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イシテル

愛知県で畝堀が残る唯一の山城 (2021/02/24 訪問)

登城口から道を挟み向かいにある駐車場が綺麗に舗装され、トイレも設置されています。
登城道も舗装され、ここも整備が行き届いています。
ゆっくりと登って行くと、市場城址全体図があり、順路も示されていて地元の方の心遣いに感謝致します。
順路に従って歩くと空堀から櫓の石垣が見えてきて、それを過ぎると二の丸、本丸、帯曲輪と様々な遺構があり、
その先には、この城の特徴である竪堀群があり、畝堀状となっています。この畝堀は数々の山城の残る愛知県で
唯一の畝堀です。残る城址の規模は大きくありませんが、桝形門や家臣の屋敷跡である「さんざ畑」など様々な
遺構が残り気軽に廻れる山城です。
近くに市場城の家老の菩提寺として建立された「嶺雲寺」があり、帰りに立ち寄りお参りしました。

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小城小次郎

あまり多くを語られないが (2020/12/12 訪問)

川崎城を本拠とする塩谷氏の一族がそれこそ数百年に亘って居住していたはずだが、その歴史はあまり語られていないようだ。タワーを含む山頂の施設は閉鎖されて久しいが、今年も間もなく満開の桜が山を飾るのだろう。

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ぴーかる

野間城 (2021/02/11 訪問)

【野間城】
<駐車場他>駐車場はなし。能勢町立けやき資料館駐車場10台程度あり。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪堀り・土塁
<感想>日帰り府またぎと蜜にならない城攻め3城目。野間城城びと初投稿いただきます。野間城は1168年に多田源氏の流れを汲む野間高頼によって築かれたと伝わります。野間氏は、この地方の国人領主で摂津能勢地方において同族の能勢氏、余野氏と共に能勢三惣領の一つとされています。天正8年(1580年)に野間資持の代に信長の召し出しに応じなかった丸山城の能勢頼道と共に誘殺されました。その後城は廃れたようです。

 城跡への行き方はポイント<34.942851, 135.456618>から農道を南にまっすぐ進みます。行き着く少し手前の左手一帯が野間氏居館跡になります。(次に投稿します)土手に行き着くので、土手を登った所に溜池がありますので、すぐに左に向きを変えて南東方向に少し進むとトタンの波板を壁にした道が造ってありますのでそこを通ります。更に少し進むと添付写真の赤い鳥居がありますのでそこが登城口となります。
 登山道は途中薄くなっていて道がわからなくなっていますが、中腹に石灯籠がポツンとありますので目指して登ってください。15分程度で登れます。
 城跡は櫓台を備えた主郭にその北側から東側にかけての半面大きい副郭が取巻いています。副郭の北の斜面にかけて小さい連郭があります。主郭西側には2重堀切があり、主郭から1条目は大堀切になっています。2重堀切の北側斜面は畝状竪掘りが薄くなっていますがなんとなくわかります。この2重堀切のさらに西側の山の高くなっている方向に数百㍍進んでみたが遺構は見られなかったので、城跡は堀切までのようです。
 麓居館と山の詰め城のオーソドックスなパターンだが、手を加えつつも鎌倉時代以前からあるのがすごい城跡です。大堀切見応えありです。

<満足度>◆◆◇
<周辺観光>野間の大けやきは樹齢千年を超える全国4位の巨樹です。大けやきに隼?かなにかの猛禽類の巣があるようです。

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hata

日本100名城 No,022 大変きれいに整備されています。 (2011/07/03 訪問)

■100城の13城目(初登城)
☆関東3城日帰り城攻めの1城目(八王子城→甲府城→山中城)
【移動手段】車:首都高速の永福ランプから八王子西IC経由で約1.0時間
【駐車場】八王子城跡管理棟前駐車場(無料)40台くらい駐車可能です。
【スタンプ】管理棟△
【天気】薄曇り。
【印象】☆☆ ボランティア案内の方も好印象です。
【お土産】なし
【昼食】八王子ラーメン
【同行者】姫、犬(柴)
【他】暑い日で本丸登城は断念し曳橋・御主殿跡を散策。とてもよい雰囲気です。マイナスイオンをたくさん浴びました。私には心霊スポットらしいのですが、鈍感な自分には気配は感じられませんでした。
※カーナビに任せたら、北側からの城攻めルートを案内されて迂回のため30分くらいロスしました。皆さんもご注意を! 甲府に向かいます。
【柴犬のクウ】楽しい!楽しい!!

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑱:金堀城(ラスト) (2019/05/27 訪問)

吉橋城から転戦。車で5~6分くらいでした。
城址手前の空スペース(35.750222、140.069267)に駐車して攻城しました。

金堀城の詳細は不明ですが、小金城を本拠地とした高城氏(高木氏)の支城のひとつと考えられています。
また、吉橋城主・高木伊勢守胤定の支配下にあったという伝承があります。
現在城址には空堀、土塁が残っており、見事な堀底道を見ることができます。

駐車場所から坂を登る途中右側に入口があったと思います。
案内板や縄張図がないためよく分かりませんが、堀底道と土塁が素晴らしいです
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑰:吉橋城➡城びと未登録(千葉県八千代市) (2019/05/27 訪問)

米本城から転戦。車で10分くらいでした。
貞福寺の駐車場(35.744809、140.086784)に駐車して攻城しました。
主郭入口(35.745188、140.087181)

吉橋城は鎌倉時代に千葉氏に連なる吉橋丹後守胤俊が築いたと伝えるが、戦国時代は高城伊勢守胤貞の居城だったといわれています。
吉橋城の高城氏は八千代市から船橋市にかけてを支配していたが、1532年-1555年(天文年間)に北条氏の進出で滅ぼされたと伝わっています。
廃城時期についてはわかっていません。
城址の遺構としては、貞福寺境内に土塁が残っています。

貞福寺の駐車場をお借りして散策しました。貞福寺が二の郭、北側の道(堀切)を挟んで主郭があります。
主郭入口にチェインが張ってありますが、くぐって入れば左側に城址碑があります。
攻城時間は15分くらいでした。

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todo94

攻城したとは言い難いのですが (2021/02/11 訪問)

攻城したとは言い難いのですが、とりあえず麓はぐるりと回ってみましたのでお許しください。写真は対岸からの遠望です。南海病院の敷地内にある城で登城許可がいただけないという情報と、あっさり登城許可がいただけたという情報、双方がありました。

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しげさん

本丸跡虎口と案内板 (2021/02/27 訪問)

本丸跡の虎口と案内板です。土塁や空堀が残っており素晴らしいお城です。

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イシテル

大岩の使い方と水の手曲輪が見どころの山城 (2021/02/24 訪問)

物見岩から三河から尾張、鈴鹿まで望むことが出来、城郭の岩を巧みに使っています。
大給城の水の手曲輪は、二段のダムで作られた巨大な取水場となっていて、この山城の最大の特徴(見所)です。
大雨で、ここがどの様になっているか見てみたいですが、危険と思われますので止めておきます。

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キンヤ

形原松平氏の居城で海岸に突き出した丘稜の城 (2021/02/14 訪問)

城びとで知って、皆様の投稿を参考にさせて頂き行きました。

本城として東古城が築かれ、当時は北古城、南古城もあり、広く展開していたようですが、今は稲荷神社として東古城の中心部の一の曲輪、二の曲輪が残るのみです。

お妙塚の南側に堀状の箇所が見られましたが、ネットで検索しても堀の情報は見当たりませんので、自然地形でしょうか。

一の曲輪北側の先端からは形原漁港大橋や蒲郡の港が見渡せました。

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hata

日本100名城 No,021 木造での天守再建を願います。 (2011/05/03 訪問)

■100城の1城目(登城は3回目)【千代田城】
【移動手段】車・自宅から30分
【駐車場】日比谷公園地下駐車場(30分200円)
【スタンプ】楠公レストハウス○
【天気】曇りのち時々雨
【印象】☆☆ とにかく広い。ので二重橋・桜田門で終了。石垣が見事です。一日かけてまた来たいです。外国人はほとんどいませんでした。マラソン人多し。
【お土産】桜ドロップ(桜もちの味!)
【昼食】日比谷公園内の松本楼のランチ弁当をベンチで食べようと思ったが、雨が降り出したので車で10分の築地でランチを食べ、その後は銀座の岩手県アンテナショップへ。
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【柴犬のクウ】日比谷公園近くにはドッグカフェなども多い。たくさん歩いたワン。お堀周りはランナーが多く怖い!銀座ではパパちゃんと歩道のベンチで待機。

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hata

日本100名城 No,020 本丸跡では剣道部が練習中でした。 (2011/05/22 訪問)

■100城の4城目(初登城)【鹿島城】
【移動手段】車・新宿ランプから約1時間強。
【駐車場】佐倉城址公園センター(無料)駐車場は広いですが、風が強く砂ぼこりが…。
【天気】晴れのち雨
【スタンプ】佐倉城址公園センター○無人
【印象】☆ 公園です。建物は無し。土塁、空堀がきれいです。人はほとんどいませんでした。
【お土産】何もなし
【昼食】車で5分のうなぎ・鹿島園。味は普通に美味しい。
【他】国立歴史民俗博物館と武家屋敷とセットで4時間掛かります。
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【柴犬のクウ】ここは散歩にはいい場所だワン!

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pascal

織田信長を止めた山路弾正 高岡城(三重県鈴鹿市高岡町)➡城びと未登録 (2015/03/14 訪問)

 伊勢の戦国領主:神戸氏の支城:高岡城です。
永禄10~11年の織田信長による伊勢侵攻に際し、滝川一益を先鋒とする織田軍は、怒涛の勢いで北伊勢を蹂躙して行きますが、ここ高岡城の攻防戦でその勢いはピタリと止められ、信長はやむなく養子作戦で打開するしかありませんでした。

【アクセス】
 最寄り駅はJR関西線の河原田駅で、県道103(旧R23)を南下して、鈴鹿川に架かる鈴鹿橋の北詰を右に入り、次の木田橋を過ぎたら右手に分岐する道を登って行けば、城址公園に辿り着きます。
登城路は狭いですが、公園には駐車場もあるので、クルマでも行けます。

【城の歴史】
 室町中期に神戸氏が支城群の一つとして築きましたが、戦国中期に特に強化されて、家老の山路氏が守りました。
永禄10年(1567)、織田信長が2万の兵で伊勢に侵攻して来ます。
“北勢48家”と呼ばれる小豪族が分割支配していた北伊勢は瞬く間に蹂躙されて、先鋒の滝川軍は神戸氏領に迫って来ました。

 かねてから徹底抗戦を決めていた神戸友盛は、精鋭を高岡城の山路弾正に預けており、前線の高岡城では激しい攻防戦が繰り広げられましたが、織田軍は十倍の兵力で攻めるも、神戸勢の士気は旺盛で、一向に落ちる気配がありません。
 守将の山路弾正は知勇に長けた武将だった様で、果敢に手強く戦う傍ら、織田の背後を脅かす動きも見せていました。
臣従間もない西美濃三人衆に謀反を促す手紙を出したり、武田信玄との手紙のやりとりで、武田勢が間もなく美濃に攻め込む様な文書が尾張界隈で見つかったので、信長はこの場は一旦兵を退くしかありませんでした。

 翌永禄11年には信長は倍の4万の兵で伊勢に侵攻して来ます。
今度も北伊勢は難なく確保したものの、またしても高岡城で詰まってしまい、長期戦となってしまいます。
ここで無駄に時間を潰せない信長は、窮余の策として“三男の信孝を養子にすれば無罰で織田傘下の将にする”という提案をします。
勝ち目は薄い事を察していた友盛はこの提案を受け容れたので、“神戸信孝”が誕生しました。
 以後、中伊勢の長野氏には弟:信包、南伊勢の北畠氏には二男:信雄と、伊勢侵攻・討滅作戦は養子&乗っ取り作戦へと変貌したのです。
そのキッカケとなった、高岡城と山路弾正の見事な戦いぶりでした。

 ちなみに、その後の山路弾正はと言うと、信孝に家督を譲らない友盛に業を煮やした信長が、友盛を幽閉して強引に家督相続させると、激怒して謀反を画策します。
しかしこれは未然に露見して、弾正は神戸城内で自害させられました。
 高岡城には小島兵部(信孝の異父兄か?)が入りましたが、本能寺の後に信孝が岐阜城に移ると、兵部は神戸城主に任じられた為、高岡城は廃城となった模様です。

*以上の出典は勢州軍記:神戸良政著を基本とします

【見どころ】
 鈴鹿川の河岸段丘を利用した崖端城で、公園整備された本丸跡からは、神戸城方面と伊勢湾が遠望できます。
本丸は空堀で仕切られており、付随の物見櫓台が明瞭に遺りますが、周辺の曲輪群は竹藪に埋没していて、不明瞭。
近年までは耕作地となっていて、サツマイモが栽培されていたという地元の話もあります。

【感想】
 遺構の残存は物足りなさも有りますが、戦国武将の生き様として、強大な勢力に臆する事無く対等に戦った史実が伝わる城址です。
敵の格や戦力・戦果を勘案すれば、上田合戦の上田城にも等しい気がするので、ぜひ『城びと』にも登録して頂きたいものです。

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todo94

旧鳥居記念館 (2021/02/11 訪問)

撫養城は2008年以来13年ぶりですが、その時は夜間の攻城だったので館内には入れていません。旧鳥居記念館に入館したのは2003年。2016年3月にトリーデなるととしてリニューアルオープンしています。収蔵資料などは徳島市の文化の森に整備された県立鳥居龍蔵記念博物館に移されているとのことです。妙見神社裏手の石垣遺構も拝んで参りました。この後、土佐泊城を目指しましたが、南海病院の敷地内でゲートもあり攻略は不可能と云った様相を呈していたので断念いたしました。城びと登録物件の中には攻城不可の城が散見されます。また、未登録の城の中に結構見所がある城が潜んでいたりします。登録されている城の見直しなど期待したいところなのですが。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑯:米本城 (2019/05/27 訪問)

志津城から転戦。車で20分くらいでした。
米本神社鳥居前の駐車スペース(35.748723、140.117793)駐車して攻城しました。

米本城は村上氏の居城として知られています。
1532年-1555年(天文年間)に村上国綱、綱清父子により築城されたと伝わっています。
1479年(文明11年)に太田道灌勢が米本の龍ヶ城を攻めたとの記録があり、この龍ヶ城を米本城に比定する向きがあるそうです。
1558年(永禄元年)に米本城が攻められ落城し、城主綱清が自決したと伝わるが、臼井城と連携していたと考えられていることから、落城時期を1561年(永禄4年)と考える向きもあるそうです。
現在城址は本丸や二の丸など中枢部分が土採り目的で破壊されていますが、腰曲輪などは確認できます。
城址の北側には村上氏の菩提寺である長福寺、南側にある八千代市立郷土博物館には米本城の立体模型が展示されているそうですが、自分は行っていません。

米本神社鳥居前の駐車スペースに駐車してから登城口を捜すため、付近を20分近く歩きまわりました。
付近の加茂牧場の女性に登城口をお聞きし、城址入口(35.747402、140.116360)を森の方に向かい攻城できました。
新川にむけて崖になっていますが、空堀、土塁、曲輪は確認できます。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑮:志津城➡城びと未登録(千葉県佐倉市) (2019/05/27 訪問)

押花城から転戦。車で40分くらいでした。
天御中主神社鳥居横の空スペース(35.709093、140.146914)に駐車して攻城しました。

志津城は臼井城の支城のひとつで、臼井昌胤の次男である志津胤氏の居城と言われています。
臼井氏は、平安時代後期に千葉氏から分かれた、千葉一族としては一番古い部類となります。
志津胤氏は兄である臼井城主・臼井祐胤が1314年(正和3年)に病没すると、当主の座を奪うために遺児・竹若丸を殺害しようとしましたが、それを知った岩戸胤安は鎌倉建長寺へ竹若丸を逃しました。
その後、竹若丸は臼井興胤と名乗り臼井城主となりました。
志津胤氏は臼井興胤の家臣となりましたが、不遜な態度がつづいたため、1340年(暦応3年)に臼井興胤よって攻められ志津胤氏は自害し志津城は落城し、その後廃城となったと言われています
現在城址は天御中主神社の境内となっており、空堀の遺構を確認することができます。

天御中主神社の境内が高台になっていて、境内から更に一段高い高台があります。
攻城時、小さなお子さん連れのお母さんたちが沢山いらっしゃったので、空堀を確認せず早急に撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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烏城 (2021/02/28 訪問)

秀吉から57万石を与えられた宇喜多秀家の居城は、ほとんどが埋め立てられ、本丸だけをを残していた。 秀吉からの寵愛を受け、若干にして57万石の大大名になった秀家の城は、東に対しては無防備な城だった。東からは何かあれば秀吉様が駆けつけてくれるからって言うのが理由らしい。西は毛利に睨みを効かすために厳重だったようだ。
5角計の天守が印象的だった。まだまだある。金の鯱鉾が目を引いた。秀吉から寵愛されているから許されてらしい。天守の中から間近に見る事ができる。
天守の中は、土産屋さん、着付けコーナー、茶屋…など、充実している。
展示物も有名な武将の古文書などもあり、見逃せない。
スタンプは1階受付の側にあり、御城印は2階の土産屋さんにて、300円で売ってある。
勿体無いことに、本丸しか残されていないので、それほど喉が渇くわけではないが、天守入り口付近に自販機があるのみ。
良い写真スポットは月見橋の真ん中くらいからがお勧め。
野面積みの高い天守台も立派。現存する月見櫓も風情がある。
見どころは、まだまだ有る。時間がある方は、後楽園にも脚を伸ばしたら良いのではないかと思う。

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朝田 辰兵衛

復興途上の1ページ~あのときの熊本城~ (2019/07/15 訪問)

復興途上の1ページを記録できれば…という思いで訪れました。熊本の郷土料理「だご汁」は,越後人の私の口に合いました。この日は,Tシャツを購入して微力ながら復興支援です。

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赤い城

熊城 山梨県甲府市 (2021/02/23 訪問)

要害山城の搦手から尾根伝いに進み途中の分岐点を右に。
しばらく進むと土管を立てた灰皿?があり、ここからハイキングコースを外れ右の尾根を進みます。
しばらく進むと見事な深い堀切が、左手に降りると畝状竪堀群、素敵!
堀切はもう一つ切ってあります。
その先に主郭部があり、さらに曲輪が続きます。
ここの下にも畝状竪堀群。
小規模ながらも見どころ沢山!
要害山城リアの際には足を伸ばしてほしい城です。
時期によっては熊さん注意、爪の研ぎ跡ありました。

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イシテル

本丸を囲む曲輪群が面白い (2021/02/24 訪問)

武田勝頼が長篠の戦いで田峯城の城主と敗走し辿り着いたが、田峯城を守る家臣から反逆に合い入城を拒絶され、田峯城の支城である武節城まで逃げ込み、一夜明けて勝頼は甲府へ逃れた。命からがら敗走している武田勝頼がひと時の安堵を得た城、歴史を感じます。
本丸、二の丸、三の丸その周りは整備されています。この城は、周りを囲む曲輪群に面白さがありますが、まだ整備途中で木々に囲まれ、入り込むことが難しく、遠目で見ました。これからの整備を期待します。
道の駅「どんぐりの里」の駐車場が利用でき、駐車場から歩いて数分のロケーション。道の駅にある「いなぶ観光協会」で御城印の購入が可能です。

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