悲劇の城・新府城の発掘調査に偶然立ち会いました。武田勝頼が城を焼いたという考古学的証拠はこれまでも見つかっていますが、今回新たに北側の門跡の土が熱で変色しているのが分かりました。さらに、焼け落ちた城を臨時補修した痕跡も出てきました。勝頼の自害後、加えて本能寺の変で織田信長が亡くなった直後でもあるこの混乱期、徳川家康は新府に本陣を構え、武田旧領の覇権をかけて北条と争っています(天正壬午の乱)。焼けた土の層のすぐ上に拳大の石を敷き、盛り土をしているのが分かります。現在の地表から1メートルにも満たない深さ。そこに400年以上前のドラマが埋まっていたかと思うと、鳥肌が立ちます。
偉大な父を持つと、息子はそれだけで過小評価されがちです。勝頼もそんな一人で、信玄ブームが起こった江戸時代から、名門家を滅ぼした「凡将」「暗愚の将」などと揶揄されてきました。ところが近年、こうした評価を見直す動きがあります。
実際、武田家は勝頼の時代に最大版図を迎えます。上杉謙信と信長は互いに宛てた書状で、いかに勝頼が優秀で警戒が必要な存在かを記していたそうです。一方、長篠の敗戦を機に武田家の内部崩壊が始まると、生き残った古参武将は次々と離反。信長の甲斐侵攻に備えて急造した新府城をめぐっても家内の意見は割れたといいます。武田流築城術の粋を集めた平山城ですが、そもそも「城を枕に」という発想は従来の家風と馴染まなかったのかもしれません。改革が行き過ぎたのでしょうか。結局、その後も造反が止まらず、勝頼の入城からわずか60日後の1582年3月、自ら火をかけ敗走しています。
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