みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県飯田市)伊豆木陣屋 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の21城目は伊豆木陣屋です。
鈴岡城から転戦。小笠原資料館駐車場(35.446872、137.796769)に駐車して攻城しました。

伊豆木陣屋は、交代寄合旗本小笠原氏の陣屋です。
1600年(慶長5年)小笠原長巨(ながなお)は徳川家康から秣料として千石が与えられ、翌1601年に伊豆木に屋敷を構えて居住しました。この屋敷が伊豆木陣屋です。
伊豆木陣屋は小規模な城郭の構えであったが、明治5年に帰農する際に書院と石垣を残して取り払われたようです。
現在は重要文化財にも指定されている書院を指した「小笠原書院」の名前で知られています。
また、太鼓門が市内にある専照寺に移築されていますが、自分は見ていません。

江戸時代初期の建築の書院が現存していて、それだけで充分価値があると思います。専用駐車場もあります。
受付時間(~16:30)に間に合わず、書院の中には入れませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:松尾城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の20城目は松尾城です。
鈴岡城から転戦。車はそのまま鈴岡城址公園第1駐車場において、徒歩で鈴岡城の出丸を下り、毛賀沢川を渡ると松尾城址公園に着きます。

松尾城は小笠原三家のひとつ、松尾小笠原氏の居城です。
小笠原貞基は府中小笠原氏の小笠原長朝と信濃守護および小笠原惣領職の座を争ったが敗れ、甲斐国に逃れて武田信玄に臣従しました。
1554年(天文23年)の武田氏による伊那侵攻では小笠原信貴・信嶺父子が信濃先方衆として活躍し、松尾城主に復帰しました。
信嶺はその後、織田信長の甲州征伐では織田氏に降伏し、さらに「本能寺の変」後には徳川氏の家臣となっています。
徳川家康の関東移封にともない本庄城に移り、松尾城は廃城となりました。

現在、城跡は松尾鈴岡公園として整備されています。
お隣の鈴岡城の出丸から松尾城へ行く橋まで、結構な階段を下りて行きます。橋は水道橋であり歩行者のみ渡れます。川からの高さがかなりあります。
攻城時間は20分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:鈴岡城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の19城目は鈴岡城です。
上野城から転戦。鈴岡城址公園第1駐車場(35.482810、137.825977)に駐車しました。

築城された年は不詳ですが、南北朝時代に小笠原貞宗の次男・宗政により築かれたようです。
宗政は分家としての鈴岡小笠原家を興したようで、後に小笠原政康が居城としますが、宗政の子孫ではありません。政康は府中小笠原氏の三男なので、養子として鈴岡城に来たと考えられるようです。
1442年、守護・小笠原政康が没すると府中(深志)小笠原氏、松尾小笠原氏、鈴岡小笠原氏に別れて対立しました。(100年近く内紛は続きます)
1554年(天文23年)の武田信玄による伊那侵攻のときに、落城しました。
1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、越後に逃れていた小笠原長時の弟・貞種が、上杉景勝の助力を得て深志城に復帰しました。
同年、織田信長が本能寺の変で自害し、甲斐・信濃両国では周囲の徳川家康、北条氏直、上杉景勝らによる争奪戦が繰り広げられました。
深志城は徳川家康の意を受けた小笠原貞慶(長時の子)が叔父・貞種から奪いました。松尾城の小笠原信嶺は武田氏滅亡時から徳川家康に仕えており、所領を安堵されています。
1590年、鈴岡城は廃城となりました。
松尾城の小笠原信嶺が徳川家康の関東移封に伴って武蔵本庄へ移りました。小笠原氏が移った後は、豊臣秀吉の家臣・毛利秀頼が飯田城10万石の領主となりました。

現在は鈴岡城址公園として整備されており、曲輪や堀の案内板が多く歩きやすいが、急な強雨の為、急ぎ足で見学した。
攻城時間は25分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い☆稲妻

江戸城 (2021/02/25 訪問)

緊急事態宣言下にて皇居東御苑は閉鎖中。
内堀周りを徒歩で散策。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い☆稲妻

松本城 (2021/07/03 訪問)

久しぶりに会社の同僚と訪問しました。
雨予報の週末だったので貸切状態でした。
大手門あたりから二の丸、本丸周りを散策。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

【お城川柳】無事に帰還しましたが,頭が回りません。 (2021/07/07 訪問)

「四稜郭 詩心足らず 資料欠く」

詩心も足らず,触発するような資料も欠いたため,こんな川柳となりました…。
五稜郭タワーから,徒歩約60分の登りで到着しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

遺構が無いと思ったら。 (2021/06/27 訪問)

高幡城の後ここも紫陽花あったな、と思い立ち寄り。
が、金毘羅宮までの坂道の紫陽花はいまいち。
遺稿は無いと思っていましたがkittyさんの投稿を拝見し原峰公園ヘ。
端の方に関戸塁の看板を発見しました。
といっても城塁っぽい地形を見るのみです。
交通の要衝にあり城砦としての役割を担っていたとされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

長久保城 (2021/07/10 訪問)

【長久保城】
<駐車場他>城跡駐車場あり
<交通手段>車

<見所>曲輪・土塁
<感想>1泊2日沼津・三島の城巡り旅1城目。今回の旅は緊急事態で2度ホテルをキャンセルし、3度目は梅雨終盤の時期で天気予報と何度もにらめっこし、なんとか降雨がなさそうなのでやっと実現できました。徐々に東に攻めてまいりまして、関東の強者共ともだいぶ城接点になってきました。
 長久保城の築年は定かではないが鎌倉時代に砦として築城されたようです。戦国時代には今川・後北条・武田氏の奪い合いの城となり、武田氏滅亡後は徳川家康の城となり、天正18年小田原征伐時には前線として徳川軍3万が入城している。
 数万の軍が城と周囲に駐屯できたようなので当時はかなり規模の大きな城だったと推測できます。現在は土地改良によってかなり城跡の丘陵地を削り取られており、神社のある場所が本丸跡ではないようです。神社と周りの曲輪、背後と側面の土塁だけでも久々の遺構ある城跡を見て城を感じとりました。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

桃太郎

お城川柳 (1990/07/12 訪問)

夏蝶の 白き乱舞や 水戸城址

+ 続きを読む

桃太郎

お城川柳 (2020/03/25 訪問)

日脚伸び 城址巡りの 老い二人

+ 続きを読む

桃太郎

お城川柳 (2021/04/03 訪問)

城仰ぎ コロナ収束 願う日々

+ 続きを読む

てぬき親父

お城川柳

お殿様 一杯どうです 月見酒

+ 続きを読む

てぬき親父

お城川柳

天守閣 ヒグラシ聞いて 夕涼み

+ 続きを読む

てぬき親父

お城川柳

お月見に 丁度いいんだ 天守閣

+ 続きを読む

ヤスベエ

お城生活

遠眼鏡 やめてドローンを 殿飛ばし
大奥も 欲しいがまずは 妻欲しい
本丸の 1DKで 殿寝起き
天守閣 火の見櫓も 兼任し
鍋奉行 家に籠って 出仕せず
一夜かけ 月わたりけり 天守閣
ここだけの 話のここの 天守閣
軒先に 風鈴吊るす 天守閣

+ 続きを読む

ヒロケン

【お城川柳】 (2021/07/10 訪問)

「手をとりて 額に汗する 山の城」     「家族愛 そっと見守る 芙蓉姫」 

本丸の散策を終え下山しようと、二の丸を通過中に75歳くらいのご夫婦とすれ違い様にご挨拶。「此処が本丸ですか?」と尋ねられたので足を止め「この石垣の奥を行ったところに、本丸がありますよ」と返答。お母さんより、「あとどのくらいですか?」「もう少し5分程です」と返答。
よく見ると、左手に杖を持ち、お父さんの腕を掴んで、額から汗が滴り落ちている状況。「少し休憩されてから行かれた方が良いですよ」と言ったところ、フーフー言いながら、「前にねぇ、来たことがあるんですけど、雨に降られて途中で降りたんですよ」「今日は、息子がね連れてきてくれたんですよ」「車を止めるとこがなくて、息子は車で待ってるんですよ」との事。
なるほど、息子さんを待せまいと、ご夫婦で急ぎ足で登って来られたんだと・・・。息子さんに連れて来てもらったのがよほど嬉しかったのか分かりませんが、笑顔で息子さんの話をされていたのが印象的でした。10分程ご夫婦のお話を聞いている間に、呼吸も大分元にもどられたので、自分は、そのまま下山しました。下山途中で、駐車スペースが空いたのか、息子さんと思われる方とすれ違いました。息子さんも、ご両親と早く合流したいのか、急ぎ足で額に汗して登られていました。

高取城は2012年・2016年と3度目の訪問で二万五千石の城とは思えないほど、城域が広く、石垣を多用しています。(100万石の羽柴秀長公が中興の祖)また、明治維新まで続き、自然倒壊したと思われる建物の瓦が城域のどこに行っても確認できる。石垣好きには堪らない城跡です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:上野城(座光寺北本城+座光寺南本城) (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の18城目は上野城(座光寺北本城+座光寺南本城)です。
大下砦から転戦。耕雲寺駐車場(35.538895、137.853864)➡南本城説明板前(35.538098、137.852073)に路駐して攻城しました。

上野城は座光寺氏の居城で、山麓の上野北本城(座光寺北本城)が平時の居館で、山上の上野南本城(座光寺南本城)を詰城として構成されています。
戦国時代、座光寺氏は武田氏に仕えていましたが、座光寺三郎左衛門尉貞房が城主の1575年(天正3年)に織田信忠が岩村城を攻略すると、秋山信友とともに処刑されました。
山麓の居館部分は三の丸まであるほど大規模で、座光寺小学校が本丸、保育園付近が二の丸、耕雲寺が三の丸だったようです。
詰城のほうは武田氏あるいは徳川氏によって築城(または改修)された説もあります。

座光寺南本城見学寺、カミナリがなり始めたので、本曲輪から引き返しました。
攻城時間は30分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)大下砦 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の17城目は大下砦です。
洞頭城から転戦。大下砦跡駐車場(35.545710、137.853728)に駐車しました。

特段の歴史が伝わっているわけではないのですが、位置的には松岡氏の勢力下にあるため、松岡氏によって利用された砦のひとつと考えられます。
道路建設による削平に先立ち発掘調査がなされ、複数の掘立柱建物が検出されています。(写真撮り忘れました)

上野城に向かう途中に、説明板を見つけて立ち寄りました。
攻城時間は5分くらいでした。

+ 続きを読む

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)洞頭城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の16城目は洞頭城です。
松岡古城から転戦。あんしん市場駐車場(35.547615、137.856220)に駐車しました。

洞頭城は築城者や築城年代については定かでないが、松岡城の支城で城主は牛牧殿と呼ばれた松岡刑部大輔と伝わっています。
松岡刑部大輔は牛牧の殿様(牛牧殿)と呼ばれ、松岡氏(市田殿)の兄でした。
牛牧に残る「牛牧村歴代由緒覚書」によると、最初は上平の次郎城に住んでいましたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと記されています。
(現地説明板などより)

現在城址は果樹園となっており遺構は残っていませんが、説明板と城址碑が建てられています
攻城時間は5分くらいでした。

+ 続きを読む

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)松岡古城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の15城目は松岡古城です。
松岡城から転戦。標柱付近(35.550815、137.858114)に路駐しました。
当初は松岡城➡松岡南城➡松岡古城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で松岡南城は城びと未登録でパスしました。

平安時代末期に陸奥の有力土豪だった阿倍貞任が1051年の前九年の役で源頼頼義に敗れ、その二男である仙千代が乳母と共に漂泊し辿り着いたのがこの牛牧の地であり、やがて成人となり地元の信頼を得るに至り市田郷の領主となったといいます。
この仙千代が松岡氏の始祖で松岡平六郎貞則と名乗り、松岡城構築前に居館を構えたのがこの古城だと云われています。
のちに松岡城へ移るまで、約300年にわたる松岡氏の最初の本城と伝えられています。

現在城址には樹齢千年ともいわれる夫婦杉があり、標柱が建てられています。
松岡城から600mくらいのところにあります。大きな杉の木が目印。近くには堀のような耕作地もあります。
攻城時間は5分くらいでした。

+ 続きを読む

ページ1096