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カズサン

駐車エリア確保出来ず探訪断念 (2021/11/15 訪問)

 新地城別名蓑首城を終えて国道6号線を約3、4km程南下し駒ヶ嶺城を目指す、ナビを古城盛衰記さん情報の白鳥神社の朱鳥居先に若干の駐車スペース有との情報で、同神社下鳥居辺りに合わせ到着したが、細い山道に舗装路沿いの草叢に駐車出来そうなエリアが在るが少し心配で(以前草叢駐車し前輪駆動の愛車はタイヤスリップして抜け出すのに大変難渋した経験が有り)その辺り中心に上り下り行ったり来たりして駐車可能場所を探すがその当時見当たらず、再度鳥居まで行き、登城口を確認し、車の登城禁止、登っても回転するスペースが有りませんとの看板情報で、今回城廻り最後の城でしたが家内を宇都宮に待たせて居り、時間の期限も近づきさらに探す余裕も無く、駒ヶ嶺城探訪を断念しました。登城口の写真も撮ってませんでした。
 帰ってからグーグルマップで周辺を探すと白鳥神社南下に約300m程降ると立田川沿いに駒ヶ嶺公民館が有り拾数台は駐車可能スペース有を発見。行く前によくよく情報調査が肝心です。
 次回福島、宮城、岩手城廻り探訪の折には再チャレンジでしょうか?

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カズサン

もう一つの「みの首城」 (2021/11/15 訪問)

 坂本城別名みの首城を終えて国道6号線を南下約4km程、宮城県との県境に新地城別名蓑首城(ミノクビジョウ)が有ります、近くなので城探訪迷いそうですね!

 情報ガイド:余湖図コレクションさん、古城盛衰記さんに由る。

 案内看板は国道6号線西側に一つ、西入りして直線道路を約1km程の舘前集落入口に大きく有る、後はそれに従って且つ要所要所に案内指示板が出て居り、細い集落の舗装路が本丸東の駐車エリア(37°52'56"N 140°54'20"E)に繫がってる、眼前に新地城址会看板のしめ縄を飾った建物が有る。

 車を建物前に駐車、車から出ると畑に鋤き込んだのか牛ふんの異様な臭いが鼻につき大急ぎの探訪と成る、本丸西土塁に案内解説板、本丸虎口から入り内部を観察、遊技器具が設置され公園と成ってる、周囲は土塁の囲まれてる三角形に近い本丸、西虎口から出て本丸西、北の堀を見るとかなり大きい空堀、余湖図コレクションさんでは水堀、西館曲輪、西館曲輪と北館曲輪間の土橋、その隘路に枡形とと有るが草木が茂り分からない、西館は草原、何か植わってた痕は有るが?北館は耕した直後で植栽前かよく臭う、北虎口から東館に入る、駐車エリアに入る、臭いがきつく、本丸、西館、北館、東館の奥の空堀、帯曲輪など探訪観察する気欲が無く退散、降り掛けに本丸南下に在る曲輪と本丸崖切岸を見る事が出来た、余湖図コレクションさんの俯瞰図では南に3段の段曲輪が集落の下まで描かれて居りかなり大きく堅固な城郭だったようです。
 訪れるのは春桜の頃が良いようです。

 歴史:この城は永禄9年(1566年)頃、相馬氏によって築かれ海道の境の城として、伊達・相馬氏の抗争に重要な役割を果たした。
 天正17年5月伊達政宗は相馬義胤が田村に転戦してる留守を突き、新地・駒ヶ嶺を攻め落とした。政宗は新地城を亘理重宗に与え、坂本三河を城代として置いた。慶長5年に坂元への引き上げが命ぜられた記録が残っており、その頃廃城と成った。(新地城(蓑首城)跡案内板を抜粋)

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イオ

立入禁止に撮影禁止!? (2021/11/19 訪問)

城主は諸説あって詳細は不明ながら、城域に建つ菅原神社の由緒書によれば、菅原神社は室町中期に稲葉城主の稲葉元春が京都の北野神社から勧請したとされ、その後、稲葉氏が本願寺方についたことから織田軍の攻撃を受けて落城したようです。

牛滝川と支流の間の河岸段丘に位置し、菅原神社の境内が城域で、裏山の周囲に土塁と横堀を巡らせ、切り立った切岸の上に主郭を構えている…んですが、先人の投稿にある通り、いのししの生息が確認されたため、防獣柵が設けられて立ち入りできなくなっています。

…と、主郭に立ち入れないのは承知していましたが、せっかく近くに来たのだから(松尾寺城から車で10分弱)と、ついでに登城してみました。菅原神社の駐車場に車を駐めて、菅原神社に参拝した後、拝殿を抜けて奥に進むと本殿左側に並ぶ境内社の背後に土塁があり、その奥には防獣柵越しに主郭切岸が見えます。柵内には入れないにせよ、せめてできるだけ近付いてみようと思っていると、境内のあちこちにいのしし出没の注意書が掲示されていることに気付きました。こんなにも掲示されているのは、境内にも立ち入るな、ということ? でも、立入禁止を示す三角コーンやロープなどは見当たらないし……と引き返すべきか迷っていると、今度は「社叢林の動物保護のため、神社内での写真撮影はご遠慮下さい」との趣旨の掲示を発見…。フラッシュを使わず、シャッター音を切っていても写真撮影はダメ!? 撮影禁止の理由がどうにも解せませんが、遠慮しろと言われれば従うしかありませんので、それからは神社の外からの撮影に留め、牛滝川と支流側からの遠景を確認して退散しました。

菅原神社の境内(社叢林部分)への立ち入りの可否についてはわかりませんが、少なくとも神社内での写真撮影は禁止されているようですし、掲示に気付く前に神社内で撮影した写真は投稿を控えさせていただきます。…もっとも、どうせ主郭には入れないので大した写真は撮れてないんですけどね。
 

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にのまる

その10・数寄屋敷石垣・土橋門石垣・戌亥櫓石垣 (2021/10/31 訪問)

数寄屋敷石垣の切石積みには刻印がたくさん。「自分の持ち物には名前を書きましょう!」「名前がないから誰のものかわかりませ―ん!」はこの頃から日常風景だったのかなと思ってみたり。「自分だけにわかるマークは他の人にはわかりません!」もあったかな⁉︎

土橋門石垣の六角形の石(亀甲石)には防火の願いが込められているそうです。ほかのお城の石垣でも1コだけ亀さんが嵌められているのを見つけたら立ち止まって考えてみようと思います。

戌亥櫓石垣は石の隙間に平らな石をはめ込んで粗加工石積みを切石積みのように見せる技法を取り入れているのだそうです。抜け落ちた石も間石ではなく積石のような加工と大きさでした。全部埋まっている姿を想像すると切石積みの石垣で見たのと同じようなデザインが浮かび上がってきました。

いろいろな石垣を見ていると、このお城の石工さんたちは限界やゴールを決めないで走り続ける技術者でありアーティスト。おもしろいアイデアが浮かんだら試さずにはいられない人たちだったのだろうと思えてきました。誰よりもリーダー自身が‼︎

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ぎりょう

米谷城 中世には山城、藩政期には米谷「所」地域支配の拠点に (2021/11/23 訪問)

仙台藩寛文事件の主人公の一人原田甲斐の墓がある、登米市東和町米谷の東陽寺を訪れた。原田家は伊達家の重臣で宮城県南の船岡を領していた。その墓が県北の米谷にある理由は添付画像の東陽寺説明書きをご覧いただきたい。秋晴れの下、本堂裏手にある甲斐の墓は、密かに埋葬した場所の目印に植えられて、今は大木となったイチョウの落ち葉に彩られていた。

米谷城は建治2年(1276)に葛西家家臣の亀掛川氏により築城されたと云う。奥羽仕置により葛西家が滅び、伊達家の所領となると、柴田氏、次いで高泉氏(準御一家2,700石)が配され維新まで続いた。
城は市街地の北側、米谷工業高校にほど近い山の中腹に二の丸を、頂上に本丸を置く縄張。仙台領古城書上には「山 米谷城 東西十六間 南北十八間」との記載がある。藩政時代には旧二の丸が米谷「所」の中心として居所が置かれたものと思われる。
道路脇の登り口に高泉家十九代当主による米谷城跡の碑があり目印となっている。
見学者用の駐車場は無い。三陸自動車道登米東和ICより2.4Km、5分。

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赤い城

跡地には城主のご子孫がお住まい (2021/11/21 訪問)

田園地帯の民家脇に説明板が立っています。
近くには駐車場はありません。
民家には城主の末裔がお住まいのようです。
民家を囲むように土塁があり、その外側の堀は田んぼとなっています。
見学の際にはご近所も含め配慮が必要ですね。

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BUGTI

山頂からの眺望がすばらしい城 (2021/11/28 訪問)

城の由来はいろいろな説があり、はっきりしていないようだ。登城路の途中に防御の土塁があるが、主郭はそこからだいぶ登ったところにあり、連携した防衛ができるとは思えない。主郭と呼ばれるところは、だいぶ手が加えられているようだが、土塁で囲まれた曲輪になっている。ハイキング道が整備されて登りやすく、国見山頂上からの眺望はすばらしい。

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カズサン

サンドイッチマン伊達君もう一つの先祖の城 (2021/11/15 訪問)

 国道6号線沿いの中島舘を終えて国道6号線を南下約3km程宮城県県境に在る坂元城を目指す、国道6号線から西に約500m程の所に在る坂元小学校が二の丸跡、下段北が三の丸、小学校南の丘陵が本丸、車は三の丸砂利駐車場、本丸、坂元神社北下段駐車場を利用。

 本丸は坂元神社方形の丘陵に本曲輪、北下段に二の丸現在坂元小学校、本丸周囲は低い崖に成りそれなりの防御性あり、本丸西に大空堀、現在本丸北に車道と歩道が出来てますが、本来は北西の枡形虎口?が登城口か?、現地説明板の絵図に由ると回の字に空堀、濠が本丸、二の丸を囲んでおり、北下段に三の丸が方形出丸のように堀に囲まれた城域の様です。
 本丸、神社参拝し、本丸で東日本大震災に由る一部石碑の倒壊が見られる、西の大空堀を観察、二の丸は小学校なので本丸から眺める、三の丸には現存大手門、現存板倉、現存茶室が残り一部土塁と池も残ってる。
 二の丸が小学校に成ってますが城域の保存状態はよく散策探訪には問題有りません、城域の城名碑は別名の「みの首城跡」と成ってます。

 歴史:蓑首城(ミノクビジョウ)は亘理氏の家臣坂元三河が元亀3年(1572年)に築城、その後領主が入れ替わり元和2年(1616年)から伊達氏の家臣大條宗綱の居城となり明治維新まで大條氏の治政が続いた。(現地案内板抜粋)
 大條氏7代宗直が大枝城から伊具郡大蔵村に移り、8代宗綱が坂元城に転封と成る、明治維新後大條氏から元の伊達氏に改称され現在の漫才コンビサンドイッチマンの伊達君に繫がってる。
 

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higekam

三好長慶が飯盛城に移る前の居城 (2021/11/29 訪問)

丹波、摂津守護の細川氏から奪い取った中世の山城に長慶が手を加えたもの。
搦手から攻めたが、三郭の竪土塁、二郭の石垣、大手門石垣、主郭南西下の大堀切、土塁など見どころは多い。
そして主郭部から臨む大阪平野の眺望が素晴らしい。

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いんげん丸虫

猪狩山城 岐阜県恵那市 (2021/11/13 訪問)

(いかりやま)詳細不明の山城です。
遺構的には尾根に主郭を設けて前後に堀切を備えるという基本的な構造です。
比較的大きな岩(石)が尾根つたいに長く並んでいるのが特徴的ですね。
鹿垣なのでしょうか??
搦手に標柱、登り口があり駐車可能です。ここからだとキツイ登りや藪漕ぎ
もありません。雰囲気の良い山道を行けます。看板も適度にあり、地域に
大切にされている山城だと感じました。

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よしくん

感動しました高取城 (2021/11/29 訪問)

近鉄・壺阪山駅からトボブラと山頂まで2時間かけて登りました。駅前から少し行くと、土佐街道の古い町並みをぶらぶら探勝、スギ・ヒノキの暗い山道をひたすら登り、飛鳥時代に作られたという猿石、二の門跡脇の水堀、二の門跡を過ぎて、脇道的に入って行く国見櫓には是非行きたい。国見櫓からは眼下に奈良盆地が広がり、樫原神宮の森、二上山、葛城山や、遠くに大阪のビル群、六甲山が一望。宇陀門、大手門を過ぎると、二の丸、本丸に到着。広々とした開放的な本丸・二の丸にある高い石垣に感動します。この山頂にのみ、ケヤキ、カエデ類、モミなどの大木が生えて、今年最後になると思われる紅葉も楽しめました。高石垣の山城、山頂の紅葉と低山ハイキングと、3つのことに大満足の1日でした。

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緑の原付

家康館、良かったです (2021/11/29 訪問)

再建天守、土塁、石垣、堀、城下町といろいろ楽しめますが、公園内にある家康館の展示が良かったです。

特に家康以前の松平氏の説明があり、家康に至る流れがよく分かりました。

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イオ

古刹と裏山 (2021/11/19 訪問)

飛鳥期に役行者が開いた松尾寺が南北朝期に城郭化したもので、最盛期には寺領7千石、僧兵数千人を擁したとされますが、織田信長の高野山攻めの際に焼き討ちを受けて全山焼亡。その後、松尾寺は豊臣秀頼により再建されて現在に至ります。

松尾寺は紅葉の名所でもあり、近くに来たついでに紅葉狩りがてら登城しました。松尾寺の駐車場に車を駐めて石段を上って行くと、左手に源義経が一ノ谷の戦いの死者の菩提を弔ったと伝わる首堂があります。首堂の少し上には江戸中期築の立派な山門があり、楼上に文殊菩薩、門の左右に増長天と持国天が配されています。見ごろの紅葉を眺めながら境内を進むと、豊臣秀頼の寄進により四天王寺から移築された金堂が建っています。金堂の近く、鐘楼の脇には長諭和尚の碑があり、信長の焼き討ちの際に本尊や寺宝を護って難を逃れた功績が顕彰されていました。

松尾寺の裏山、児童遊園と春日神社の奥には松尾寺の僧坊であり松尾寺城の曲輪と思われる削平地が多く連なり、堀切状の地形も見られました。また、金堂の裏手には新池と呼ばれる溜池があり、仮に往時からのものとすると水の手兼水堀的な位置付けかなぁ、などと妄想しながらの探索でした。
 

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モト

現れた石垣に感動です (2021/08/10 訪問)

小高い山にある城跡を本丸を目指して登ります。
神社の脇にある登城口から入り、ある程度階段など整備された道へ合流して登っていきます。
この時点でかなりの城跡の雰囲気が漂います。
途中、門跡であろう所に残る若干の石に心躍らせながら進みます。
土塁跡、出丸跡、兵具蔵跡も残っております。
道はハイキング程度の登りです。
いよいよ本丸までは後少し、そして本丸の入り口に現れます見事な石垣です!!
綺麗な石垣に思わず感動して声が出てしましました。
石垣の角の綺麗な角張にも感動です。
大手門跡を通って本丸に上がりそこからの眺めを楽しみましたが、やはり石垣が良い。
帰りにも何度も石垣を眺めて帰りました。

金山城という名前の城跡は結構数ありますが名城が多いというような気がします。
ここもかなり満足な城跡だと思います。
おすすめです。

神社の入り口と反対側にも駐車できるようになっておりました。

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ばばよ

11月末には雪降ります (2021/11/28 訪問)

平沢登山口案内所が開いているうちにとどうにか11月中に車で訪問。
上信道というバイパスが便利なようでした。
向かう途中で雪が降った跡に気づく。
幸いアイスバーンにはなっておらず、駐車場まで徐行運転。
駐車場には薄いながら雪が積もっていました。
本格的な山登りの方から見たら、自分はなんて軽装で危なっかしいと思われたでしょう。反省。
頂上までは危険と判断し本丸で折り返すことに。
雪解け水で滑りやすいところがある反面、捕まるロープもなく肝を冷やすところも。
樹々が多いところは逆に雪が地面まで降りてこず、安心して歩けました。
竪堀、土塁はなかなか。本丸からの眺めも良好。

クマの噂にびびりすぎて雪にヒヤヒヤさせられることになりました。
というわけで、晩秋に行かれる方、ご注意くださいませ。

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todo94

八幡岬公園 (2021/10/30 訪問)

トンネルの先に駐車場が完備されている八幡岬公園としてきっちりと整備されています。鳥居のちょっと手前脇にある城址碑、危うく見落とすところでした。徳川家康の側室として、紀伊家、水戸家の藩祖を生むことになるお万の方の銅像があり、お万の布さらしの逸話が残ります。そんな断崖からは素晴らしい眺望が得られました。

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前ちゃん

2度目の来訪、今度は詰城 (2021/11/29 訪問)

今回は、指月山へ。山頂部は詰城であり、石切場でもあったのですね

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にのまる

その9・尾山神社 (2021/10/31 訪問)

 玉泉院丸庭園から鼠多門橋でつながる尾山神社は金沢城の出丸(金谷出丸)だったとのことです。二の丸唐門を移築した東神門の彫刻に目を惹かれました。宝暦の大火で城の大半が焼失した際、彫刻の二頭の龍が水を呼び類焼をまぬかれたとの言い伝えがあるのだそうです。
境内の前田利家公の像は母衣を担いだ騎馬像でかなりかっこいい!三層のモダンな神門は国の重要文化財。設置された避雷針は日本最古のものだそうです。

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赤い城

城跡で学べるのは羨ましい (2021/10/21 訪問)

城跡が学校になっている例は多いですね。
関東では太田城、龍ヶ崎城など。
真岡城も主郭は真岡小学校。
北東側の虎口が遺構として見れる感じです。
公園として整備されていますが、公園には見どころはなさそう。
二郭には本城稲荷神社があり、主郭との間の道路は堀切の跡のようです。
別名は芳賀城で宇都宮氏菓子芳賀高貞が築城したとされています。
無料の市営駐車場があるのでそこから行くのが良いと思います。

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カズサン

奥州藤原氏初代清衡の父経清居館と言われてる (2021/11/15 訪問)

 伊達政宗の右腕伊達成実菩提寺小堤城/大雄寺を終えて国道6号線を約10km程南下し中島館を目指す、途中の道すがら10年前の東日本大震災の爪痕、ここまで津波到着、津波で浸かったエリアとか標識があちこちに有りました、津波の酷さを実感した次第。
 
 情報源とガイド:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ

 駐車:宮城県亘理郡山元町高瀬舘下の中島舘登城口標柱の在る南約50メートル国道6号線東の脇道、アパート西面の路肩が広く路駐可(37°56'50"N 140°53'38"E)

 登城は路駐場所から北に約50メートル程国道6号線沿い下り方面、西側の丘陵スロープに中島舘跡の白い標柱が有り道なりに登って行く、西、道なりに進み堀底道の様な個所もある、50m程登って行くと城塁土塁が目に入り手前には土橋が有り城塁を登ると主郭に成る結構広い杉林に覆われてる、中心部は杉を伐採し少し観える化、白い標柱中島館跡、案内説明板が有る、主郭下には帯曲輪?を思わせる空堀?が東の土橋から南、西に伸びている、北は出郭で共に崖下に成ってる。
 案内板に在った伝藤原経清居館跡の時代築城と有りましたが戦国期に亘理氏、相馬氏、伊達氏攻防の中、改修が繰り返されてのか?とも思ったりしたり、静かな中での探訪観察でした、帯曲輪?空堀?は樹木が茂り倒れ主郭から眺めただけです。

 歴史:中島館跡は亘理権現太夫藤原経清の居館であったと言われてる。 経清は奥州の戦乱「前9年の役」の際、源頼義に従って陸奥の俘囚長阿部氏を攻めた人物で、後に源頼義と袂を分かち囚われて処刑されている。 経清は奥州平泉の地で黄金文化を築いた藤原清衡の実父であり、事実であるならば奥州藤原氏ゆかりとして歴史上由緒ある館跡である。(館跡案内板一部抜粋に由る)

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