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イオ

杉谷砦(滋賀県甲賀市甲南町杉谷) (2021/01/31 訪問)

詳細は不明ながら、杉谷砦は杉谷氏(甲賀五十三家)が築いた出城と伝わります。なお、織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる杉谷善住坊は杉谷氏の一族とも言われます。

県道から正福寺の東側に続く道に入り、少し行くと車両通行止めになっていますので、道路脇の空きスペースに路駐させてもらいました。駐車場所から正面の藪に突入すると主郭北西部に至るのですが、進入路を見付けられず、竹藪沿いに東に少し進んだところから突入すると、東側の堀切から続く竪堀の北麓に出ました。杉谷砦の一番の見どころと言われるだけあって、相当な深さで東尾根を完全に断ち切っています。堀切の西側には主郭があるはずですが、ルートがわからないので土塁によじ登ってみると、はるか下に主郭が見えます。大変な高さ(7mくらい)です。主郭に下りていくと広さはないものの、東辺から南辺、西辺までを高土塁で囲んでいます。主郭北東隅から東側の堀切に続く道があり、堀切を越えて東尾根にも行ってみましたが、雑木林になっていて特に削平された様子もないので、城域ではなさそうです。それにしても、堀切のあちこちに石仏が転がっていたのは何か謂れがあるものなんでしょうか。

…ということで、この日は甲賀の新治地区・杉谷地区の城をめぐりましたが、こんな小さな砦に至るまで見上げるような高土塁を備え、徒歩圏内に10以上の城が密集し、それぞれ登城口からすぐに遺構にたどり着けるというのは……甲賀の城、最高すぎますね。満足満腹を通り越して胃もたれを起こしそうなほど濃密な一日でした。
 

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todo94

遺構消滅 (2021/02/11 訪問)

ここも遺構はありませんでした。それでも、説明板があるだけありがたい限りです。平安末期の築城で、勝瑞城の西の守りとなり、長宗我部元親の阿波侵攻で勝瑞城とともに落城したとのことです。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑧:須賀山城➡城びと未登録(千葉県香取郡東庄町) (2019/05/27 訪問)

森山城から転戦。車で5分くらいで着きました。
須賀山城跡駐車場(35.828913、140.651390)に駐車して攻城しました。

須賀山城は千葉常胤の六男、東胤頼によって1190年(文治6年)築かれた城です。胤頼は上代前掛城(桜井城/現:旭市・旧:千潟町)より移りました。
その後、1218年(建保六年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移り、ここには一族が居城したようです。
三代東胤行は1221年(承久三年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。
戦国時代には千葉胤冨が東氏一族である海上氏の養子として入っていましたが、1557年(弘治3年)千葉宗家を継ぎ本佐倉城に移りました。
しかし、胤冨はこの城を境目の城として重視し森山城の外郭として森山城に取り込む形で須賀山城も改修したようです。
天正年間に入ると東氏、その家臣の原氏が在城し、宗家千葉氏とともに北条氏に従いました。
1590年(天正18年)、城主の東直胤は小田原城に籠城しましたが、北条氏滅亡後に森山城とともに廃城になりました。
現在城址には土塁や空堀などの遺構が残っており、天之宮神社付近の鳥居前に城址碑があります。

深い空堀、高い土塁が残っており見ごたえ十分でした。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑦:森山城 (2019/05/27 訪問)

小見川陣屋から転戦。車で7~8分くらいで着きました。
森山城説明板前の空スペース(35.834595、140.633978)に路駐して攻城しました。

森山城は千葉常胤の六男、東胤頼が1190年(文治6年)に須賀山城を築城、その後、1218年(健保6年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移ったようです。
三代東胤行は1221年(承久三年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。
戦国時代には千葉胤冨が東氏一族である海上氏の養子として城主をつとめていましたが、1557年(弘治3年)に千葉家当主・千葉親胤が家臣によって殺害されると千葉宗家を継ぐために本佐倉城に移りました。
胤冨が移ったのちも境目の城として重視され、天正年間には東氏その家臣の原氏が在城して千葉氏にともなって北条氏に臣従しまsた。
1590年(天正18年)城主の東直胤は小田原城で籠城、北条氏滅亡後に森山城は廃城になりました。
現在城趾は農耕地や牧場になっていますが、主郭部には空堀や土塁などが比較的良好な形で残されています。
また、山麓にある真性院芳泰寺は東氏代々の菩提寺であり、東胤頼夫妻の墓があるようですが、自分は行っていません。

星宮大神側の鳥居右側の竹林から攻城しましたが、藪蚊が多く大変でした。
主郭跡前の案内板横に箱があり森山城址説明チラシが置いてありました。
土塁、空堀、土橋が確認できました。
攻城時間は35分くらいでした。

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赤い城

天守は休館中 (2021/02/20 訪問)

鷹の巣城、湯坂城のあとせっかくなので小田原城立ち寄りました。
梅がきれい、本丸には河津桜も見頃でした。
緊急事態宣言により天守は休館中。
おかげで?人が写らない天守の写真も撮れました。
が、これでいいはずありません。
疫病退散!対策しながら祈るばかりです。
本当は総構探索したかったけどこんどじっくり。

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橋吉

善照寺砦 (2021/02/20 訪問)

丹下砦から徒歩にて、善照寺砦に向かいました。

現在は公園になっています。
物見櫓風の器具があるのがおもしろいです。

西側から見ると何気ない公園なのですが、南東側は結構急な斜面になっており、
公園の一段下に広場があり、さらにその下にも、そのまた下にも兵を配置するような場所がありました。
当時のそのままの形かどうかは疑わしいですが・・・

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ぴーかる

芥川山城 (2021/02/06 訪問)

【続百名城47城目】
<駐車場他>上の口方面有料1000円あり。
<交通手段>車

<見所>大手門跡・石垣・曲輪・土塁
<感想>近場の府またぎせずに行ける城で、このご時世の時の為にとっておきにしていた山城です。私は摂津峡温泉にある登城後に入湯した日帰り温泉施設祥風苑に駐車しました。登城口がわからず結局芥川を上流の方まで遡って上の口の登城口まで歩いのだが、幸いに摂津峡を堪能できて、上の口からの登城道にある城跡遺構も確認できました。南の大手登城口は<34.878714, 135.590828>のポイントより登ってゲートを開けて入ります。
 城郭は東西横並びに主郭部曲輪群、出丸曲輪群、東曲輪群に分けられ、曲輪群を堀切や鞍部で仕切っている。ミスったのが出丸曲輪群(柵があったかも)と主郭部南曲輪群を見落としてしまいました。
 上の口から登城すると東曲輪群の北側に出ますが、東曲輪群には石垣が多くあります。後世のものだそうだが、にわかに信じがたいのが、上の口登城口から登るとすぐに曲輪、竪掘り、石垣が見られます。縄張り図にはない東曲輪群の北側斜面にも添付写真の石垣遺構があります。農地の石垣らしいのですが、日の当たらない北側に下がる斜面に造りますかねえ。腑に落ちない感じを受けました。
 主郭は台風被害からかなり整備されていましたが、主郭部の曲輪群(主郭の付曲輪)は草が伐採されておらず入り込むことはできない箇所が多かった。帰りは大手道を下って大手門跡を見て下山した。これにて百・続百名城の大阪府制覇。

<満足度>★★☆
<宿・温泉>登城後入湯した祥風苑は20年近く前からよく行く温泉施設です。肌にいい俗に言う美人の湯として有名で男子の露天風呂から芥川山城が望めます。安心して旅行ができる時が来たら、摂津峡温泉に宿泊するのもまたいいかと。もし戦国時代にこの温泉が湧いていたら廃城することはなかったであろう、薄い切り傷程度なら本当にすぐ直ります。

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チェブ

小学校と庭園。 (2021/01/02 訪問)

きちんと 行った!と言えるか自信のない「宇田家屋敷」です。

宇田 長左衛門さんが築きました。

まずは「宇田家屋敷」があったとされる『大相模小学校』に向かいました。
訪れた日は、1月2日のお正月。
近所のお宅のお客様(かな?)の車が、小学校周辺に路駐してました。
駐車しずらく、諦めて 車の中からパチッ。
お散歩している方もいて、怪しまれないように写しました。写真④です。
『越谷市立 大相模小学校』の『谷市立大相』しか写ってません。
ちょっと慌てました(笑)
遺構は土塁があるようですが、分かりません。
普通の小学校でした。

皆さんの投稿にもあるように復元門がある『花田苑』に移動しました。
こちらは駐車場があります。
この日、正装した方々が『花田苑』に入って行くのを見て、平服で入って良いか躊躇い、遠くからパチッ。

遠くから眺めただけの「宇田家屋敷」になってしまいました。

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イオ

望月支城(滋賀県甲賀市甲南町杉谷) (2021/01/31 訪問)

# 望月支城(城びと未登録)は、望月城のいわゆる支城ではないものの、隣接して築かれた同名中惣の城と考えられますので、望月城で投稿します。

戦国期に築かれた望月氏(甲賀五十三家)の一族の城で、杉谷川南岸の丘陵地先端に築かれ、谷をはさんだ北側の望月城と連携して機能したものと考えられます。

下調べでも登城口がよくわからなかったのですが、望月城西側の二重堀切のあたりで南側の谷越しに望月支城らしき切岸が見えたので、谷を渡って北麓に取りつき、雑木を手掛かりに直登すると北側の帯曲輪に着きました。さらに土塁を乗り越えて主郭内へ。「土塁、低っ!」 思わず声が出ます。主郭を囲む四方土塁は常識的な高さで決して低くはないのですが、この日は非常識な規模の土塁ばかり見てきたので、感覚がおかしくなっているようです(笑) 主郭内は北西部が一段高くなっていたり中央部に窪みがあったり、なかなかの広さがあり、東側と南側に虎口が開口しています。東側の虎口を出ると小さな曲輪がありますが、その先は道路により崖状に削り取られています。南側の虎口の先に広がる南の曲輪を経て西側へ回ると堀切が西尾根を断ち切り、堀底から見ると南西隅の土塁は充分な高さと厚みが感じられます。

さて、北側の谷から望月城に戻ってもいいのですが、どうせなら直接に望月支城へと至る登城ルートを探してみよう、ということで、東側虎口の先の崖を降りる…のはちょっと怖いので、南の曲輪から南側の谷のほうに下りて行きました。しかし…北側の谷もそうでしたが、谷にはいくつかの水の流れがあり、ところどころ足場と思しき丸太が置かれているものの、ヘタに足を踏み入れるとずぶずぶと沈んでしまう箇所もあり、無事に道路には出られましたが、あまりおすすめできません。やはり望月城から来て望月城に戻るのが一番良さそうです。
 

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todo94

遺構消滅 (2021/02/11 訪問)

蔵珠院、芝原八幡宮辺りが城址ですが、遺構は残っていないようです。まいこみ泉は目を惹きますが。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑥:小見川陣屋➡城びと未登録(千葉県香取市) (2019/05/27 訪問)

小見川城から転戦。車で5分くらいで着きました。
妙剣大神前(35.853756、140.605185)に路駐して攻城しました。
北西側校門の説明板前(35.852562、140.604520)

小見川陣屋は1724年(享保9年)内田正親によって築かれた陣屋です。
1724年(享保9年)下野国鹿沼藩1万3千石の大名であった内田正偏が乱心によって蟄居処分になると、嫡男の正親が家督を継ぎ1万石に減封された上で小見川へ転封されました。
以後は明治に至るまで代々内田氏が支配しました。
現在跡地は小見川中央小学校となっており遺構はありませんが、正門脇に標柱が建てられています。
なお学校の敷地内に石碑や案内板もありますが見学には許可が必要です。

小見川中央小学校の正門がわからず、小学校の周囲を一周したあとで、説明板が北西側校門にあることがわかりました。
門が閉まっていたので、石碑はわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑤:小見川城 (2019/05/27 訪問)

山崎城から転戦。車で15分くらいで着きました
小見川城山公園駐車場(35.860427、140.592700)に駐車して攻城しました。

築城年代は定かではないが1190年〜1199年(建久年間)に粟飯原朝秀によって築かれたと云われます。
粟飯原氏(あいはら)は千葉氏の一族で、代々小見川城を居城としました。
1560年(永禄3年)正木時忠が下総へ侵攻したとき小見川城も攻められた。
1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐で、粟飯原俊胤は北条氏に与し運命をともにし、小見川城も落城しました
その後、松平家忠が居城としましたが、1601年(慶長6年)に廃城となりました。
現在は小見川城山公園として整備されており、一部土塁や空堀などの遺構が残っています。

当時は山全体が山城だったと思われますが、遺構としては本丸周囲の空堀、堀切と土塁を確認しました。
駐車場、トイレ完備でした。あっ、古墳もありました。
攻城時間は15分くらいでした。

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小城小次郎

中央の曲輪だけがかつての姿を伝えてくれる (2020/12/06 訪問)

南側は墓地に、北側は学校に姿を変え、中央の曲輪のみ辛うじて旧状を伝える。学校は明治開校の伝統ある小学校だったが改修により曲輪の姿が失われてから30年ほどで廃校になってしまうというのはあまりにも理不尽ではなかろうか。

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牛若丸

麒麟がくるにあやかって (2020/08/28 訪問)

昨年の夏に訪れました。
車を停めてから10分くらい歩きました。
よく復元されており、光秀の郷を堪能しました。

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牛若丸

麒麟がくるにあやかって (2020/08/28 訪問)

昨年の夏に訪れました。
枡形虎口も残っており、保存状態もよく本丸跡から見る景色がきれいでした。
近くには戦国山城ミュージアムがあり復元模型があるので、こちらを見てから攻城すると分かりやすいです。

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牛若丸

麒麟がくるにあやかって (2020/08/28 訪問)

昨年の夏に訪れました。

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牛若丸

麒麟がくるにあやかって (2020/08/28 訪問)

昨年の夏に訪れました。
模擬天守がある所まではかなり急峻な山道で20~30程はのぼりました。

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刑部

猫がたくさんいる城址 (2021/02/21 訪問)

緊急事態解除になった栃木県へ。私の家から車で1時間弱の所にある唐沢山城、ここは10回近く来てますが今回は全ての曲輪を探索隅々まで遺構を堪能しました。結構見所が沢山有るのにびっくり! 案内図を見ながら時間かけて見るのもいいですね。

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AJ

八雲神社へお参りすると♪ (2020/09/22 訪問)

国宝・鑁阿寺(ばんなじ。足利氏宅跡)。普通読めませんよね。なので、道路案内もひらがな表記。寺ながら元祖100名城のひとつ。当初「?」と思いつつも、行ってみれば納得。オリジナルを堪能できる数少ない現場です。

創建は鎌倉初期。以来、一度も火災にあっていないというのは奇跡に近いのではないでしょうか。地政学の中心から微妙に外れた立地も幸いしたのか、昭和の戦災も免れました。室町幕府を開いたあと、足利一族は京都や鎌倉に移り、当主不在となった館跡に寺だけが残されたそうです。

縄張りはシンプルな単郭方形。土塁と水堀がそれぞれ一重ずつ。土塁断面部は丁寧に保存されています。本尊は源氏相伝の大日如来。また、寺に隣接するのが、戦国時代の最高学府「足利学校」。3000人以上の学生に儒教、易学、兵学を教えたそうです。

東武伊勢崎線の足利市駅、あるいは両毛線の足利駅から徒歩15-20分。季節が良ければ渡良瀬川の河原の風が心地よいです。当然、町を挙げて推してくるあの曲も流れています。歌詞にも登場する八雲神社は足利総鎮守。ヤマトタケル東征の際、出雲大社の御祭神を勧請したのが創建と伝えられています。

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ふゆづき

最新の城郭 (2021/02/23 訪問)

平成最後の城郭である尼崎城に寄ってみました。
阪神電鉄「尼崎駅」から徒歩5分の場所にあります(大阪方面から来ると左手に見えます)。
道路付けの関係で、改札南出口をでて線路沿いを大阪方面に戻るような形でアクセスになります。
城郭は天守を模した建屋とその周辺に城壁と石垣を模して形成されており、未だ新しいということもあり綺麗すぎるほど綺麗です。

尼崎に城があったということを周知するのは、良いモニュメントだと思いますし、公園施設も整っているので、子供の情操教育には良いと思いますが、綺麗な建屋と人工物のような石垣を見ると、何故か入城料を払って内部を見学しようとは思えず、建屋の周囲を撮影して終わりにしてしまいました。

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