過去のお城巡りの振り返り、第4段は埼玉県行田市の忍城。
北の利根川と南の荒川(現在の元荒川)によりつくれた氾濫原の微高地群(自然堤防)を利用した城。
現在は水城公園程度ですが、元々は広い沼があり、その水を生活用水や田園に引き入れる拠点にでもなっていたのでしょうか。
交通面では、江戸期は中山道の鴻巣および熊谷から館林・佐野へ向かう日光脇往還の分岐点。
利根川の川俣の渡しを管理(新郷川俣関所)していました。
江戸時代以前は中山道がどうだったかわかりませんが、川越街道(松山から北は現国道407号線)も近くを通っており、きっと古くから熊谷と館林を結ぶルートがあったのでしょう。
そんな地域に室町中期には成田氏が居城しており、山内上杉氏や北条氏に従属。
秀吉の小田原征伐以降は松平氏や阿部氏が城主となり、阿部氏によって江戸期の城郭整備が行われました。
現在の忍城址公園は、その城郭の一部である本丸エリア。
そこに元々中央小学校と水城公園の間にあった三階櫓や、二ノ丸東隅にあった鐘楼が復興されています。
訪問時は、まず水堀を渡って郷土資料館と三階櫓へ。
裏には本丸南側の土塁が残っています。
ほとんど遺構がない忍城ですが、小さなスペースで江戸期の城が感じられました。
続いては城の南西部の水城公園へ。
元々はこの池が城郭一帯に広がり、天然の要害となっていたのですね。
最後はチョット移動し石田堤史跡公園へ。
忍城といえば石田三成の水攻めを耐え抜き、秀吉の小田原征伐で最後まで落ちなかった北条方の城。
攻め手の三成も28kmにわたる堤を5日とか1週間でつくるとは、当時の土木技術の力を感じます。
小田原征伐以前も、忍城は何度も落ちなかった歴史があり、関東七名城の1つにあげられているのですね。
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