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カズサン

城郭寺院瑞泉寺 (2012/10/13 訪問)

 平成24年10月第19回全国山城サミット魚津大会当日オープニング前に東海北陸道夜駆けSA仮眠して富山の一向一揆門徒宗三拠点の一つ井波の瑞泉寺を訪ねました、元瑞泉寺は現瑞泉寺の東に在る井波八幡宮(元本丸跡)、招魂社(元二の丸跡)、瑞泉寺は井波城の西に接して居ます、北側は石垣に囲まれて城郭石垣の様を彷彿させます。
 
 見学探訪は瑞泉寺境内、元井波城は西側の土塁、南側の池、堀跡か?を散策しただけ、瑞泉寺は本堂大修理中、太子堂、山門、太鼓櫓の司晨楼、勅使門に当たる式台門、各伽藍には素晴らしい彫刻が施され見ほれ時間が足りないくらいです。
 門前は井波の欄間彫刻のお店が立ち並び昔の良き風情が街並み家並みに感じられます、車は井波町屋の門前に観光駐車場が在り利用しました。

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前ちゃん

肥前のくま誕生の地 (2021/10/04 訪問)

同上。公園です。

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イオ

瀬田の唐橋 (2021/09/20 訪問)

室町期に山岡氏が築いた城で、元は六角氏に仕えていましたが、山岡景隆が城主の頃、織田信長が上洛し六角氏が近江を追われた後は信長に従い、本能寺の変の後には明智光秀の誘いを拒み、瀬田の唐橋を焼き落として明智軍の安土城侵攻を遅らせました。その後、賤ヶ岳の戦いで柴田方に与したとして羽柴秀吉により改易され、廃城となったようです。

城跡は現在ではマンションとなり、遺構は消滅していますが、マンション西側の県道沿いに石碑が建てられ、その南には城跡にちなんででしょうか、城郭風の石垣と土塀が設けられています。

瀬田城から北に徒歩3分、日本三大名橋に数えられる瀬田の唐橋は東海道・東山道から京都に至る交通の要衝で、「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われるとおり、本能寺の変のみならず、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、承久の乱、建武の戦い、観応の擾乱と、各時代の戦乱の舞台になっています。また、千利休と古田織部の逸話で知られる唐橋の擬宝珠は信長の架橋により設けられたもので、現在も江戸期の擬宝珠が現存しています。

瀬田の唐橋は俵藤太秀郷の百足退治の伝承地でもあり、瀬田城と唐橋の間にある勢多橋龍宮秀郷社は、伝承に語られる瀬田川の龍神と秀郷を祭神とし、その東隣の雲住寺は秀郷の供養のために子孫の蒲生氏により建立され、百足供養塔と虫塚があります。瀬田川中洲の南側には陶製の秀郷像も建てられていました。

# ぴーかるさんの投稿にある浮気住吉神社のことは知らなかったので、いつか浮気城を訪れた時にチェックしてみたいものです。

瀬田の唐橋は「急がば回れ」の語源とも言われますが、満々と水をたたえて流れる瀬田川を見ていると、唐橋の重要性を実感できます。
これは橋なくして軍勢を動かすのは困難ですね…。
 

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ダイエティシャン

吉田郡山城Ⅳ 三の丸石垣 三の丸 毛利隆元墓所 (2021/10/01 訪問)

三の丸石垣跡が、風情あります。②③
三の丸跡④⑤

まだまだ曲輪も旧本城跡も気になりますが、また次回に。来たた道を帰ります。⑥⑦⑧
今年から、毛利元就没後450年 毛利元就入城500年イベントの様子。⑨コロナ禍で無ければ、参加出来たのに。

最後は、遠征中に非業の死を遂げた 毛利隆元の墓所。

長々とご覧頂きありがとうございました。

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡Ⅲ 土塁跡 二の丸 本丸 (2021/10/01 訪問)

本丸目指して進軍
土塁跡、二の丸跡⑤ 本丸櫓台東⑥ 本丸櫓台西⑦ 本丸櫓台南⑧ 本丸櫓台北⑨

本丸跡⑩

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡Ⅱ 登城道 御蔵屋敷跡 (2021/10/01 訪問)

だんだん山城の登城道らしくなってきました。②~⑥

登城口=駐車場から20分程で、御蔵屋敷跡に到着。⑦
釣いの段の井戸跡 ⑧
進軍するが、 段は通行止め⑨ ⑩

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡Ⅰ 登城口 登城道 墓所 百万一心 (2021/10/01 訪問)

うん十年前に攻城した時とは様変わりし、綺麗に整備されています。①~④

しばらくは、広い道を進み、数分で、毛利一族の墓所に着きます。百万一心の石碑もあります。5~⑦

随所に案内板もあります。⑧~10



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カズサン

城郭寺院勝興寺 (2012/10/14 訪問)

 平成24年10月第19回全国山城サミット魚津大会に合わせ2泊3日で富山県石川県の城廻りに出掛けました。
 13日の中井均先生の記念講演、14日の基調講演を午前中まで、その間出店してる山城サミット参加市町村の山城紹介コーナーで情報収集、資料収集を済ませ14日の午後は城廻り以前から狙ってた高岡市伏木港の元国府跡、古国府城跡、現在は勝興寺を魚津から地道を通って北アルプスの山容を途中途中眺めながらの進行。

 城跡は伏木港の西の守山城跡山陵が東に張り出した丘陵に在ります。
 車は勝興寺の門の無い総門跡を入り鼓堂前の駐車場へ入れる、近くに受付が有り参拝料を払い資料等を頂き、丁度平成の大修理中期間20年で進行中で参拝記念に金の栞を頂く、本堂は修復を終えて参拝出来ました。

 勝興寺の伽藍は古国府城跡内にすべて配置され周囲は土塁と堀で囲まれて且つ樹林でも囲まれ鬱蒼とした中に納まってる、浄土真宗のお寺らしく二階建ての太鼓櫓が総門の後に在る鼓堂と呼ぶ、本堂は西本願寺の阿弥陀堂を模したと言う立派な造り、富山の欄間彫刻で有名な所井波の彫しの仕事か本堂の軒下周囲は彫刻で埋まって居り見飽きないほど時間が過ぎてしまいます、本堂と唐門はじめ建物12棟は重要文化財。
 勝興寺は本願寺蓮如上人の子孫が継がれ本願寺、京都公家、戦国大名との関係を深め、藩政時代は前田家との繋がりも深く歴史資料宝物が多数保存されて居ます。

 寺院伽藍参拝の後、堀と土塁は東側と南側のみ見学。

 歴史的には神保氏の築城で古代越中の国国府が置かれた地、越後勢との抗争の中、背後の山に在る守山城の出城として使用、佐々成政の越中攻略に助力し成政が秀吉と対抗した時、越中一向宗徒を味方につけるため神保氏を介して成政が此の地を寄進して戦火で焼失していた勝興寺が天正12年(1584年)移った。(パンフレット、案内板抜粋)

 周辺観光で新港に係留されてる帆船海王丸に乗船、高岡大仏(三大大仏)参拝と洞内廻り、今回は見てませんが超有名な高岡城、瑞龍寺が見所です。
 当夜は高岡の旧友と久しぶりの再会、居酒屋で痛飲とスナックカラオケ、次の日と富山と石川県境の城跡を案内頂く。

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小城小次郎

本丸公開が待ち遠しい (2021/07/18 訪問)

長くこの地を治めていた岩城氏にとって代わった鳥居忠政は人心一新を図り岩城氏の本拠であった大館(飯野平城)のすぐ東に全く新しい城と城下町を築き上げた。整備中でなかなか公開されない本丸跡地の全面公開が待ち遠しい。

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ぎりょう

仙台藩二十一要害を訪ねて 岩出山要害 (2021/10/02 訪問)

地元大崎市で、伊達政宗公岩出山入部430年を記念して、有備館秋季企画展「絵図から読み解く岩出山の城と町」を11月28日(日)まで開催している。それに付随して10月2日に「岩出山城探検」のイベントがあり参加した。前日までの台風16号の影響が心配されたが当日は朝から快晴で晴れ男の面目躍如。と言うわけで仙台藩二十一要害訪問の四ヵ所目は岩出山要害となった。
岩出山城は14世紀中頃より奥州探題大崎氏の執事氏家氏の居城だった。天正18年(1590)、当主氏家弾正が病死し氏家氏は断絶、伊達家臣小成田総右衛門が城代となる。同年奥羽仕置により大崎氏が改易となり、この地を襲封した木村伊勢守の家臣が配されるが、葛西・大崎一揆が発生し城は一揆勢に占拠される。天正19年(1591)一揆鎮圧後、仕置軍として下向していた徳川家康・榊原康政によって改修され、政宗に与えられ、仙台開城までの12年間居城とした。慶長8年(1603)政宗四男宗泰が拝領し、以後、明治維新まで岩出山伊達家(御一門14,640石)の城・要害として続いた。
今回の企画展に展示されている「岩出山城絵図」(作成年代不詳 仙台市博物館蔵)や貞享5年(1688)の「岩出山要害惣絵図」(宮城県図書館蔵)を見ると、城(要害)は現在地元で城山と呼ばれる金丸、本丸、西に続く天王寺館、現在は公園化され原状を留めない西側の曲輪、西側から南側に空堀をともなう高い外郭部と、それに囲まれ、近世は二ノ丸や居所と呼ばれる低地部で構成されている。
中世は本丸を含めた山上の曲輪群が活用され、近世には中央の低地部に主要な建物群を移し要害としての機能を移したものと考えられる。
企画展には年代の異なる要害絵図や要害館下町絵図もわかり易く展示されている。特に鳥瞰図で描かれた要害絵図には、在りし日の要害の姿や仙台藩御一門岩出山伊達家の権威を彷彿とさせられた。
緊急事態宣言も解除されました。「旧有備館および庭園」の名称で国の史跡および名勝に指定されている有備館に期間中多くの方々が訪れ岩出山城(要害)について理解を深めていただき、さらに城址を散策していただきたいと思います。

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T-Shionoya

岐阜城訪問 (2004/10/31 訪問)

過去のお城巡りの振り返り、第13段は岐阜県岐阜市の岐阜城。

長良川が山間部から濃尾平野に出る境い目。その比高約300mの金華山を要害とした城。
交通面では長良川の水運に加えて東山道(中山道)の通り道。

元々の城名は稲葉山城で、主な城主は守護代斎藤道三。
1567年に織田信長が美濃攻略と共に岐阜城へと改名し、その後は信長の子や池田氏が城主を務め、最後は信長の孫秀信の時に関ヶ原の前哨戦で落城となりました。

現在は岐阜公園として主に山麓部と山上部が整備され、2011年に金華山一帯が国の指定史跡となり随時発掘調査を展開中。
訪問時はまずロープウェイで山上部へ。
岐阜城が岩山の要害だったことを初めて知り、また尾根上の曲輪は狭く、道三や信長の軍を収容できたのだろうかと思いつつ歩きました。
戦国期は中腹や麓も戦いの城として計算されたつくりだったのかな?

最後は麓の谷間を利用した信長居館跡へ。
当時も発掘調査が行われていましたが、今はその範囲が大幅に広がったでしょうか?
滞在時間約3時間の岐阜城訪問でした。

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todo94

県内の城めぐり・その2 (2021/09/20 訪問)

長らく行きたいと思っていた青柳城、県外へ行きにくい状況となって漸く訪れることが出来ました。獣よけのゲートはなかなか重くて難渋しました。5つの郭の表示がありましたが、そんなに細かく分ける必要があるのだろうかというのが率直な感想。三の郭なんか枡形と言って良いのではないかと思っています。それでもくっきりとした堀切や、鉄平石の石積など見所の多い城で満足です。麓の青柳氏館跡もチェックしておきました。

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ぴーかる

山科本願寺 (2021/07/25 訪問)

【山科本願寺】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR

<感想>JR・京阪・阪急 3電鉄利用の旅3城目。JR山科駅より徒歩で来城、15分程かかる。現地は山科中央公園となっており、主に野球グラウンドとして利用されている。北側に高土塁が残っており土塁上も歩けるようになっている。土塁北側の窪地は堀跡だろうか。台風でなくなったのかもしれぬ、現地説明板があったような看板跡がありました。当時を思わせる遺構は少ない。出土品の添付写真は京都市考古資料館のものです。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

フェンスの向こうに戸張城。 (2021/05/04 訪問)

迷いに迷い、なかなかたどり着けなかった「戸張城」。

相馬氏初代当主、相馬 師常さんの三男 戸張 行常さんの居城のようです。
前回、「布施城」の投稿で相馬氏と千葉氏が一族だった事が分かりました。
一方、平将門さんの子孫も相馬を称していると投稿しましたが、養子やら結婚やら複雑に結びつき千葉氏も、絡まってました。
『人間みな兄弟』、、、古っ!(笑)
相馬子孫問題、勝手に落着します。

「戸張城」の所在地も複雑で、文京区立 柏学園の敷地内です。
千葉県なのに、東京の区立学校??
調べてみると、校外学習等で使われていたようです。
現在は閉鎖してます。
柏市から千葉市方面の国道16号を車で走ると左手に、うっそうとした小山が見え、大津川まで行ってしまったら行き過ぎです。
この、小山が「戸張城」のようです。
小山方面に左折する道がトンネルを出てすぐなので、曲がりづらく、行ったり来たりを繰り返しました。
もう、大津川に下りの畑道から攻城です。
車を路駐して、学園に通じる坂道を歩き正門(?)に到着しました。
頑丈に鍵がかかっていて入れません。
いやいや、鍵が かかってなくても、建物が見えるので入れません、、、怖くて。
写真は全てフェンス越しです。

「戸張城址公園」にならないかなぁ。
手を加えなくても、お城好きには、大好物なそのままの遺構が見えましたから。

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カズサン

天竜スーパー林道紅葉狩りの後に復元高根城初登城、二の曲輪三の曲輪編 (2012/11/03 訪問)

 つづきです。
 平成24年11月高根城を初登城した本曲輪編の続き写真投稿です。
 本曲輪と南の尾根を遮断するように堀切を隔てて二の曲輪、三の曲輪、場外域とは二重堀切で厳重に防御して居ます。
 小さいながら見応え充分な発掘調査復元整備の山城です旧水窪町教育委員会発掘整備された方々に感謝申し上げます、現浜松市文化財課の整備保全も大変ありがたい、大切に残していきたい文化財です。

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カズサン

天竜スーパー林道紅葉狩りの後復元高根城初登城、本曲輪編 (2012/11/03 訪問)

 10月1日緊急事態宣言、蔓延防止規制措置の解除開け城廻りもそろそろ出掛け時ですが過去の登城でご勘弁を!

 平成24年11月、その当時毎年天竜区横山から秋葉神社、秋葉城経由で出掛けていた天竜スパー林道沿いの紅葉写真撮りをして居り山住神社から水窪町中に降り復元した山城、高根城を国道152号線沿いから数年眺めていたのですが今回は急峻な登城路通って初登城しました。
 車は余裕の広さの駐車場とトイレ、案内看板、縄張図、案内看板が設置されてます、車はそこを利用、案内看板が出ていますのでそれに従って行けば着けます。浜松からは車で国道152号線を約2時間掛ります。

 登城口は駐車場から舗装道を少し登り登城口へ急峻な登城路です、案内看板には5分で本曲輪と出てましたが私の足では休み休み15分位は掛かります、休み途中下城の方と会話し愛知県の若い方、山城で人に会うのは珍しいが同好の方が居られる事は嬉しい事です。
 本曲輪には城門、柵列、建物、井楼櫓、入母屋の管理館、前後の狭間入り土塀、裏虎口、土塁の整備と大変良く出来ています、個々に解説板も設置、見晴らしも素晴らしい、登城日より数年後に成りますがNHK大河ドラマおんな城主直虎でロケ放映されてます。
 復元されて十数年経ってますが早く登城して居たらと悔やまれた次第でした。

 南尾根続きに堀切を隔てて二の曲輪、三の曲輪と有り三の曲輪と場外域との間には二重堀切が有り南へと続く尾根筋を遮断してる。

 写真を沢山取り過ぎたので、本曲輪まで、二の曲輪三の曲輪に分けて写真投稿します。

 

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赤い城

小さな堀の跡 (2021/09/20 訪問)

西武の1日乗車券を利用して再訪。
飯能駅から徒歩で15分くらい。
完全に住宅地となっています。
民家の前に石碑と説明板が立ち、近くに浅くなった堀が少しだけ残っています。
本当に住宅の真ん前なので写真撮るにも気を遣います。
元々は二重方形の館とされていますが遺構はここだけのようです 
近くに中山家の菩提寺である智願寺があり、歴代の墓があります。
この日はちょうどお彼岸でたくさんのお墓参りの方がいらしてました。

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小城小次郎

びっくりするような歴史も隠れている (2021/07/17 訪問)

300年くらい伊達氏の本拠として不動の時代を過ごした後、300年くらい支配者が転々とする慌ただしい時代を過ごした地。尾張藩を継ぐ徳川宗春がここにいたとか松前氏が蝦夷から移されたとか、びっくりするような歴史も隠れている。

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にのまる

佐竹氏の家臣、小野崎氏の城 (2021/09/05 訪問)

 太田城から徒歩約20分。瑞龍道の道標のある坂を上った右手の瑞竜中学校が城址でした。市の広報には、西側の土手は堀や城塁の名残と伝えられているとあります。また、城址碑が校内にあるとのことでしたが、こんな時期だし日曜日だしで、校門前のパイロン&チェーンを前に為す術はありません。しかし、このまま帰るのもなんかあれなので坂の途中の白鷺神社へ行ってみました。小さな神社がいっぱいある神社で(すみません、詳しくないです)、鳥居のすぐ横に「今宮館跡」の標柱がありました。「古くより今宮大納言坊館跡と伝えられる。館主は佐竹16代(15代?)義舜の庶長子永義で、修験となって佐竹領内の山伏を統率したという。」と書かれており、一気に500年前にタイムスリップしました。一帯が城跡、また館跡のようです。

【お城川柳129】
帰りがけの駄賃で出会った館跡

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ヒロケン

静岡の横須賀 (2021/09/05 訪問)

戦国時代末期、遠州南部は徳川と武田との境界となって攻防が続き、高天神城攻略の拠点として徳川家康は家臣の大須賀康高に命じて横須賀城を築かせました。それまで、遠州南部の拠点であった高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。以後、明治維新で廃城となるまで、288年間2万5千石~5万5千石の城として城主を変えながら続いています。
なかには、江戸幕府の老中を務めた城主もいたそうです。

横須賀城は、平山城として山城から平城に移る特徴を備え、中世城郭と近世城郭の二つを併せ持っています。また、玉石積みと呼ばれる丸い川原石を用いた石垣も特徴としてあげられます。
現在は、曲輪・玉石積みの石垣・礎石などが残り、国の指定文化財として整備が進められています。駐車場・トイレも完備されています。

横須賀城には2度目の攻城で、玉石積みの石垣は珍しく、興味を惹かれますが少々迫力に欠け、自分の好みではありませんが"(-""-)"改めて、城域を散策してみると、さすが明治維新まで続いた城だけあり、中々規模が大きく見所が結構多い城だと再認識致しました。

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