JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の5城目は二俣城です。
笹岡古城から転戦。城駐車場(34.862929、137.810352)に駐車しました。
二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれます。
ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられています(現在の浜松市天竜支所周辺。笹岡古城の名が残る)。
1572年(元亀3年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃しました。
二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突、武田軍は大勝しました。
しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡しました。
その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入りました。
1575年(天正3年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗しました。
家康は直ちに反攻を開始、同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退しました。
家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせました(武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しませんでした)。
そのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかったそうです。
1590年(天正18年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となりましたが、1600年(慶長5年)に堀尾氏が出雲に転封すると廃城となったようです。
二俣城といえば、1579年(天正7年)家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られています。
現在、城址には天守台・石垣・土塁などが残っています。また、井戸櫓が清瀧寺に復元されています(自分は時間の都合で行けませんでした)。
本丸跡の天守台は圧巻です。また、所々に石垣が残っており、堀切はよく形を残していました。
攻城時間は30分くらいでした。
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