長窪城から転戦。城址駐車場(36.263496、138.318479)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に芦田氏によって築かれたと云われています。
鎌倉時代の芦田氏は滋野氏の分流でしたが、村上氏によって滅ぼされました。
その後、依田光徳が城主となって芦田氏を称し、依田系芦田氏の居城となりました。
1541年(天文10年)芦田信守のとき、武田信虎、諏訪頼重連合軍が佐久へ侵攻し、諏訪頼重によって芦田城は落城しました。
その後、諏訪氏は武田信玄によって滅ぼされ、芦田氏もまた武田氏に従い信濃先方衆となり、武田氏に従うと春日城を居城としました。
芦田信守は三方ヶ原合戦で活躍し、遠江国二俣城に入城しましたが、1575年(天正3年)に没しました。
信守の子が依田玄蕃信蕃で、二俣城で死去した父信守に変わって二俣城を守備し、徳川家康に攻められ半年に及ぶ攻城戦を戦い抜いて降伏開城、高天神城へと退きました。
武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると天正壬午の乱が勃発します。
上野から侵攻した北条氏によって東信濃一帯は北条方となり、甲斐の若神子で徳川軍と対峙していました。
このとき依田玄蕃は佐久で挙兵して各地でゲリラ戦を展開し、北条方の糧道を断つことに成功したが、岩尾城攻めで討死しました。
依田玄蕃の子は松平姓を賜り、松平康国と称して60,000石で小諸城主として抜擢されました。
主郭は山頂にあって高土塁が巡る方形の曲輪で、その一角に木の宮社が祀られています。
舗装された道が主郭のすぐ下まで続いていますが、駐車場に向かう道は狭いです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=望月城に向かいました。
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