甲陽軍鑑に「駿河に久能、甲州に岩殿、上州の吾妻」と並んで武田の三名城と称される久能山城は、武田信玄公が駿河の今川を攻め滅ぼせると築城した山城です。築城前は、山岳信仰の天台宗の寺であった久能寺で、この地は信玄公が立地的に重要とし、強制移転させたといわれています。こうして信玄公は馬場美濃守・山県三郎兵衛の二人に命じて、三方を断崖絶壁に囲まれた難攻不落の山城を完成させました。
武田氏没落後は、中村一氏が駿府城主となり、この久能山城を守備したが、1607年再び徳川家康公が大御所として駿府に入ると、堅固な城として、本多上野介が守備に就いた。
家康公は「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言われるほど重要視していました。
現在の久能山城は、2代将軍秀忠公の命により徳川頼宣公が総奉行となり、大工中井大和守によって、1年7ヶ月で見事な社殿(国宝)を構える久能山東照宮として神君家康公を祀っています。また、家康公が眠る神廊があり、家康公のメッカとされています。
御祭神は徳川家康公 相殿豊臣秀吉公 相殿織田信長公を祀っています。
4度目の登城となりますが、2度目まではここが城であるとはつゆ知らず、いちご狩りしたあとに東照宮に参拝していましたが、城跡と知ってびっくり(@_@)城跡らしきものは残っていませんが、城跡としてみるとなるほどと納得する城跡です。
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