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カズサン

三の丸武家屋敷、伝統的建築物群保存地区 (2011/05/05 訪問)

 萩城探訪で車を萩博物館駐車場利用し、本丸、二の丸間を往復しましたのでその間の三の丸上級武家屋敷堀内の重要伝統的建築物群保存地区で目に付いた建物、白漆喰土塀、漆喰が剝がれた土塀、土塀が壊れて石積塀、土塀と土塀の間の通り、夏ミカンを静けさの中でしっとりとした景観風情を気のまま撮りました10年前の平成23年5月上旬の写真を投稿致します。

 北の総門、萩博物館、本丸二の丸三の丸探訪を終えて17時前で約4時間の歩きっぱなし、翌日の下関市長府探訪で今夜は長府泊り。

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備中の覇者 三村氏所縁の城を巡る 国吉城 (2021/01/09 訪問)

国吉城は、高梁川の支流 成羽川沿いにあり、備中松山城の前に三村氏の本拠であった、鶴首城の上流に位置します。谷の街道を進むと、南方の猿掛城に至ります。備中兵乱で、猿掛城を落とした毛利軍は、次に国吉城を目指しました。
成羽川から、少し北へ谷を入って行くと、国吉城が見えてきます。頂上が平らで斜面が切り立っており、山城に最適な山容です(写真1枚目)。
山頂近くまで車道があります。車道は、城跡のためでなく、高所にある、民家や畑作地のためのようです。北側の大手以外は、急峻な斜面に囲まれており、200mに亘って郭が並びます。城主であった三村政親らの供養碑がある郭までは草刈がされています。手前の切岸の竹藪を突破してください。
国吉城大手に至るすぐ近くで同じくらいの標高に、民家や畑作地があります。やや遠くにも緩やかな谷を挟んで同じくらいの標高に民家が見えました。吉備高原は準平原を河川が激しく浸食した地形なので、河川がある谷底は平地が少なく、山の上の比較的平なところも耕作されています。

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todo94

飛鳥山城 (2021/12/18 訪問)

最終日の前週に駆け込みで渋沢×北区 青天を衝け大河ドラマ館に行ってきました。ちょっと内容が少なすぎると感じてしまいました。正直、青天を衝けの大河ドラマ館は諦めていたので、感染状況がここまで落ち着いてくれたのはラッキーでしたけれども。渋沢記念館は閉まっていたのでいつか再訪したいと思いますが、いつになることやら。そんでもってこの地はかつての飛鳥山城だったんですよね。ということで投稿させて頂いた次第です。

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にのまる

ちょっと凍ってた。 (2022/01/16 訪問)

王城公園となっている王城から石並城の方にまわってみるとものすごい断崖が現れました。目の前には湯川が流れ、異世界に入り込んでしまった感覚です。(←楽しい)
堀跡の道路を挟んで王城の向かい側の黒岩城は個人様の敷地なので入ってはいけませんが、3つ並んだお城をイメージできました。

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にのまる

会津若松城もんだい

① 地形の高低差のため東側に高石垣が必要。
② 保科正之がスゴイ人だから。
③ 水に強い鉄分を含む釉薬を塗った赤瓦を使用。
④ 日新館で見ましたが覚えていません!

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伊予の江ノ島 (2021/01/09 訪問)

伊予の江ノ島こと鹿島。ここは、島城だった。
来島氏の居城、鹿島城である。
山の頂を主郭とし、北東に向かって、曲輪が配されている。
二の段は、ハッキリと判る大きな曲輪で、周りに石塁が巡っている。
そこから登って、腰郭のような曲輪を横目に10分くらい登って主郭に達する。
主郭の南端には、必勝祈願でもしたのであろうか、旗を立てたとされる穴のある岩がある。
いろいろ伝承があるみたいだ。
南西に向かって下ると、崩れかけた石塁が多く見られる。
この城跡を巡る季節だが、夏はお勧めできない。
海水浴場がある為、人で賑わう。虫も多い。
渡船料は210円。季節や時間によって異なるが、20分から30分ごとに運行している。
駐車場は520円(運転手、一人分、渡船料を含む)である。
鹿島城を楽しんだ後には、私なら『シーパまこと』という海に開けた温泉に入って汗を流したい。
とても近くにあるので、個人的に、おススメしたい。

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カズサン

二の丸東門、東西海岸沿の城塁、櫓台探訪 (2011/05/05 訪問)

 10年前の平成23年5月上旬、復元整備成った萩城北の総門、萩博物館探訪見学後、折角訪ねたのでと本丸を廻り、過去の探訪で余り廻って無かった、二の丸東門枡形石垣、指月山の西側の海岸側石垣城塁、櫓台跡、東側の海岸側石垣城塁、現存白漆喰土塀、櫓台跡に重点を置いて巡りました。
 日本海に浮かぶ石垣城塁、櫓台跡に指月山の緑が絵画を見てるように美しい景観です、ここを見てるだけで満足癒されます。
 当時撮った写真を投稿致します。

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ぴーかる

岩屋城・高橋紹運墓地 (2022/01/08 訪問)

【岩屋城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<見所>眺望・高橋紹運墓地
<感想>1泊2日国土防衛筑前国の旅2城目。岩屋城は天文年間(1532~1554年)に大友氏の家臣高橋鑑種によって築城されたとされる。高橋鑑種は大友宗麟の傲慢な振る舞いに愛想をつかして反旗を翻す。その後吉弘鑑理の次男が高橋氏の名籍を継いで高橋鎮種(のちの紹運)となり宝満城・岩屋城の城主となる。有名なのが岩屋城の戦いで、1582年島津氏の進攻により高橋紹運は本城の宝満城ではなく防備の薄い岩屋城に700名程で立て籠もり2週間程耐えたが落城、紹運は自刃した。
 岩屋城は大野城のある四王寺山の南端にあり、焼米ヶ原駐車場の1㎞程手前の道路脇に登城口がある。南の麓市民の森から登山コースにても来れるようです。まず登城口の階段が竪堀になっていて少し登って堀切があります。左手に3条程竪堀があり少し広い削平地・巨石があります。主郭部?は背面が高土塁になっています。眺望側以外は鬱蒼としていて遺構が分かりません。眺望は抜群で大宰府政庁跡からこの岩屋城が見えていたようにこちらからも大宰府政庁跡や水城が見えます。道路から上部の見れる遺構は少なく、道路を挟んで南側に高橋紹運の墓地があるのですが、墓地を含めて数段段曲輪になっているのでこの辺りも城跡の範囲内だったと思われます。

<満足度>◆◆◇

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チェブ

朝日神社と田んぼ。 (2022/01/03 訪問)

あまり資料がない、千葉県四街道市の「木出城」です。
築城年数は不明です。千葉氏一族の原氏の「木出城」のようですが、どんな先人がいらっしゃったのか、これまた不明です。

いつもの如く車で向かいました。
少し坂を下り、田んぼの向こうに少しだけ高い場所に「木出城」はありました。
田んぼの向こうの道は、車はすれ違えないと思います。ヒヤヒヤです。
まずは、「木出城」の説明板を見つけて路駐して、パチッ。
誰もいないし、車も来る様子がありませんが移動しました。
と、言うのも「木出城」の説明板の場所も何だか私有地のようなんです。
奥を覗くと住宅のお庭でした。他の細道も、住宅に続きます。
近くの『朝日神社』に移動しました。
こちらは土塁と堀が見られます。
私が堀だと思った場所は、田んぼと神社の間です。
でも、戦国の世では田んぼが湿地だったとしたら、堀を造らなくても良いのではないかと疑問。
田んぼの、のどかな風景に戦国の戦う「木出城」が想像できません。
『朝日神社』の推定樹齢300年の、けやきの大木も当時を知りません。

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新ろくべえ

大手門、二ノ丸角櫓に行ってきました (2021/12/26 訪問)

 前回2019年9月4日に行ったとき(詳しくはそのときの記事をご覧ください)
大手門が復原工事をしていて、今回その大手門とその少しあとに、
復原工事を始めた二ノ丸角櫓にいって来ました。

【大手門】
 二ノ丸にあり、国内も屈指の規模を誇る大手門は城内の中で最も格式が高い門です。
佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601年)頃に建てられ、その後の何度もの工事をえて
徳川時代にこの形となりましたが、明治時代に取り壊されてしまいました。
〔建築情報〕
・大きさ     木造二階建て  13.34M
・建築面積    158.28㎡ 
・延床面積    118.79㎡
・復原完成年   2019年9月30日

【二ノ丸角櫓】
二ノ丸角櫓は水戸城二ノ丸にあった櫓です。
水戸城には江戸時代に4つの角櫓がありました。
(本丸北西櫓、本丸南西櫓、下の丸角櫓、そして二ノ丸角櫓です。)
この4つの櫓は全て明治時代にとり壊されてしまい、今回二ノ丸角櫓が復原されました!。
この角櫓は全て城下町側によっていて、城下の武士や町人が見上げたときの眺望を意識していました。
二ノ丸角櫓は北多聞櫓、角櫓、南多聞櫓にわかれています。
ここは中に入れて、中には水戸城についての説明文があります!(撮影不可)
〔建築情報〕
・大きさ       ❘木造
           ❘両多聞櫓1階建て
           ❘角櫓二階建て
・建築面積      ❘124.17㎡
・延床面積      ❘128.01㎡
・復元完成年     ❘2020年10月28日

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shige

(2022/01/22 訪問)

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shige

(2021/10/30 訪問)

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shige

(2021/07/31 訪問)

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shige

(2021/07/11 訪問)

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shige

(2021/07/03 訪問)

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shige

(2021/04/25 訪問)

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shige

(2021/04/22 訪問)

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shige

(2021/04/11 訪問)

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shige

(2021/01/17 訪問)

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2020年7月23日初夏の鶴ヶ城 (2020/07/23 訪問)

2020年初夏の鶴ヶ城です。
素晴らしい美しく堅固なお城ですね。
地元会津では鶴ヶ城としか呼びません。
いかに、自分達の会津に誇りを持っているかが伺えます。
会津魂ですね。 
私は、会津に敬意を込めて鶴ヶ城と呼びます。
鶴ヶ城は、梯郭式の平山城で、本丸を中心に北出丸、西出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていました。
現在の天守閣は、鉄筋コンクリート造で外観復元され、内部は博物館になっています。
明治7年撮影の古写真を見ると、5重5階の層塔型天守で、回り縁と高欄が見えます。
飾り破風のない単調さではあるが、東面の1階と3階に突出部を設けていた。
戊辰戦争で被弾して、特に東面は破損が酷かった。
鶴ヶ城の前身の黒川城に入った蒲生氏郷は、1592年より近世城郭に大改修して城下町も整備しました。
蒲生氏郷が黒川から若松に地名を改めたとされています。
1593年に、望楼型7重天守を竣工し、名を鶴ヶ城と改めました。
1611年に会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組み換えています。
縄張りは、台地の西側に主郭の本丸、内濠を隔てて東側に二の丸、三の丸と続き、台地の下の北側に北出丸、西側に西出丸である。
三の丸以外の各門は、枡形石垣門となっていました。

にのまるさん、

松本城の大天守の最上階の回り縁の痕跡の廊下、辰巳附櫓の花頭窓、月見櫓の朱色の回り縁を写真で確認して頂きありがとうございました。
月見櫓の朱色の回り縁なのですが、塗替えられていると思われます。
もし、家光公がお泊りでしたらこの月見櫓で月見をされたかもしれませんね。

最後の松本城の問題ですが、少しややこしく分かりにくかったのかもしれませんね。
何故、武田信玄が深志城を目指したのか?
考えて見ましょう。
その当時の歴史的背景、即ち1550年に武田信玄は深志城を奪い取っています。
1550年頃の他の戦国武将の動きを見てみましょう。
南には、今川氏がまだ健在でしたし、関東の後北条氏も勢力を保っておりました。
だから、南下政策は取りにくいですね。
そしたら、有力武将のいない地域は何処でしょうか?
それは、信濃しか有りません。
信濃には、諏訪氏や小笠原氏などがいましたが信濃一国を収めることは出来ていませんでした。
そこで、武田信玄は信濃の何処に行けばいいのかを考えました。
武田信玄が北に向かい攻める武将は二人しかいません。
上杉謙信と織田信長です。
深志城(今の松本盆地)には2つの街道がありました。
北に行く善光寺街道と西に行く野麦街道です。
善光寺街道を北に行けば、川中島そして越後になります。
野麦街道を西に行けば、野麦峠を越えて高山で出て岐阜に行けます。
そこは、正しくふたりを攻める拠点になり得たのです。
また、断層なのですが
これは、糸魚川静岡構造線という断層帯が糸魚川から松本盆地を経て甲府盆地を通って静岡まで続いております。
土木工事に詳しい武田信玄ならば、この断層があるのを知っていたと思われます。
この断層に導かれて松本にやって来たのでしょう。
また、松本は水が豊富なのですね。

それでは、会津若松城の質問を致します。
質問1

会津若松城の東側の石垣は20mも有ります。
何故東側の石垣が高いのですか?


質問2

東北最大級の天守が出来た理由は?


質問3

何故天守の瓦は赤いのか?


最後にもう一つ有ります。
 
会津と言えば白虎隊が有名ですが、会津では6歳から9歳までの藩士の子供は、十人ぐらいの集まりを作っていました。
この集まりのことを会津藩では什と呼び、年長者が座長となっていました。
そこには、什の掟で罰則もありました。

その什の掟を3つ答えて下さい。
宜しくお願い致します。


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