みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

くっしー

看板の縄張図が優秀 (2021/07/03 訪問)

本丸周辺は公園として整備され、さらにその周りは耕作地や住宅地になっているので、何も知らないと本丸以外城に見えないのですが、説明看板のとこに描かれている縄張図を見ながら踏査すると、当時の姿が鮮明に見えてきます。

本丸の西側が谷になっていて南に向かって道が続いているのですが、これはかなり大きな空堀ですね。その西側にあるニの郭とを隔てる重要な城の防御施設です。


その谷を南に進むと段々上に平坦面が続いていきますが、これは出丸のような機能を持つ場所でしょうね。

そういった目で見ていくと二の郭の西にも堀がありますね。

次に別の城に行く予定があったので、30分程度で切り上げてしまいましたが、この縄張図をもって一日かけて踏査すればなかなか面白いお城だと思います。

看板の縄張図の下には「下伊那農業高校社会研究班作成」と書かれていました。ということは、高校生が書いた縄張図ということでしょうか?高校生でこんなきれいな縄張図が書けるなんて凄いですね!!

公園なので駐車場もトイレも設置されているので、訪問しやすいお城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

【お城川柳】

高虎も積んでいたのねハート石

カワ(・∀・)イイ!!

+ 続きを読む

atsufumi

市民に寄り添うお城 (2021/07/05 訪問)

みんなに触れ合いに来てくれた金鯱ご夫婦。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

高森陣屋 福井県越前市 (2021/06/23 訪問)

紀州徳川光貞の三男頼職が30,000石ほど分知され立藩 
越前市高森に陣屋を築きました。
跡地は住宅街になっていますが公園に陣屋案内図があり
それにより表門や堀跡の場所を確認することが出来ます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【お城川柳】やっとの初登城時を詠んでみました (2020/11/24 訪問)

 ・ 大隅の シラス台地に 肝付の城

 ・ 静寂の 大隅やまじろ 自顕のさと

 鹿児島市内に泊まって桜島フェリー経由台地を昇り降り約2時間半の道中を経て到着、閑散とした静けさ登城者は私一人だけ、シラス台地を刻み曲輪が夫々、大木の杉が林立してる、公民館駐車場付近には自顕流発祥の地の看板が立てました。
 示現流と自顕流をネットで調べましたが同じ読みで「ジゲンリュウ」ですが別流の様で、幕末に薩摩武士が多く使ったのは野太刀自顕流の方と有りましたが良く調べ切れてませんのでお調べください。

+ 続きを読む

カズサン

【お城川柳】天守台眺望と有名な城下かれいで一句

 ・ 天守より 城下かれい 透けて見え

 日出城天守台からの別府湾眺望と眼下の海で獲れる城下かれいが有名です、食した城下かれいの薄作りと透き通った海を掛け合わせてみました。(残念ながら城下かれいの料理を食した写真は撮って居ませんでした)

+ 続きを読む

イオ

【お城川柳】腹が減っては戦ができぬ

ことわざを 身をもって知る お昼抜き

佐柿国吉城に登城した際に、本丸で眺望を楽しみながら食べようと考えていた昼食のおにぎりを買いそびれ、空腹を抱えたまま歩き回った結果、気力も体力も尽き果てて、まだ午後1時台ながら後の予定を切り上げて帰宅したことがありました。まさに「腹が減っては戦(城攻め)ができぬ」を身をもって知りました…。

+ 続きを読む

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:谷戸城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の8城目は谷戸城です。
古宮城から転戦。北杜市考古資料館駐車場(35.858053、138.385640)に駐車しました。

谷戸城は逸見清光の居城と伝わり、江戸時代に成立した『甲斐国志』によれば、清光は1199年(正治元年)に当地において死去したといいます。
平安時代後期には治承・寿永の乱において甲斐源氏の一族が活躍します。
『吾妻鏡』によれば、1180年(治承4年)8月24日には石橋山の戦いにおいて伊豆国の源頼朝が敗北し、翌8月24日には北条時政・義時親子が甲斐国入国を試みたといいます。
9月10日には甲斐源氏の武田信義らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐へ帰還し、武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏一党は「逸見山」に集結したそうです。
甲斐源氏の一族は「逸見山」において頼朝の使者である北条時政を迎えたといいます。「逸見山」の比定地は北杜市域に複数候補地があり、当地もそのひとつとされるそうです。

戦国時代には武田晴信(信玄)期に信濃侵攻を開始します。
『高白斎記』の1548年10月7日(天文17年9月6日)に拠れば、晴信は信濃国佐久郡の前山城攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したことを記しているが、これが谷戸城を指しているかは不明だそうです。
晴信は9月7日に海野口に、9月9日には宮之上に到着し、9月11日には前山城を攻略しました。

また、『国志』によれば1582年(天正10年)3月の武田氏滅亡後、同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生します。
天正壬午の乱において甲斐は三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が争奪し、家康が新府城を本陣に七里岩台上の城砦に布陣したのに対し、後北条氏は若神子城を本陣に、周辺の城砦に布陣しました。
この時、後北条氏は谷戸城へも布陣していたといいます。

谷戸城はこの戦いで北条氏方の城となり、その際に北条氏によって改修されたと考えられています。

北杜市考古館が史跡公園に併設されてます。
整備状態は申し分なく、説明板も非常に解りやすいです。 二の郭の外周をほぼ一周している横堀がよかったです。
攻城時間は30分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

西超勝寺 (2021/06/05 訪問)

西超勝寺が藤島城なのですが、こんなに巨大な寺院がカーナビで引っかからないとはどういうことなのでしょう。立派な城址碑と説明板のほか、本堂の裏手にわずかながら土塁の遺構が残っています。

+ 続きを読む

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:古宮城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の7城目は古宮城です。
獅子吼城から転戦。津金明治学校駐車場(35.850749、138.445012)に駐車しました。

古宮城は、室町時代に津金氏によって築かれました。
文明年間(1469~87年)常陸佐竹氏の一族薩摩守胤義と子・美濃守胤秀が武田信昌を慕って甲州に来て、津金郷に封ぜられ、姓を佐竹より津金と改めたそうです。
津金氏は津金衆惣領家として武士団を率い、武田氏に従って国境警護を任されていました。
武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」では津金衆は徳川家康に与し、徳川方の先峰として北条方の獅子吼城を攻略するなどの活躍をしています。
江戸時代には望まれて尾州藩に仕え、その後、廃城となったようです。城跡と古宮の社は地域守護の要の地霊社として、氏子が維持しているそうです。
明治の学制の頒布に伴い、明治8年(1875年)古宮城跡に藤村式校舎が完成し、現在に至っているそうです。

須玉町歴史資料館の背後にある諏訪神社一帯が城址で、境内の本殿西側に土塁と空堀の一部が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:獅子吼城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の6城目は獅子吼城です。
若神子城から転戦。登城口付近空スペース(35.818320、138.467284)に路駐しました。
路駐場所から徒歩1分/150mの説明板前登城口(35.818644、138.467759)から登城しました。

最初の築城は不明ですが、平安時代には馬の産地であり、朝廷直轄の牧があったとも言われています。
鎌倉時代の末期である1320年に、信田小右衛門実正と、信田小太郎実高の父子が、家来と共に討死したと言う記録が地元の見性寺に記録としてあるそうです。
1394年~1428年には、江草信泰(江草兵庫助信泰)が、獅子吼城主として見受けられます。
この江草氏は、甲斐の武田一族で、江草家の初代・江草信景は、武田信重や武田信長の弟です。
その後、高白斎記によると、永正6年(1509年)10月23日に、小尾弥十郎なる武将が、獅子吼城(江草城)を乗っ取ったとあります。
乗っ取りですので、合戦があったとは限りませんが、巨摩郡の豪族である小尾氏から江草家の養子になり、事実上、乗っ取ったと言うことなのかも知れません。
戦国時代に小尾氏の小尾党は、信州峠の川上口の警固を行っています。
1530年前後の獅子吼城主は、今井信是・今井信元の親子で、諏訪頼満や、大井氏・栗原氏と協力して、武田信虎と敵対しています。
しかし、今諏訪の戦いで武田信虎に大敗を喫します。
今井信元は浦の城(獅子吼城)にて籠城したようですが、1532年9月に降伏し、これにより、武田信虎の甲斐統一となりました。

武田信玄の時代には、烽火ネットワークの中継基地として、重要な場所であったと考えられています。
武田氏滅亡後に起きた「天正壬午の乱」では、北条軍が占拠しましたが、服部半蔵が率いる伊賀組、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲をかけて落城させました。
その後、和睦が成立し、甲斐が徳川領となると廃城となりました。
現在城址では大規模な石塁の遺構を見ることができるそうです。

目指した登城口は途中から私有地で通行止めの説明があったので、本丸まで行かず途中で引き返しました。
それでも石積と竪堀は確認できました。
攻城時間は20分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:若神子城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の5城目は若神子城です。
能見城から転戦。須玉町ふるさと公園駐車場(35.795607、138.418513)に駐車しました。

甲斐武田氏の祖先・新羅三郎義光により築かれ、義光からその子孫である源義清・清光に伝えられたとの伝承があります。
戦国時代には武田氏の信濃侵攻における甲信国境として重要視され、佐久・諏訪口方面からの狼煙の中継点、陣立ての場所として利用されたといいます。
武田氏の滅亡後、武田遺領をめぐる1582年(天正10年)6月の天正壬午の乱では、信濃国から相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻し、若神子城に本陣を起き周辺の城砦に布陣しました。
これに対し、三河国の徳川家康は現在の韮崎市中田町中條に所在する新府城に本陣を起き、七里岩台上の城砦に布陣し、北条勢と対峙しました。
1582年(天正10年)10月には徳川・北条同盟が成立し、氏直は甲斐・都留郡から撤兵しました。

若神子城は北城・古城(大城)・南城の三つの城郭から構成されており、武田氏の軍道である「棒道」もこの城を始点として造成されていたようです。
現在は須玉町ふるさと公園として整備されており、北条氏が在陣した際に築かれたとされる薬研堀が保存されています。

ふるさと公園となっています。のろし台は撤去されていました。
攻城時間は15分くらいでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目:能見城 (2021/06/27 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り1日目の4城目は能見城です。
新府城から転戦。穴山さくら公園駐車場(35.750262、138.414743)に駐車しようと思いましたが、登城口付近(35.750080、138.416795)まで車を進めて路駐、ここから山に入りました。

能見城の築城には諸説あるようです。
①1581年(天正9年)に武田勝頼が新府城を築いた際に支城(または惣構の防塁)として整備された
②武田一門の穴山氏が穴山氏館の詰城として築いたと
③1582年(天正10年)武田氏滅亡後に勃発した「天正壬午の乱」で新府に陣を張った徳川家康が、若神子城に対峙する北条氏直に備えて構築した

現在城址には土塁跡や空堀跡と思われる遺構を確認できます。
山頂には配水場があり、その脇に能見城址の看板と「守屋一族発祥の地」と書かれた石碑が建てられています。

かなり頑張って車で主郭まで行きましたが、個人的にはやめた方がいいと思います。麓から登っても10分以内に主郭に着きますし、傾斜も大したことはないです。
頂上の建物を囲むものが土塁跡かと推測しますが、草ぼうぼうで見学できません。
攻城時間は10分くらいでした。

+ 続きを読む

キンヤ

小牧長久手の戦い時に改修され、今は堀切跡が残る城 (2021/06/21 訪問)

織田氏に属する岡田重篤が築城し、その後、織田信秀の弟である信光の守山城と併せ持城になったと伝わります。
小牧長久手の戦いの時には徳川家康の陣城として改修されたといわれます。

住宅地になっていますが、城跡は高台にあり平野を見渡せ、城に適した立地である事が分かります。

本丸の東側下の道路は、古城絵図にある堀切跡と考えられ、当時より削られ幅広になった部分もあるかもしれませんが確認できて良かったです。

本丸は駐車場などになっていますが、説明板が設置され、ありがたいです。
本丸の南側の二ノ丸は古城絵図から馬出しであったとされ、今は道路と住宅ですが、本丸への傾斜は分かります。

東側の三ノ丸にある阿弥陀寺には城址山を示す石碑があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

コペット

初登城 (2021/07/04 訪問)

いつかは行きたいと思っていた臼杵城にようやく登ることができました。
市街地正面から見る畳櫓と大門櫓と土塀の織りなす造形には引き込まれました。
コロナ禍のため、訪れる人も少なく、石垣や櫓、空堀の写真を撮りまくりました。
何となく全部見たつもりでしたが、卯寅口門脇櫓を見てなかったのが惜しい。
また近いうちに再訪します。

+ 続きを読む

アヤコ

城さんぽ (2021/06/30 訪問)

天気が良かったので、
岐阜城が少し見えた
とても遠くに。このお城があんなに遠くのお城の
攻略の要になるなんて。

+ 続きを読む

アヤコ

城さんぽ (2021/06/30 訪問)

門とお城がいい感じの構図に。

+ 続きを読む

カズサン

【お城川柳】ゴルフ場の様な二重堀で一句 (2016/10/26 訪問)

 ・ 二重堀 ゴルフ場かな 竹迫城(タカバジョウ)

 肥後山野の細い道を訪ねて竹迫城に登るとゴルフ場かと見間違えするような芝の大型な二重空堀、圧巻な姿、驚きの瞬間でした。

+ 続きを読む

赤い城

なかなかの遺構が。 (2021/06/19 訪問)

藤橋城からの転戦で徒歩30分とちょっと。
最寄りは東青梅駅となります。
妙光院から登ると立入禁止。
光明寺に周ります。
横の道を登ると水道施設があり、その向かいから城域に入ります。
少し進むと二郭、周囲を堀が囲んでいます。
主郭からは青梅市内を一望できます。
主郭から下っていくと三郭、妙光院の墓地となっています。
その下にも郭があり、土塁が囲んでいます。
さらに降りると妙光院の立入禁止の立て札に。
こっちからは行けるのか、と思いながらも墓地があるからかな、と何となく納得。
城廻りはマナーが第一ですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【お城川柳】本丸と二の丸復元丑寅櫓で一句

 ・ よみがえる 丑寅櫓 二つあり

 本丸に丑寅櫓が25年前の平成8年復元し昨年令和2年二の丸に丑寅櫓と続き屛風折れ土塀が復元し丑寅櫓が西尾城に二棟出現しましたので詠んでみました。
 後は天守台に木造復元天守閣を待っております!

+ 続きを読む

ページ1048