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だめなこ

やっと\('ω')/ (2021/04/24 訪問)

天気が悪くて来れなかったけど
今日やっと信長四城スタンプが揃った(∩´∀`)∩♪

・・・けど 御城印は御朱印帳の最初のページにあるだけで
単体で販売してないってゆうのが残念(´Д` )

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ミハエル

案内板 (2021/04/24 訪問)

残念ながら遺構は確認できるものはありません

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カズサン

麓は倉吉陣屋、小京都倉吉 (2014/09/14 訪問)

 打吹城麓の倉吉陣屋と赤瓦の白壁土蔵群を訪ねました、由良台場からは山陰自動車道を東に戻り北条ICから南に伸びてる倉吉道国道313号線を走行し倉吉ICを降り小高い山打吹山を目指し倉吉市役所辺りが元の陣屋跡江戸期行政の中心地です。

 駐車場:成徳小学校前の観光駐車場、倉吉市役所裏当たりの観光駐車場、その他有料駐車場も有ります。

 倉吉陣屋:成徳小学校地が陣屋跡、大きな案内解説看板が通りに建っており目立ちます、元は打吹山に室町時代初め伯耆守護に任じられた山名氏が群馬県高崎市の山名郷山名城から移り打吹城を築き約200年治めたが戦国期尼子氏の侵攻、毛利氏の侵攻で落城衰退、豊臣期南条氏が羽衣石城の支城、関ヶ原後里見氏が館山から移封、江戸期寛文9年(1632年)岡山藩と鳥取藩が領地替え鳥取藩主池田光仲より明治まで続く、倉吉は家老の荒尾氏が倉吉陣屋を治め明治まで続く、米子城代の荒尾氏は倉吉荒尾氏の兄。(案内板より抜粋追加)
 現在は成徳小学校の前の通りに陣屋時代の石垣が残ってる、裏手が打吹公園で庭園に成ってる。
 打吹城には打吹公園から登るルート、市役所、歴史民俗資料館方向より登るルートと在りますが、私は気力、体力無く頂上を眺めるだけです。

 赤瓦白壁土蔵群:旧陣屋の町人町宿場町で小京都倉吉で有名です、よくTVドラマにも取り扱われてます、中国地方に多い石州瓦で葺かれた家々特徴は赤い瓦です、土蔵群町屋が観光用に改修され多くの人を引き付けています、また郷土の英雄、横綱琴桜関の像が観光駐車場の近く立って居ります。
 白壁土蔵群の中に中学校時代の友人がオーナーで夫婦で経営、立ち寄った喫茶休憩で40年ぶりの再会、初めは分かりませんでしたが顔が何となく記憶に有り恐る恐る尋ねたら同級生でした、家内と共にケーキとコーヒーをご馳走に成りました。 有難うございました。

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橋吉

久留米藩庁 (2021/03/27 訪問)

1620(元和6)年、有馬豊氏は丹波国福知山から加増移封され、久留米藩を設立しました。
その藩庁が置かれてのが、久留米城です。

現在、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となりました。
本丸には、有馬記念館と篠山神社が建てられましたが、遺稿を観察することができます。

篠山神社の西、久留米大学グラウンド側に駐車場があります。
訪れたのは、三月末でしたが、桜は見頃になっていました。
城跡に桜は絵になりますね。

有馬記念館には有馬家入城までの史料が展示されていました。
続日本100名城スタンプはここで押すことができます。

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ぴーかる

鷲津砦 (2021/04/10 訪問)

【鷲津砦】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>青春18切符

<感想>日帰り18切符の攻城旅4城目。鷲津砦も丸根砦と同じく奪われた大高城を包囲するために信長によって築かれた。この砦は1560年今川の家臣朝比奈泰能によって攻められ落城している。
 丘陵上の曲輪とおぼしき場所は公園になっており遺構は定かではなくなっている。大高城方向の斜面に曲輪が階段状にあったかもしれない。丸根砦から徒歩で直接山上付近に行った為に、麓の登城口と横堀を見落とす。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

保存整備で素晴らしい (2014/09/14 訪問)

 因幡・伯耆を治めていた鳥取藩には台場が八ケ所在ったのですね、既に訪ねた由良、浦富、橋津、赤崎、淀江、境、未訪問の賀露、浜坂と在り各台場の説明板を読むと鳥取藩の財政難に近郷の大庄屋、大百姓の資金と農民の動員で築かれたようです。
 由良台場は国道9号線沿い今は山陰自動車道沿いの「道の駅大栄」に沿ったお台場公園の西端に在ります、道の駅に入り、青山剛昌ふるさと館との間の道を西に突き当りが由良台場跡です。
 
 駐車場:台場にも40台位可能、道の駅、ふるさと館の駐車場に停めて西に公園散策しながら徒歩も良し。
 
 概要:由良川沿いに日本海に向かって台形、4門の大砲配置、3段土塁、東西125m、南北83m、南に虎口、大砲は由良湊近くの六尾反射炉で製造され、夫々60斤砲、24斤砲、18斤砲、5寸径砲だったそうです。
 内部は芝が張られ素晴らしい景観です、自由に土塁上、下歩け草の茂りに心配は有りませんでした。
 台場跡の東のお台場公園にレプリカの大砲が野外展示されてます。
 当日は甥っ子の結婚式の帰り台場内は家内と貸切状態でした。

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こうちゃん

施設内 (2018/04/18 訪問)

写真が出てきた!お城の興味がまだ無い時なので施設内で満喫した。この施設はかなりオケ!とにかく壮大な環境!
呼子のイカ🦑と、唐津城セットで是非どうぞ!

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赤い城

島津城 茨城県阿見町 (2021/04/17 訪問)

阿見飛行場の西側に位置しています。
近くで草刈りしてた地元の方に聞くも「詳しくないので」と。
確かに案内板もありません。
城はほとんどが宅地と畑になっていて遺構は稲荷社周りの空堀くらいです。がこの空堀が小幡城のよう。
深くて広い堀底道を見ることができます。
南側は竹やぶになっていて進めませんでした。
土岐氏の城とされていますが詳細は不明のようです。

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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅦ 伊賀の乱立籠もった城 (2021/04/11 訪問)

 伊賀未踏の城廻りファイナル、天正伊賀の乱に関連する城廻りともなりました、百地丹波城を終えて北方向へ約10km程に在る柏野城を目指しました。
 ナビは何時もの情報とガイドは城郭放浪記さん古城盛衰記さんに依り、柏野集会場を目的地にして走行。
 駐車場:柏野集会場(N34°48'56" E136°11'31")2台可、又西隣の児童公園、転輪寺(伊賀市柏野283)も可能、私は柏野集会場を利用

 概要案合:柏野城跡は柏野集落の北側に東に伸びた丘陵に築かれている、方形単郭の城郭、東・西・南に土塁、西側に堀切を設けて尾根筋を遮断してる、東側には曲輪を設けて防御を固めてる、南の虎口は横矢掛り防御してる。(案内板より)
 柏野城跡への案内ルートは柏野集会場西横の児童公園前にルート指示絵図が有り角々に案内指示板が有り迷わず辿り着ける、獣除けゲートが有り開閉して入る、ゲート前に案内解説板が有る。
 ゲートを入ると斜め上部登って行く、土塁より横矢が掛かる、南虎口を入り主郭へこじんまりした方形城郭、北を除いて土塁、北は杉林、竹林乱立で北淵より竹林、樹林より覗くだけ、空堀と土橋が微かに確認?西側堀切空堀は入り込めず入場ゲートのフェンス沿いに少し西に移動し藪越しに覗く、東曲輪は良く分かりません、主郭を観察しただけ。

 歴史:この城跡は天正伊賀の乱で近在の土豪が立て籠もった城としても知られていて、市の史跡に指定されてる。(案内板より)

 伊賀にはNHK英雄たちの選択放映の中で奈良大千田教授が巡って説明されてましたが方形単郭の城跡が数多く在るそうです、今回の探訪移動中にも史跡マークで城跡、砦が現れ、現実に土塁に囲まれた屋敷が散見され立ち止りたいけど道が狭く車窓見学に成った事も、ゆっくりと廻れる伊賀・甲賀方形単郭城跡廻りツアーを企画してもらいたいものです?
 これで伊勢・伊賀未踏の城廻り17城投稿締めです。有難うございました。

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ミッピのパパ

「さらば岡山城」5.31閉館 (2021/04/01 訪問)

「さらば岡山城」5.31閉館
岡山城ホームページに掲載されているビックリするタイトル。
3月に城びとの記事にもなっていましたが改修のための一時的な閉館。
(2022年11月リニュアル)

それじゃ、しばらく見られなくなるんだったら、「今でしょ」ということで攻略。

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赤い城

北城は必見。 (2021/04/17 訪問)

君原公民館に車を駐めて徒歩で少しで城址入口があります。
そこからは順路に沿って進むと素敵な遺構を見て回れます。
本城エリアは土塁と堀が残っていて主郭近くには隅櫓跡と思われる土壇が。
二郭には切通状の鋭い堀切もあります。
本城跡でも十分なのですがやっぱりここは北城の二重堀。
ここは見るべきかと。
曲輪は無いものの折れを伴う堀が二重に。
圧巻でした!
館野氏というマイナー武将の城ですが見どころ十分。おすすめです。

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小城小次郎

遺構と来訪者双方の保護を図るため (2021/01/27 訪問)

前回訪問時には石垣のネットもなく金属階段もなかっただけに、画像データを消失したのは痛恨の極み。ただ遺構と来訪者双方の保護を図るため、ある程度の措置がなされること自体は致し方ないことだと思う。

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ぴーかる

丸根砦 (2021/04/10 訪問)

【丸根砦】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>青春18切符

<見所>曲輪・土塁
<感想>日帰り18切符の攻城旅3城目。丸根砦は奪われた大高城を包囲するために1559年に信長によって築かれた。今川方の松平元康の兵糧入れの際激戦の末、落城全滅したと説明板にあります。
 丸根砦は鷲津砦とともに南北に走る丘陵の南端中腹程にあり、のちの家康はこの砦の南側から攻めて落城させたようです。砦は円形で腰曲輪、横堀もあったようだが現在は見られない。大高城がちょうどいい感じに眺望できます。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

大塚城(山形県東置賜郡) (2021/04/17 訪問)

【おおつか じょう】洲島城から北西に約4km。のっぺりとした景色にも慣れてきました。セブンイレブンでギアが入りますが,ここでトイレを済ませておかないと大変なことになりそう…。そして,さらに進むと右に高徳寺,左に牛谷家の門が見えてきます。そう,ここがまさに大塚城の城域です。
牛谷家の門は,かつて大塚城の大手門であったと伝わります。
高徳寺の奥のほうまで入ると,大塚城の土塁が目に入ります。そのワキの堀がプチ庭園として改変されています。

大塚城は,伊達氏家臣の大塚氏の居城。天正年間の伊達氏転封後,上杉氏支配下となり,年貢米の貯蔵庫として利用されていたそうです。

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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅥ 伊賀忍者百地丹波の城郭 (2021/04/11 訪問)

 伊賀丸山城を終えて北東へ約6、7km程の百地丹波城を目指す、駐車場は無さそうなので伊賀コリドールロードと県道56号線が西に曲がる交差点にナビを定めて走行。(情報とガイドは城郭放浪記さん)

 路駐場所:N34°44'22" E136°12'58"の地点、ナビで定めた場所でした路肩三角コーナー、県道56号線と伊賀コリドールロードとの交差点、百地丹波城の有る青雲寺の北西約200m程。

 概要案内:久米川南の西に突き出た丘陵に連郭式4曲輪、北に久米川の外堀利用、南に丸形池、沼状なのか濠、谷筋で護られ、各曲輪は堀切で防いでる。
 案内板の縄張図では郭D:青雲寺、館か?、郭C:本郭、西と東に分かれてる、郭B:2の郭、郭A:少し離れてる高所
 青雲寺西の堀切から入るが細くて狭い切通、鹿児島のシラス台地の切通、清色城を思い出す、青雲寺に入り参拝、案内チラシを頂く、トイレも利用、青雲寺の堀切越しの西には百地家の墓所、東崖の上に郭C本郭、南に回って南虎口より入る、本郭は南を除いて土塁、東側が高土塁、北東に虎口有り、北の高土塁の東は堀切、東へ郭Bちょっと入郭が分からない。
 式部塚への土塁を確認し同曲輪に狭い堀切道で曲輪防御の様。
 こじんまりしてるが良く出来た城郭です。

 歴史:室町時代に百地丹波泰光によって築かれた、街道を見下ろし丘陵に立地してる、天正7年(1579年)第1次天正伊賀の乱は鬼癭峠の戦いで喰代村から百地丹波、百地田中氏が織田信雄を迎え撃った。天正9年(1581年)第2次天正伊賀の乱には百地丹波は名張の柏原城に立て籠もった、以後立ち去り不明とか?名前を変えて隠棲したとか?色々言われてます。(青雲寺案内チラシ抜粋)

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ミッピのパパ

体力勝負 (2021/03/31 訪問)

鬼ノ城までの道は、狭~い急な山道を数キロ登ることになり、車の運転には注意を
要する。
鬼ノ城は自然観察やハイキングの山に、古代の城跡があるというような場所で、
春休み中の子供たちの家族連れが多くいた。

案内版には、自然観察を含めたいくつかのコースがあって、お城ファンが行くべき道は
戦国の城のように山の頂上の本丸を目指す城跡ではなく、鬼城山の周りを1周して見て回る
という、ちょっと勝手の違う城跡であることを、現場で改めて知った。
そのうえ、1周(4~4.5Km)するには、1時間半から2時間かかるという思いのほか広大なエリアで、
一番の見どころである屏風折れの石垣まではスタートから半分行ったところで、
結局1周回らなければならない。
備中松山城の大松山まで行った後の、鬼ノ城は体力勝負となった。
ビジターセンターで鬼城山全体の地図が記載された自然観察用パンフレットを100円で
購入し、汗だくになりながら制覇。

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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅤ 伊賀の乱主要城郭 (2021/04/11 訪問)

 千賀地氏城を終えて東に約6km程の丸山城を目指す、天正伊賀の乱1次2次と火付け役舞台となった山城なので登城して観たいと思って居りNHKBSプレミアムで英雄たちの選択で放映され今回の伊勢・伊賀未踏の城廻りで期待していた城の一つ。
 情報とガイドは何時もの城郭放浪記さん古城盛衰記さんに依る、登城ルートは城郭放浪記さんの丸山集会所、南からの登城。

 駐車場:丸山集会所駐車場(N35°41'59" E136°09'41")
 
 概要案内:集会所前の道から案内指示板が有り指示に従い民家横の南側登城口、案内指示標柱、緩やかな坂道を登って行く、左右には曲輪の跡を思わせる地形、最初の広い曲輪に出る北側に祠が祀って有る出丸かな?、北に向かって緩やかな尾根道を登る、道筋には曲輪のような地形、急な坂道に成り粘土質の土と落ち葉で滑りやすい、虎口を二ヶ所通り本丸へ、虎口の左右には曲輪群小竹藪状態で突入できず、本丸内も小竹藪状態入れない、天守台に城名石碑が建ってる、南下に小曲輪何か祀ってる宝篋印塔、堀底道を南降り西尾根曲輪群へ縄張図も無く途中まで行き引き返す、広い曲輪、縊れた処には土橋と左右に竪堀、来た登城路を駐車場に戻る。
 古城盛衰記さんは西からの登城路で西の丸、西尾根、本丸のルートを案内されてる、城郭放浪記さんは南から登城路で南尾根、北尾根本丸、西尾根を周回探訪されてる。
 全山を城郭に築き上げた大城郭です、登城路は歩けますが道以外は小竹藪潅木状態でちょっと入り込めません、天守台、宝篋印塔の有る曲輪は整備されてますがせめて本丸の藪は整備頂けるとありがたいのですが?

 歴史:北畠氏の養子となった織田信長次男信雄が伊勢を掌握し伊賀を狙い天正6年(1578年)家臣滝川雄利に丸山城を修築を命じた。壮大な城郭で有る事を知った伊賀の土豪衆は完成までに攻撃すべしと総攻撃を仕掛けた、不意を突かれた滝川氏は混乱敗走。
 翌天正7年(1579年)信雄は8千の兵で伊賀を三方から攻めるが伊賀土豪衆の抗戦に敗走。(第一次天正伊賀の乱)
 激怒した信長は天正9年(1581年)信雄を総大将に5万の兵で伊賀を侵攻し1週間ほどで伊賀の国を制圧。(第二次天正伊賀の乱)

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ミッピのパパ

日本三大山城制覇! (2021/03/31 訪問)

2014年 仕事でJR伯備線 特急やくも の車窓から臥牛山をのぞみ
「いつかはこの城を攻略したい」と心に誓ってからはや7年。
とうとう、備中松山城を攻略した。合わせて城下も散策。
その間に、岩村城、高取城も攻略したので、これで日本三大山城を制覇。

<その他>
昨年、司馬遼太郎『峠』を読んだ。
その中で、主人公の河合継之助が、尊敬する山田方谷に教えを乞うために
備中高梁を訪れる。恥ずかしながら山田方谷なる人物を初めて知ったが、
地元では今も尊敬される人物で、JRの駅名までなっている。
もちろん記念館もあるが、時間がないので行けなかった。
今年2021年『峠』は映画化されるとのことなので、備中松山城が少しぐらい
でてくるかな?

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昌官忠

都区内5城巡り⑤:中野長者屋敷 (2021/04/16 訪問)

都区内5城巡り5城目は中野長者屋敷(ラスト)です。
中野城山居館より徒歩10分くらいで成願寺山門前(35.693576、139.682042)に着きました。

言い伝えによれば、応永年間(1394年〜1428年)ごろ、この地で馬喰をしていた鈴木九郎という人物が住んでいました。
あるとき九郎は馬を売りに行く途中で浅草に立ち寄り、観音菩薩に参拝したところ、馬はすぐに売れ、「中野長者」と呼ばれるほどの財を成したといいます。
『新編武蔵国風土記稿』によれば、九郎は紀伊熊野の神官の末裔とされるが定かではありません。
その後、九郎の娘が若くして病死した(あるいは蛇身となった)ため、九郎はこれを嘆いて出家し、屋敷を寺に改めました。これが現在の成願寺のはじまりとされます。
「正蓮」と号した九郎は、永享12年(1440年)に没したとされ、これが正しければ、中野長者屋敷は九郎一代の数十年のみ存在した屋敷であると推測されます。

関係ないかもですが、寺域内に長者閣というのがありました。屋敷跡というより鍋島家墓所推しですね。
攻城時間は10分くらいでした。

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こうちゃん

現存天守 (2021/04/20 訪問)

天守内の間接照明での雰囲気作りに全体的な保存状況が抜群!天守内で自分的にNo.1。

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