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やなぎぶそん

御城印を求めて (2021/02/06 訪問)

資料館休館に伴い岡豊城のスタンプラリーが開催されており、御城印がもらえるらしいので行ってきました。
曲輪や堀切、虎口など見所はありました。

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小笹丸城と言うだけあって笹の勢いが凄い (2021/02/06 訪問)

小笹丸城の名前に違わず、笹の勢いが凄い。1年刈らずにおくとこうなるのであろう。主郭下の説明板の上部が登城道から見えたので、笹をかき分けて進んだ。その少し先の遠藤周作氏筆の石碑も発見できた。説明板の縄張り図(千田先生作)によると、説明板の脇から主郭に登るルートがあるのだが、わからず、直登。急峻な切り岸であった。全体構造は、説明板にあるように「緻密なプラン」である。
北側の郭2とそこからの登り道は、主郭にある神社の参道として維持されているようだ。多年にわたり放置されてはいないと思われるので、きっと地元の方々が、春までに草刈りされるのであろう。

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pascal

千葉県が誇る隠れたヒーロー 土岐頼春 (2014/12/07 訪問)

夷隅の万喜城です。
里見氏が制圧した上総にあって、唯一落とせなかったのがこの万喜城なのです。
城主は上総土岐氏という氏族で、頼元ー為頼ー頼春の三人の名前が当主として確認されています。

 万喜城は夷隅川が作った丘陵の先端に築かれた丘城で、城址は“城址公園”になっていますが、物見台に造られた天守風の展望台が良い目印になります。
麓に地区センターの大駐車場がありますが、中腹と山上にも公園駐車場があり、余程の事が無い限り山上に停められます。

 城址は大きく改変されていて、本丸と比定される場所はアスファルトの広場になっていました。
しかし広場の南端には土塁を持つ郭の一部が遺されていて、その裏の大堀切などの見所もあります。
山林に分け入れば、まだ小曲輪や虎口の遺構も温存されているのかも知れませんね。

 上総土岐氏は美濃土岐氏の傍流で、斎藤道三に美濃を追われた土岐頼芸が最後に頼ったのもこの上総土岐氏ですが、それ以前の戦国中期、縁があって里見氏に寄食した頼元が戦場で活躍し、上総の夷隅郡を貰って万喜城を造ったそうです。
 頼元の子、為頼の代になると正木氏、酒井氏とともに“里見の三羽烏”と呼ばれるほどの主戦力になりましたが、北条氏と戦った国府台合戦での大敗で、北条氏への寝返りを決めました。

 ここからが大変で、里見領に孤立した土岐氏への攻撃は激しく、里見義弘、義頼、義康と三代にわたり、入れ替わり立ち代わりガンガン攻め立てましたが、これをすべて防いだのは、為頼の嫡男:頼春の卓抜した武勇と知略でした。

 頼春は家督を継ぐと逆に攻めに転じ、徐々に周囲を伐り従えて、領地は10万石にもなり、“土岐五千騎”と称せられました。
こうなると里見氏も迂闊に手が出せず、手詰まりになります。

 秀吉の小田原攻めが近付くと、頼春の元に北条氏から小田原入城の要請が来ます。
頼春は主力の多くを弟の頼実に託して小田原へ送り出しますが、これを察知した里見氏は、秀吉の参陣命令を無視して、手薄になった万喜城に攻めて来ます。
しかし、寡兵の頼春に翻弄されて、大損害を出しては退却を繰り返してしまいます。

 そうしてるうちに小田原征伐が始まり、間もなく北条氏は降伏してしまい、参陣せず自前の戦に固執した里見氏は、惣無事令違反で安房一国に大減俸されました。
上総でも北条方の掃討と城の接収が始まり、大軍に囲まれた頼春は万喜城に火を掛け、三河に落ち延びたと言われます。

 その後に大多喜に入封した本多忠勝は、頼春の旧臣を多く召し抱えました。
忠勝は彼らから頼春の武勇伝を聴くのを一番の楽しみにしていたそうです。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑦:小浜城➡城びと未登録(千葉県いすみ市) (2019/08/21 訪問)

勝浦城から転戦。車で30分くらいで着きました。
小浜魚港の駐車場(35.251570、140.405108)に駐車して攻城しました。
小浜八幡神社方面に向かいます。ナビに従って歩くと大原漁港の無線基地に誘導されますが、鳥居が見える方角に向かってください。

小浜城は、1493年(明応2年)、万木城主・ 土岐頼定が伊南領を守るため、家臣鑓田美濃守勝定に命じて、万木城の支城として築城したことに始まるようです。
1588年(天正16年)2月、里見氏に属している美濃守が相州三浦に軍をすすめて後北条氏と戦った時、その虚に乗じて北条方の勝浦城主正木頼忠に攻められ落城しました。
房州里見氏は援軍を送って小浜城奪回を図ったが攻め落とすことは出来ませんでした。無念に思っていた美濃守は1589年(天正17年)3月夜陰に乗じて激しく城を攻めついに奪回に成功します。
しかし1590年(天正18年)本多忠勝が大多喜城主になった頃、 小浜城は本多氏に攻略されその姿を消します。
現在、本丸跡には小浜八幡神社が祀られています。また、切り通しになっている虎口の土塁はコンクリートで固められていますが見事です。

帆万千館跡に入る虎口(切通し)、岬先端の1郭と2郭の間の切通し(堀切)、八幡社近くの切通し(虎口)と見所は多いが、先端の1郭はロープが張ってあり、近づけませんでした。
2郭は草に覆われていて分からない。3郭は登り口が分からない状態でした。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑥:勝浦城房総日帰り攻城Ⅲ⑥:勝浦城 (2019/08/21 訪問)

鹿野岡城から転戦。車で35分くらいで着きました。
八幡岬公園の駐車場(35.136939、140.311708)に駐車して攻城しました。

築城経緯・時期などの詳細は不明ですが、1521年(大永元年)に真里谷城の城主だった上総武田氏の一族の真里谷信興(真里谷信清?)が安房の里見義堯による北上阻止のために支城として築城されたという説があります。
その後、真里谷武田家の一族の居城となっていましたが、真里谷武田家が内紛で勢力を弱めると、後北条氏と里見氏が上総に進出するようになりました。
1544年(天文13年)、里見方の正木時茂が大多喜城の真里谷朝信を滅亡させ、朝信の勢力圏を里見氏の傘下に収めたとき、勝浦城も里見方となっています。
以後は正木氏の一族の正木時忠が入り、勝浦正木氏と呼ばれるようになりました。
時忠は後に後北条氏に寝返ったが、里見氏は勝浦城に激しい攻撃を加えこれを取り戻しています。
正木憲時の乱が起きたとき、正木頼忠(お万の父)は里見義頼に味方したため、憲時の攻撃を受け、一時落城したといわれ、のちに「お万の布晒し」の伝承を生みました。
憲時の乱が鎮圧されると、頼忠は勝浦城主に復帰しています。
1590年(天正18年)に徳川家康の家臣、本多忠勝に攻められ落城します。
このときの城主・正木頼忠の娘、お万はのちに家康の側室となり、和歌山城主・徳川頼宣、水戸城主・徳川頼房を産みました。
現在城址は「八幡岬公園」になっており、八幡岬の突端まで遊歩道が整備されています。

八幡岬公園の駐車場から遊具の置かれている2郭、先端の1郭(お万の方の像あり)を回った後、車で北上し鳴海神社方面に向かうと2分位で鳴海神社に出る切通しを見ることができます。
攻城時間は40分くらいでした。

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todo94

リベンジ成功 (2021/02/06 訪問)

ここも2018年の春分の日に降った湿った重い雪が残っていて登城を諦めた場所です。徳泉寺の駐車場は駐車禁止の表示があったので林道を進んで通行止め看板の前に駐車させて頂きました。登城路はよくわかりませんでしたが、山頂には朽ちかかった標柱を見つけることができました。吉川弘文館の甲信越の名城を歩く山梨編に塩川烽火台群のひとつ、比志の烽火台として載っています。この後、中尾城に行ってみましたが、歪んだ説明板はとても読める状態ではありませんでした。さらに向かった屋代氏陣屋は土塁の一部が残っていてよかったです。

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AJ

江戸を建てる、、、その前に (2021/01/30 訪問)

東京・有楽町の国際フォーラムにぽつねんと立っていた太田道灌像の周りに情報発信コーナーができていました。道灌像と江戸城寛永天守の模型を並べるのは、何も知らない人から見ればややミスリードですが、そこはご愛嬌。

関東における道灌の知名度はかなりのもので、10カ所以上に像が立っています。後に主筋から謀反を疑われるほどの影響力を有した背景には、当時の江戸の地形が関係していたようです。

徳川家康による造成以前は、城の東に川が流れ、現在の日比谷は東京湾の入江だったとのこと。東京駅から銀座にかけては「江戸前島」と呼ばれる半島が伸びていて、この水運を利用して江戸湊の繁栄を築き、財力を誇ったのが道灌だったのです。

主君に代わって相模・武蔵一帯を支配し、古河公方への睨みを利かす一方、その権限は軍事、交易にとどまらず、税の徴収・免除にまで及んだといいますから、身内とはいえ、二心ありと疑われても無理はない状況だったのかもしれません

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前ちゃん

尼子衰退の一因 (2021/02/07 訪問)

元就の謀略にはまり、尼子衰退の一因となった。月山富田城から1、2キロくらいかな

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pascal

婆ちゃんはアドベンチャー (2014/12/06 訪問)

 穏やかな砂浜とダイナミックな海蝕崖が交互に続く外房の海沿いを走り、勝浦に入ると魚港に向かいます。
市で賑わう通りを抜け、トンネルを抜けて八幡岬の突端まで上がって行くと、八幡岬公園(勝浦城址)があります。

 勝浦城は里見氏の北上を阻止すべく真里谷(武田)氏が築いた海城でしたが、真里谷氏が里見重臣の正木時茂に敗れ大多喜城を失うと、勝浦城も正木氏の手中に落ちます。
時茂は弟の時忠に勝浦城を任せ、分家させました。

 次の代に移り、天正6年(1578)、里見義弘が死ぬと、弟:義頼と嫡子:梅王丸の間で後継争いの内紛が起こります。
勝浦の正木頼忠は義頼を支持しますが、大多喜の正木本家の憲時は梅王丸の支持に廻り、勝浦城に攻め寄せて来ました。
多勢に無勢は如何ともし難く、頼忠はここは一旦海から逃げ延びる事にします。
 頼忠の娘“お萬”はこの時14歳。
反物をつなげた布を断崖に垂れ下ろし、果敢にもそれを伝って40mの崖を降りて、無事に船で安房に逃げ延びたと言います。

 後にそれを聞いた徳川家康は、17歳になったお萬を呼び寄せて側室にしました。
寵愛されたお萬は10男:頼宜と11男:頼房を産みます。
成人した二人の子は後に紀伊徳川家と水戸徳川家の藩祖になりました。
つまり、黄門様こと徳川光圀のお婆ちゃんがこのお萬なんですね。

 勝浦城址には、これと言った遺構は遺っていませんが、崖を海に降りて行く細道には海城の名残りがあり、主郭の跡と思われる眺望の良い公園広場には、お萬の銅像が建っています。

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ぴーかる

小堤城山城 (2020/12/26 訪問)

【小堤城山城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.073051, 136.052969>の地点または<35.071613, 136.063816>の道路脇に駐車し城跡まで徒歩で。
<交通手段>車

<見所>曲輪・石垣・堀切・巨石
<感想>城跡は大きく分けて2つの連郭式の曲輪群があり、山の谷間を利用した主郭を含めたラインと山頂を含めたラインがある。主郭のラインは大手道を直線に引いて、両サイドに曲輪を配する。主郭は山頂にはなく少し下がった位置に置き、周りを高い位置にある曲輪で取巻き防御している。山頂のラインは山の尾根に沿って曲輪を配してオーソドックスな連郭式、山頂のラインの東端の曲輪から尾根伝いに東方向に10数分歩くと岩倉城跡にたどり着くことができる。
 見所はもう全部なのですが、特にいいのは直線の大手道と右手上方に見える巨石群と城のマッチング、主郭東側の大堀切、随所に残る石垣です。城跡入口に縄張り図の看板があり、石垣遺構の位置と曲輪の番号付けがしてあり、曲輪にも番号札があるので非常に見やすく整備されています。
 続百名城に負けてない、百・続百名城以外の城跡でマイベスト達に入った見応えのある城跡でした。お勧めです。

<満足度>◆◆◆

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赤い城

長野氏家臣の居館か? (2021/01/30 訪問)

方形の居館跡で土塁が残っっています。
南側の虎口には出枡が設けられています。
公園となっていて内側は芝生。
この時季なので枯芝ですが夏はきっと緑がきれいなのでしょう。
駐車場もあり、東側の東屋に説明板もありました。

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あるびの

忍城 御三階櫓 (2021/02/07 訪問)

今年最初のお城訪問です。内部の郷土博物館は年代順に見やすく展示されてます。

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本前坊

商業施設に…

子供の頃にはまだ土塁が多く残され、伝説が残る桜淵と言うのが有ったが、地主が某洋品チェーンに売却してしまった為に殆どが残っていない(TT)
所沢市というのは、歴史的価値が有るものをどんどん潰していってしまっている。

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本前坊

今はどうなっているのか?

子供の頃は狭山湖周辺は全周路入れたが、今はほとんどが立ち入り禁止になっており、見に行けないのが残念(TT)

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チェブ

生実→小弓→生実? (2020/12/30 訪問)

小弓やら生実やら、ややこしい「生実城」。
千葉氏の重臣 原 胤清さんの居城です。この時は「生実城」のようです。

千葉氏と対立していた真里谷武田氏が、古河公方の弟 足利 義明さんとタッグを組みます。
原 胤清さんから「生実城」を奪いました。
小弓公方の誕生です。「小弓城」「小弓御所」と呼ばれました。
真里谷武田氏は小弓公方 義明さんを利用するつもりだったようです。
しかーし、小弓公方 義明さんは南関東を制覇していきます。もう、裏で操れない強者だったようです。
その一方で北条家が強くなっています。
千葉氏は北条家を頼り小弓公方 義明さんと戦い「小弓城」を奪回しました。そうして、もとの「生実城」に戻したのではないでしょうか?

車を走らしていると生実池が見えました。そこから、緩やかに登る坂を上がると、周辺が「生実城」のようです。
たぶん、「生実城」時代「小弓城」時代とお城もパワーアップしているでしょう。城跡と呼ばれる場所は数ヶ所ありました。城びとの『お城をさがす』の「生実城」の場所は本城公園でした。
こちらは普通の児童公園です。説明板があります。
ん、「北小弓城」?
もう少し、調べてみよう。

一代で終わった小弓公方。北条家と戦った時、タッグを組んだ里見家が、もう少しやる気があったならなぁ。
そしたら『お城をさがす』の「生実城」は「小弓城」の表記になっていたかもしれません。

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カズサン

磐田台地北端の山城 (2021/02/06 訪問)

 磐田市寺谷地区の長者屋敷、遺跡群の銚子塚古墳を観察し磐田台地北端に在る社山城を目指す、ここも5、6年振りのチョイ寄り探訪です。
 車は社山地区東から入り、角々に城跡標柱が立ってる、茶畑の中にアスファルト舗装が終わった突き当りに社山城跡入口が標柱と供に在る、ここに車一台ギリギリの路駐スペース、ギリギリに寄せて農家の方の車が離合出来る様に路駐。
 前回は西側の慈眼寺駐車場を利用させて頂き徒歩で登城口へ。

 登城口より、相変わらず鬱蒼と状態、登城路は整備されてるが本曲輪まで、シダ、竹笹も一部茂ってる、案内縄張図は加藤理文氏編著「静岡県の歩ける城70選」の社山城に掲載されてる社山城概念図「松井一明氏作図」によって登城していきます。
 登城入口、堀底道を登り、北の曲輪北下に在る横堀を観察するがシダが茂りシダの上より切岸、横堀をかすかに認識、北曲輪尾根道を進み中間に在る堀切8を観察、土橋と左右の堀切、本曲輪北下に在る、切岸、横堀、土塁、東に落ちる竪堀、架かる橋、本曲輪虎口手前より二の曲輪間の大堀切、二の曲輪高土塁を観察、本曲輪、神社鎮座、ここまでは歩きやすい、神社奥にL型土塁、蘇鉄、前回来た時は本曲輪に縄張図付の案内板が有ったのですが今回は無い、一昨年の台風被害で飛ばされたのか、大木が根こそぎ倒れた痕跡散見、伐採され通路確保、二の曲輪の大堀切を通り二の曲輪へ高土塁観察、二の曲輪東中間に堀切、その奥は笹も茂り撤退、堀切1、2は確認せず、本曲輪西の横堀も確認せず。
 完全踏破は出来てませんが見応えの在る山城です。

 歴史的には斯波氏今川氏徳川氏の抗争、武田氏の対徳川織田氏の抗争で磐田一言坂合戦、天竜川北上、社山城及び近くの信玄本陣合代嶋にかけて武田氏の駐屯、二俣城攻防、天竜川渡川、三方ヶ原の合戦、信玄の死、徳川の城と変遷し各改修が有った様子。

 もう少し景観整備と歩きやすく観察しやすくして頂けると有り難いのですが、無理な注文かもしれません。
 我が家から5km程北東、天竜川を越えて磐田台地が涅槃佛に見え頭の部分が社山城に成ってます良く眺めてる景観です。

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備中高松城攻防時の毛利輝元陣 (2021/01/06 訪問)

城跡の説明板がまだアップされてなかったので添付します。
備中の有力国衆の庄氏の本拠地であった後に、備中高松城をめぐる攻防(秀吉の水攻め)で、毛利輝元がここまで出ばって来た。東を眺めると総社市の平野が見えるが、備中高松までは見えなさそう。どの郭もとても広くて、大兵力が駐屯できそうだ。
本丸の先は大きな堀切。ロープが設置されており、滑りながら、堀底まで降りてみた。堀切にも流紋岩が露頭しており、石は現地調達できる。
登城道、郭とも良く維持管理されている。

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T-Shionoya

名古屋城訪問 (2003/06/29 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第2段は名古屋城。

濃尾平野の南東部に接する微高地・熱田台地の北西端に築かれた城。

東海道(京鎌倉往還)沿線で熱田港まで10kmほどの立地。
元々の那古屋城は若かりし信長が居城としていたこともありました。
しかし信長が尾張の中心街清州、小牧山、岐阜と居城を移すと那古屋城は一旦廃城に。
戦には向かない場所だったのでしょうか?

その後、名古屋城が再建されたのは家康の時代。
尾張徳川家の居城として巨大な天守、堀、石垣が築かれた上に、清州の街ごと引っ越しが行われ、西国諸大名からの防衛ラインとなったのですね。

現在、三之丸は県庁や市役所などに建て替わっているものの、北側半分をメインに江戸期の城郭を残している名古屋城。
訪問時は(西之丸の)正門から入城し、二之丸をまわり東側から御殿のない本丸へ。ほぼパンフレットの矢印通りに回ったのかな?
まだまだ城の観方が甘かったため、西北隅櫓など見逃している部分も多く、滞在時間2時間ぐらいで午後はノリタケの森に行きました。

印象に残っているのが、本丸搦手馬出のクランク。今はどうなったのでしょう?
また2018年5月から耐震性の問題で閉館となっている天守は、今後が不透明なようですね。

次に行く時は外堀や三之丸まで回りたいですが、1日では足りるかな~?

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑤:鹿野岡城➡城びと未登録(千葉県鴨川市) (2019/08/21 訪問)

真里谷城から転戦。車で60分くらいで着きました。
打墨神社駐車場(35.131236、140.079730)に駐車しましたが、膝痛で登山は断念しました。

未来の訪問者の為に登山口の駐車場を調べてきました。
ナビでは鹿野岡城の入口は打墨神社横からを示しました。この場合は打墨神社前に駐車可能です。
打墨口からの登山は石渡製菓「菜の花庵」さんの駐車場(35.124954、140.080441)が近いです。
花房口からの登山の場合はいくつかある案内指導標前後で路駐(35.127174、140.091190)。
またはちょっと遠いですが、大日交差点付近のローソン(35.121703、140.084614)に停められます。

鹿野岡城の詳細は不明ですが、「鴨川富士」とも呼ばれる鹿野岡山に築かれた城です。
戦国時代に正木氏か里見氏、どちらかの勢力の重要な城だったと推定されています。
2016年(平成28年)の調査で土塁や堀切などの遺構が確認され、城址であることが判明しました。
登山口は打墨口と花房口に2か所あり、地元の方々の手により登山道が整備されているそうです。
(ナビで示した打墨神社横からの登山は正式ルートではないようですので、打墨口と花房口からの攻城をお薦めします。中途半端な情報ですみません)

攻城時間は30分くらいでした。(登山していませんが、駐車場所を探した時間です)

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ④:真里谷城 (2019/08/21 訪問)

椎津城から転戦。車で35分くらいで着きました。
真里谷城跡入口(35.347768、140.108880)から入り、真里谷城の駐車場(35.344330、140.111526)に駐車して攻城しました。

1456年(康正2年)当時上総国は上杉政憲の支配地であったとされ、これを敵視する古河公方足利成氏の命を受けた武田信長が上総国に進出します。
信長は上総国進出の足がかりとして真里谷城と庁南城と併せて築城し、その後は真里谷武田氏(その後の真里谷氏)の居城となりました。
その後、武田信長の孫の中でも真里谷城に本拠地を構える武田信興から姓を「真里谷」に改めます。
真里谷氏は真里谷信興から信勝、信清の3代の間に最盛期を迎え、真里谷信清(入道恕鑑)の代には対立する原氏が拠る小弓城を攻略し、足利義明を迎えて(小弓公方)、信清自身は「房総管領」を称するようになります。
真里谷信興から数えて4代目真里谷信隆の代に異母弟真里谷信応との間で内争が発生します。
信隆の父である信清から家督を継いだのは庶子の信隆であったのだが、それからまもなく信清の正室が信応を生んだことにより家臣を巻き込んだ後継者問題です。
「嫡子である信応が家督を継ぐのが正当である」と考えた信応派の家臣は足利義明、一族の有力者である真里谷全方の支持を得て、信隆から家督を奪う事に成功し、真里谷城に入城します。
家督を奪われた信隆は北条氏綱庇護の下、椎津城に逃れた後、武蔵国金沢に逃れます。
1538年(天文7年)の第一次国府台合戦の結果、小弓公方方は敗北したことにより信応は失脚し信隆がふたたび真里谷氏当主に返り咲くが、一族の争乱を収める事が出来ず北条氏に臣従するような状況となり、真里谷氏は上総地方の支配力を失います。
この一連の事件を契機に真里谷氏の拠点が真里谷城から椎津城に移ったとされています。以降、この地は北条氏と里見氏の係争地となりました。。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、そのまま廃城となりました。
現在城址はキャンプ場になっており、本丸跡まで登山道が整備されています。

駐車場前に概念図があり、城山神社➡主郭(千畳敷)➡駐車場➡二の郭➡三の郭➡四の郭➡一杯水➡駐車場と回ってきました。素晴らしい城跡です。
攻城時間は45分くらいでした。

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