【善照寺砦】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>青春18切符
<感想>日帰り18切符の攻城旅6城目。善照寺砦は今川方になってしまった鳴海城を包囲するのに信長が築いた砦です。現在は砦公園になっており、遺構は残っていないようです。丘陵地上にあり、地理上、比高は鳴海城より高そうな位置にある。
<満足度>◆◇◇
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2021/04/27 19:29
2021/04/27 11:05
フルムーン旅行で登城 (2014/05/21 訪問)
平成26年5月JRフルムーンパスを使って兄弟夫婦で山陰旅行し岡山で別々の目的地へ、瀬戸大橋線を経由し高松城の修復成った天守台を中心に探訪し、岡山の戻って新幹線さくら号で鹿児島中央駅へ新幹線利用は時間の短縮に成ります、城山観光ホテルで2泊、宮崎と熊本を狙うため、城山観光ホテルの露天風呂、内風呂からの桜島眺望も期待の一つでしたが夜景、早朝も雲が掛り観光写真の様には行きませんでした。
南宮崎にはJR特急で宮崎駅と鹿児島中央駅を往復、後はレンタカーで周遊.
飫肥城は私自身4回ほど出張を利用して登城してますが、今回家内の希望で宮崎南部の日南を青島、堀切峠、アモイ像、鵜戸神宮と廻り飫肥城が当日のラスト。
飫肥城は南を蛇行してる流れる酒谷川を自然の外濠とし縊れた所を城郭、城下町に構えた要害の地、現在本丸には小学校が立ち、北側にシラス台地を切り刻んで下城群を構え中学校もその一つ。
本丸内部は大手門が復元、松の丸御殿も復元、歴史資料館と大手門、枡形虎口周り、元本丸の虎口の石垣は立派に残ってる、大手門南の豫章館屋敷、小村寿太郎生家、小村記念館、武家屋敷も石垣の基礎・塀が良く残って居り水堀の鯉と小京都の趣が多く残って居り心地よい、観光駐車場の茶店には寅さん撮影時の写真も掛かって居り懐かし場面を再現されます。
日向の太守伊東氏も良く周りを島津に囲まれたなかで飫肥の地を頑張って残した事、回復か、知略か、良い城郭、城下町を残してくれました大切にしたい飫肥城です。
投稿写真は家内と歩いた所をちょっと撮った城郭周り写真、ちょっと不十分ですがご覧下さい。
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2021/04/27 10:57
会津若松城 (2017/09/07 訪問)
お城デビューの鶴ヶ城🏯感動でした🤩
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2021/04/27 10:49
大多喜城 (2020/01/30 訪問)
キツい上り坂でしたが頑張って登った甲斐がありました🏯
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2021/04/27 06:37
とにかく追手門に直行 (2021/04/25 訪問)
周りの車庫(様々あり)から追手門へ、しっかりお出迎えしてくれます。ここからが高知城ならではで、二の丸から本丸には廊下櫓でつながり本丸側とは段違いになっおり、西東の多聞櫓に黒鉄門からの本丸御伝、単独天守なのに連結天守かと錯覚してしまうほどの切迫感!全体的に野面積みの綺麗な仕上がり!最高!
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2021/04/27 06:27
建物無し (2021/04/25 訪問)
徳島中央公園中央駐車場よりトイレ有り→そのまま山沿いに進行→内堀の一部が出現し、起点となるところから左回りで階段登り西三の丸→西二の丸→本丸→東の二の丸(天守跡)→階段降りると起点到着、この流れが良し!
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2021/04/26 16:16
国宝指定前年の登城 (2014/05/19 訪問)
平成26年5月フルムーンパスを利用した兄弟旅行で山陰鳥取、島根、鳥取砂丘、三朝温泉、松江城、一畑電鉄乗車、出雲大社参拝、玉造温泉と廻り、国宝指定前年に松江城へ兄弟夫婦3組で登城しました、兄弟一緒でしたので廻った所を寸景撮影、大手門馬出前に新しく堀尾吉晴公の立像が立っていました松江城築城指図姿の様です。
中高以来何回と登城してる松江城漆黒でどっしりと存在感が有ります。
堀尾吉晴公は松江城の前に浜松城を織豊系に築城し10年在城して居ります、復元浜松城天守閣の構想が有りますが松江城を少し小振りにした4層の天守閣を家康公浜松城築城450年記念事業などで広島大学三浦教授の構想図として講演会も有りましたが浜松城の復元を夢見て居ります。
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2021/04/26 13:24
3度目です! (2021/04/24 訪問)
大好きな岩尾城に娘と行ってきました。過去は、7月、11月と行ったのですが、4月の今回が緑が1番きれいに感じました。和田小学校の前の公民館の駐車場に停めさせてもらい、校門から校舎裏に周り登山道へ。石だらけの道です。25分ほどで頂上?と思いきやここから下がって井戸経由で再び登り本丸に到着。学校から40分ぐらいでしょうか。ミニ竹田城といった感じで小さいながらもものすごい石の量、全く観光地化されていないため、いい感じで朽ちてます。1番の見どころは瓦です。色んな山城に行きましたが、この瓦の量は竹田城か岩尾城だけ。裏側見ると線が入っているものがあり、はけか何かの跡でしょうか?400年前の職人さんの存在を感じます。そして、この石垣の上にどれだけ立派な建物があったかを想像するだけで1日過ごせます(笑)景色もいいですよ。
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2021/04/26 12:45
倒竹だらけの竹林を越えて (2021/04/24 訪問)
大和郡山付近の城を巡るべく調べていると、2019年5月に訪問された、ぴーかるさんの投稿を発見。本郭に行こうとしたが、竹林や廃屋に阻まれたとのこと。恐いもの見たさに、行ってみました。
ぴーかるさんは、北北西から、アプローチされたとあったので、余湖さんのレポートを参照して南側からアプローチ。レポートどおり、犬が激しく哭いてました。結局、害獣避けの柵の扉は城域の西北しかなく、ぴーかるさんと同じ進入道に。
廃屋を右手に見つつ、倒竹だらけで、かつ、不燃ゴミ捨て場になっている地帯を40mほど東進。日差しが強い日で、竹林の中でもまだ明るかったので突破できました。
突破した先には、深い横堀!
余湖さんが、レポートしている、
「北側には土塁が盛られている。土塁は幅広の重厚なもので、土塁の上にさらに土塁が盛られるという二重構造のものとなっている。」も確認できました。さらにその北側には幅広の堀も。東側は、平地に向かう急斜面。一方、南側は、浅く緩い谷形状ながら、守りは弱そう。北側からの攻撃に備えているのでしょうか。
帰りに城域の北側、東側も歩いてみましたが、民家が建て込んでいて、西北からアプローチするしかなさそうでした。
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2021/04/26 00:37
中世と近世をつなぐ城 (2021/04/24 訪問)
近世初期の城郭(織豊系城郭)の条件は、高石垣、礎石建物、瓦建物です。
織豊系城郭というぐらいなので、信長や秀吉、その配下の武将が築いた城なのですが、
この鎌刃城は、浅井氏の家臣であった堀氏の城です。
まあ、秀吉に寝返るのですが、1574年に改易され、城も破城されているので、
信長・秀吉の影響で改修したわけでもありません。
にもかかわらず、とっても立派な石垣が残っています。
さらに発掘調査の結果、礎石建物跡も見つかっています。
石垣で囲われた立派な枡形虎口もあります。
陶器類も多く見つかっているようです。
さすがに瓦は見つかっていないようですが、
近世の要素をふんだんにもった城なのです。
今回、はじめてこの城を訪問したのですが、近江の国人レベルでこんなすごい城を築いていたなんてちょっと驚きました。
もちろん、近江には観音寺城や小谷城のような凄い城があることは知っていましたが、
国人レベルでこの城を築いていたということは、
いかに近江国が先進的であったかということを感じさせられました。
また、城郭の進歩は織豊政権が牽引して進歩したものだと考えていましたが、
そんな一元的なものではなく、多元的に進歩したのがこの時期の日本のお城なのだと思います。
ちなみに、石垣や枡形虎口以外にも堀切・切岸・土橋など素晴らしい遺構がたくさん残っていますので、
是非多くの人に訪れてほしいと思います。
登城ルートは3種類ありますが、中山道の番場宿から歩いて、だいたい30分~40分ぐらいです。
車は番場宿の資料館の駐車場を使わせてもらいました。
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2021/04/25 21:35
長崎城跡と荒神山城跡 (2021/04/25 訪問)
因島の南にあった城跡。かつては岬の先端に築かれた水軍城だったのでしょう。今はそこに「ナティーク城山」というホテルが建っているので詳細はわかりません。海岸には岩礁ピットがあったそうです。
また、この城の背後の山に荒神社という神社がありますが、ここには荒神山城があったとされ、長崎城の詰城だったのではないかということです。
長崎城は海賊・因島村上氏の本拠城として180年間使われた後、村上吉充とのきに向島の余崎城へと移っていったそうです。
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2021/04/25 21:12
青陰城跡 (2021/04/25 訪問)
道が細いと分かっていたので、麓に車を停めて歩いて山頂まで登りました。車は「はっさく交流館」に停めさせてもらうのが良いのではないでしょうか。
さて、城跡は標高275mの青影山の山頂にあります。景色が見やすいように木も切ってあったりと良い感じに整備されていました。
城は南北朝時代に村上義弘によって築城されたと伝えられ、戦国時代には海賊・因島村上氏の居城としても使われていたそうです。
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2021/04/25 19:14
2021/04/25 18:34
立川番所・高知県大豊町 (2021/04/12 訪問)
岡豊城を見学したあと先方さんとの待ち合わせが山間の大杉駅。
まだ時間があるのでカーナビを立川番所にセットすると15分〜20分の距離。
途中台風の影響で道が崩落していましたが簡易道路が設置されていて15分ほどで到着しました。
ここはお城ではないですが高知の殿様が参勤交代で江戸に向かうとき宿泊した場所です。
海路では天気によって行程が定まらないことが多く陸路に変更し街道が整備され
現在残っている建物は築200年程。
内部は指定された日のみの公開です
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2021/04/25 18:05
信玄誕生地とされる武田氏の詰城 (2019/04/21 訪問)
事前に織豊期の改修とも聞いていましたが、信玄誕生地ですし、武田氏をイメージして行きました。
でも、本丸に辿り着くまで確かに織豊期の改修と思われる、いくつもの枡形虎口を通って行き驚きました。
本丸から北側背後は、竪堀や土橋などが続き、武田氏時代の遺構と思われ少し安堵しましたが、竪堀の内側には珍しい石垣があり、これにも驚かされました。
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2021/04/25 16:27
「たら、れば」の歴史妄想 (2021/04/01 訪問)
天下が信長から秀吉に移るターニングポイントとなった重要な城
(本能寺の変→備中高松城水攻め→中国大返し→山崎の戦い)
歴史に『たら、れば』は禁物であるが、
1.清水宗治の切腹の予定が1、2日遅れていたら。
2.本能寺の変の情報が、備中高松城をはさんでにらみ合っている毛利陣営に
伝わっていたら。 などなど
この城の水攻めの結果が、このあとの歴史にどれだけ影響しただろうか。
明智の天下か、毛利の天下か、はたまた、徳川か島津か伊達か、
ひょっとしたら天皇?
今の日本の首都は、東京じゃなく、山口か仙台かもしれない。
とついつい妄想してしまう。
城としての遺構は、清水宗治関連の石碑か、蛙が鼻築堤跡が主なものに
なってしまうが、現場の地形を見定めて、歴史に思いをはせる城跡だった。
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2021/04/25 15:53
災害復旧工事中 (2021/03/27 訪問)
基肄城(きいじょう, きいのき)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、古代山城です。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築きました。
665(天智天皇4)年、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されています。
まずは、基山町民会館へ
ここで続日本100名城スタンプを押すことができます。
次に、登城口のある基山草スキー場へ行きました。
基山草スキー場から基山山頂、基肄城を経て水門までの道はハイキングコースにもなっています。
ただし、現在は災害復旧工事をしているので通行止め箇所があります。
草スキー場のゲレンデを山頂をめざして登っていきました。
ゲレンデを60%ぐらい登ったところ
土塁が見えてきました
しかし、心臓がバクバクです。
それ以上に足の調子がおかしいです。
ゲレンデは扇の勾配のようになっており、上部へ行くほど傾斜がきついです。
なのに、この状況で耐えられるか。
残念ながら、ここは勇気ある撤退を決断せざるをえませんでした。
気持ちを切り替え、水門へ車で移動することにしました。
水門跡の前に数台分の駐車スペースがありました。
本来ならば、ここから草スキー場方向へ向かって行くこともできるのですが、残念ながら通行止めでした。
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2021/04/25 15:12
ずっと駐車場のないお城だと思っていた (2021/01/28 訪問)
本丸にかかる極楽橋はちょうど架橋が終わり開通直前だったようだ。実はずっと「駐車場のない」城だと思っていたが、大手門脇に専用駐車場があるのを3度目の訪問で知ってちょっとびっくり。
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2021/04/25 15:08
350年前に先祖が歩いたかもしれない城 (2021/04/03 訪問)
今月は、私のお城巡り101城目として山梨県都留市の谷村城&勝山城に行ってきました。
ほとんど平地がない郡内において、桂川沿いは古代から生活の場があったとのこと。
郡内の北寄りは甲州街道が走っており、桂川は相模川の上流部であるため相模国との交流もあったエリア。
その郡内の中心地が都留。
戦国時代は小山田氏が統治し、火災に遭った中津森の居館を1532年に谷村に移したのが谷村城&勝山城の始まり。
桂川を挟み、平地の居館が谷村城、対岸の比高90mほどの山に築かれた詰城が勝山城です。
小山田氏滅亡後は鳥居氏などが城主となり、豊臣方の浅野氏重の時代に大修築を実施。
江戸期の1633年からは秋元氏が入り、1704年に秋元氏が川越城へ移ると廃城となりました。
現在の勝山城は、桜で飾られた城山公園となっており、本丸周囲には所々で石垣が確認できます。
また大沢見張り台手前の堀切(竪堀)も山城らしい遺構。
源生見張り台は行くことができませんでしたが、全体をゆっくり回っても1時間半で十分な大きさでした。
谷村城は遺構がほぼないものの、小学校辺りが本丸。
水堀の名残として家中川が流れています。
さて、私の先祖は秋元氏の馬廻衆だったとの話。ボディーガードのような役割でしょうか。
しかし市役所前に立っていた秋元氏時代の谷村城絵図を見ると、武家屋敷の中に我が名字はありませんでした。
足軽屋敷に住んでいたのかな?
それとも谷村城内で警備員として暮らしていたのかな?
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2021/04/25 15:07
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