東京・有楽町の国際フォーラムにぽつねんと立っていた太田道灌像の周りに情報発信コーナーができていました。道灌像と江戸城寛永天守の模型を並べるのは、何も知らない人から見ればややミスリードですが、そこはご愛嬌。
関東における道灌の知名度はかなりのもので、10カ所以上に像が立っています。後に主筋から謀反を疑われるほどの影響力を有した背景には、当時の江戸の地形が関係していたようです。
徳川家康による造成以前は、城の東に川が流れ、現在の日比谷は東京湾の入江だったとのこと。東京駅から銀座にかけては「江戸前島」と呼ばれる半島が伸びていて、この水運を利用して江戸湊の繁栄を築き、財力を誇ったのが道灌だったのです。
主君に代わって相模・武蔵一帯を支配し、古河公方への睨みを利かす一方、その権限は軍事、交易にとどまらず、税の徴収・免除にまで及んだといいますから、身内とはいえ、二心ありと疑われても無理はない状況だったのかもしれません
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