JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の9城目は丸子城です。
持舟城から転戦。誓願寺駐車場(34.9481965、138.3273671)に駐車しました。
道路沿いに説明板、登城口(34.948837、138.328737)の丸子の里自然歩道入口にむかいました。
丸子城は今川氏、武田氏に重視された城で、本丸は今川氏時代、武田氏時代と二カ所あるそうです。
山頂を中心に、今川時代に本丸があった北城と、武田時代の本丸の南城(千畳敷)を連結した縄張りになっています。
北城は応永年間(1394年-1428年)、駿河国守護今川氏の家臣、斎藤安元歴代の居城として築城され、北城の北側山麓には斎藤氏の居館が設けられていたそうです。
今川義忠が、1476年(文明8年)に戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と、小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていたそうです。
家督相続した氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城だそうで、氏親以降氏真までの城主や歴史は不明のようです。
また、家督相続した氏親は直ちに駿府の今川館には入らず、1495年(明応4年)頃まで丸子城を今川氏の居館である丸子館にしたとする説も出されているようです。
1568年(永禄11年)武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれました。
1570年(永禄13年)信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、1578年(天正6年)頃には屋代勝永に替えました。この間、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われたようです。
1581年(天正9年)高天神城落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守(松平清善?)を置いたが、1590年(天正18年)の関東移封に伴い廃城となったようです。
登城路は整備されており、駿河匠宿の観光スポットを横目に、ちょっとわかりにくい登城口から入って険しい道をしばらく登ると、いきなり丸馬出の見事な遺構が現れて感動します。
攻城時、強雨となった為、本曲輪のみの見学で下城。誓願寺には片桐且元の墓があるそうですが、見学しませんでした。
本曲輪までの距離表示が急に伸びたのには驚きました。
攻城時間は40分くらいでした。
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