JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の14城目は松岡城です。
吉田南城から転戦。松源寺駐車場(35.547370、137.8626)に駐車しました。
当初は吉田南城➡吉田城山城➡松岡城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で吉田城山城は城びと未登録でパスしました。
南北朝時代に松岡氏により築かれました。
松岡氏は1051~62年の前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の次男・仙千代に始まるそうです。
松岡氏は次第に勢力を拡大し、南北朝時代には北朝方として活動しました。飯田周辺では天竜川西岸が北朝方、東岸が南朝方だったようです。
1544年、井伊直親が落ち延びて来ました。
井伊直親は井伊直政の父親です。井伊直親の父・直満が家臣の讒言により主の今川義元に攻め滅ぼされました。
井伊谷を追われた当時9歳の井伊直親は、祖父・直平と交流のあった松源寺に逃れました。
ここの高僧が禅宗に傾倒した井伊直平に請われ、井伊谷に龍潭寺を開基していました。
井伊直親は1555年に井伊谷に復帰するまで、松源寺で隠棲しました。
1554年、松岡氏は武田信玄が信濃から遠江に侵攻すると臣従し、伊那衆として山県昌景の配下となりました。
武田軍により府中小笠原氏や鈴岡小笠原氏、知久氏が信濃を追われました。これにより、かつて甲斐に追われていた松尾小笠原氏が復帰しました。
織田信長が武田勝頼を攻めた際、松岡頼貞は織田軍に降伏しました。山県昌景は1575年の長篠の戦で既に討死していました。松岡頼貞は飯田城主となった毛利秀頼の配下となりました。
その数ヵ月後には本能寺の変により、織田信長が斃れました。毛利秀頼は他の織田家臣同様、所領を捨てて逃げたため空白地帯となりました。最終的には信濃・甲斐の大部分を徳川家康が支配下に収めました。
1582年、松岡頼貞は徳川家康に仕えるようになりました。
1585年、深志の小笠原貞慶が豊臣秀吉に寝返り、徳川方の高遠城を攻めました。これは、石川数正が人質の小笠原政秀を連れて豊臣秀吉に寝返ったためです。
松岡貞利が高遠城攻めに加わろうとしました。合流前に小笠原軍が大敗したためそのまま退却しましたが、この動きは家臣により知久平城主・菅原定利に通報されていました。
1588年、3年前の背信行為により、松岡貞利は改易処分となり、松岡城廃城となりました。
この時、井伊直政が松岡貞利の助命嘆願をしたため、死罪は免れました。以後、松岡氏は井伊家臣となりました。
現在は城址公園として整備されており、土塁や空堀などの遺構が良好な状態で現存しています。
五の曲輪にある松源寺は松岡氏の菩提寺で、井伊谷城から逃れてきた幼少の井伊直親(亀之丞)がかくまわれていた寺でもあります。
歴史を見ると、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」を思い出します。井伊直親が幼少期を過ごした松源寺も見学しました。
ドラマでは井伊直親は三浦春馬さんで、井伊直政は菅田将暉さんでした。(主演の直虎は柴咲コウさんでした)
駐車場もあり、そこに案内図もあり、整備が行き届いています。とても見学しやすかったです。
ものすごい深い堀が5つもあり、曲輪もあって遺構が良好に残っています。松岡城は本城と支城(南城)の2つに分かれていますが、自分は支城はパスしました。
本城と支城は何を挟んで対面にありますが、本城から支城はみえませんでした。
攻城時間は25分くらいでした。
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