あしたじょう

芦田城

長野県北佐久郡

別名 : 倉見高井城、木宮城
旧国名 : 信濃

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主郭
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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:芦田城 (2023/04/18 訪問)

長窪城から転戦。城址駐車場(36.263496、138.318479)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に芦田氏によって築かれたと云われています。
鎌倉時代の芦田氏は滋野氏の分流でしたが、村上氏によって滅ぼされました。
その後、依田光徳が城主となって芦田氏を称し、依田系芦田氏の居城となりました。
1541年(天文10年)芦田信守のとき、武田信虎、諏訪頼重連合軍が佐久へ侵攻し、諏訪頼重によって芦田城は落城しました。
その後、諏訪氏は武田信玄によって滅ぼされ、芦田氏もまた武田氏に従い信濃先方衆となり、武田氏に従うと春日城を居城としました。
芦田信守は三方ヶ原合戦で活躍し、遠江国二俣城に入城しましたが、1575年(天正3年)に没しました。
信守の子が依田玄蕃信蕃で、二俣城で死去した父信守に変わって二俣城を守備し、徳川家康に攻められ半年に及ぶ攻城戦を戦い抜いて降伏開城、高天神城へと退きました。
武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると天正壬午の乱が勃発します。
上野から侵攻した北条氏によって東信濃一帯は北条方となり、甲斐の若神子で徳川軍と対峙していました。
このとき依田玄蕃は佐久で挙兵して各地でゲリラ戦を展開し、北条方の糧道を断つことに成功したが、岩尾城攻めで討死しました。
依田玄蕃の子は松平姓を賜り、松平康国と称して60,000石で小諸城主として抜擢されました。

主郭は山頂にあって高土塁が巡る方形の曲輪で、その一角に木の宮社が祀られています。
舗装された道が主郭のすぐ下まで続いていますが、駐車場に向かう道は狭いです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=望月城に向かいました。

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todo94

県内の城めぐり・その6 (2021/09/25 訪問)

私にとって第2の故郷と言える立科町は中山道の芦田宿がありますが、宿場の南には芦田氏の居城・芦田城があります。芦田氏は依田信蕃につながっていて春日城に居城を移します。20代前半をこの地で過ごしましたが、この城はノーチェックでした。とりあえず、攻城前にたてしなっぷるのシードルをお土産に購入。道の駅で立科牛の焼き肉重を昼食に頂いてから芦田城へ。大きな看板も展望台もかなり古びてしまっていますが、芦田城を守る会はあるようなので主郭を中心に荒廃してしまっている感じはありませんでした。古風な山城の佇まいを楽しむことが出来ました。この城の攻略後、権現の湯を利用。この温泉からの浅間山の雄大な眺望は一見の価値があります。

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響ちゃん

薄曇り (2019/11/03 訪問)

山栗いっぱい落ちてるっぽい

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じんじゃー

古風な輪郭式山城 (2017/11/19 訪問)

芦田宿の南、古町地区にあるお城。城跡西側から車道があり主郭すぐ下の駐車場まで車で入ることができるが、道は狭いので注意。
4段ほどの段郭を輪郭状に配置しており、西側には観音堂と展望台が設置されている。展望台のある郭から主郭へは一度東へ回り込むような形で虎口が形成されている。主郭は南側以外を土塁で固めていて、中には神社があるが結構荒れている感じがする。
西南方向へは落差があるが北東方向にはあまり落差がないため囲むように堀が掘られている。内側の堀はかなり埋められてしまっているが、北側の外堀は土塁付きでかなり残っているので見どころの一つ。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 芦田(依田)光徳
築城年 文安2年(1445)
主な城主 芦田(依田)氏
遺構 曲輪、石積、土塁、堀切
指定文化財 町史跡
再建造物 碑、説明板
住所 長野県北佐久郡立科町大字茂田井字西平273-2