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同じ山塊にある大仙山城も良い (2019/10/16 訪問)

模擬天守がある周匝茶臼山城と緩斜面の鞍部を介して大仙山城がある。周匝茶臼山城の模擬天守下まで細い車道があり、その途中に大仙山城に入って行く道(車は行けない)の表示がある。道及び大仙山城内は、白杭とロープで丁寧に案内されている。大仙山に行く尾根は緩斜面であるため、たくさんの堀切が設けられている。
周匝茶臼山城の郭跡や竪堀の残りは良好だが、大仙山城の方が規模が大きく残りも良い。要所に立てられた手書きの説明板の内容が微妙で楽しい。

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トーダイ

元「伊自良の里」資料館は閉館してます (2019/10/23 訪問)

詳細不明ですが。鎌倉時代から活躍した伊自良氏の館跡です。

温泉施設「伊自良温泉」駐車場を利用、伊自良橋を渡ると平成10年開館したが、
入館者が少なく閉館した元「伊自良の里」資料館があります。展示資料は福井県立
歴史博物館へ移管されてます。

隣接して「館」風の建物が続いており、入口に「いじら・やきはた食堂」とあるが、
営業している様子はない。周囲に遺構らしきモノは見当たらず、温泉施設「伊自良
温泉」だけ繁盛している。

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イオ

城郭史上画期的な城 (2019/09/15 訪問)

松永久秀が大和国支配のために築いた城で、多聞櫓の発祥の城であり、瓦葺きの屋根、漆喰塗りの白壁、そして天守の先駆けとも言われる四階建の高矢倉など、後世の築城に大きな影響を与えた画期的な城でしたが、久秀が織田信長に反旗を翻すも敗れて開城した後は破城となり、主殿は京都に、高矢倉は安土に、石材は筒井城に運ばれました。

本丸部分は現在では若草中学校の敷地になっており、遺構の多くは失われましたが、中学校の西側、西丸付近には土塁や櫓台がみられる…ようです。きちんと許可をとれば学内に立ち入って見学できるとのことですが、日曜の朝だったからか、門を入ったところの建物には教職員の姿はなく、無断でずかずか入り込むのは気が引けるので、この日は周辺を散策するにとどめました。

中学校の門から少し下って、西に向かうと佐保山南陵(聖武天皇陵)と佐保山東陵(光明皇后陵)があり、南陵の西側をまわって北側の狭い路地に入ると、南陵と東陵の間に設けられた堀切に行き着きます。天皇(皇后)陵のため立ち入り禁止ですが、それだけに往時の姿が残っていると思われます。
中学校の北側を切岸を見上げながら東に進むと、本丸と善鐘寺山(中学校のグラウンド)の間の堀切が切通道として残っています。この切通道から見ると東大寺などの社寺はすぐそこで、南都に睨みを利かせる城だということを実感します。

なお、中学校の門から南に下って、堀代わりとされた佐保川を渡ったところの若草公民館には、多聞山城についてのパネルや地形の模型が展示されているほか、資料もいただけるので登城前後にぜひ。
また、少し(かなり)離れていますが、生駒郡安堵町の旧石田家住宅(重文・中家住宅の西隣)には、多聞山城から移築されたとされる長屋門が残っています。…今にも倒壊しそうですが。
 

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カズサン

伯耆の拠点的城跡 (2017/04/21 訪問)

 一昨年の4月下旬、淀江台場を終えて大山北側丘陵の先端を活用した中世伯耆一の城跡尾高城を初登城。
 この城は山名氏、尼子氏、毛利氏と移り変わり山中鹿之助の逸話でも有名な城で、関ヶ原後中村一氏息子一忠駿府城より伯耆の国18万石で入封し米子城が完成するまで居城とし以後廃城。
 桜の過ぎた時期でしたので名残のぼんぼりが揺れていました。 車は尾高城天神丸跡に当たる温泉施設の駐車場に停めて探訪、堀切に当たる大山道を渡り、説明板、武家屋敷跡、堀跡、南大首郭跡、隅櫓台、中の丸、本丸二の丸の有る森を遠望、天神丸、温泉施設シャトー・おだかで尾高城の資料を頂く。 本丸二の丸は入れない。
 

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カズサン

伯耆五台場の一つ (2017/04/21 訪問)

 一昨年の4月下旬高校卒50年同窓会、鹿野城下檀家寺法要用事で鳥取帰省用事の前に伯耆の城廻り淀江台場に初探訪、国道9号線を西に走り台場は直前、漁港近くの漁業協同組合淀江支所の駐車場に停める、後で探訪したら台場北横に駐車場(3台位)が完備。
 鳥取藩で8台場有り伯耆では5台場(国史)赤崎台場以外は台場の形が残ってます境台場、由良台場、橋津台場とここの淀江台場です。
 ここの台場も農民の力と農兵で造られ守られていたようです。

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にのまる

ここも亀山城 (2019/09/24 訪問)

藤堂高虎が家康の天下普請のために今治城天守を丹波亀山城に献上したという逸話には、なんてもったいないことを…と思ったものですが、元々彼は天守を解体するつもりでいた(移築先が伊賀上野城→丹波亀山城になった)ということを知り、それならもったいなくもなかったかと…(^-^)
そして、層塔型天守のフレキシブルで方形の基礎さえあればどこにでも建築可能で真似しやすいという特長が、世渡り上手と言われた彼の生き方(近年汚名返上されてきていますが)と重なり、改めてお城と武将(ハードとソフト、みたいな。)は一体のものなんだと感じた次第です。
ただ、丹波亀山城の古写真を元に再建された今治城天守は〈なんか違ってしまった〉ようで、高知城と掛川城のようなwin-winの関係になるのは稀なことなのかもしれないと思いました。
古城感みなぎる石垣は見上げるだけで満足でした。

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赤い城

民家の裏山 (2019/10/20 訪問)

細い道で駐車スペースがなかったので埼玉県農林公園に車を置き徒歩で10分くらい。
説明板がたっている奥はどう見ても民家。
声をかけると見学させていただけそうなのですが呼び鈴を押すのも気が引け、遠景のみの見学となりました。
畠山忠重の家臣本田親恒の居館とされ、現在も本田氏の末裔がお住まいのようです。
遺構もあるとのこと。
有れば、ですがまたの機会に。

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カズサン

吉川経家墓所 (2017/04/20 訪問)

 一昨年の4月下旬鳥取に用事で帰省の途中丹波、丹後未踏の城を廻り高速京都縦貫道、舞鶴若狭道、北近畿豊岡道を経由して国道9号線で鳥取に入る、帰省の度に鳥取城には寄ってるのですが今回は高校卒後50年ぶりに鳥取城の裏側東方面の吉川経家公の墓所に参拝、昔に比べればきれいに整備され公園化、周辺は宅地が進んでました。
 
 吉川経家は毛利氏より城主として送られ秀吉との第二次攻防戦を戦い三ヶ月あまりの籠城戦の末、自身切腹に変えて城兵を守った事で名を後世に伝えてる。
 
 終わって表側中御門前の擬宝珠橋復元工事の進捗状況確認し内堀より久松山に抱かれた鳥取城の石垣群を眺める。

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再訪▪城廻りvol.8 篠山城② (1987/03/06 訪問)

再訪▪城廻りvol.8 篠山城②
(昭和57年3月6日訪問▪平成31年4月7日再訪)

現在、篠山城を訪れてみると東側の三の丸に小学校があるだけで、その他は南、西、北側はとても広いオープンスペースとなり、駐車場やデカンショ祭りなどのイベント会場として利用されていますが、何か広大な空き地に少し寂しさを感じます。

これは、これまでの整備計画により、城と関係のない施設を城外移転するという計画に沿って実施されてきたものです。
また、計画当初は本丸にある青山神社や東側の三の丸にある篠山小学校も移転の対象になっていましたが、時代や状況の変化により、民俗資産として、または郷土愛を育んできた場として一番よい在り方を今後検討するというふうに、少しニュアンスが変わってきています。
最近、「お城が遠くなった」と市民からの声もあがるなど跡地の活用面が追いついていないという問題も。

しかし、お城ファンの私たちにとってはとても魅力的な篠山城。武家屋敷や商家群が多く残っているのも魅力の一つ。今後の計画でも、三の丸南側の南廊下門などの整備や大手馬出の整備などが予定されています。

歴史ファン、観光客や市民たちで賑わう篠山城をまた見ることができる日も近いのかもしれません。
三の丸がどのように整備、活用されていくのか楽しみでなりません。

(写真の説明です)
⑪手前の三の丸は篠山中学校のグランド。その先に南馬出の土塁が見えています。

⑫南馬出は完存する遺構ですが、木々が生い茂り土塁はあまりよく観察できませんでした。

⑬天守台には忠魂碑が建っていました。

⑭天守台上の忠魂碑は平成10年に城外移転。二の丸西側石垣上には、大書院と一緒に復元された大広間の屋根が見えています。

⑮左側の馬出内部には旧多紀福祉事務所の建物がありました。右の土橋は廃城後のもの。

⑯土橋は昭和57年に撤去されました。馬出内部の建物も撤去され、ポケットパークになっています。

⑰東馬出の北側の堀。

⑱旧多紀福祉事務所の建物と土塀が撤去されています。

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イシテル

稲葉一鉄が築いた城 (2019/10/22 訪問)

曽根城は、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄により築かれたとされています。
稲葉一鉄の母親の菩提寺として創設された華渓寺が本丸跡に現在、移設されています。
この華渓寺の北側は大きな池のある曽根城公園として整備され、多くの方が利用されていました。
遺構は、ほとんど残っていませんが、お寺の裏に復元石垣や西側も復元土塁があり、またこの地にゆかりがある春日局の碑、公園の近くにも斉藤利三屋敷跡を記録する碑があります。
お寺の敷地内には幕末の漢詩人であり勤王の志士であった梁川星巌の記念館が年中無休で無料開放いただいています。
梁川星巌記念館の中に入ると直筆の漢詩や書簡などが展示されており、また曽根城の記念スタンプも置かれていました。
記念スタンプの傍に御朱印がいただけるとのメッセージが書かれていましたので、和尚さんにお願いしました。
和尚さんの話では、以前、発掘調査が行われ、石垣や礎石などの遺構が見つかっていますが、調査が終わると埋め戻され、今は見ることができないとのことでした。残念ですが仕方が無いですね。

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再訪▪城廻りvol.8 篠山城① (1987/03/06 訪問)

再訪▪城廻りvol.8 篠山城①
(昭和57年3月6日訪問▪平成31年4月7日再訪)

天下普請で築かれた、二の丸御殿が復元されている丹波篠山城に行ってきました。今回で7度目の訪問です。
最初37年前に訪れた時は、本丸、二の丸は史跡公園として市民の憩いの場となっていて、三の丸には小中学校などの学校施設やグランドがあり、多くの生徒たちが行き交っていました。
二の丸ではちょうど発掘調査中で、昭和19年に失火により焼失した二ノ丸御殿の遺構が出土していました。(写真①)

今年の4月に訪れた時は、桜祭りの準備中。満開少し前でしたが、ここは桜の名所でもあり、多くの花見客で賑わっていました。

篠山城は昭和31年に国の史跡に指定されて以来、昭和41年から、明治の中頃に崩落し70年あまり崩れたままに放置されていた二の丸北側の高石垣の修理工事が始まり、毎年のように城内の石垣修理工事や復元工事が行われてきました。
平成10年に概ね完成し往時の石垣の姿を取り戻しています。

平成12年には、焼失以来、市民の念願であった二の丸大書院が復元され、歴史ガイダンス施設として多くの歴史ファンや観光客が訪れる場所となっています。

これまで、数度の整備計画が策定または見直しが行われ、現在も進行中で、南側の内堀の復元工事が行われています。
9月には三の丸南側の元市民グランドがあった場所の整備が完了し、公開されたばかりです。今まで立ち入り禁止でしたが、天守台の高石垣を間近で見上げることができるようになりました。
(再訪▪城廻りvol.8 篠山城②につづく)

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小城小次郎

館林城

かつて工場に占拠されたことで、結果的に広大な本丸の地が守られたとも言える。

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カルビン

雨ニモ負ケズ (2019/10/19 訪問)

この遠征の為に3週間週末の散策を我慢し、溜めていたエネルギー爆発じゃ~!
・・・って思っていたら現地は雨orz
最近この手の出鼻挫きパティ―ンが多い気がしますorz

米子駅でコインロッカー探すも見つからず、結局ポンチョ着てリュックまで防水対策して傘差し、徒歩で出雲市立山陰歴史館(入館無料)で続100名城スタンプと御城印を入手し、その足で米子城へ。

いくつかある登城口のうち、東側の二ノ丸枡形から入り、雨ニモ負ケズに九十九折の整備された登りを進み(久しぶりの為、低い山城にも関わらずバテたw)内膳曲輪を経由して主郭方面へ。

雨自体はそこまで強くなかったものの、濃霧と風が強かったのが厳しく・・・
頂上では折角の景観はお預けになり、撮影もかなり大変な事に。。。恐らく個人的お城散策のうち、歴代3本指に入る悪天候での散策となりました。
山上で行われているとされるイベントもやっている気配すらありませんでしたのでww


しかし続100名城に選ばれるだけあって、城域はコンパクトなものの各種石垣が素晴らしかったのは間違いありません。

自分の通ったルートはしっかり整備されており、雨でも足を滑らすような事もありませんでした。。。が、やはり晴天時に行きたかった・・・


ちなみに時間が合えば、麓近くにある「久米町」バス停からイエローバスが月山富田城方面に出ております。

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カズサン

京極氏の陣屋 (2017/04/20 訪問)

 一昨年の4月下旬、京都府綾部市の山家陣屋を終えて峰山陣屋を初登城。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん)

 山家陣屋を初登城終えて又京都縦貫道を終点京丹後大宮ICを降り峰山町市街金峰神社を北へ過ぎた当たりに案内板有り西に曲がり陣屋前の公民館に駐車。

 峰山藩初代藩主京極高通は丹後一国の城主京極高知の養子に成り高知の遺命により一万石を文知され将軍徳川秀忠拝領の3000石と合わせ13000石の大名として中世吉原山城の東麓に陣屋を構え明治期まで続く。
 陣屋内は現在畑などに成って居り市街地麓より一段高い高台に陣屋跡が残ってる。

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宗春

挙母城 (2019/10/05 訪問)

今は豊田市美術館になっています。
豊田スタジアムでラグビーワールドカップ日本vsサモアを観戦する前に寄ってみました。

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じゅんじん

天守台 (2019/10/05 訪問)

石垣のお城です。天守台がきれいな形。柵がないから足を滑らすと堀に落ちます。

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チェブ

岡津陣屋は運動会中。 (2019/10/20 訪問)

神奈川県横浜市の「岡津城」に行きました。

扇谷上杉 朝良さんの居城でしたが北条 早雲さんに攻略されます。
家康さんの時代には「岡津陣屋」が置かれました。

三嶋神社周辺、中学校と小学校が「岡津城」跡となってます。
神社と小学校の間に、きちんと土塁があります。
神社の裏手も高くなっているので遺構かもしれません。
少し高い所に中学校があるので本丸は、こっちでしょうね。
「岡津陣屋」は低い場所の小学校にあったそうです。

この日、小学校は運動会中でした。
たくさんの岡津城下のチビッ子、親御さんがいて写真が思うように写せませんでした。

駐車スペースもあります。
でも、この日みたいな学校行事の日は駐禁のパイロンを置かれてしまうのでしょう。中学校側にある神社入口のスペースに駐車しました。

運動会は台風で延期になり、この日になったとお話していたママさん達。
近くに「岡津城」の天然の掘りでもあった阿久和川、子易川があります。
やはり、台風の時は怖かったでしょうね。

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宗春

足助城 (2019/10/05 訪問)

ラグビーワールドカップ日本vsサモア観戦(豊田スタジアム)の前に登城して来ました。

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カズサン

【丹波・山家陣屋】京都府綾部市広瀬町 模擬城門在り (2017/04/20 訪問)

 一昨年の4月下旬高校卒50年記念同窓会の為鳥取に帰省途中未踏の丹波山家陣屋を初登城。(情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん)
 
 早朝高速を飛ばし京都縦貫道、京丹波ちわICを降りナビに従い山家陣屋へ、国道27号線沿いに山家陣屋の看板が出ています。
 車は模擬城門手前の駐車エリアに停める。
 
 城主谷氏は斎藤氏羽柴氏に仕え関ヶ原では西軍に属し田辺城攻めに参加したが細川藤孝の斡旋に依り許され所領安堵、明治まで続いた。

 入口に模擬城門がでんと構えて由良川、上林川の崖が防御し北側に大横堀を連なし北東側に大堀切と上部に鉢巻石垣が囲んでる。
 城址は公園と整備され桜の木が多く植わってるが登城時は葉桜、八重の桜は満開。

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おがっち

城塞のようなお城でした (1997/11/13 訪問)

熊本城を見に行ったのは、1997年でした。まさか地震で崩れてしまうとは…
本当にショックでした。

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