都区内5城巡り3城目は練馬城です。
豊島園駅より徒歩2~3分位でどんぶり坂(伝練馬城堀遺構)付近(35.742306、139.646872)に着き、その後、豊島園跡(35.743154、139.647347)に向かいました。
築城年代は不明ですが、14世紀末頃に豊島氏が石神井城の支城として築いたものと考えられています。
また、この城にはかつて「矢野将監」という者がいて(時期不明)、「矢野屋敷」「矢野山城」とも呼ばれていたそうです。
そのほか、「海老名左近」という者がのちにこの地または北側の谷に居を構えた、との伝説も残されている。
なお、『豊島名字之書立』(『米良文書』年月日不詳)には豊島一族の者として「ねりまひやうこ(=練馬兵庫)」「ねりま弥次郎」の名が記されているが、この人物と練馬城との関係は詳らかではないようです。
2020年8月31日に閉園した遊園地「としまえん」は、当初遊具を備えた城址公園として開園されており、その名は豊島氏にちなんで付けられたものだそうです。
豊島氏は1476年(文明8年)に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦います。
この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たしたようです。
翌文明9年(1477年)4月13日、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。
これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため、両者は江古田原で合戦となりました(江古田・沼袋原の戦い)。
戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになりました。
この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」とする説が有力だそうです。
練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討ち死にや、従兵の石神井城への敗走により無人となり、そのまま廃城に至ったものとも考えられています。
なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説となっているそうです。
発掘調査で地中に空堀跡が確認されていますが、地表には遺構は残っていないそうです。
どんぶり坂に何か遺構があるかなと期待して行きましたが、向山庭園以外、何もありません。
としまえんには閉園までに一度きたかったのですが、叶わずです。
攻城時間は10分くらいでした。
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