49
一日まるごと小谷城(本丸周辺) (2021/03/14 訪問)
(続き)
黒金門から大広間に入る前に桜馬場へ。東西二段の曲輪で、琵琶湖方面の眺望がひらけ、浅井氏及家臣供養塔や大河ドラマロケ地の案内板があり、南下には御馬屋が広がっています。西下には広い帯曲輪が北東にのびており、竪堀は麓まで落ち込んでいます。また帯曲輪には苔むした石が散乱しており、かつては石垣で覆われていたようです。
石造りの黒金門を抜けると大広間に至ります。小谷城最大の曲輪で、建物礎石があちこちに残り、北東部には石組みの井戸もあって、居住空間だった痕跡が見られます。大広間の北端には本丸の石垣がそびえ、本丸に上がっていくと南北二段になっており、天守に相当する建物が建てられていたようです。
本丸から下りて、東西の帯曲輪を経て奥に進もうとすると、本丸からの竪土塁が立ち塞がり(東側は通行止め)、その先の大堀切とで奥の曲輪群との間を断ち切っています。その大堀切、巨大とは聞いていましたが、カメラに両端をおさめるのに苦労するほどの幅広さで、圧倒的な土木量に唖然とさせられました。大堀切の東端まで行って、下を覗いてみると腰曲輪があるので、何の気なしに下りてみると、ここにもなかなかの規模の石垣がありました。これも下調べではわからなかったものなので、あるいは小谷城の至るところにこういう特段取り上げられない石垣があるのかもしれません。小谷城おそるべし…。
さらに大堀切を越えて(御局屋敷を見落としました…)、山王丸を目指します。(続く)
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2021/04/06 06:59
尼子十旗コンプリート (2021/03/27 訪問)
尼子十旗の第九旗・夕景城(馬木城)。2019年11月に攻城を断念した城です。県道沿いの標柱を確認して林道を上っていきました。沢を渡って尾根をガンガン登って行くと前回と同じ衝撃の光景が。進行方向右手に夕景城である矢筈山が聳えていたのです。またしても間違えた山に登ってしまったかと下って別の尾根筋に突入するものの灌木に阻まれ断念。指にとげまで刺さって心が折れてしまいましたが、冷静に考えてみるとこのあたりにいくつも山があるはずがない。もう一度、最初の尾根をとことん登っていくことにしました。ピンクのテープの目印がついているこの尾根は、大きく弧を描いて矢筈山に続いていました。遂に念願の尼子十旗コンプリートを果たすことができました。比高が500mほどもあり、下山時も迷って一筋縄ではいかない山城です。冬枯れかつ雪のない時期と攻城時期もかなり絞られてしまうかと思います。雨中や雨上がりなど無理な攻城はお薦めできません。馬木氏がこの城から移った小林城から、遠景を望むこともできました。車なら奥出雲おろちループに脚を伸ばすこともできますよ。私は道の駅で昼食を頂きました。
因みに、金言寺の城址碑は2019年11月に撮影いたしました。
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2021/04/06 06:38
東京近郊11城巡り⑩:目黒氏館 (2021/04/01 訪問)
東京近郊11城巡り10城目は目黒氏館です。
GPS座標の入力ミスにより、恵比寿駅より防衛省施設を一周して目黒川経由で目黒学院校門前(35.644416、139.702377)に着きました。徒歩25分位かかってしまいました。間違えなけく歩けば、10分ちょっとで歩けます。
目黒氏館は平安時代末から鎌倉時代初期にかけての武士目黒氏の居館とされ、目黒川と蛇崩川の合流点近く、字別所(目黒学院高校付近)に館があったとされます。
目黒氏館については、比定地が2つ存在します。原因は、『目黒区史』や『日本城郭大系』で「目黒高校」が館跡としているものの、目黒区内に「目黒高校」が2つあることにあるようです。
『大系』では、目黒高校の所在地を祐天寺1丁目としていて、ここには現在「都立目黒高等学校」があります。
他方、その解説のなかでは、館の位置について「恵比寿方面から張り出している台地が西進して目黒川とぶつかる。この台地の先端」としています。
この条件に見合うあたりには、かつて「私立目黒高等学校」と称していた目黒学院高校があります。
どちらが正しいのかはわかりませんが、自分は「目黒学院高校」を訪れました。
遺構も再建造物も何もありません。訪れたという自己満足だけですが、目黒川を経由したので桜の写真を撮りました。時期的にちょっと遅かったようで、散り始めていました。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/04/06 06:33
東京近郊11城巡り⑨:渋谷城 (2021/04/01 訪問)
東京近郊11城巡り9城目は渋谷城です。
渋谷駅周辺をウロウロしたので、渋谷駅より徒歩12~13分位かかってで金王八幡宮(35.657290、139.706129)に着きました。すんなりと歩けば5~6分ですが、渋谷駅のどこを起点とするかで時間は違ってきます。自分は半蔵門線の渋谷駅だったので、ちょっと離れていました。
平安時代に河崎基家が没した後、息子の渋谷金王丸が渋谷城の城主になったようです。
金王丸は源頼朝の父であり、「八幡太郎」の名で知られる源義朝に仕えた人物です。
戦国時代に入り、1524年(大永4年)に北条氏綱が江戸城を攻略すると、この城も後北条氏の別働隊によって焼失し、渋谷氏は滅んだと考えられています。
城域は現在の渋谷川を堀として、金王八幡宮あたりが城址です。
遺構は石垣の一部だけが残っており、金王八幡宮に「渋谷城砦の石」と書かれた石碑があります。
若かりしころ何度も遊びに行った渋谷。結婚してからも仕事で何度か行った渋谷ですが、ここ10年近くは行っていなかったので、渋谷駅付近の変わりように驚くばかり(ヒカリエて何、スクランブルスクエアて何?、そんな物、自分が知っている渋谷にはなかった)。渋谷駅構内を抜けるだけで結構、時間がかかりました。
渋谷城の遺構は、石一つですが、跡地にある金王八幡宮は、宝物館には、都内に現存する最古の神輿があるなど、見所の多い神社です。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/04/05 23:10
コンパクトながら織豊系のテクニカルな縄張りの陣城 (2014/04/20 訪問)
賤ヶ岳合戦の前に堀秀政が構築した羽柴秀吉側の陣城です。
録画していたNHK BS「英雄たちの選択 山城スペシャル 戦国武将の知恵の結晶 」を見ました。
柴田勝家側の玄蕃尾城に対するマニア向けな付城の東野山城がテレビで紹介されて驚きました。
城びとでは、お一方しか投稿されておらず、ずいぶん前に行った時のものですみませんが投稿させて頂きます。
かなり高い山にあり、林道を車で登れますが、悪路で狭く土砂崩れもあり、1度目は普通車で途中で断念しました。
2度目は軽自動車の方に乗せて頂きリベンジでき感謝です。
コンパクトな城ですが、織豊系のテクニカルな縄張りです。
春に行きましたが、結構草があり、遺構は確認し辛いですが、曲輪と堀は良く確認できました。
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2021/04/05 21:59
見応えある放射状連続竪掘 (2021/03/14 訪問)
【中荒城】島根県鹿足郡津和野町
<駐車場他>津和野城と同じまたは鷲原八幡宮
<交通手段>車
<見所>畝状竪掘り群・石垣
<感想>1泊2日中国地方西部の旅2日目7城目。城びと未登録の中荒城は津和野城跡南出丸の南端から数百㍍南へまたは鷲原八幡宮より北へ行った所にあります。津和野城のある霊亀山は南北に中国自然歩道という遊歩道が貫いているので城跡までは難なく行けます。
中荒城は現地説明板の通り、能登から地頭入りした吉見頼行によって1295年に築城を開始した。この山地に最初にここに築城し、北にある三本松城(津和野城)はのちに築城されたそうです。現在の強固な縄張りは戦国時代に陶氏との戦いによって造られ津和野山地北から南まで全体が城の要塞になっていたようです。
城跡へは鷲原八幡宮から北へ進み城跡の南側の切岸からロープつたいに登るルートと津和野城から南に下り中国自然歩道から東に尾根つたいに主郭に行くルートがあります。前者は登りにくいのでやめたほうがいいです。私は津和野城から来たので後者で行った。城跡の東端の曲輪が自然歩道のそばにあり、立て看板から進むとすぐに削平地が現れます。尾根道を少し進み、堀切を渡ると主郭に着きます。縄張りはほぼ単郭式で北側に小さい腰曲輪と歩道そばの東の曲輪からなっています。主郭は段構造で2段目辺りの北側に石垣が残っています。主郭平地部分にも石列が見られます。最大の見所は主郭を取巻く放射状の竪掘りでなんと18条もあります。私、数えてみたんですが16条しか分かりませんでした。竪掘り群へは主郭の南側からロープ伝いに中段まで降りると右手に見えてきます。ストックはあった方がいいです。主郭の横堀も残っているので横堀道を半周してそこから伸びる竪掘りを堪能できます。これだけの数の竪掘りを見るのも初めてだし、遺構が明確に残っているのも素晴らしく見応え十分、竪掘りマイベストランクに入るいい城跡でした。お勧めですので津和野城登城の際には是非とも。
これにて中国地方西部の旅終了。13時頃から津和野城登城して下山したのが夕刻だったので全部攻めるには半日はかかりますね。津和野城織部丸が整備完了すれば尚更ですので時間のご参考に。時間がなく賀年城へは行けませんでした。御城印を購入し、津和野の銘菓をお土産購入し凱旋した。全走行距離1050㎞無事走破。
<満足度>◆◆◆
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2021/04/05 18:07
一日まるごと小谷城(山麓~中腹) (2021/03/14 訪問)
戦国中期に浅井氏初代・亮政が築いた城で、三代・長政は織田信長の妹・お市を妻に迎え縁戚関係を結ぶも、信長が亮政以来の同盟関係にあった朝倉氏を攻めるに際して信長から離反、以降3年に及ぶ織田軍との攻防の末、朝倉氏が滅んで孤立無援となったところに総攻撃を受け、羽柴秀吉が京極丸を急襲して主郭部を寸断、二代・久政、次いで長政が自刃し浅井氏は滅亡しました。その功により小谷城には秀吉が入りましたが、長浜城に居城を移したことにより廃城となりました。
小谷山全域に曲輪を設けた巨大山城で、築城時は山頂部の大嶽が本丸でしたが、浅井氏の勢力拡大に伴って南東尾根に曲輪群を連ねて本丸を移し、南西尾根には福寿丸と山崎丸、北東尾根の付け根には月所丸を配し、南側両尾根の間の清水谷には浅井氏や重臣の居館が設けられています。
さて、小谷城は前々から行きたいと思いつつも、熊に遭遇するのは避けたいので時季は限られ、さりとて真冬は雪に閉ざされることから、なかなか行くタイミングがつかめませんでしたが、ようやく訪れることができました。せっかく来たからには本丸や山王丸などの主郭部だけでなく、大嶽から山崎丸を経て下山する小谷城一周コースに挑戦したいと思います。
山崎丸から下りてきた後、100名城のスタンプを押して帰る予定なので、小谷城戦国歴史資料館の駐車場に車を駐めて、追手道から登城開始。獣害防止用の門扉を開けて歩き始めて5分ほどで舗装道にいったん合流。舗装道を少し下ると出丸があるようなので行ってみると、上下二段で構成される曲輪の先端側をコの字型の土塁で囲み、切岸も急でなかなか見応えがあります。出丸ひとつをとってもこの見応え。これは期待できそうです。
合流点に戻って追手道の登城路を登って行くと間柄峠の標柱と説明板があり、六角氏の攻撃を受けた小谷城を来援した朝倉教景に従って来た真柄備中守が守備にあたったことから間(真)柄峠と呼ばれるようになったんだとか。朝倉方の真柄氏というと姉川の戦いで壮絶な最期を遂げた真柄直隆の家系なのかな…などと考えながら歩くと、単調な登城路も退屈しないで済むのでありがたいですね。
望笙峠から浅井氏も信仰した竹生島を望んだりしながら登って行き、金吾丸へ。間柄峠と同じく、朝倉「金吾」教景が布陣したことからその名が付いているようですが、一帯は灌木が生い茂り、土塁と言われれば土塁かなぁ、と思える土盛りが見られるくらいでした。
金吾丸から少し下ると番所に到着。番所に目立った遺構は見られませんが、周辺には多くの腰曲輪が設けられていて、普段ならちょっと下りて行ってみるところですが、数え切れないほどの腰曲輪や帯曲輪を擁する小谷城でそんなことをしていては時間がいくらあっても足りないので、我慢して次へ。
御茶屋の手前の展望台から望む眼下には虎御前山城が広がっています。小谷城攻略のための信長の陣城ということは知っていましたが、こんなに目の前だったとは…。それも清水谷の出口の真ん前に立ちふさがる信長としては絶好の、浅井氏としては最悪の立地です。この地に陣城が築かれ、信長はじめ織田軍の名だたる諸将が布陣し、しかも朝倉氏の後詰はもう無い……想像するだけでも絶望的な気分になりました。
気を取り直して御茶屋へ。ここからが主郭部となります。低い土塁で区切られた曲輪の内側西奥には苔むした石が散在し、庭園の面影を残しています。御茶屋の上の御馬屋は三方を分厚く高い土塁で囲まれていて、御馬屋の北東部には馬洗池と呼ばれる石組みの貯水施設があり、水の手とも水堀とも言われています。
馬洗池から少し行くと、浅井亮政が敵に内通した家臣を謀殺し、その首をさらしたと伝わる首据石があり、そこから黒金門に向かう前に右手にそれて赤尾屋敷へ。落城直前、最後の攻撃に打って出た浅井長政は本丸に戻れなくなりこの地で自刃したとされ、浅井長政公自刃之地の石碑が建てられています。赤尾屋敷は三段の曲輪で構成され、石碑のある上段からのぞき込むと下方に曲輪があるのが見えますが、切岸は急で下りていく道は見当たりません。それでも立木とストックを頼りに下りてみると、半ば崩れた石垣が! 下調べでも赤尾屋敷に石垣があるとは知らなかったので、不意打ちの喜びでした。調子に乗って、三段の曲輪ということはもう一段下があるはず(石垣もあるかも)、と思ってさらに下りてみましたが、明瞭な曲輪は見つけられませんでした…。
寄り道はこれくらいにして、元の登城路に戻って主郭の主要部に向かいます。(続く)
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