前ヶ崎城(流山運転免許センターで免許の更新後)から転戦。車で7~8分くらいで着きました。
遠矢山大勝院の駐車場(35.835282、139.923909)に駐車して攻城しました。
小金城は千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城です。
原氏が室町時代の享徳の乱で上杉氏と対立関係に入った時期に、上杉勢力の下総侵攻を防ぐ拠点とするために重臣の高城氏を小金に配置したものと考えられているそうです。
小金城(大谷口城)は、1537年(天文6年)9月に高城胤吉によって築かれ、高城氏は根木内城より居城を移して、胤吉、胤辰、胤則と3代53年の居城となりました。
胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城、根木内城を根拠地として構えていたが、小弓公方足利義明の進出に対抗するために大谷口に新城を築城して移りました。
1560年代(永禄年間)、古河御所を追われた古河公方足利義氏の仮御所の役目と、義氏に敵対する関東管領上杉憲政を擁立して関東へ侵攻した上杉謙信に備えて拡張が行われたものと考えられています。
実際、1566年(永禄9年)2月には上杉方に小金城を包囲されたが、籠城して乗り切ることに成功しているようです。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、後北条氏方の高城氏は後北条氏に従い小田原城に篭城し、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城しました。
その後、徳川家康の関東移封に伴い、穴山武田氏の名跡を継承し甲斐国河内領となっていた家康五男・武田信吉が入城します。
信吉は1592年(文禄元年)に下総国佐倉城主として転封となり、小金城は1593年(文禄2年)に廃城となりました。
現在は大谷口歴史公園として整備されており、発掘調査によって検出された障子堀や畝堀など北条系の城郭特有の遺構を確認することができます。
小さいですが、歴史公園として障子堀や畝堀、土塁が整備されています
攻城時間は25分くらいでした。
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