主郭は土塁で囲まれ石積も確認できます。発掘調査によって内部から建物礎石も見つかってます。
3つの小川城の中では1番整備されていて眺望も良いです。県道138号線の案内看板から2kmで城跡まで行けますが、この2kmは普通車ですれ違うのも難しいので注意が必要です。
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2020/12/26 18:32
県史跡 (2020/11/22 訪問)
主郭は土塁で囲まれ石積も確認できます。発掘調査によって内部から建物礎石も見つかってます。
3つの小川城の中では1番整備されていて眺望も良いです。県道138号線の案内看板から2kmで城跡まで行けますが、この2kmは普通車ですれ違うのも難しいので注意が必要です。
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2020/12/26 08:55
信州(列車&レンタサイクル)日帰り⑥ 田口城 (2018/06/24 訪問)
「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の6城目(ラストです)は城びと未登録の田口城です。龍岡城からの転戦です。
龍岡城から徒歩で田口城南側登城口目印の黄色いカーブミラー(36.197486、138.503896)に到着。であいの館から2~3分で着きます。
カーブミラーの小道をひたすら山方向に進むと田口城に着きます。
田口城は田口氏の居城として知られています。1546年には武田信玄の佐久侵攻により落城しました。1548年の「上田原の戦い」で武田氏が撤退するとその混乱に乗じて、田口長能が城の奪還を図りましたが、敗けて田口氏は滅亡します。
その後は阿江木氏の流れを汲む依田能登守の城でしたが、武田氏滅亡後は徳川家康についた依田信蕃が攻略して本城としました。
城址には石積みや堀切などの遺構が確認できますが、山頂(展望台があります)から龍岡城の五稜郭が見られることで有名です。
山麓にある蕃松院は信蕃の子・松平康国が信蕃のために建立した寺で、信蕃の墓とされる五輪塔があります。攻城時間は50分くらいでした。
帰りは龍岡城駅まで戻り、佐久平駅経由の新幹線で帰宅しました。
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2020/12/26 08:18
信州(列車&レンタサイクル)日帰り⑤ (2018/06/24 訪問)
「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の5城目は龍岡城です。小諸城からの転戦です。
続100名城スタンプは「五稜郭 であいの館」で押しました。
小諸駅からJR小海戦で龍岡城駅で下車し、そこから徒歩で龍岡城北の入口枡形(36.199448、138.500672)を経由し、「であいの館」で続100名城スタンプを押印/展示資料見学後、龍岡城に到着しました。
龍岡城は函館とともに日本に2つしかない五芒星形の西洋式城郭の内のひとつです。函館の五稜郭に3年遅れ、1867年に龍岡藩主・松平乗謨(まつだいらのりかた)によって築かれたようです。
完全な完成前に明治維新を迎え、廃城となりました。廃城後、城内のほとんどが農地転用されましたが、稜堡式の石垣や水堀に加え、御殿の一部である御台所櫓が現存しています。
城址内を一通り見学した後、五芒星形の形を確認する為、城びと未登録の「田口城」に向かいました。攻城時間は40分くらいでした。
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2020/12/26 06:35
信州(列車&レンタサイクル)日帰り④ (2018/06/24 訪問)
「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の4城目は小諸城です。鍋蓋城からの転戦です。
100名城スタンプは「懐古園事務所」で押しました。
鍋蓋城からレンタサイクルで小諸城の大手門(36.328800、138.421952)に到着して見学した後、小諸観光案内所にレンタサイクルを返却。
それから、小諸駅の陸橋を渡り、懐古園(小諸城)に到着しました。
小諸城については、城びとの概要にも記載されていますので説明は割愛します。
攻城ルートを写真から辿ると、小諸駅➡「徳川秀忠 憩石」➡三の門➡食違い虎口➡二の門跡➡二の丸跡➡番所跡➡中仕切門跡➡北の丸跡(弓道場)➡南の丸跡➡稲荷神社➡黒門橋/黒門跡➡お駕籠台跡➡本丸跡(懐古神社鳥居)➡懐古園の碑➡懐古神社➡山本勘助愛用「鏡石」➡庭園の池➡社務所➡天守台➡小諸八重紅枝垂(馬場)➡富士見展望台➡観測の木➡草笛演奏機➡武器庫➡酔月橋➡水の手展望台/水の手不明御門跡➡藤村記念館➡荒神井戸➡山城館(そば処:おそばを食す)➡ふたたび南の丸跡➡下城➡本陣主屋➡小諸駅
動物園/遊園地/小山敬三美術館以外、ほぼひととり見学しました。
自分的には食違い虎口と天守台の石垣、三の門(寄棟造)、大手門(二層入母屋造の楼門)がお勧めです。 攻城時間は2時間30分くらいでした。
本文を書いていて思い出しました。自分は攻城時の記録用にスマホとデジカメで写真を撮りますが、大手門前で撮影中に自撮棒からスマホがはずれて地面に落ち、スマホ画面にキズがつきました。
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2020/12/25 23:32
2020/12/25 23:24
甲相駿三国同盟が凍結された場所 (2020/12/20 訪問)
創作説は強いが、善徳寺は駿東地域の象徴的な場所であり、大規模な寺院であった。
その同盟を破って駿河に攻め入った武田軍によって焼失されたとある。その事は結果論からも事実であろうが、なんとも酷いことを…。さて、遺構はほとんど残っていない。
場所も、本当にわかりにくい。公園に駐車場があるが、普通車では難しそう。
公園化されているが、ここから見える富士山は今も昔も変わらない。今日は残念ながら、山頂に傘雲がかかっていたが、雄大な景色の下、歴史的な話し合いが多々あった事がしのばれる。
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2020/12/25 23:19
駿甲国境の押さえの城 (2020/12/20 訪問)
富士山本宮浅間大社とは川を隔てた東側にある。今は大宮市の運動場が一の曲輪で、校舎がニの曲輪、蔵屋敷神社や長屋門付近が、蔵屋敷曲輪だったとある。案内看板が皆無で寂しいが、出土品は大量に発掘されていて、しっかり調査済みのようだ。富士山周辺は、どうしても地形が一辺倒であり、なかなか城を築城するには難しいのではないかと思う。さて、この城は武田氏の駿河侵攻時にまず攻め入る城で、歴史の舞台に度々登場する。築城した富士氏は、浅間大社の大宮司家だったとの事。武田が侵攻して来た時の浅間大社はどのようだったのか、など興味は尽きない。
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2020/12/25 21:56
八王子城の話・お返事
今年の2月に八王子城を訪れたときに、前年の台風19号で露出した御主殿の滝の石をガイドさんに案内していただいたのですが、その時の、大手道を歩きながらのガイドさんとのやりとりを猿さんのご投稿を読んで思い出しました。
ガ:「古い石垣と新しい石垣の境目はどこでしょう?」
私:「全然わかりません!」
ガ:「この上の曲輪は何段あるでしょう?」
私:「2段!」
ガ:「3段です。」
ガ:「御主殿虎口の石段はあるお城と似ていますがどこでしょう?」
私:「安土城!」(←これは知っていた。)
ガ:「信長のところに北条氏照に遣わされて行った間宮綱信が安土城の築城に携わり、安土城に似せて御主殿の石垣を築いたという説がありますが、では間宮と言ったら?」
私:「間宮海峡!」(←ボケたつもり。)
ガ:「そのとおり。」
私:「えっ?」
…とこんな感じでした。
間宮海峡の間宮林蔵は間宮綱信の後裔で、綱信は北条氏滅亡後、家康に取り立てられ大出世したということです。
(「北条のお城なのに何故石垣が多いのか」という猿さんの問いの答えにはなっていませんが、素人の私が検索して貼るのもアレなので…。)
猿さん、お城EXPOでは平山先生の講演にもいらしていたのですね。戦国の忍びの話。かまり、透波、乱波…。非正規雇用でアウトローな存在だった名もなき人たちの忍び働きなくして城も戦も成り立たなかったというお話はたいへん興味深く、現代社会と変わらない側面もあるのではないかと思いながら拝聴しました。
昌官忠さん、いつも美しいお写真を拝見させていただいております。仰せのとおり滝山城は(ざっくり)我が領域内です。どうぞお通りくださいませ(^^)/
と言いましても私は脱藩してきた流れ者で(奥方様と同郷のようで!)、領民感覚はあまりないのですが。
城びとさんのなかにはこのあたりが(多分)“庭”の方もいらっしゃるようです。。。
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2020/12/25 21:14
伊勢湾の海運を収めた城 (2020/12/20 訪問)
南北朝時代、1350年頃に一色氏がこの地に城を築いて伊勢湾の海運を収めたとある。その後、佐治氏の時に水軍を率いて活躍。
非常に重要なだ。戦国時代には織田信長の弟である長益が入ったが、すぐに大草城築城に入ったようだ。さて、主曲輪には模擬天守が建っているが、西側には大きな外堀と土塁があり眺望も最高だ。大草城も一望出来るとある。まさに、伊勢湾を収めるに相応しい城だ。
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2020/12/25 21:06
白山城(富貴城) (2020/12/20 訪問)
円勧寺と白山神社が並んでいるが、地元の方に聞いたところ白山神社に城があり、白山城と呼ばれているとの事。今は埋まってしまったが、白山神社のま周囲をグルリと堀があったとの事。確かに軽トラ1台通れる程度の堀跡の道があり、土塁が残存している。
勿論、円勧寺も城の一部を担っていたであろう。城の近くまで海が来ていたであろうが、張り出してたようには現状見えない。コンパクトではあるが、知多半島の東岸を南北に通る街道の抑えの城だったのではなかろかと思う。
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2020/12/25 20:38
4・500年早く産まれていたら城主でしたね。 (2019/07/29 訪問)
城郭廻りを本格的に初めて2か月余りたった頃、まだ知識も今以上に不足していて遺構に指差呼称しなが廻っていた去年の7月29日に訪れました。
そこは1段上がった所に主郭が有り、取り囲むように土塁付の帯曲輪が配置されている小規模な城郭です。地元の人々に愛され定期的に整備をされているとても見やすい城郭です。正面虎口の樹木は地元の方が植樹されたそうです。
その日は城郭に向かう沿道には多くの幟が立てられていて、沿道右側にある神社で【吉広楽】なる伝統的な祭りのある日でした。その様子を眺めなら進み、道路の終点になっている城郭正面に到着。そこで身支度している最中に1台の車でやってき来た夫婦が1組。こちらに来て「城跡見に来たんですか?」「はい、そうです」「私はよしひろです」私「・・・・。」それまで城名は(きちひろ城)と呼んでいたので話がかみ合いません。よくよく話をしてみると吉広氏直系の現当主の御夫婦でした。ほんの4・500年早く産まれていたならお殿様と奥方様です。ご主人はハキハキ喋る方、奥様は上品な方でした。
城郭く近くの吉広楽の主賓で他県から来られる途中に立ち寄ったそうです。それからご主人の案内で城郭をひと回り、和紙製の直筆名刺と手造りの焼物の御猪口をお土産に頂き、なんとも贅沢な攻城となりました。
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2020/12/25 17:46
亀山城と城下の風景 (2020/12/24 訪問)
東海道は亀山宿、関宿より野村の一里塚を経て亀山城下に到着。
広重が描いた亀山城のイメージをたどりながら城下の散策を楽しみました。
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2020/12/25 17:33
2020/12/25 17:24
石碑しかない城跡 (2020/12/20 訪問)
ここまで遺構や資料が少ない城は珍しい。勿論、区画整理時の調査も無し。個人的には、そのような城跡から色々と勝手に想像するのが楽しみ。
築城が1397年で廃城が1580年とすると、戦国期に活躍した城だった事がわかる。立地的にも知多半島の付け根でかつ、付け根の真ん中付近。主な城主が吉川氏と今川氏の家臣であった花井氏とあるが、石碑や国道を挟んで向かいの吉川熊野神社の石碑からは「浅田」姓の名がずらりと並ぶ。熊野神社の建立が築城事とほぼ同時期との事から、石碑付近と今の熊野神社までは一帯化していたと想像する。熊野神社は曲輪や土塁形状を有しており、城もそれなりに大きく堅固だったと想像する。
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2020/12/25 17:17
古城の位置に新城を築いた城 (2020/12/20 訪問)
まず、緒川城は東浦役場の北東にある。
「古城の位置に新城を築いた」とある。
普通、より堅固な位置に変えるのに珍しい。
紛らわしいのが、役場の西、敷地内に何故か緒川城の少し古い石碑が隠れるようにある事だ。
しかも、役場の西にある乾坤院や於大公園から役場付近一帯に大きな土塁や曲輪群が見られるので新城なのかなと思ってしまうが…。
私の理解不足なだけだが、いまだに釈然としない。
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2020/12/25 08:46
探すまでもない転用石 (2020/12/06 訪問)
丹波国を平定した明智光秀が築いた城で、明智秀満が城主を務めましたが、山崎の戦いの後は羽柴秀長や杉原家次が入り、関ケ原の戦いの際には西軍についた城主・小野木重次が細川忠興の攻撃を受け、開城させられています。関ケ原後は有馬豊氏が入り、城や城下町を現在の形に改修しましたが、久留米に加増転封になり、その後、何度かの入れ替わりを経て城主となった朽木氏が明治まで13代にわたりこの地を治めました。明治の廃城令により福知山城は解体されましたが、昭和に有馬豊氏の頃の絵図を元に天守が再建され、今も往時を忠実に復元した姿を見ることができます。
天守群は一見しただけでは構造を把握しづらい複雑な造りで、そのため見る方向によって見え方もずいぶん異なり、見飽きることがありません。再建ながら大好きな天守(のひとつ)です。天守台も見どころで、西側は築城時の石垣と増築時の石垣の境界線がはっきりと出ています。また用いられている転用石が非常に多いことでも有名で、探すまでもなく次々と転用石が視界に入ってくるなんて城はここだけじゃないでしょうか。さらに、本丸の銅門番所の南隣や本丸北下は転用石置場になっていて、発掘調査で発見された転用石が数え切れないほどに並んでいます。銅門番所は二ノ丸登城口にあった番所を移築したもので、貴重な現存建物です。天守東側の豊磐井は城内では日本有数の深さ(50m)の井戸で、海面よりも深いんだとか。
できれば蛇ヶ端御薮(明智薮)や御霊神社を訪れ、移築門めぐりもしたいところでしたが、この日は朝から黒井城に6時間いたため、福知山城は本丸のみで時間切れ(再訪なので天守にも登らず)。しゃべる光秀自販機で飲み物を買って(金額不足で「信長~っ!」の怒声を聞くのはお約束)、駐車場奥のゆらのガーデンでお土産を買って帰途につきました。
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2020/12/25 07:29
信州(列車&レンタサイクル)日帰り③ 鍋蓋城 (2018/06/24 訪問)
「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の3城目は城びと未登録の鍋蓋城です。富士見城からの転戦です。
富士見城からレンタサイクルで鍋蓋城(36.329485、138.421497)に到着。
鍋蓋城は大井光忠によって築かれた城です。のちの小諸城が築城された時代には鍋蓋曲輪として、小諸城代家老屋敷などが置かれました。
現在、遺構は残っていませんが、「大井伊賀守居城鍋蓋城址」の看板を掲げた家があります。
攻城時間は5分くらいでした。
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2020/12/25 07:23
信州(列車&レンタサイクル)日帰り② 富士見城 (2018/06/24 訪問)
「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の2城目は城びと未登録の富士見城です。上田城からの転戦です。
上田城から徒歩で上田駅に戻り、しなの鉄道で小諸駅到着。
小諸駅の小諸観光案内所でレンタサイクル(郊外・山向け用➡電動アシスト:おもてなし5号)を借りて富士見城に向かいました。
小諸観光案内所のお姉さん?がとても親切な方で、富士見城や小諸城、「真田と信州」について丁寧に教えてくださいました。
目指す先は小諸高原美術館(36.343832、138.420440)です。美術館の西側駐車場に登城口があります。
富士見城は大井氏が滋野氏に対する備えとして築いたたとする説や、武田信玄が天文年間(1532年~1554年)に佐久地方に進出する際に鍋蓋城(小諸城の前進)の支城として整備したとする説などがあります。
武田氏滅亡後、徳川氏・上杉氏・北条氏に加え、真田氏が信州の支配権を争った「天正壬午の乱」の際には、徳川家康の家臣・柴田康忠が一時居城としました。
その後、仙石秀久が小諸城主になってからも小諸城の支城として存続しましたが、元和の一国一城令で廃城になりました。
現在は「飯綱山公園 歴史の広場」として整備されており、信州の城としては珍しくほぼ全ての曲輪で石積みが使用されています。
攻城時間は45分くらいでした。
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2020/12/25 06:50
2020/12/25 06:49
信州(列車&レンタサイクル)日帰り① (2018/06/24 訪問)
「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の1城目は上田城です。
上田城は3回攻城しています。
①20170408
②20180624
③20201013(投稿済)
自宅最寄り駅から新幹線等を使い朝8時前に上田駅到着。そこから徒歩で上田城に向かいました。
朝8:00過ぎの攻城の為、写真に写り込むお客さんはほとんどいませんでした。
100名城スタンプは当初、上田市観光会館で押印する予定でしたが、早朝の為、開いておらず(土日祝の開館は9:00~)
あわてて東虎口櫓門に戻り、門側でスタンプをゲット。
上田城の見学は1回目(2017/04/08)で、ほぼ終わっているので今回の目的であるスタンプ押印を終え早々に撤退し、次の目的地の富士見城を目指します。
攻城時間は30分くらいでした。
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